「ふふふ…でーきた!」
「おお、出来たのか。さっきから何を作ってたんだ?」
「んー…○○、ちょっと立ってみて。」
「ああ、別にいいが…。」
「これをこうして…よしっ!」
「…スカーフか?よく出来てるな。」
「そう。腰にこれをぶら下げてたら、どこでも○○だって解るでしょ?取っちゃヤだからね!」
「ふふ…ありがとな。」
「えへへ…。」
嬉しいなぁ、頭を撫でてもらっちゃった。
私がお裁縫をした、緑色のスカーフ。これを身に付けてれば、○○は私のモノだって目印になるの。
でもね、これはまだまだ練習。
だって、一番お裁縫をしなきゃいけないのは……
Spiegel von Hartman-6.鏡の向こう、その先にある世界。-
ふと、初めて幻想郷に来た日の事を思い出していた。
あの日は呆然と切符を買って、ふらふらと普段使わない電車に乗り込んだ。
“ ”とよく歩いた街を始発とした、沿線の住人以外にはまず馴染みが無い私鉄。
その日はダイヤが乱れてはいたが、初めて使う俺には関係が無かった。
電車はありがちな住宅地を進み、やがて急行の止まる駅に差し掛かると、消防車と作業員、それとビニールシートが目に入る。
ダイヤが乱れていたのは、ここで人身があったからなのだな、と、ごく日常的な光景に、淡々とした感想を抱いた。
駅を通過する時、ホームにはまだシートにくるまれた死体が置かれていた。
“アレだけ派手な死に方を選ぶなんて、余程死にたかったのだろう。”
ふと過ったモノローグに、死体と自分との熱の違いを感じる。
その日の俺も、同じ様に全てを捨てに行くつもりでいたというのに。
この日の数週前、朝起きたら恋人が消えていた。
手紙は無く、ただあいつの分の衣服や書類だけが、綺麗にタンスから無くなっていた。
何と無く、俺はあいつと結婚をするのだろうと思っていた。
俺自身は天涯孤独の身の上だったが、それでも何とか大学を出て、ごく普通に働いていた。
2年の時にサークルで出会った“ ”と付き合い始め、そこから5年間、最後には同棲もしていた。
ただ、本当に愛していたのかは解らない。
何となく生きて来て。
何となく笑えるフリをして。
何となく、あいつを好きでいたような気になって。
その夜に気付いたのは、“自分は、本当は誰にも心を開いた事が無い”という事。
あいつが消えた日に感じた、冷めた不安と孤独。
それは今思えば、自分が本当は産まれてから二十数年間、ずっと孤独だった事実を受け入れる事への恐怖だったのだろう。
それに気付いた時、全てがどうでもよくなった。
そしてある土曜日に、会社宛ての辞表をポストに放り込んだ俺は、そのままその電車に乗り込んだのだ。
電車は淡々と進み、やがてある片田舎へと辿り着く。
更に山奥へと進む私鉄に乗り換え、次々に離れて行く人間と生活の匂いを見送り、俺は遂に、目当ての場所に降り立った。
かつて住んでいた都会からはそう遠くない、霧深い山奥。
あまり自殺の名所のイメージが無いここであれば、逆に見付かる事は無いだろう。
“何も無いのなら、何も無い場所で土に還りたい。”
この時俺の頭にあったのは、もうその想いだけだった。
ふらふらと山道を歩き続け、どの辺りなのかも解らなくなった時、目の前に一本のビニールテープが見えた。
“ここを越えたなら、きっともう帰らないで済む”
直感がそう告げるのに従い、その境界を越えた。
そうして更に進み続けると、何か空気が異質なものに変わる。
よく晴れた日の山道が、突然深い霧に覆われた。
どう考えても不自然だが、その時の俺は、それですら都合の良いものに思えた。
やがて辺りは暗闇に変わり、夜が明け、また暗闇に変わり。
それを3回繰り返し続け、遂に俺は歩く事もままならなくなった。
「案外、死ねないモンだな…。」
