すれ違い





 結婚は人生の墓場……などとはよく言ったもので。
 一度結婚してしまえば、金も時間も家族のために使わなくてはいけなくなる。また貧乏な家では女房も子も苦労する。
 一方独り身は独り身でまた大変なもので、とかく世間体が悪くなる。閉じた社会では世間からの評判というのは大変貴重なものであって、このためにとりあえず結婚するという手合いもそうそう少なくない。
 さてこの男、〇〇というが、この男は未婚であった。
 妻と子供とに囲まれて、穏やかな余生を過ごす……というのは彼の頭にちらつく理想の一つではあったが、いかんせん金が足りなかった。貧乏で後ろ盾も、これといった長所もない男と積極的に関係を結びたがるものもおらず、こうして彼は今日も独身を託っていた。
「で、まだ結婚相手は見つからないの?」
 酒を注ぎながら霊夢が言う。
「ああ。今年も結局、ここで年を越しそうだ」
「そう。ならお蕎麦の準備をしなくちゃね。あーあ、出費が痛いわ」
 ため息が徳利の中の水面を揺らす。その波が静まらないうちに、彼女は酒を呷ってしまった。
「おいおい、まだまだ潰れてもらっちゃ困る」
「ぷはっ…………あら、どうして?」
 空になった徳利を畳の上に投げ捨てて、霊夢は男に倒れ込んできた。
 いつものことだ。
 男は身じろぎもせずに彼女を受け止める。
「一人が淋しいからここに来てんだぜ。お前がすぐに黙っちまったら、俺は虚しいだけだろう」
「いいじゃない。別に言葉なんていらないわよ……ほら、なんて言ったかしら。何とかっていう哲学者が、『本当の友人とは、気兼ねなく沈黙できる友人のことを指す』……だとか、こんなことを言ってたじゃない。そういうことよ、きっと」
 そういうなり、霊夢は男の体に顔を埋めた。
 そうして母に甘える赤子のようにもぞもぞとして抱きついていた。
「はぁ。まあ、一理あるがね」
 男は霊夢の頭を撫でてやった。前に酔った勢いでついやってしまったのが始まりだったが、霊夢の反応がまんざらでもなかったため、こうしてたまに撫でてやるのだ。
 ただ奇妙なことに、二人にそれ以上の関係はなかった。
 ここまで来ればあとは本番をやるだけというのが、ほかに娯楽もないような辺鄙な土地の常道なのだが、一体全体どうしたことか、二人はここで足踏みしていた。
 すぅ……すぅ……。
 今にも消え入ってしまいそうなか細いが寝息が、まさに目と鼻の先と言う他のない懐から聴こえた。
「なんだ霊夢、寝ちまったのか」
 声で呼びかける。無理して揺さぶろうとはしない。
「寝ちまったか…………」
 しんとした冷たい夜の空気が、部屋の外から流れ込んでくる。扉は閉めているはずなのに、囲炉裏の炎は燃えているのに、寒くて凍えそうで仕方なかった。
 男は霊夢の顔を見ようとした。
 しかし男に顔を埋めて眠っていた霊夢は、その表情を男に見せてはくれなかった。
「はあ…………やっぱり、淋しいや」
 ふわふわと浮ついた馴れ合いの関係。
 楽園の巫女にふさわしい、一時の退屈しのぎ。
「違うんだねえ、やっぱり……俺たちは…………」
 男と女との恋愛観が違うというのはよくあること。ただ力も地位も何もかもが一方的な関係では、愛情の天秤が傾いてしまう。人が獣を愛でる如きの愛情となる。
 そこには確かに愛情はある。ある筈だ。しかし理解と共感はない。端から見れば実に収まりのいい二人に見えれど、当の片割れはけして満足を得られない。
 霊夢をそっと身体から離して座布団の上に寝かせると、男は筆を手に取った。

