アットウィキロゴ
この幻想郷に越してきて、随分と経った。
 こんな魔境で暮らすはめになったのも、まあ、ひょんなことがあったからであって、
 決して自らの意思で飛び込んできたわけではないのだが、住めば都とはよく言ったもの。

 転がり込んできた当初は、現代とは全く違う形の生活や、
 純日本的、と言うより、時代劇で見るような古めかしい町並みなど、
 飲み込みにくい事態が立て続けに襲ってきたのもあって、困惑と驚愕の日々を送っていたが、
 人間は周囲に適応する生き物だと言うのは、どうやら本当らしい。

 異郷に叩き込まれた時は右も左もわからなかったが、
 慧音先生ら親切な人たちの助けもあり、変わった環境にもようやく慣れ始め、
 現在は人里に居を構える、いっぱしの幻想郷住人になれた……と思う。

 人手はあって困らない、とのことで、肉体労働が主とは言え何とか職につくこともできたし、
 親しくしてくれる気のいい仲間もできて、一応は順風満帆な暮らしを送っていた。


 ――――そう、‘送っていた’のだ。





 きっかけは、些細なことだったように思う。


 思い出すのは、時分も定かではないが、大分前のことだ。

 その日はとてもいい天気で、空と同じように、晴れ晴れとした気分で労働に励んでいた。
 仕事の内容そのものはハードだが、たまに差し入れをもらったりできるし、
 帰宅の路を辿る途中、慧音先生に会えるのが、何よりの楽しみなのである。

 りりしくて、落ち着きがあって、物腰も柔らかくて、面倒見がよくて、おまけに相当な美人。
 寺子屋で教師をやっているらしく、授業内容はやや難解なものの、子供たちには好かれている様だ。
 その上、いつも聡明で冷静な彼女がたまに見せる笑顔は少女の様にかわいらしいのだから、もう反則である。

 そんな女性と毎日顔を合わせられるのだから、仕事の大変さなどなんのその。
 彼女に会うためだけに、この職についていると言っても過言ではないかもしれない。


 そんなこんなで、労働に励んでいたわけだが、それよりも大事なことがある。


 ――――彼女を初めて目にしたのも、その日だったのだ。






 腰まで伸ばした金髪は、さらさらと風に揺れていて。
 こちらを見据える瞳には、深い琥珀の色を湛えていた。
 日光を遮っている日傘と、ゆったりとした服、そして白磁の様に白い肌が、
 その女性の持つ雰囲気に、まるで、簡単に手折れてしまいそうな、花の様な儚さを持たせている。

 それは、一枚の絵画のような、完成された光景で。


 職務の間の昼休みにそんなものを見てしまって、まず対応に困った。


 なんで、あんな絵に描いたような美人が、こっちを見ているのか。
 思わず振り返るが、背後には人影はないし、大通りから外れているこの場所には、近くには生き物の類すら見かけられない。

 失敗したか、と、思わず表情を渋くしてしまう。
 仕事場から人里までの、まっすぐ行くより早い近道を発見したからといって、安易に利用するべきではなかったのだ。
 誰も存在に気づいていないだろうこんなところに、自分と目の前の女性以外に人がいるはずもない。

 なら、何故あの女性はこんな裏道なんかにいるのか、と言う思考は、不意に遮られた。


「ねえ、そこの貴方」

 それが、目の前に立つ彼女から発せられたのだろうことは、容易に察せられる。
 第三者がいないのは、先ほど確認したばかりだからだ。

 いきなり声をかけられたために、返答するまで、若干の時間を必要とした。
 何か用か、と問えば、女性はゆっくりと答える。


「聞きたいのだけれど、貴方、人里の人間でしょう?」


 頷けば、彼女は満足げに、ふむ、と声をもらして、こちらの顔をまじまじと観察した後に、歯切れよく名乗った。


「私は八雲 紫。貴方の名前を伺っても、よろしいかしら?」


 特に断る理由もないので、名を告げる。
 すれば、女性――――紫は、確認するように名前を復唱してから、もう一度、問いを投げかけた。


「いい名前ね。
 ……せっかくだし、少し、話をしていかない?」


 持ちかけられた誘いには、素直に乗ることにした。
 今日は急務があったわけでもないし、昼休みが終わるまではまだ余裕がある。
 加えて、新たな交友関係が開けるのならば、それを蹴る必要もないし、何より、

