“兎に角、腕試しがしたかった。”
きっかけは本当に、そんな些細な感情からでした。
同じ剣士、それも出来れば体格差のある相手と手合わせをしたい。
そう考えていた私は、ある日霊夢さんに条件に見合う人物がいないか尋ねたのです。
「そうね、いない事も無いけど…ただ、お勧めはしないわ。」
「何でですか?」
「そいつは里の退治屋なんだけど、言っちゃえば私より“踏み込んだ仕事”をしてる奴よ。
腕は立つけど、それ以上に始末が悪いって言うか…アレは真性の気違いね。私は苦手だわ。」
「…でも、腕は確かなんですよね?」
「はぁ…だからあんたは辻斬りって言われるのよ。知らないわよ?」
今思えば、そこで止めておけば良かったのだと思います。
こんな苦しい気持ちを、抱くぐらいならば_____
初の心にさざめく夜は-。ep.1-
人里の外れにある、とある古びた家。
その裏庭からは、今日も淡々と素振りの音が響いていた。
「ふー…さて、次は…。」
伸ばしっぱなしの髪を汗が伝い、それは小さな水溜りを彼の足下に作っている。
上着ははだけられ、上半身には無数の傷。
中には、まだ痛々しく糸を残す傷もあった。
青年の名は○○。歳は18。
ここ、人里に居を構える退治屋である。
一度着替えを済ませた彼は、縁側に座り、愛刀の手入れを始める。
殺傷力だけを追い求めたかの様な、無駄な装飾が一切省かれた一振りの刀。
刃は通常より幾分厚く、そして少しだけ長過ぎる尺から、人だけを斬る為のものでは無い事が見て取れる。
依頼さえ無ければ、彼はこうして淡々と日々をやり過ごすだけ。
しかし、この日は少々いつもとは違う事が起こった。
「もし、そこの方…。」
「あ?誰だお前。」
来客は二振りの刀を携えた、銀髪の少女。
○○は暫し無言で彼女を見つめ、何か確信めいた様な顔をすると、漸くその腰を上げた。
「…人様の平穏な午後に、半端な怪奇現象現る、ねぇ…嬢ちゃん、成仏したかったら寺でもあたんな。」
「いえ、半分は生きてますから不要です。
霊夢さんからお話を伺いました、私は魂魄妖夢と申します。是非一度、お手合わせを。」
「はぁ…あの風船女、仕事しねえ癖に厄介事は呼びやがって。得物は竹光がいいか?」
「いえ…出来れば真剣を…。」
「ふーん…まあ、“本当にそれでいい”なら構わねえよ。」
「じゃあそうだな…この石を投げて、着地したら始めだ。」
○○が小さな石を上空に放り、やがて重力に従いそれは落下を始める。
妖夢は既に警戒の体制を取ってはいるが、対して○○はまだ、本格的には抜きの体制に入っていない様子。
“見た所、何か特別な力がある様子は無い。ただの人間ね。
でもあのやる気の無さは、逆に不気味だ…霊夢さんがああ言う以上は、油断はするべきではない。まずは様子を…。”
かつん、と音がした刹那、妖夢は真っ先に踏み込み、抜刀する。
○○はそれに合わせ自身の刀でその一撃を防ぎ、そして鍔迫り合いの態勢となる。
ここまでは妖夢の予想通り、しかし、同時に彼女は何か拍子抜けしたモノを感じていた。
“確かに腕は立つ…だけど、やっぱり人間の範囲だ。行ける。次で決めれば…!”
「成る程なぁ、力、速さ、技の切れ…確かに…てめえの方が上だな!」
「!!」
○○の刀から力が抜け、そのまま妖夢の刀が受け流された。
一瞬の虚を突かれ体制を崩されたが、まだ彼女の優位は変わらない。
“脇は空いたけど、それはこの男も同じ。私の速さなら…え?”
