ざあざあと降る雨に、赤色の流れが混じる。


あるのはボンネットがひしゃげた車と、慌てふためく運転手の姿。
しかし。運転手が慌てていた理由は、事故を起こした事だけでは無かった。


“起こった事象に対して、本来そこにあるべきものの欠如”


そこには血の跡以外に、被害者の姿が何処にも無かったのである。




物語は、ここから始まる。







-文とアヤ.1-








一体、何処の森だろう。

身体が動かない。痛い。
おかしいな…さっきまで街にいた筈。

何で俺は怪我をしている?



…まあ、いいか。

どうせ死に場所を探していたんだ。
何かのおかしな出来事だとしても、俺には都合が良すぎる。

叶うなら、死体は獣が喰ってくれたらいい。
それで、そのまま見付からないのなら。


ああ、眠いな。
死に際って、案外長いんだな。




…“アヤ”。

今、そっちに行くよ。












「…………。」



青年は、見知らぬ部屋で目覚めた。

細い体躯を起こすと痛みが走り。
手を顔に当てると、伸ばしたままの髭の感触と、ぼさぼさの長い髪が鎖骨を撫でる感触。
布団の正面の壁には姿見が立て掛けられており、そこには見馴れた無愛想な顔が写る。

視界に映るそれは彼自身であり。
それらの触覚と痛覚からの情報が、確かに彼の生命活動が続いている事を告げた。


「…くたばり損ねたのか。」


しかし、彼が目覚めて最初に抱いた感情は。
生存の喜びではなく、死に損なった事への落胆。


“手当てまでしてやがる…誰かに拾われたのか?”



「おや?目が覚めたようですね。」



襖が開く音と同時に、彼に掛かる声が一つ。


“こいつか?余計な事を…。”


そう思い振り返った矢先






「……“アヤ”。」






驚愕の表情と共に、彼は見ず知らずの筈の彼女の名を呼んだ。






「アヤ!!アヤなのか!?生きているのか!?」

「あやややややや!?ちょっと落ち着いて下さい!そ、そんな肩を揺さぶらないで…」

「おお、目が覚めたのかい…」

二人が騒ぎを起こしている中、襖を開ける銀髪の男が一人。


「…ごゆるりと。」

「違いますよ!?店主さん!!店主さーーーーーん!!!!」








「…つまり、ここはあんたの店で、俺はあんたらに拾われた、と。」

まずは少女の平静を取り戻させ、青年は銀髪の男から現状の説明を受けていた。

「君が倒れていた無縁塚は、非常に危険な場所でね。
治療の出来る場所は遠いし、あまり動かすのも危険だと思ったからここに運んだのさ。
幸い擦り傷と、肋骨が何本か折れていた程度だったからね。君は運が良いよ。」

「…そうか。ところでここは何処だ?妙な格好をしているが、まさか日本ですらないとは言うまい?」

「日本であって日本ではない、と言った所かな。」


そうして眼鏡の青年は説明を始めた。


「蘊蓄だらけで要点しか覚えてないが、ここは幻想郷って別世界、って事か。それも妖怪だらけの、ね…。」

「随分と落ち着いているじゃないか。普通は外来人なら慌てふためくのだがね。」

俄かには信じ難いはずの事実に対して、何故か青年はすんなりと納得した様子。
その様子に、銀髪の家主も不思議そうな顔を浮かべる。

「そこにいる女を見れば、嫌でも解るよ。認めたくはないが、その翼の動きは本物だ。」

そう言って、彼は青年の隣に座る少女に視線を移した。
二人の目が合い、少女の黒い翼がぴくりと動く。

「あやや、随分と目の利くお方なんですねぇ。
でも、どうして私の下の名前が解ったのでしょうか?あ、申し遅れまして、私、射命丸文と申します。
こちらの店主さんに、密着取材をさせていただいていたところでして。」

「君が仕入れに無理矢理付いてきただけだろう?ああ、僕は森近霖之助という。この香霖堂の店主だ。」

「俺も自己紹介がまだだったな。俺は○○と言う。一先ず、礼は言わせてもらう。
…死んだ知り合いに、そいつにそっくりな奴がいたんだよ。名前まで一緒とは、世の中不思議なモンだな。」