 美人からのお誘いを断ることは、自分にはできないのだ。





 人が通らないと言うのに、何故か当然の様に鎮座していたベンチに二人腰掛けながら話した内容は、ほとんどがたわいもないことだった。
 自身の生活環境についてや、知り合いがしたバカの話、あとは趣味などの、あくまで世間話に過ぎない話題だったように思う。

 話している間、紫は随分と楽しそうだった。

 別段話下手ではないが、『自身が喋ることで他人を楽しませられる』、
 と言う確信を持てないぐらいには会話が得意ではない自分の話を聞いていて面白いのか、とたずねれば、彼女はにっこりと笑って、肯定の意を示す。

 自分としても、見目麗しいご令嬢と話していて不愉快になることはない。むしろ嬉しい。
 彼女がいいのならばよいが、と頭の中で結論づけて、はっと思い出す。
 そろそろ、昼休みも終わる時刻である。

 その旨を紫に伝えると、彼女は一度了承してから、最後にこう言った。



 明日、またここで会えないか、と。



 断る理由もないし、自分としては、今日のこの時間もなかなかに有意義だったと言える。
 首を縦に振れば、紫は嬉しそうに笑顔を見せた。

 できることならば、その笑みをずっと見ていたいところだったが、しかし、時間は待ってくれない。
 また明日、と別れの言葉を述べて、その場を後にした。







 日が明けて、そのまま太陽も傾いて。
 昼休み、約束通りあの場所を通れば、彼女は昨日と同じように、そこにいた。

 近づいて挨拶すれば、紫は口元を緩めて、同じように返す。
 まだ会って二日だと言うのに、彼女とはかなり仲良くなったような気がする。


 その日も、話をした。
 前にした話よりも、もう少し深い話を。
 好きなものだとか、生い立ちだとか、昔の思い出だとか、そう言った、自分自身の話が主だった。

 何故かといえば、紫がそう願ったからだ。

 今日は、貴方のことを話してくれない? と。


 そう頼まれれば、拒絶するわけもない。
 頼まれた通り自分のことを話せば、紫は興味津々といった具合いに、話に食いついた。

 興味をもたれている、と認識していいのだろうか。
 こんな美人にそう言う感情を抱かれるのは、自分としてもやぶさかではない。むしろ願ってもない。

 話している途中に思ったが、紫は異常なまでに知識が豊富なようで、どんな話題にもついてきたし、ローカルなネタにも、しっかりと反応していた。
 こう言うのを、波長が合う、と言うのかもしれない。
 共通の趣味や、考え方が似通っている人とは、それだけで話しやすいし、より親密になれる。

 それに、紫と話すのも、結構楽しいことだった。
 話題が尽きることもないし、会話が途切れ、重苦しい沈黙が張り詰めることは、何故か不思議なぐらいになかった。

 例えこれが日課になっても、多分、悪い気分はしないだろう。






 時間が来て、いざここを発たねばならなくなった時、今度はこちらから聞いた。

 また、明日も会えないか、と。

 言葉に、紫は少しばかり面食らったように固まって、それから表情を緩めると、嬉しそうに、ええ、と返答する。
 その答えが、自分でも驚くぐらいに嬉しくて、踵を返した後、自分でも気持ち悪くなるぐらいのテンションと勢いで歩いたのだった。






 そんな日が、数えるのも億劫になるぐらい続いた。


 昼に紫と話すことは、既に生活の一部に組み込まれていて。
 それがなくなったら、多分落ち着かなくなるのだろうことが自覚できるほどの大きさになっていた。

 そして、それを不思議に思わなくなって、それなりの時間が経ってからのことだったと思う。

 ある日、風邪を引いて、仕事を休んだ。
 丁度季節の変わり目だったこともあり、幻想郷での生活に慣れて気が緩んでいたこともあったか、
 情けなくも布団にもぐって一日を過ごすことになってしまったのである。