その時、妖夢の背筋に冷たいものが走った。
一瞬だけ見えた、男の口角が歪んだ瞬間。
その歪な不気味さに、妖夢は何か異様な感覚を覚えた。
「確かに強え…だが、“それだけ”だ。」
「………がっ!?」
一瞬、彼女は自身に何が起きたかを理解する事が出来なかった。
衝撃の直後に体内で響いた、みしみしと軋む骨の音と激痛。
男の放った蹴りが、妖夢の脇腹にめり込んでいたのだ。
「あ…ぐぅ…がはっ!」
「おいおい、こんなの初歩中の初歩だぜ?騙し討ちは基本だろーが。」
何本かの肋骨にヒビが入り、呼吸の度に激痛と息苦しさが妖夢を襲う。
○○は絞り込まれた筋肉の付き方をしており、身体自体は痩身。
半人半霊の彼女相手に、おおよそ生身の脚ではここまでのダメージにはならない筈。
「くっ…卑怯な…足に鉄甲を…。」
「卑怯たぁ随分だな。俺は単に、道具の有効活用をしただけさ。」
○○がズボンの裾を捲ると、幾つもの疣の付いた鉄甲が見えた。
彼は悪びれる様子もなく、あまつさえ舌を出しながら妖夢にそれを見せ付け、挑発的な態度を崩さずにいた。
「白楼剣と楼観剣、だっけか?どんだけ名刀だろうが、使う方がボンクラなら話にならねえな。
…あーあ、てめえの爺さんが見たら何て言うかね。」
「何故それを!?…あなた、何者ですか?」
「何って、ただのしがねえ退治屋だよ…強いて言うなら、俺の師匠は魂魄妖忌だって事か。」
「…………!?」
妖夢の顔に、急速に焦りの色が見え始める。
『目の前の男は、自らの師の教えを受けていた。』
それは彼女にとって衝撃であると同時に、認めたくはない事実でもあった。
“この卑怯な男が、自分と同じ技を振るう”などとは。
「嘘だ……嘘だああああああああっ!!!!!!」
激情のまま○○に突進し、再び彼はその刃を受け止めた。
力任せに、鍔迫り合いから叩きつける様に○○の刀を払うと、彼の脇腹に大きな隙が出来る。
“この間合いなら足は届かない…刀は奴の左手…行ける!!”
この時、冷静さを欠いた妖夢は、その実本来の判断力を出せてはいなかった。
怒りに任せ楼観剣を振りかぶると、彼女にも大きな隙が産まれる。
○○の足は妖夢の間合いの外にあり、彼には剣を立て直す猶予も無い。
通常であれば、このまま○○の敗北は確定していた。
しかし、妖夢は過ちを犯していた。
まず、○○が人間であると言う事に、無意識下で己の優位を確信していた事。
次に、この男の本質を見誤った事。
___そして、武器は一つでは無い、その予測を持てなかった事。
『ごきっ…』
次の瞬間、妖夢は自身の体内から、肋が折れる音を聴いた。
先程ヒビの入った箇所にめり込んでいたのは、四角形と思わしき鉄の塊。
それは○○の方へと鎖を伸ばし、そして彼の右腕の袖へと続いていた。
鎖分銅。
二度目の鍔迫り合いそのものが、この暗器を妖夢に打ち込む為、○○が仕組んだ罠だった。
「ごほっ…あっ…ぐ、がぼぁ!!」
恐らくは肺に傷を負ってしまったのであろう、倒れた妖夢は一度大量に血を吐くと、その激痛に激しい眩暈を覚えた。
ひゅうひゅうと自身の呼吸が乱れ、その度に走る拷問の様な激痛が、意識を乱して行く。
“何、で…この男…”
○○は歪な笑みを崩さず、自身が負わせた怪我に気を配る気配も無い。
その手でゆっくりと妖夢の胸倉を掴み上げると、一転し、強い怒りが彼の目には浮かんだ。
「あんまりにもナメてくれるもんだからよ、思わず肋折っちまったじゃねーか……てめえ、『試合』のつもりで『真剣』を抜いたのか?答えろ!!」
「………!!」
“私は…そもそもどう勝とうとしてたっけ…斬る?いや、そんな事もあまり考えて…”
「…てめえの剣には、殺意がねえんだよ。
真剣を向ける以上、それは『死合い』、命の奪い合いだ。
…そんな覚悟もねえのに、てめえは剣を抜くのか?そいつぁな…殺す事に対する冒涜って奴だよ…。」
乱暴に妖夢を地面に叩きつけ、○○は刀を下へと構える。
刀の切っ先が、ゆっくりと妖夢へと近付いていく。
そして刃先がその白い首に触れると、すう、と薄い傷から血が流れた。
「剣術、暗器、妖術、格闘……俺はな、この全部を組み合わせて闘ってる。
死んでも殺す。
外道な手を使おうが、例え自分が首だけになろうが、絶対に殺す。
命を奪うってのは、そう言う事だ。
…だからてめえみてえなのを見てると、虫唾が走るんだよ。
その覚悟もねえ癖に、簡単に真剣勝負とかぬかすバカがな!