初日より明らかに痩せ細った手足を見つめると、自分の肉体と精神のギャップに苦笑しか出なかった。
腹が減った。喉が渇いた。寒い。眠い。
頭の片隅に渦巻いている生存本能は、身体の持ち主に相反し、何処までも生きたがっている。
『日本一と称されるある山の麓にくたばりに行った連中』は、今際の際に死を恐れて泣き叫ぶ事があると言う。
登山者がそういう悲鳴をよく聞くそうだが、放っておくのが暗黙のルールなのだと聞いた。
その頃はそいつらを小馬鹿にしていたが、いざ自分がその時になってみると、笑えないものだ。
何て事は無い。肉体の生存本能は、持ち主の心理を軽々しく踏みにじり、そして超えてしまう。
最期には、無様に泣き叫んだままの、情けないツラの死体の出来上がりだ。
実際、本能から来る恐怖感はあった。
だけどその時には、もう泣き叫ぶ体力すら俺には残されておらず、複雑な、不快さと居心地の良さが混じり合った感覚の中にいた。
本能が訴える、死ぬことへの恐怖と。
心が求めてやまない、死ねることへの安堵と。
その二つが混じった世界。
“これ、血の匂いか…?”
その時。呆然とする意識の中で、確かにその匂いを感じた。
新鮮な、死臭の一つも混じっていない血の匂い。
視線を匂いの方に動かすと、見た事も無いような緑色の小さな獣が死んでいた。
ごくり、と唾を飲み込む音が頭蓋の中で響く。
アレを食べればまだ生きる事が出来ると、本能は強く訴えかけてくる。
ただ、すぐに手を伸ばす事はしなかった。
ここで食さなければ、自分の望みは果たされると、精神の方が強くブレーキを掛けてきたからだ。
“馬鹿馬鹿しい。俺は何のつもりでこんな所まで来た?”
そう自分に語り掛け、固く目を綴じた。
視界を閉ざしてみれば、真っ暗な闇と、後は風や木々の音が聞こえるだけ。
その世界は、俺がずっと生きてきた世界と同じ、心の中の世界と同じものだった。
目を綴じて、ただ目の前を通る雑音に生返事を返し、見えているフリをし続けていた生涯。
誰も信じられず、見つめることもせず、愛しているフリをし続けた世界。
“……大した事じゃないな。ずっと、俺はここにいたんだ…。”
このまま死ねば、身体も土に還って、心も同じ闇の中に還るだけだ。
ふと、後悔は無かったかと考えてみて…そして、一つだけ浮かんだ。
『叶うなら一度だけ、心の底から誰かを愛してみたかった』と。
一度そう考えた時、いつの間にか、俺の目は開いていた。
自然と腕は前へと動き、獣の死体へと匍匐前進の様に這って向かって行く。
俺がまたふらふらと歩きだした時、その後ろには、獣が埋められた跡だけがあった。
そして人里に辿り着き、突き付けられた鏡に映っていたのは_______
「………。」
目を開けると、いつも通りの殺風景な部屋。
考え事をしていたら、どうもうたた寝をしていたようだ。
思い出していた事がそのまま夢になっていたみたいだが…夢というフィルター越しの映像で見ると、随分と鮮明に思い出せるものだ。
「そう言えば、最初はそうだったな……。」
半妖となり、外界へと帰還できなくなってしまった時点で、その頃の気持ちはすっかり奥へと追いやられてしまっていた。
『あの時の自分は、確かに生きたいと願った。』
そんな事も目の前の物事に追いやられてしまうとは……つくづく、人が変われるのは一瞬の事なのだと溜息が出る。
いや……一瞬だけでもないか。
膝に掛かる重みの方に目をやれば、裁縫道具を持ったまま
こいしが眠っていた。
やれやれ……危ないから膝の上じゃやるなって何度も言ったのだが…。
「…○○…だい…すき……。」
「………。」
手から布を取り上げて、起こさないようにそっとこいしを床に寝かせた。
少なくともこいつが現れてからは、前までの俺では無いのだと思う。
だけど、こいしはどうなのだろう?
