夜の風を切り車は夜道の道路を、街頭がぽつりぽつりと照らす道を走っていく。
山中の精神病棟を目指して走っていく。
乗り手は2人、○○とその彼女。
彼女は苛立たしげな顔でハンドルを握り、
○○は後部座席で毛布を被って怯えている。


「○○、何を恐れてそんな格好をしているの?」

隈の浮いた目を瞬きさせ、○○は運転席に言う。

「お前には見えないのか? あいつが、あいつが居るのが見えないのか」

男は震える手で、車の進行方向を指差す。
何も無い、寒々としてうっすらと霧の張った夜道を。

「○○……あれはただの霧よ。そう見えるだけ」


ガタガタと震える○○は、毛布を被っても尚、耳元で囁かれる言葉を聞いていた。

「愛しい○○。私と楽しく遊びましょう。
彼の郷の四季は私の能力で幾らでも弄れる。
望みのままの美しい景色の中で楽しく遊びましょう。
貴方と私を着飾る衣装も沢山あるわよ」

誘惑の声は途絶えない。
寝ようが醒めようが○○の脳裏に木霊する。


「何でなんだ、誰も聞こえないのか!?
あの女の声が、お前にも聞こえないのか!!?」

ここしばらく、行方不明だった彼が戻って来てから繰り返される台詞。
他の女の事を叫ばれて、苛立ちの為か彼女の声が刺々しくなる。

「……はぁ、落ち着きなさいよ。枯葉が風で揺れているだけよ」

発見された当初は凄く喜んでいたのに、何でこんな事になってしまったのか。
家族達のたっての願いで、こうして好意を抱いていた男性をあんな病棟に送らなければならない。

(どうしてこんな事に……それに、あの女って誰よ。本当に行方不明になっていただけ?)

猜疑に苛立つ彼女の心境を他所に、○○は怯えきっていた。
どこからともなく聞こえる声は、途絶える事はないのだから。

「素敵な殿方。私と一緒に戻りましょう。
私が手ずから貴方の面倒を見ましょう。詩や舞いも披露しましょう。式にだって邪魔はさせはしないわ」


「お前には見えないのか!? 暗がりからあの女が俺を手招きしているのを!?
俺をあの世界に引きずり込んだ、あの異様な隙間から!!!」

ギシリとハンドルが軋む。
彼女の心境は最悪だった。
必死に堪忍袋の緒を引き締め、苛立ちに浮つきそうな声で宥める。

「ええ、ええぇ、○○、確かに見えるよ。……灰色の古い柳だけどね!」

堪えきれず、語尾がきつくなった。

だが、険悪な社内の雰囲気など意には介されなかった。

○○の怯えは頂点に達していたのだ。

「貴方が大好きよ、その私に対して怯えるその様さえ。
嫌がろうとも拒絶しようとも、最後には私を愛させて見せる。
なんなら、もう一度力尽くでこちらへとご招待しようかしら?」

声に鳴らない叫びをあげ、○○は彼女に助けを求める。

「た、助けてくれ。隙間が、俺を捉えようとする!!
あの女の手が、俺を掴んでいるんだ!! 助けてくれ!!」

最悪のタイミングで、○○の彼女は、堪忍袋の緒を切れさせてしまった。

急停車した車。
悲鳴を上げて座席の下に転がり落ちる○○。
憤怒の顔で○○を見下ろした彼女は、こう言い放ってしまった。

「そう、そんなにその女の事ばかり見ているんだったら、どこへなりと連れて行って貰えばいいじゃない!!」



あまりの物言いに、絶望と呆然が入り交じった顔で彼女を見上げた○○。
その姿が、後部座席を包み込むようにして発生した裂け目へと沈んでいく。


裂け目から上半身を出した、絶世の美女と共に。

「本当にありがとう愚者殿、これで○○は現世への執着や未練を捨て、我が理想郷で永劫に私と愛の生活を営める事が出来る」

美女の気品に満ちつつも、胡散臭そうな笑みが嘲笑へと変わる。

「ではさようなら、あなたの言うとおり、あなたの願い通り、○○は私がどこへなりと連れて行くわねぇ」

見せつけるように○○の唇を女は奪い、そのまま隙間へと沈んでいった。


勝ち誇った、高らかな笑い声と共に。




「……○○?」

唖然としたまま、彼女は呟く。

残された毛布が、僅かに開いた窓から吹き込む夜風に揺られていた。




終わり

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最終更新:2011年03月04日 01:13