 病にかかるのは、幾日ぶりだろうか。
 体が割と頑丈だったこともあってか、あまり医者の世話にはならなかったような記憶がある。
 そのせいか、完全に油断をしていた。

 久々に感じる、ゲタで殴られている様なジンジンする頭痛と、体全体にのしかかる、異常なまでの倦怠感。
 汗ばんだ額は、自らの手で触ってもわかるぐらいに熱を放っていて、ああ、自分は今高熱で苦しんでいるのだと、しっかりと実感させてくれた。

 しかし、一人のときに床に臥せるのは、思いのほかつらい。
 水がほしいと思っても、立ち上がることすらままならないし、そもそも体を動かそうという気力すらわき上がらない。

 これはまずいな、と、不調につられる様に沈んでいく意識を引き上げたのは、声だった。



「大丈夫?」


 自分のものに比べて、高く、通りのいいそれは、間違いなく女性のもので、聞き覚えのあるものだ。
 鍵は閉めておいたのに、いったい誰だろう、と目だけ動かせば、自分の枕元には紫が座っていて、心配そうにこちらの顔を覗き込んでいた。

 ついに幻覚の類まで見えるようになってしまったか、と一瞬絶望感が襲うが、
 眉間のあたりに触れている、ひんやりとした柔らかな感覚に、不意に引き戻される。

 冷たい、手。それが、熱に浮かされた頭には気持ちがいい。

「喋れる? ああ、無理に声を出さなくてもいいわ。頷くだけでいいから」

 彼女の言葉が、すぅっと溶けるように、頭の中に入ってくる。
 ああ、とだけ返した答えは、自分の喉から出たものなのかわからないぐらいに低く、まるでうなされているようなものだった。

「……つらそうね。ちょっと待ってて頂戴」

 そう残して、紫はそっと立ち上がると、台所の方へ姿を消した。






 紫が帰ってくるのには、若干の時間を要した。

 なるべく足音を立てないよう、ゆっくりと歩いている彼女の手が持っているのは、お盆。
 その上に乗せられているのは、水の入っているらしいコップと、深みのある皿。
 皿の中にはお粥がよそわれていて、その隣には陶製の散蓮華が添えられている。

 布団までたどり着くと、紫一度お盆を置いて、こちらの肩にそっと触れた。

「食べられる? 先にお水のほうがいいかしら?」

 問いに頷いて、手をついて起き上がろうとするが、腕に力が入らない。
 上体を起こすだけのその動作にも、結構な力が必要だった。

 こちらの思惑を察したのか、紫に背中を支えてもらって、何とか起き上がる。
 女性に支えられなければまともに生活できないとは、男としてやや恥ずかしい。

「思った以上にひどいみたいね。自分で食べられる?」

 紫に手渡された蓮華を取ろうとして、取り落としてしまう。
 指先が、思ったように動かない。
 自分の考えに、体がついてこない違和感。

 思わず、苦い表情になる。
 すれば、紫は先ほど落としてしまった蓮華が床につく前に回収していたらしく、右手に持ったままのそれを、こちらの目の前に提示して、


「食べさせて、あげましょうか?」


 そう、問いかけた。

 正直、断ったところでどうしようもない。
 諦めて、首を縦に振るほかなかった。







 結果として、自分は恋人同士がやるような、『はい、あ~ん』を、初めて経験することとなった。
 他人のを見ているだけでも照れくさいというのに、
 自分がやられるとなるとそれの比ではない羞恥を感じるのは新たな発見であり、そしてなるべく実証したくなかった事実だ。

 お粥を食べきった後、紫が持ってきてくれた薬を飲んで、再び横になる。

 隣でやさしく微笑んでいる紫の顔を見るたびに、気分がやすらぐような気がするのは、多分に気のせいではない。
 人が横にいるのは、本当に安心するものだと言うことを、深く実感した。