その自己紹介を機に、青年・○○の幻想郷での時間は始まりを告げた。

怪我が回復するまでは留まるよう諭され、彼は半ば強引に香霖堂に居候させられる運びとなった。
回復の具合に合わせつつではあるが、家賃は店と外の道具の鑑定を手伝う事と、それに纏わる知識の解説である。


そうして一月と少し。


「こいつも電力が無いとダメだ。これは物理的に修復不可だな、基礎が壊れちまってる。」

「やはりダメだったか。では、このパーソナルコンピュータという式神はどうだい?」

「式神、ね…残念ながら、これはそんな高尚なモンじゃない。算盤を電動にしたのを、もっと発展させた奴だ。
ある意味近いかもだが、根本はやはり機械さ。」

「そうか…しかしだね____」


そうしてまた議論が始まる。
彼は外では機械工をしていたらしく、彼らが道具に対する解釈や考察をぶつけ合う様子は、香霖堂での日常となっていた。


「今日はこの辺りと言った所か。…ところで○○、この前は説明し損ねたのだが、外の世界へ帰る方法もあるのだが。尤も、少々高額な賽銭は必要だがね。
あえて訊かないでいたが…君はどうする?」


霖之助の問いは、帰還についての内容。
しかし彼は一度天井を見上げると、ため息を一つつき、こう切り返す。


「霊夢って言ったか?それならこないだ来た、あの紅白の巫女に聞いたよ。
…ただ、無理矢理帰った所で、行く当てが無いな。どの道身寄りが無いのさ。」

「しかし、幻想郷は決して安全な場所という訳では無いぞ?
君は人間だ、いつ人喰いの妖怪に喰われるかも解らない。拾った命をわざわざ捨てる事も無いだろう?」

「…生憎と、あの時は死ぬつもりでな。そんな時に、たまたま事故に遭ったのさ。
拾ってもらってアレだが、そこまで積極的に生き延びようとは思えないね。死んだらそれが運命だって事だろ?
それに、聞いたよ…俺みたいな人間は、本来はここじゃ食料なんだってな?それならある意味、いつか喰われるのは本壊なのかもな。」

何処か遠くを見詰め、彼はそう言葉を返す。
その瞳は、死や妖怪への恐怖も、新たな世界への期待も感じさせない、何処か“欠けている”色をしていた。


「…そうか。僕は半妖だが、それでも死に恐れが無い訳ではない。何故そこまで、自らの生をぞんざいに扱う?」

「生に執着する理由を見失った、って所だな。まあ、今は死ぬ気も無いから安心しな。
正直まだ夢みたいな感覚は抜けないし、半分死んだような気がしてね。
…どうしたら良いのかは、俺自身もイマイチ解らなくなったのさ。生きるべきなのか、死ぬべきなのかな。」

「……そうか。」


そこで会話は途切れ、静寂が訪れたかに見えたが。



「こんにちはお二方。清く正しい射命丸です!!」


扉を開けた文の快活な声により、その静寂は5分と持たなかった。



「…はぁ。また来たのか、射命丸。生憎ここは冷やかしはお断りだ、出口は後ろだぞ。」

その声を聞いた○○は、如何にも嫌そうな顔で文を睨む。
何処か憂鬱さが漂う辺り、あまり彼女の相手は得意では無いようだ。

「おやおやぁ?命の恩人にそんな態度は如何なものでしょうか。
と、言う訳で、恩人の私に対して、あなたに拒否権はありません。今日も取材に協力していただきますよ!!」

本日も平常運転による取材。

○○への取材内容は、大まかに言えば道具についての解説が主である。
香霖堂に住み始めて以降、彼の日課になっている事の一つだ。

「今日はざっとこんな所だな。しかし外の道具なんぞ、ここじゃ使い物にならないだろ。取材になるのか?」

「そうでも無いですよ?例え情報だけでも、河童のような機械を扱う者にはウケが良いんです。」

「ふーん…。」

“…の割には、やたら道具以外の写真も撮ってくんだな。気にするだけ無駄か。”