何度もこいつの記憶を夢越しに見て…そこは確かに苦痛と悲しみに満ちていたが、同時に、俺はデジャヴも感じていた。
きっとやり方が違うだけで、俺たちは同じだったのだ。
『自分の心からさえ、ずっと目を逸らして生きてきた。』
その臆病さに於いて。
こいつは、何処か頭がおかしい。
それにわがままで、平然と俺の壁を割って入りこんできた。
おまけに泣き虫でさびしがり屋で、その癖たまに心臓に悪い事を言う。
正直、甘えん坊ももう少し治らないものかとは思う。
……だけどこいしが与えてくれたものは、それ以上に俺にとってはかけがえの無い物だった。
最初は、ただの傷の舐め合いなのだと思っていた。
でも、今は違うと思える。
確かに、独りには戻りたくはない。
そしてそれ以上に、こいしをもう独りにはさせたくないと、強く思う。
このまま俺の第三の眼が開けば、俺達は離れ離れになってしまう。
そう、『俺達がこのまま』ならば。
こいし……やっぱり俺は、お前を置いてはいけないよ。
だから、今度は______
「…………っ!?」
激痛が、胸へと走る。
確かに解る。遂に来てしまったんだ、この眼が開く時が…!
みちみちと肌がちぎれる音が聞こえ始め、激しい眼の拍動が心臓を圧迫する。
「うう…がっ…ああああああああああああああああ!!!!!!!!!」
心臓が飛び出たかのような痛みに悲鳴を上げ、薄闇に、見慣れたそれが見えた。
血まみれの、緑色の球体。
それは俺の胸にコードのようなもので繋がれ、ふらふらと不安定に漂っていた。
まだ開ききってはいない…そうだ!!こいしは見えて…。
「…………!!!!」
後ろに感じた気配の方に振り向くと、確かに絶対に見失いたくない存在が、そこに立っていた。
ただしそれは。
似て非なるものに見えるほど。
世にも恐ろしい、狂人の笑顔を浮かべていた。
ずっと、待ってたんだ……。
ほら、もうすぐ開くよ。
あなたに似合う緑色の糸、いっぱい用意したの。
ゆびきりげんまん。
嘘ついたら、針千本縫わなくちゃね。
わたしのせかいに、つれていってあげる______
肩を掴まれ、そのまま後ろに叩きつけられる。
後頭部を打ったせいで一瞬意識が朦朧とし、その間に胸に何かが乗った重みが掛かった。
こいしが馬乗りになっていると解ったのは、視界が焦点を取り戻した時。
肩を押さえつける力は今まで感じた事も無いほど強く、抵抗しようとしてもびくりともしなかった。
真上から俺を見つめてくるこいしは、何処か妖艶さを感じさせる笑顔で俺を見下ろして。
「ねえ、○○……約束したよね?“いつだって私を見付けてくれる”って。なんでこんなものが生えてきてるのかなぁ?」
「くっ…俺が知りたいぐらいだ。こいし、お前少し太ったんじゃないか?ちっとも動けないんだが。」
「ふーん……レディにそんな失礼な事言っちゃうんだぁ。おしおき決定だね。」
撫でる様な、舐め回す様な。
それでいて、酷く冷たい声色でこいしが囁く。
純粋な妖怪と半妖の腕力の違いか、これだけの体格差がありながらも、尚も抜け出す事が出来ない。
何か手は無いかと考えた時、ふとこいしが手に力を込め。
片側の腕から、ぼきり、と鈍い音がした。
「…………!!!!!」
「あはは、声も出ないぐらい痛いんだぁ?