じゃあ身を以て知ってもらおうか、殺すって事をよ…………あばよ。」
「…………!!!」
刃先が、首筋に一つの薄い線を描いた。
恐怖に抵抗すら忘れた妖夢は、涙を浮かべたまま、目を閉じる事すら出来ない。
より深く刃が刺さろうとした、その時。
「○○!何をしている!?」
後ろから響いた怒声に、彼の動きが止まる。
現れたのは人里の守護者、上白沢慧音だった。
「チッ…邪魔しやがって…。」
「お前、里での殺生はするなとあれ程言っただろう!それも少女相手に……この子は…!?」
「知り合いか?さっさと連れてけよ。…俺はただ、売られた喧嘩を買っただけだ。話でも訊きゃあ解るぜ。」
「……っ!!お前への説教は後だ…妖夢、立てるか?私の家に行こう。」
「……はい。」
肩を支えられ、朦朧とする意識の中、妖夢は考えていた。
何故、人間である筈の彼に自分は負けたのか。
何故、彼は自身の祖父の教えを受けていたのか。
____何故、彼は『殺す事』にそこまで執着を持つのか。
ぼやけた視界の中、遠くなって行く彼の背中は。
彼女の目には、何故かとても儚いものに映った。
「ん………。」
あれ、ここ、どこだろ…確か、勝負を挑んで…それで…。
それで…。
「目が覚めたか?」
「慧音さん…?なんで……はっ!そうだ、あの男は!?…………ごほっ!?」
「ああ、まだ無理をするな。肋が折れてるんだぞ?」
「ごほっ…ありがとうございます。」
そうだ、私はあの男に負けたんだ…剣もまともに使われず、あんな卑怯な手で…。
“…てめえの剣には、殺意がねえんだよ。”
…いや、違う。私が弱いだけなんだ…軽い気持ちで勝負を挑んで、人間だからと何処かで相手を見下して…。
私は……私は……っ!
「うっ…ふぇ……。」
「……悔しいのか?」
「はい…私、心の何処かで彼を見下してた…やっぱり半人前で…。」
「………お前が自分を責めないでいい。あいつが過剰過ぎるんだよ。
あいつもまた、心の脆い奴だからな…。」
「………?慧音さん、何で彼は退治屋をやっているんですか?」
「…選ばれてしまった、としか言えないな…アレはこの人里と言うより、幻想郷自体の影とでも言おうか。
霊夢がいるだろう?あいつが担うのは異変の解決や妖怪退治。いわばスペルカードルールの象徴の様なものだ。
だが、中にはルールに従わない存在もいる……例えば、追い詰められ、人里を襲わざるを得なくなった者等だ。
○○の仕事はな…そのような者達を殺す事なんだよ。
『ルールから外れすぎた者は、ルールから外れすぎた形で処される。』いわば、掃除屋と言う奴だ。」
「………妖怪を、殺す?」
「………ああ。私とて、本当はさせたくは無いがな。
あいつはな、優し過ぎるんだよ。
命を奪う事の重みを知っているからこそ、ああやって残酷でいなければ、自分が壊れてしまう事を解っている。
…何の為に、あそこまで己を修羅に堕とすのかは、決して教えてはくれないがな。」
「………そう、ですか…。」
死んでも殺す。
例え卑怯な手を使おうが、己が首だけになろうが殺す。
彼の言っていた言葉は、裏を返せば、それだけ命を奪う事に対する自覚と覚悟を含んだものだ。
だからこそ、私が軽はずみに真剣勝負を挑んだ事に、怒りを隠さなかったんだ。
どちらかが参ったと言えば、勝負はそれで終わり。
だけど真剣を使う以上、相手が死なない保障は何処にも無い。
…やっぱり、私は半人前だ。
斬る事に対する覚悟が、全然足りなかった…!
でも……。
「慧音さん…ありがとうございます。」
「帰るのか?無理をするな、別に泊まっていっても…。」
「……そうか。すまなかったな、妖夢。あいつにはキツく言っておく。」
それでも、彼は何かを間違えている気がする。
…師匠、あなたは彼に何を伝えたのですか?