その日の夜。
普通の生活を送れる程度には回復していたのもあり、○○は霖之助の薦めで酒を呑んでいた。


「霖之助、ここの酒は旨いな。」

「あまり外の酒と比較した事は無いが、幻想郷には神々もいるからね。
彼女たちも酒は好きだから、その力を酒を旨くする事にでも使っているのだろう。」

「神、ね…早苗ちゃんとかも、いずれはそうなるのかね。」

仕事の中に店番も含まれている故、何人かの客とは既に知り合っていた。
元が猫を被るのが得意でない性格なのか、○○は何度か会った客達は名前で呼ぶ癖がある。


ただ一人。
客の中では一番彼と話をしている筈の少女、鴉天狗の射命丸文を除いて。


「しかし射命丸も物好きだな。毎日取材に来るなんぞ、よっぽどネタが無いと見える。」

「人外の者の楽園とは言え、そうそう事件が起きる訳では無いからね。…ところで○○。」

「どうした?」

「ふと思ったのだが…何故君は、文だけを名字で呼ぶ?」


霖之助は、日頃疑問に思っていた事を彼にぶつけた。
数回顔を合わせた者には、良くも悪くも態度が変わらない彼が、文に対してだけは何処か冷たい。
それが引っ掛かっていたのだ。


「前に言ったろ?あいつは、あまりに死んだ知り合いに似すぎてるって。
名前まで同じとは思わなかったからな、やはり自分の中で区別は付けないとダメだと思ったのさ。」

「…本当に、それだけなのか?」


霖之助の眼が、鋭さを増す。
もう一つ、彼の文に対する態度で引っ掛かっていた事の確証。それが彼の中にはあった。


「どういう事だ?」

「君に治療を施した時に、これを見付けてね。蓋が少し曲がっていたから、修理をしておいたよ。」

「それは…!!」


そうして霖之助が取り出したのは、シルバーのペンダント。

○○がその蓋を開けると。
そこにはある女性の写真と、小さな白い破片が一つ。


「悪いとは思ったが、修理に際して中身を見させて貰ったよ。
君が無縁塚で倒れていた時に持っていた荷物の中に、線香が入っていた。
それに服には何枚か、菊の花びらが張り付いていたからね。大方墓参りの帰りと言った所だろう。

…確かに、その女性は文に似すぎているね。
最初に文に会った時の反応といい、“ただの知り合い”というのは嘘なのだろう?」

「……。」


ペンダントを○○に渡し、霖之助はただ黙って彼を見やる。
彼は一度ペンダントを強く握り締めると、掌を見つめたまま、その口を開いた。


「半信半疑だったが、伊達に俺の何倍も生きてない、って事か。…半年前に死んだ、俺の女さ。」

「やはり、そうだったか…。」


霖之助の予想は当たっていた。
『知り合い程度の関係』の者の遺骨と写真をペンダントに入れるなど、普通ではまずあり得ないからだ。


「外には電車って乗り物があるのは知ってるだろ?そいつが事故を起こして、それでな。
尤も、俺が最期に対面した“アヤ”は、ただの肉塊だったが。

知ってるか?人間って、潰れると俺の膝ぐらいまで小さくなるんだよ。

あの日は墓参りの帰りに事故にあって、それで何故かここに来ちまった、って訳さ。
まあ…あの時は、本来ならそのまま首吊って死ぬ予定だったからな。エサとして呼ばれたのかもな。」


○○は、感情の欠けた表情でそう語る。

文に対する冷めた態度。
彼が無縁塚に流れ着いた理由。
何処か、恐怖や死を忘れたかのような表情と言動。

それらの疑問が、霖之助の中で線で繋がっていく。


「君は文と話している時だけは、妙に壁を作っているように見えたのでね。気になっていたのだが…。
…すまない、行き過ぎた事を訊いてしまったようだ。」

「気にするなよ。単に俺が勝手に、あいつに“アヤ”の影を重ねてるだけさ。
あいつにはこの話はしてないし、これからもするつもりも無い。」

「そうか…ただ、一つだけ忠告させて欲しい。」


霖之助は眼鏡の位置を直し、酒を一口煽る。


「彼女は射命丸文と言う一人の少女であり、君が愛した“アヤ”と言う少女ではない。

妖怪と言えど、心と人格を持つ生き物なのだ。
やはり他人の空似を着せられるのは、良い気はしない。

酷な事を言うが、ちゃんと“射命丸文”と言う少女として見てやってくれないか。」

「…ああ、解ってる。」


霖之助はそのまま立ち上がり、襖に手を掛けた。
そして立ち止まり、再びその口を開く。


「ああ、それともう一つ。

友人の死神が言っていたのだが、やはり後追いは、追われる側の霊にとっても苦痛だそうだよ。
“死者の願いを継ぐのも、また生者の務めであり徳”その死神の上司は、そう言っていたそうだ。