でもしょうがないよね、“私に嘘をつくなんて百年早い!!”なーんて。きゃははははははははは!!!!!」
痛みに悶絶している間に、折れていない方の腕に紐が巻かれ、その先は柱に括り付けられた。
両足も拘束され、完全に身動きが取れない木偶と化した俺を見て、こいしはとても嬉しそうに目を細めて。
「ゆーびきーりげーんまーんうーそつーいたらはーりせーんぼーんぬーわす♪
……と、言うわけで○○くん。お裁縫のお時間です。」
真横に置かれた裁縫箱の中から、一番太い縫い針が取り出される。
薄暗い部屋できらきらと光るそれに、毛糸の様に丸められた、大量の緑色の糸が通された。
まさか……。
「あーあ、ほら、また糸が切れてる。もう半分開きかけてるじゃない。
これが開いちゃったら、もう私が見えないんだよ?○○もそんなのいやだよね?
だからもう開かないようにぃ、しっっっかり縫わなくちゃねー。」
ぶつり、と体中に針の音が響いた気がした。
骨折の比じゃない程、まるで心臓に針を打ち込まれるかのような痛みと抵抗感が頭を支配していく。
「じゅーいち…じゅーに…きゃはははははは!!!!まだまだ千針まで足りないねえ!!もっと……もっと縫わなくちゃ!!!!」
一針進む毎に、段々と意識がぼやけて行く気がした。
さとりが言っていた通り、確かに第三の眼は心臓も同然なのだろう。
視界も、意識も。少しずつ、形を無くし始めていた。
聴力も途絶え始め、楽しそうなこいしの笑い声も、針が瞼を貫く音も、何処か遠いものになっていく。
ああ…とうとう、離れ離れになるんだ。
俺は死んだも同然の廃人に変わって。
こいしは、ずっとひとりぼっちになって。
目の前を見れば、相変わらずこいしは見えたままだった。
だけどそれすらもぼやけ始めて、無意識を操る事と、無意識の中にいる事は違うのだと感じた。
ぶつり。
ぶつり。
ぶつり。
もう何針まで達したのだろう。
無機質な皮膚の貫かれる音を、数える事すら出来はしなくて。
痛い。
怖い。
嫌だ。
暗い。
寒い。
何が?
縫われる事が?
自分が、消える事が?
こいしが、ひとりぼっちになる事が?
それとも…もう、笑い合えない事が?
ぼんやりとした意識の中で、一瞬だけこいしにピントが合った。
はっきりと見えたのは、彼女の掌の中で何度も瞼を縫われる、自分の眼。
それと、うつむいたままのいつもの黒い帽子と。
笑みを、浮かべたままの、口元と。
彼女の頬を伝う、透明な涙。
第三、の眼に、走り続ける痛みの中。
ぴちゃり、と。
冷たい、感触がした。
それは。
こいしのほほから、こぼれた涙が。
俺のめ、に。
こぼれ、た。
冷た、さ。
もう、自ぶ、ん、が、誰か、も。
上ま、く。わから、な、い。
た、だ。
このまま、じゃ、だ目、な、きがして。
おれ、た。うで、を、のばし、て。
そっ、と。
ぬれた、ま、ま、の。
こい、しの。
ほ、ほ。に。
ふれた。
“たすけて…○○…。”
こいしの『声』が、視えた気がした。
…ああ、冷たいな。
痛いな。
寒いな。
悲しいな。
少し、目が覚めるくらいに。
_____やっぱりお前には、こんな世界は似合わない。
ぶちりと、一つ音がした。
縫われたはずの糸が、瞼が開こうとする力で、一つ一つちぎれていく。
少しずつ、ゆっくりと意識が形を取り戻していく。
縛られた腕には、ありったけの力を。
伸ばしたままの折れた腕は、そっとこいしの肩に掛けて。
「そ、そんな……やだ!やだよ!!おいてっちゃいや!!!」
正直な所、滅茶苦茶痛い。
折れた腕も、縫われた第三の眼も、吐きそうなぐらいの激痛だ。
だけど、どうでもいい。
こいしが見てきた痛みに比べたら、こんな程度掠り傷だろう。
紐を引きちぎり、もう片方の腕も自由になる。
目が開いたせいなのだろう、こいしは少し見えにくくなっていた。
だけど、それでもここにいる。
ぬくもりも、声も、心も。
確かにこいしは、俺の目にはまだ見えている。
「ねえ…開かないでよ…もうやだよ…ひとりぼっちはいや!!!!!