 ぼうっ、と彼女を眺めていれば、紫はゆっくりと手を伸ばして、こちらの頭をなで始めた。
 まるで親が子供にしているような行為だが、不思議と心が落ち着くのが、しっかりと感じられる。

 そのまま、視界が黒く染まって、




 気づけば、意識を手放していた。






 翌日になれば、紫の甲斐甲斐しい看護と、彼女が持ってきてくれた薬のおかげか、体は普段の調子を取り戻していた。
 同僚に昨日のことを説明して、皆に謝り倒す。
 普通は怒るべきだろうに、そろいもそろって体の心配をしてくれるのだから、本当にありがたい限りである。

 皆の気遣いに感動していたところ、仕事仲間の一人が、話があると持ちかけてきた。
 どうやら他人に聞かれたくない話らしく、傍から見てもはっきりとわかるぐらいに、周囲の人目を気にしている。

 その雰囲気からして、どうやら真剣なようだ。
 人気のない場所に移動した後、彼は語りだした。


 先日、ある女性にお前の家の場所を聞かれた、と。
 その女性は、金髪金目の、とても美しい容姿をしていた、と。

 そして、その女性は、









 人を食らう、妖怪である、と。





 ――――妖怪。
 人の血肉を食らい、嬲り、慰み者にすると言う、非道の生き物。


 ‘向こう’にいた時には、信じていなかった、怪異。
 そう、科学技術が発展した現代では、妖怪やら神やら、そう言ったオカルトの存在は、大多数の人間に否定されるに至っている。
 故に、‘忘れ去られたもの’として、それら幻想が流れ辿りつく地が、この幻想郷なのだ。

 そう、だから、初めてこの魔境を訪れた際に、ソレを容認することができなかった。

 今から随分と前、自分が最初に放り込まれた場所は、深い深い森だった。
 深夜だったこともあり、周囲に明かりはなく、感じられるのは、真っ黒に塗りつぶされた暗闇と、ごうごうと吹き付ける風の音だけ。

 恐怖におびえきったそんな状況で、初めて見つけた人間が、




 人の腕を、食らっていたのだ。


 少女然とした、その幼い外見。
 暗中でも目立つ金色の髪と、かわいらしい赤いリボン。

 そして、そんな女の子が口に含んでいるのは――――人の、手。

 肘の部分で強引に両断されたそれは、切断面に赤黒い‘何か’が付着しており、少女はそれを啜り、租借し、飲み込んでいるのだとわかった。


 見間違いではないと、今でも確信できている。
 鼻をつくすっぱい様な異臭と、耳に入る生々しい音は、忘れられないほど強く、己の体に染み付いているのだから。

 そして、闇の中、何事かと必死に目を凝らしてしまったことを、今でも後悔しているのだから。


 ぴちゃぴちゃと、少女の舌が躍る。
 切断された、間接の部分を舐めるように。

 がりがりと、少女の顎が動く。
 細かく砕かれた骨を、飲み込もうとするために。

 こくんこくんと、少女の喉が上下する。
 人間だったモノを、胃に流し込むために。


 人並みに、そう言ったグロテスクなものに対する耐性はあると思っていたが、そんな、スプラッタ映画なんかの比じゃない。
 本物の、人間の体の一部が、同じ人間に食べられているのだ、と言うことに衝撃を覚えると同時、生理的嫌悪感を刺激されて、吐き気を覚える。

 しかし、吐しゃ物を吐き出せば、音がする。
 音で、気づかれるかもしれない。

 気づかれれば、食べられる、と。
 本能的に、そう頭に浮かび上がった。



 ――――死ぬ。
 自分の命が、目の前の幼い少女に握られているのだと言う事実に対する、言い知れない恐れ。

 一度でも失敗すれば、死ぬ。
 ゲームや映画の様なフィクションではなく、実際に人が死ぬ。


 ――――自分が、死ぬ。


 焦燥感に煽られながら、ゆっくり、ゆっくりと、すり足で移動する。
 少女に、気づかれぬように。
 妖怪に、気づかれぬように。


 人食いに、気づかれぬように。









 意識がはっきりした時、視界から、人食いの姿は消えていた。
 ただ、記憶に残っているのは、あの凄惨な光景だけ。


 もう、周囲を確認する余裕もない。


 胃の中身を、思い切りぶちまけた。









 その後、歩きつめ、どうにかこうにか、人里にたどり着くことができた。
 精神的に衰弱していたこともあり、周囲の人々も気を遣ってくれて、何とか今の状態まで持ち直したのだ。