あなたは今、何処に……。
一月が経ち、私の怪我も癒えた頃。
私はもう一度彼に会う為、人里へと飛んでいました。
幽々子様や紫様は、本当は師匠の行方を知っているのかもしれない。
だけど何となく、あの二人には尋ねてはいけない気がして…追い返されるのを覚悟の上で、彼の元へ行く事にしました。
「ご、ごめんくださーい…。」
呼びかけてみても、人の気配は無くて。
留守にしているのだろうと思い、一度出直そうとした、その時でした。
“えっ…何、この匂い…。”
鉄の、錆びた匂いがする。
血のそれにも近いけれど、少なくとも、それにしては濃すぎる。
段々とそれは強さを増して行き、そして微かに足音も聞こえ始めました。
がちゃがちゃと、金属が擦れる音も聞こえる…何かを運んでる?いや、それにしては静かだ…。
ふと怖くなって、後ろを振り返ってみました。
逆光で何かは解らないけど、赤い影がいる。
そ、そんな…まさかお化けじゃ…!?どんどんこっちに近付いて……。
ひ…ひいいいいいいいいいぃっ!?
「……誰だったっけ、お前。」
「………………へ?」
よく見ると、それは生きた人間でした。
赤い大きな布を頭から被ってはいましたが、その奥には、あの人相の悪い目付きが。
紛れもなく、○○さんそのものでした。
…態度からして、私の事は覚えていないみたいです。
「んー?ああ、その刀ぁ、こないだケンカ売って来たガキか。すまん、刀しか覚えてなかったわ。」
「よ、嫁入り前の身体を傷付けといてよくそんな事が言えますね!?いつぞやの勝負、私は参ったとは言ってません!!」
「誤解招く様な言い方すんじゃねーの。
大体俺の好みはもっとスタイルの良い女だ、てめえみてえなまな板女なんざ覚えてるわけねえだろ。
名前何つったっけ?あー思い出したわ、コケシさんでしたかね?」
「よ・う・む・ですっ!!魂魄妖夢!!大体まな板って……え、Aはありますから!」
「…あ、ごめん。私はまな板でコケシですとしか聞こえなかったわ。」
「……っ!!!!」
…む、むかつく!何て人の神経を逆撫でする奴なんだろ。
でも、お、落ち着くのよ妖夢……私はこんな馬鹿なやり取りをしにここに来たんじゃない。
幽々子様にお団子の買い物も押し付…じゃなかった、頼まれてるし、早く訊き出さなきゃ。
「こほん…話が逸れましたね。今日はあなたに訊きたい事があって来ました。その…お祖父様の行方について。」
「………師匠か。」
きっとこの男は、師匠の行方を知っている。
せめて、今どうしているのかだけでも解れば…。
「…………良いのか?本当の事を言っても。」
「………!?」
え…何でそんな深刻な顔を……。
そんな、まさかお祖父様は…お祖父様は……!?
「……いや、実は俺も知らないんだわ。
残念だったなぁ、大方孫がコケシ過ぎてショックで逃げたんじゃねーの?」
…………へ?
「お目当てが外れたと思って諦めるんだな、俺の手元にゃ、師匠譲りのこの刀しかねーよ。
ま、お前が一人前になりゃ帰ってくんじゃねえか?何百年先か知らねえけどよ。」
……………………。
…~~~~~~~~~~っ!!!!
「貴様そこに直れ!叩き斬ってやる!!」
「おおこわいこわい、俺ぁ事実を言ったまでだろーがよ。
……まぁ今やっても良いが、本当に斬れんのか?お前によ。」
「………!」
いや…あの布の下、きっとこの前以上に何かを隠してる。
ここで戦うのは、余り得策じゃないか。
それにしても、この人の姿って…。
「……失礼しました。そうですね、知らないものは仕様が無い。
ところで…その姿は?」
さっきの鉄の匂いの元は、やはりこの人でした。
足元を見ると、布から垂れた滴が赤い水溜りを作っていて…布の一部には、少しだけ元の白い部分が見て取れる。
それは、返り血と呼ぶには余りに多過ぎて…。
「……ただの仕事帰りだ。さ、お子様は帰る時間だ、こっちは疲れてんだよ。」
「あ…ちょっと!?」
「はぁ…何?まだ何かあんのかよ?」
「……せめて、あなたが師匠の元で修行をしていた時の事だけでも良いんです。教えてください…。」
「…………そうだな、条件がある。」
「ふーっ!ふーっ!」
「おいおい、まだやってんのかよ?湯が冷てぇんだけどー。」
の、飲まなきゃ良かった……まさか風呂を炊けって言われるなんて…。
窓枠からは呑気に催促する声しかしないし、この男、本当に性格が悪過ぎる…。
でも我慢よ、妖夢。全てはお祖父様の無事を知る為。
「あ、そーだ。部屋の上から2段目の引き出しに着替えがあるから、置いといてくれ。忘れちまった。」
「……それくらい自分でやったらどうですか。」
「じゃあこの話は無かった事に。」
「……わかりました!!出しておけば良いんですね!!」
ああもう…何で大怪我までさせられたのに、こんな事してるんだろ…。
さて…ああ、これね。後は風呂場の前においておけば良いか。籠はあれか…。
「うわ……。」
籠には纏っていた布以外に、その下に着ていたであろう衣服の類も乱雑に放り込まれていました。
それら全ては、元の色が解らない位に血で真っ赤になっていて…一体どんな戦いをしたらこうなるのか。
持ち上げてみると、未だにぽたぽたと血が垂れて来ました。
「……そんなもん見ても一文にもなりゃしねえぞ?」
あ、いけない…もう上がって……!?