 翌朝霊夢が目を覚ますと、そこに男の姿はなかった。
 代わりに一通の手紙が卓袱台の上に置かれていた。
『そろそろ身持ちを固めようと思う。これ以上霊夢にも迷惑をかけていられない。これまで世話になった』
 とても短い書き置きだった。
 しかし霊夢が事情を察するには充分過ぎる言葉だった。
 力のなくなった手から手紙がはらりとこぼれ落ち、足は身体を支えきれずに崩れ落ちた。
 倒れ込んだ拍子に、昨晩使った徳利を割ってしまった。破片が白い柔肌に食い込んで、赤く鮮やかな血が走ったが、それは彼女の関心を惹かなかった。
 最後にあてどない視線が虚空に漂い、色を失った目が一筋の涙をつうと流した。
「ねえ……あたしの何が、いけなかったの…………?もっと綺麗な女がよかった?もっと優しい女がよかった?」
 こんなあばら屋が気に食わなかった?美味しいご飯が食べたかった?ごめんね、贅沢させたげられなくて。
「もしあたしの手の届くことなら。……言ってくれれば、あなたの好みに合わせたのになあ…………」
 もっとお洒落をすれば好かったのかしら。それとも、気軽な女の方が好かったのかしら。真面目に働く女の方が、好かったのかしら。
「ごめんね、〇〇」
 巡らせど巡らせど、答えは一向に見つからず。
 流した血と涙が乾くまで、霊夢はずっと、虚空に向かって許しを請うた。

 神社を後にした男は、しばらく浮ついたような生活をしていた。
 霊夢の元では寂しさを埋めることはできない。かといって、平凡な男をそう都合良く好いてくれる女がいる訳でもない。ましてや都合の良い縁談話が転がっている訳でもない。
 思い切って飛び出してきたものの、結局孤独のままだった。
「はあ。……別に寂しさが紛れた訳でもねえなあ」
 男は長屋の自室でごろりと寝っ転がった。
 何も聞こえない部屋の中で、ふとこれまでのことを思い返す。
 異性としての好意を自覚したのは、もうだいぶ前になる。
 先の見えない恋だった。
 いつ自分の中の強がりが崩れて、ただの何もできない自分を彼女の前に晒してしまうのか。そればかりが怖かった。
「…………そういえば、霊夢のやつは、どうしてこんな男と一緒にいてくれたんだろうなあ」
 無条件の無償の愛、そんなものはあり得ないのだ。
 愛には理由がある。
「そもそも、いつから……あいつと逢うようになったんだっけか」
 どうにも思い出せない。平凡な過去があったと漫然と覚えているばかり。
 これが戯曲なら壮絶な過去の一つ二つあって、とある事件で記憶をなくしていた……という展開にでもなるのだろうが。そんな都合の良い話はない。替えの利くような人生しか送ってこなかったはずだ。
 特別なことなどなく、偶然の積み重ねが怠惰に続いてここまできただけ。そもそもああいう立場の人と親しくなれただけでも奇跡だ。
 だからどうにもならない。せめて今なお好意を抱いてる女の幸福を祈り続けるばかり。
「幸せになれよ、霊夢。俺には……無理だ。お前といるたびに、勝手に思い詰めてふさぎ込んぢまうんだからよ」
 ーーお前は俺を、同じ土俵に立って、同じものを見ている存在だと勘違いしていたんだろう。だけど本当の俺は、そういう風を装って、これまでやせ我慢を続けていただけ。
「これまで勘違いさせて、悪かったなあ」
 陰気な天井を見つめる男の目は虚ろで、やがて怠状な疲れとともに閉じられていった。

「おーい、〇〇さん」
 往来を歩いていた〇〇は、酒屋の店主に呼び止められた。
「どうも、ご無沙汰しとります」
「急な用事で悪いんだがよ、博麗神社に酒を届けてくれねえか」
 博麗神社。
 今更掘り返したくもないものであった。しかし、こんな簡単に噂の出回る閉じた世界で、下手な発言は出来やしない。
「ほら、お前さんは仲良いからよ。あの偏屈巫女様と」
「分かりました。ただ届けるだけで構わないんで?」
「ああ。頼むよ」
「焼酎の一本でも取っといて下さいよ」
 そう捨て台詞を残し、男は仕事を引き受けた。一度引き受けてしまったからには、最後までやり遂げなければどうしようもない。ここでぶん投げるくらいなら、勘ぐられるのを覚悟で断った方がまだましだ。
「ああ……嫌だねえ」
 道すがら、誰に言う訳でもなく呟いた。呟かざるを得なかった。何か気を紛らわしながらでないと、とても足は進まなかった。
 ーー霊夢と俺とじゃ、俺が全面的に悪いんだ。どうしてひどい目に遭わせた奴の前に、のこのこと姿を見せにいけるんだか……。
 それに。
 一度捨てた未練を思い返してしまうかもしれない。
 真綿で首を締め付けられるような寂しさを。あの愛しくも辛い感覚を。もう一度思い出してしまうかもしれない。