 だから。
 その事実を知っている目の前の男が、嘘をついているとは思えない。



 話が飲み込めず問い返せば、彼は焦っているこちらをなだめるように、ゆっくりと、落ち着いて話しはじめる。


 妖怪の中に、大妖と呼ばれる存在がいるのは理解しているな、と。


 そう、聞いたことがある。
 確か、吸血鬼だとか、花の大妖怪だとか、そう言った妖怪の中でもけたはずれの力を持つ、人外の中の人外。


 もしかして、それが。


 口から漏れた言葉に続けるように、彼は言った。


 あの女は、八雲 紫は、大妖怪――――スキマ妖怪である、と。






 昼になって、いつも通り紫のところへ赴く。
 彼女は、たおやかな笑みを浮かべて、歓迎してくれた。

 いい機会だと、紫に問う。



 何故、彼女が自分の家に入れたのか。
 鍵は閉めておいたはずであるし、他人に預けた覚えもないと言うのに。


 問いに、紫は少しの間、口を閉じた。
 答えられないのは、どういうことか。
 思わず語気を強めて、問い詰める。


 噂に聞いたが、もしかして、君は妖怪なのではないか。


 黙った彼女をもう一度強く怒鳴りつければ、彼女は恐る恐ると言った風に頷いた。

 自ら、認めたのだ。




 八雲 紫は、妖怪であると。


 思わず、体が震える。
 口からは、声にならない声が漏れて、頭の中は真っ白に染め上げられる。

 紫も、妖怪なのだ。
 人を食べる、妖怪なのだ。

 認めたくないそれを認めた瞬間、感情の沸騰の様な何かを覚えた。
 紫もまた、あの少女の様に、人を食らうのだ、と。


 では――――こちらに接触したのも、まさか、


 まさか、


 自分を、食べるためなのだろうか?




 思わず、崩れ落ちる。
 糸の切れた人形の様に、膝から地面について、地に両手をつける。


 だとしたら、
 始めて会った日の笑顔も、
 二人で会話に興じたことも、
 献身的に自分を看病してくれたことも、



 その全てが、偽りなのだろうか。




 一度そう思うと、全てが薄っぺらい。
 全部が虚構で、自分が勝手に脚色した嘘っぱちなのではないか。
 紫は、その優しい笑顔の裏で、ほくそ笑んでいるのではないか。


 妖怪である、と言う一つの事実が、紫と共に過ごした記憶に、深い深い黒の色をぶちまけていく。


 考えてみれば、おかしいことだ。
 人を食らう妖怪が、人と仲良くする必要はない。
 なんせ、相手はただの食料なのだから。



 目の前の異常な光景に、紫はこちらに向け手を伸ばす。

 その手が、こちらの体を引き裂こうとしているかの様に見えて、反射的に振り払う。

 そうだ、信用できない。
 妖怪は――――信用、できない。


 触るな、と声を張り上げて、後ずさる。


 ああ、彼女の心配そうな顔が、本当のものならば。


 待ってほしい、私を信じてほしい、なんて言葉も、陳腐な言い繕いに過ぎないのだ。
 一度こちらを安心させて、その隙に食らいつくつもりなのかもしれない。

 そもそも、考えれば、あの薬だっておかしい。
 あれほど重い風邪が、一晩でなど治るものか。
 だとしたら、あの薬には、自分の想像もつかないような何かが、含まれていたのではないか。



 だとすれば、自分の体はすでに、エサとなるべく変わっているのかもしれない。



 自分の体すらも信じられず――――いったい、何を信じればいい?