ほら、また縫わなきゃ………!!!!」
「……大丈夫だ。ここにいる。」
殴るでも、撥ね退けるでもなく。
ぎゅっと、その小さな身体を胸に抱いた。
……ほら、それでもここにいるじゃないか。
こんなにも、しっかりと。
「こいし…死んだふりは、もう終わりにしよう。目を開けなきゃいけないのは、お前の方だ。」
「…………!!」
「初めはさ、俺もお前と同じだったよ。
ただ何となく、自分と同じ奴を見て、安心してたんだ…鏡でも見てるみたいな気になって。
きっと俺達は、自分にさえ似ていれば、誰でも良かったんだと思う。
ひとりじゃないって思えれば、後はどうだって。
だけど…お前と暮らして行く内に、そうじゃなくなってた。
やっぱり自分とは違っていて…それでもお前は、色んなものを俺にくれたよ。
……なあ、お前にとってはどうなんだ?」
裁縫箱から、糸切鋏をひとつ取り出す。
今の俺達に必要なのは、縫い、綴じる事ではなく。
_____切り、そして開く事。
「なに、そのはさみ……いや…こわいよ……きっと○○だって本当は私の事を気持ち悪いって思ってるもの!!!
心が読めるなんてこわいって!!そんな気持ち悪い奴なんていらないって!!!!
だから見たくない!!みんな…みんな心の中は化け物なんだ!!!!」
「…………これだけ、俺が長い間傍にいてもそう思うか?」
「…………っ!!」
「そう思うのなら、確かめてみればいい。
……本当はな、もう大分目が開いてて、お前が半透明に見えてるんだ。
もう時間は無い。選ぶなら今しか無いぞ?」
カッコ付けては見たが、内心不安でいっぱいだな…。
こうしている間にも目は開いて、こいしの声も、耳を澄まさなければ上手く聞こえなくなってきた。
冷静に考えれば、随分酷い事をしていると思う。
でも…ここから先は俺の我侭だが、やっぱり俺が俺でいて、こいしがこいしのままでいて。それが一番良い。
「………やだなぁ、○○がいない方が…うん、やだよ。ずっと、ずっと一緒がいいよ!!」
「よく出来ました。じゃあ、動くなよ。」
「うん……。」
ひとつひとつ、こいしの眼に縫い合わされた糸が、断ち切られていく。
その度に、消えかけていた彼女が、色を取り戻していく。
嫌って程思い知ったから解るが、心なんて、その実制御しきれないものだ。
最初に眼に映ったものが、こいしにとっての絶望で無い保証は俺にも出来はしない。
深層心理は、当の本人ですら制御しきれないもの。
だけど、今ならきっと……。
「終わったぞ。」
「…………。」
恐る恐る、彼女の瞼と第三の眼が開いていく。
じっと俺の方を見て、そしてこいしの目には涙が溜まって行った。
「………○○…ほんとなんだね…嘘、じゃないよね…?」
「久しぶりすぎて信じられないか?
……ま、まあ、その…お前に見えてる通り、だよ……。」
「ふふ……だーいすきっ!!!!」
「痛ぅ!?お前、こっちは腕が折れて…。」
その時俺が何を思っていたか?