明日も早い、そろそろ寝るとするよ。」


そうして、襖を閉じる音が鳴った。
部屋に残されたのは、静寂と酒の香りと。○○の姿だけ。


「……解ってんだよ、そんな事は。」


○○は盃を一気に傾け、そのまま眠りに就いた。








翌日


霖之助は無縁塚へと仕入れに出た為、○○は一人店番をしていた。

普段から閑古鳥が鳴く店ではあるが、この時間帯は特に暇な時刻。
常連すらやって来ない店の中、彼はぼんやりと本を片手に退屈を殺す。


“聞く限りここらでも辺鄙な場所だ、当たり前か。”


そうしてカウンターに置いた湯呑に手を掛けると…。


「こんにちはお二方!!…おや、今日は○○さんだけですか?」


いつも通りの快活な声。
客のいない店内では、その声はいつも以上に良く響いた。

それを聞いて、彼はまたため息を一つ。


「…射命丸、またお前か。霖之助ならいないぞ、今は仕入れに行ってる。」

「おやおや、そうですか。
あ、なら折角ですし、○○さん個人に取材させていただいても良いですかね?
いつもは道具の話ばかりでしたし、簡単な質問だけでも結構ですので。」

「俺の話、ね…。」


いつも以上に不機嫌な表情で文を睨みつつ、彼は暫し思案する。
そして、前日霖之助に言われた言葉が、不意に頭をよぎる。


“妖怪と言えど、心と人格を持つ生き物なのだ。
やはり他人の空似を着せられるのは、良い気はしない。”

“ちゃんと、『射命丸文』と言う少女として見てやってくれないか。”



“…暇を持て余していた所だ。丁度いいか。”


彼は一先ずはそう考えて己を納得させ、文の取材に応える事にした。




「ふむふむ、年の頃は20代半ば、家族は無し、外では機械工をされていた、と。
なるほど、それで道具についてもお詳しいんですね。」

「まあ、そんな所だな。」


“しかし改めてサシで話すと解るが…やっぱり似てやがる。”