 男は博麗神社に到着した。
「あれから……だいたい三日か。もう割り切ってくれてるといいが」
 酒瓶を担いで鳥居をくぐり、荒れ果てた境内を進んで巫女が起居をする奥の間に向かう。
 縁側に臨する襖はぴたりと閉じられている。
 隙間がなくては、様子をうかがうこともできない。仕方がないので男は大声で呼ぶことにした。
「こんにちは、酒屋です」
 返事がない。
 しばらく待ったが、返事がない。
「霊夢さあん。いらっしゃいますかあ」
 またしても返事はなかった。
 まさか酒瓶を庭に置いて帰るという訳にもいかないだろう。風の一吹きで瓶が倒れて、土の肥やしになるだけだ。いくら霊夢が変わり者でも、そんな注文をする訳ではない。
「仕方ねえな。留守にするお前が悪いんだぜ」
 男は襖を開けた。
 そして幾日ぶりかに見る部屋の内装を見回していると、
「霊夢!」
 仰向けになってぼうっとしている、生気のない霊夢の姿があった。
「どうしたんだ!」
「…………〇〇?」
「ああ、俺だよ。いったい何が……」
「〇〇なの?本当に?…………戻ってきてくれんだあ」
 ーーよりを戻しにきた訳ではなく、単に酒の配達にきただけだ。
 しかしとてもそんなことを言える訳がなかった。
 傷つき今にも息絶えてしまいそうな霊夢を目の前にして、男は否応なしに腹を決めた。
「すっかり痩せこけちまって……食ってねえな。今、何か作ってやる」
 男は厨房に立った。戸棚を探ると、そこには蕎麦が二人前あった。他の食材は痛んでいるか調理の難しそうなものばかりだったので、蕎麦を茹でることにした。
「出来たぞ。無理しないで食えよ」
「あ……大晦日のために取っておいた、お蕎麦……」
「また俺が買ってきてやる。食えるか?」
「…………うん」
 そう言って、霊夢は上体を起こそうとした。
 しかし弱り切った体は支えきれずに崩れ落ちた。
「あっ……ごめんなさい……」
「仕方ねえな」
 男は霊夢を後ろから抱きかかえた。それから右手で箸を持って蕎麦を口元まで運んでやった。
「いただきます」
 ぎこちない動きで少しずつ、霊夢は蕎麦を啜っていった。
 ひびの入った瀬戸物をそっと扱うように、男は丁寧に箸を動かした。それに呼応したように、女も唇を動かす。
 やがて二人の営みは終わった。
「ねえ……〇〇……」
「うん?」
「ごめんね……迷惑かけて……」
「まったく。霊夢がこんなに手のかかるやつだとは思わなかったよ」
「ごめんね……ごめんね…………」
 霊夢はただただ謝り続ける。口の動く限り、言葉の届く限り。もうすれ違いなど起きて仕舞わぬようにと祈りながら。
 力のないその哀願を前に、男のわだかまりはすっかり消えてしまっていた。
「いや、いいんだよ」
「えっ……?」
「俺が面倒を見てやらないといけないみたいだから」
「〇〇…………?」
 霊夢はきょとんとして見返してくる。
「ああ、ちくしょう。はっきり言わねえと分からねえかな。お前が独り立ちできるようになるまで、俺はずっとここにいるとも」
「〇〇……嬉しい…………」
 そのまま二人はしばらく黙ってじっとしていた。
 霊夢は体を包み込まれて支えられているだけで十分だったし、男は霊夢を抱きしめて支えていることが何よりの喜びだった。

「これ、お礼ね。わかってるとは思うけど、他言無用よ」
「それはもう当然のことで。ありがとうごぜえやす」
 場所は博麗神社から離れて、人里の酒屋。
 その店奥の客間にて、酒屋の主人と八雲紫とが密談をしていた。
「しかし〇〇の奴に配達を任せるだけで、こんなに貰えるなんて……いったいどういう了見で?」
「詮索も不要よ。すべて忘れなさい、美味しい思いをしていたかったら」
「これは失礼いたしました」
 それから間も置かずに単簡な挨拶を交わした後、女は闇の中へと消えていった。
 闇の中で女が呟く。
「まったく、一時はどうなることかと思ったわ」
「あんまり純情なのも考えものね……まあ、それが長所なのかしら」





行動的でないヤンデレって難しいですね
自分はヤンデレと言えば猟奇性より情の深さが好きなのですが、それだと普通のイチャイチャと区別がつかなくなるかもしれない








感想

  • すれ違った二人だけど、最後に幸せになって良かった -- 名無しさん (2019-01-27 15:15:56)
  • ヤンデレではないな、うん。 -- 名無しさん (2019-08-21 04:05:30)
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最終更新:2019年08月21日 04:05