それは秘密だ。これは数百年後の墓場まで持って行くと決めている。
無縁仏志望だった俺が、墓場なんて言うのも滑稽な話だが…やれやれ、心とはつくづく現金なものだ。
―epilogue―
「そうか…地底に帰るのか。」
「うん、お姉ちゃんやペットの皆には、たくさん心配掛けちゃったから。」
「……そうだな。」
「あ、でも週に2回はここに来るから。だからもし浮気なんかしたら……今度は針千本飲んでもらうからね?」
“はは…骨折に瞼の裂傷までやっといてまだ言うか…。”
「…………ぐすっ。」
「わかった、頼むからここで泣くのはやめてくれ。」
「ふふ…うそだよー。また来るね!!」
「ああ、いつでも来い。」
その後、○○はその経験と覚の能力を生かし、幻想郷唯一のカウンセラーとして働き始めた。
精神に重きを置く妖怪たちにとって、その需要は思いの外高く。
最初は屋台でたまたま受けた悩み相談から始まったそれは、いつのまにか、彼の住居を改築せざるを得ない程の賑わいとなった。
100年程過ぎた今では、『身体は永遠亭、心なら○○心療へ』と呼ばれるようになっていた。
さて、彼の営む心療内科は、休診日が週に2回ほどある。
そして週に2回、ここの扉を叩くノックも。
「古明地さん、本日は休診です。お出口はあちらになりますが。」
「似合わないねー、その営業スマイル。医者ってより殺し屋かしら?」
「…お前が寝てるのを無理やり起こしたからだろうが。合鍵渡すんじゃ無かった…。」
「ふーん…昨日は性生活の悩み相談を受けて、その前は恋に傷付いた患者のカウンセリング…で、ちょっとかっこいいとか思われて悪い気はしてなかったと。
………これは針千本のかき揚げを晩御飯にするべきかしら?ふふふ……。」
「いや、マジで針はトラウマだからやめてくれ。
……全く、思っても無い事を言うんじゃない。」
「くす…相変わらず頑張ってるのね。」
「まあ、な…お前は図体ばかりでかくなって、中身は相変わらずだが。」
「え?胸だけは○○のせいで大きく…あ、やっぱり小さい方がいい?
だって出会った頃の私は小さかったから、○○はやっぱりロリコ…」
「…解った、俺が悪かった。だから馴れ初めは口外しないでくれ。」
月日は妖怪にも変化を与える。
こいしは女性と呼べる容貌に変わり、○○は幾分、昔の気難しさは抜けた様にも見える。
今の二人の顔に、かつての閉塞感は残ってはいなかった。
さて、彼女が今日訪れた理由は何か。
それは彼の机に隠されていた。
「ねえ。引き出しの中の“それ”、なぁに?」
「…………何の事だ?」
「ふふ…この前本棚からこんなタイトルの資料を見付けたんだぁ…あなたの筆跡で。
“第三の眼を騙せるほどの、心理上に於ける完全な嘘についての考察。”
…全部は“それ”のためだよね?だけど甘いなあ、ブランクがあったとは言え、覚としては私の方が先輩なんだよ?甘い甘い。
さあ……見せてもらおうかしら?そこまでして私に隠したかった秘密を。」
こいしは実に勝ち誇ったような、それでいてかつてと同じ、見る者をぞっとさせる様な笑顔を○○に向けている。
○○はそれを見て観念したのか、酷く憂鬱そうな顔で引き出しの鍵を開けた。
「……全く、演技だってバレバレなんだよ。せっかく色々考えてたってのに、計画が全部パーだ。
受け取ってくれるか?こいし。」
机に置かれたのは、少しサイズの細い指輪。
彼が研究をしてまで隠し通そうとしたそれは、こいしによってあっという間に暴かれてしまった。
「ふふ…喜んで。これからもよろしくね、“旦那様”?」
鏡だと思い込んでいたそれは、彼らが自ら張った、ただのガラスの板でしか無かった。
破片が刺さろうともその向こうに手を伸ばし、そして彼らが掴んだものは。
自分のものではない、それでいて愛おしい、互いの掌だった。
Spiegel von Hartman-Ende-
最終更新:2012年11月21日 13:09