 一歩を踏み出した紫の顔を、にらみつける。
 悲しみにくれているその顔も、結局はよくできた仮面に過ぎないのだ。
 相手は、妖怪なのだから。


 そのまま、紫の顔をにらみつけて――――不意に、浮遊感を覚えた。
 浮いている、と言うより、落ちている感覚。

 何事か、と地面を見やれば、そこに広がっていたのは、人の目と、無数の手足。


 これが、スキマ妖怪の異能か。


 そうあたりをつけた瞬間、意識は急激に刈り取られた。







 飛ばされた先は、至って普通の和室だった。
 茶塗りの箪笥に、同系統の、薄めの色の卓袱台。
 扉はふすま張りで、床には上等な畳が備えられている。

 そう、至って普通の和室である。
 外に、出られないことを除けば。

 ふすまを開くと、そこには外の風景が広がっている。
 広がっているのに、一歩足を踏み出すと、何故か、今出た方向とは反対側につながっているのだ。

 これも、あの空間を操るスキマ妖怪の仕業だろう。
 自分を監禁して、いったい何をするつもりなのか。

 憤りを隠さずに、座布団に腰を下ろす。
 外にも出れず、かと言って箪笥の中はとっくに物色し終わっている――中は全て空だった――し、
 することもないのに、うろうろと動き回る必要もない。

 そのまま待ち続ければ、目の前の空間に‘切れ目’が入った。
 鉛筆で線を引いたように、すっと黒い棒が現れて、そこを中心に切り開かれる。


 覗くのは、数多の目と、人の手足。
 そこから姿を現したのは、妖怪――――八雲 紫だった。



 敵意を込めた視線を送れば、紫はびくっと体を震わせる。
 これも、演技だ。
 外見どおり、か弱い女性なのだとこちらに思わせて、油断を誘うための罠。
 汚い生き物だ、と吐き捨てる。


 何のつもりだ、と声を張り上げれば、紫は沈んだ表情のまま、口を開いた。


「……ごめんなさい」

 何に、謝っているのか。
 それとも、これもまた策の一環なのか。
 こう考えている時点で、既に彼女の手のひらの上なのかもしれない。

「……隠すようなことをして、ごめんなさい」

 そうだろう、騙して楽しんだ後に、自分を食べるつもりなのだろうから。

「違う! 貴方を食べたりなんか――――」

 嘘をつくな、と、叫ぶ。

 そうだ、妖怪は皆、人を食らい、人を玩具にする。
 そんな存在を、信じられるはずもない。

 若干の間逡巡すると、紫は、

「……聞いて。
 妖怪が皆、人を食べるわけじゃないの。
 そう――――例えば、貴方も知っている寺子屋の教師」

 教師、と言うと、慧音先生のことだろうか。
 慧音先生が、妖怪といったい何の関係があると言うのか。
 何が言いたい、と問いただせば、紫は調子を乱さずに、



「彼女も、妖怪。
 満月の夜にだけ妖怪になる、半人半獣。
 ……彼女も、人を食べると言うの?」

 紫の言葉に、カッとなった。
 そんな、慧音先生が妖怪だって?
 あの、優しくて、皆に好かれている慧音先生が、妖怪?


 嘘にしては稚拙すぎる。
 もしかしたら、自分の精神的な柱を折るつもりだったのかもしれない。

 そうして、絶望した瞬間の顔を見て楽しむつもりだったのだ。
 人間を、おもちゃにするつもりだったのだ。

 ふざけるな、と怒鳴りつけて、目の前の妖怪から視線をそらす。

 もう何を言われても、目の前の妖怪に付き合うつもりはない。
 食べたいのなら、食べればいい。
 死ぬのは恐ろしいが、目の前のこいつを楽しませるぐらいならば、死を選ぶのは間違っていない、と言う、確固たる思いが、自分の中にはある。