「きゃあああああああああああああああああああ!?な、なんで裸なんですか!?」
「なんでってそりゃお前、服着たまま風呂なんか入るかよ。」
「いいから早く着替えてください!!前、前見えてるから!!」
「ったく、たかがチンコ見えたぐらいで何騒いでんだか。まな板でコケシでおぼこねえ…救えねえな。」
さ、最悪だ…とことん人をからかって楽しんでる…でも……。
「…すごい傷ですね。」
「ん?まあ職業柄な。毎回無傷でいられるほど甘かねえよ。」
爪跡に噛み傷…ああ、それに火傷や刀傷もある。それも、傷の上に更に傷が付いて。
これなんかまだ糸が切れてないし……あれ?
「○○さん、これ……。」
「ああ、さっき仕事の時に喰らった奴だな。忘れてたわ。」
忘れてたって…これ、どう見ても10針は縫わなきゃいけない傷だ…。
これをかすり傷程度にしか思わないなんて、どこか壊れてる。
あ、まだ血が出てる…。
「見せてください。こんな大きなの、放っといたら膿んじゃいますよ?」
「毎度の事だ。こんなもんてめえで縫えるぐらいには慣れてるさ。」
「いいから。ほら、ちゃんと消毒もしなきゃ。薬箱は何処ですか?」
消毒を済ませ、腕に入った傷を縫い合わせる。
普通はかなりの痛みのはずだけど…○○さんは、本当に眉一つ動かさないでその様子を見ていました。
「…どうかしましたか?」
「……いや、少し懐かしくなっただけだ。」
そう言って彼が伸び放題の髪をかき上げると、ちょうど片眉の上に、大きな縫い傷が見えました。
妙に古いけど、これもやっぱり戦いの傷なのかな。
「その額の傷も、仕事で出来たものですか?」
「……これは違うな。ガキの頃の奴さ。」
彼はそう言うと、何故かとても懐かしいものを見る様な目で遠くを眺めていました。
……陰険な人だとばかり思ってたけど、こんな顔もするんだ…ちょっと意外です。
「…まあ、そんな事はどうでもいい。話は師匠といた頃の事だっけか?」
「は、はい…。」
彼が話してくれた内容は、主に師匠と回った場所と修行についてでした。
解ったのは、各地を転々とし、彼はその度厳しい修行に耐えて来た事。
そして師匠と別れる直前、一振りの刀を与えられた事。
お祖父様は相変わらず、と言った所でしょうか。会えはしなくても、それだけで妙に安心出来ました。
でも、彼が修行に入った経緯と、退治屋となった経緯。
その二つは、話の中には入っていませんでした。
何でだろう…妙に、それが何かを隠したがっている様に見えて…。
私は、ついそれを尋ねてしまったのです。
「…ところで○○さん。そもそも何故あなたは師匠の下に修行に入ったのですか?」
「………さて、ね。ただ、どうしても強くなる必要があった。それだけさ。」
“これ以上は、きっと訊いちゃいけない。”
彼の瞳を見た時、不意に直感がそう告げました。
とても寂しそうな、それでいて、何処か強い意志を宿した瞳。
……何で、そんな悲しそうな顔をするんだろう。
「そう、ですか…ありがとうございます、お祖父様の無事が聞けただけでも充分です。」
「そうか…じゃあ、さっさと帰ってくれ。
いやー、これ以上お前のツラ見てたら枕元に立たれそうなんだわ、コケシに。」
……前言撤回。やっぱりこの人は、とことん性根が腐っています。
「だからコケシじゃないです!!妖夢ですよぉ!!」
「てめえなんかコケシで充分だ。コケシ。」
この時の私は、まだ何も知りませんでした。
自分の感情の変化も、彼が隠していた秘密も。
______そして、この先の未来も。
続く
最終更新:2013年04月01日 17:57