 さんざ慰み者にされた後に食い捨てられるならば、最後まで意地を張り通す。


 ねえ、お願い、話を聞いて、とわめいているが、もう反応もしてやらない。




 相手は――――妖怪、なのだから。







 あれから、どれだけ経っただろうか。
 太陽も月も見えないこの部屋では、時間の感覚などあいまいだ。

 そう、あれから、自分はずっとこの部屋に閉じ込められていた。
 不思議なもので、ここにいると空腹も感じないし、用を足す必要もないらしい。
 体に一切の変化はなく、髪も爪も伸びないし、ヒゲだって生えてこない。
 これも、あの妖怪が準備したのだろう。


 さて、スキマ妖怪は、何度も何度も何度も何度もやってくる。
 やってきては、話を聞いて、と、お願い、と言ってくるが、それも全て無視していた。

 妖怪の話など、聞く耳も持たない。






 これが何ヶ月続こうと、何年続こうと、決して、妖怪の思い通りにはならない。



 そう、相手は――――妖怪、なのだから。








 何度も同じことを繰り返していると、人の精神は磨耗する。
 自ら固く誓ったはずの決意でさえも、緩んでしまうほどに。

 そう、だから、目の前のこの妖怪に、『同情』の様な何かを、覚えてしまったのかもしれない。
 ねえ、ねえ、とずっと言ってくる‘紫’に、聞いた。

 話とは、何なのか、と。

 言葉に、紫はしばし呆然と固まって、その後、ぱぁっと笑顔の花を開かせた。
 体全体から迸る嬉しそうな空気が見えるほどなのだが、何故だか、今はそれを嘘だとは感じない。
 まるで、昔に戻ったようだ、と思う。昔、だなんて思えるほど前だったのかどうか、今はわからないが。

 紫が、ぎゅっと抱きついてくる。
 それに、不快感は覚えなかった。
 彼女が、そんなことをしてくれたことに、若干の驚喜をするほどに。

「……最初は、偶然だったの」

 ぽつり、ぽつり、と紫はこぼし始める。
 独白の様なそれを、最後まで聞き届けようと自分が思ったのは、心境の変化故か。

「初めて見た時に……ぼうっとこっちを見ていたから、少し、気になっただけで。
 あそこにいたのだって、特に意図があったわけではなかったのだけど」

 紫の声と腕は、時折震える。
 彼女は、押しつぶされそうな何かを感じていたのだと、そして、それから開放されたのだと、言われずとも理解できた。

「それから……短い間だけど、話をして。
 段々、気になっていったの、貴方を。
 ……大妖怪の、私にも……初めての、ことだった」

 そうだ。
 紫には、深い考えなど、微塵もなかった。
 こちらを騙そうなどと、食べようなどと、一切考えてもいなかった。

「貴方が、体を壊したと聞いたときは……いてもたっても、いられなかった。
 妖怪だって……気づかれないよう気をつけていたのに、それももうどうでもよくなって、私の‘力’を使って、家の中に入ったの」

 紫が、自分の看病をしてくれたのは。
 紫が、自分を心配してくれていたのは。
 作為的な何かでは、なかった。
 人間らしい、純粋で温かな心故だった。

「貴方に嫌われたくなくて、話を聞いてもらおうと思って、自分の力を使って……貴方のことも、考えないで……
 自分勝手に、貴方を縛り付けて……ごめんなさい……ごめん、なさい……」

 紫は、悲しかったのだ。
 妖怪である、と言うことだけで、否定されて。
 そうして、妖怪であるが故に、特別な力があるが故に、それを、振るってしまった。
 その罪の意識に、苛まれている。そして、謝っている。


 ―――――なんてことを、してしまったのか。


 勝手に決め付けて、否定して、傷つけたのは……自分の方だというのに。
 紫は、その重責を、背負っているのだ。



 すまない、とつぶやいて、ぎゅっと抱き寄せる。

 自分が許されないことをしたのは事実であれど、彼女に応えずにはいられなかった。そんな資格すら、ないくせに。


 すまない、すまない、すまない、と、ひとつだけ、その言葉をずっと繰り返す。
 紫に許してもらおうと思っているわけではなく、そうでもしなければ、自分自身に対する後悔と自己嫌悪でおかしくなってしまいそうなのだ。


 紫は、罵らなかった。
 紫は、蔑まなかった。

 ただ、謝罪の言葉にも、ごめんなさい、と返すだけだった。


 そうしている内、紫を抱き寄せている、自分の手の爪が、不意に目に付いた。
 今まで切りそろえられていたはずのそれは、いつの間にか、鋭利にとがっている。
 体中を迸る血がも異様なまでに熱くて、無気力感が支配していた体に、異常なまでの力を与えている。


 ああ、と、直感的に、理解した。
 自分は、妖怪になったのだ、と。


 けれど、それに嫌悪感は覚えなかった。
 おそらく、紫の能力のおかげでこうなったのだろうが、むしろ感謝すら覚える。


 妖怪になったおかげで、紫の真意を、理解することができたのだから。


 そうだ、人間を食べるのが何だというのだろう。
 人間だって、生き物の肉を食べる。
 単に対象が違うだけで、それと、何も変わらない。

 きっと、紫は、自分を妖怪にしてしまったことを謝っているのだろう。
 けれど、別に謝る必要はない。
 こうなったことに、後悔なんてしていないのだから。 








 それから、相当な――――そう、季節が何度も変わるぐらいの時間が経って、今の自分は、縁側に腰掛けていた。
 もちろん、隣には紫がいる。

 自身の住処は、あの閉鎖された部屋から移り変わった。
 こう言っては何だが、紫と同じ家に、同棲生活である。

 既に妖怪となった以上、人里には戻れない。
 未練はないでもないが、それよりも、今は紫と共にあることの方が重要だった。


 ぼうっと空を眺めていれば、紫が顔を覗き込んでくる。
 何を考えているのか、と聞きたいのだろう、と考えて、懐かしい思い出を振り返っていた、と返答した。


「懐かしい思い出?」

 まだ自分が人間だった頃のことだ、と告げると、

「それは……」

 紫が、すまなそうに表情をかげらせる。
 いいんだ、と告げて、ぎゅっと抱き寄せた。
 彼女の軽い体は、妖怪並の――と言うより妖怪そのものの――力を手に入れた今では、簡単に引き寄せられる。

 今になって考えが及ぶことだったが、人間のままでは、紫より先に死んでしまう。
 もう二度と紫を悲しませないと決めた以上、自身にできることは、何でもやっていくつもりである。

 だから、感じることがあれば、是非とも言ってほしい、と伝えれば、紫はゆっくりと、しかし確かに頷いた。

 それから、若干の間を置いて、いいか、とだけたずねる。
 自分の腕の中に納まっている柔らかい感触に、ふと衝動を覚えてしまったのだ。

 紫は、そのまま一度頷いて、

「ええ。わざわざ聞かなくても、貴方ならいくらでも」

 了承を得て、すっと顔を近づける。
 彼女の柔らかな唇に、触れようとして――――







「紫様、少々よろしいでしょうか―――――あ」
「…………」


 紫の式――――八雲 藍が、突如現れた。

 聡明で賢い彼女のことだ、きっと、一目見ただけでこちらの状況を察したのだろう。
 あ~、とか、えっと、とかもらした後、彼女は勢いよく頭を下げて、


「しっ、失礼しました!」

 これまた凄まじいまでのスピードで、姿を消した。



 予期せぬ乱入者に、場の空気は一変。
 けれど、どこか和やかで、ゆるいその雰囲気は、悪くない。

 そう考えていると、自分に抱きしめられている紫の腕の力が、少しだけ強まった。
 彼女の心を完全に察することはできないが、これには応えるべきだと、言葉もなくそう感じた。

 だから、返事をするように、自らも、もっと近くに、紫を抱き寄せる。



 こんな時間が、ずっと続けばいいと、そう思った。


 いや、願うまでもなく、叶えられていくだろう。


 何せ――――






 今の自分は、彼女と同じ、妖怪なのだから。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2010年08月27日 02:01