改めて文を見詰め、○○はそう感じていた。

見た目だけではない。

話すイントネーションと声時折見せる、悪戯な笑み。
そして、嬉しそうに話をする時の笑顔。

些細な違いはあれど、それらは彼の知る“アヤ”によく似通っていた。


「えーと、ではご趣味は?」

「趣味か…ここに来る前は、写真とかはやってたがな。」

「ほう…写真ですか。」


文はそれを聞き、実に興味深げな顔を浮かべる。
それはよほど意外だったからなのか、それとも記者としての単純な興味からなのか。


「尤も、それも外にいた頃の話だ。
店の在庫に使えるカメラはあるが、ここじゃお前らの所でしか現像出来ないからダメだな。」

「そうでもありませんよ?」

「どういう事だ?」

「私の所で現像すれば良いんです。いつも取材させていただいている訳ですし、これはお礼と言う事で如何でしょうか?」


文の瞳は、真っ直ぐに○○を見詰める。
その瞳から彼女の意図を読んだ○○は、溜め息を一つつき、返答を返した。


「…はぁ。つまりはそれをギャラにするから、これからも取材させろって事だろ?つくづく見上げたブン屋根性だよ、お前は。」

「ご名答。交渉成立ですね、これからも宜しくお願い致します!!」

「…はいはい。」


文は得意気な笑みを浮かべ。
その顔を見た○○は俯き、また深く溜め息をついた。

その顔は、少し穏やかになってはいるが。


「おや、それは何ですか?昨日までは着けていなかったはずですが…」


そうして俯いた○○の胸元からは、キラリと光る何か。
それは、昨日霖之助から渡された、“アヤ”の写真と遺骨が入ったペンダントの光。


「あややややや!!これは何やらスクープの匂いがします!
ちょっと○○さん、そのペンダントを見せていただけますか!?」

「ま、待て!!まだ脇腹は…おおおおおおおお!?」


ブン屋としての本能が働いたのか、彼女は脇目も振らず○○の胸元に飛び込む。
いきなり胸元に飛び込んできた衝撃に、さすがの彼も慌てふためいた。

そしてドスンという音と、激しく舞う埃。

バランスを崩し、彼らは床に転んだ。
横凪ぎに倒れたらしく、何回転かしてしまったようだ。


「痛っ…!!このバカ、まだアバラが治りきってねえんだよ…。

………!!」


うつ伏せのまま身体を起こした彼の視界に入ったのは、仰向けでこちらを見上げる文の姿。

偶然の悪戯か、○○が文を押し倒すような体制になっていた。
彼女のトレードマークである頭巾は、衝撃で外れてしまっている。

その文の姿を目にし、彼は大きく目を見開いた。

それは、かつての彼の記憶と同じような光景。
そうして記憶の中の“彼女”がフラッシュバックし、眼前の文へと重なる。



「……………“アヤ”。」

「へ?」



無意識に、彼の口からこぼれた名前。

それは文と同じ読みの名であり。
しかし目の前の少女とは、瓜二つの別人の名。



「○○、さん…?」



真っ直ぐに文を見詰める○○の髪が、彼女の頬を伝う。

唇が触れそうな、数センチの距離。
いとおしそうに文を見詰め、しかし何処か違うものを見ている彼の顔が彼女に近付き始めた時。


「すまないな、今戻ったよ。」


そこには扉を開く音と、家主の声。漸く自らの店へと帰ってきたようだ。


「……?
…あれ、何だこの体制?ああ、ちょっとコケてトんでたみたいだな。すまないな、射命丸。大丈夫か?」

「…あ。
いえいえ、こちらこそ!!アバラがまだ治られていないのに、ついはしゃいでしまって…すみませんでした。で、ではまた明日!!」


しゅたっと手を上げると、文は開いたままの扉から一瞬で消えてしまった。
その頬が赤く染まっていたのには、○○だけは気付かぬまま。


「相変わらず速いな…あんなのが毎日来れば、さすがに人外の連中にも慣れる。」

「…君が今抱えるべき感情は、そういう事では無いだろう?
大方文が無茶を言って揉み合いになったのだろうが、あの体制は彼女の誤解を招くぞ。」

「端から見ればの話だろ?コケた直後はよく覚えてないが、それは考え過ぎだ。」

「全く…つくづく朴念仁だな、君は。」

「…何だろな、今無性に“お前が言うな”って殴りたくなったよ。」









「さて、今日の分の現像も終わり、っと。
次に使うの以外は、資料用の方に仕舞わなきゃ。」

現像作業を終え、自室で一息を付く。
それからアルバムを開き、文はいつものようにそれらを纏め始める。

しかし写真を分別している最中、不意に彼女の手が止まった。

“あ、また○○さんの写真。
…何でだろ、何となく撮っちゃうんだよなぁ。毎日取材してるのに。”

そして彼女の脳裏をよぎるのは、昼間の出来事。


“…いやいや、アレは事故だから!!
あ、あんな風に押し倒されたの何百年かぶりだからドキドキしただけだし!!”

赤面しながらぶんぶんと頭を振り、羞恥心を否定する。
己に言い聞かせるように、何度も心の中で反芻しながら。

“でも、初めて「文」って呼んでくれたな…いつもは冷たいし。
あの時の顔、ちょっとカッコよかったかも。
…ダメね、今日は疲れてるわ。早く終わらせて寝よう。”

そう考え、文は作業のスピードを速めた。

いつも通りに分別したつもりが、一つのページにばかり○○の写真が集まっている。

そんな些細な。
しかし確実な偏りには、欠片も気付く事は無く。








数日後



「久々に手に取ったな。
しかしとんでもないのが入って来るんだな、ここは。霖之助、本当に借りても大丈夫なのか?」


そう問いかける○○の手には。
外の世界では名器と呼ばれプレミアも付いている、旧式のカメラが一台。


「構わないよ。
そのカメラは元々非売品にしていたし、店の道具がどんな写真を取るのか興味もあったしね。」

「…さんきゅな。何だかんだ、お前と射命丸には世話になりっぱなしだ。」

「気にする事は無い。
僕も文も、君の見聞や外での知識と言う対価を貰っているからね。持ちつ持たれつさ。」

「こんにちはお二方!!おや、それが例のお店のカメラですか?」


そこにいつものカウベルの音。
店に入って来た文は、早速彼の持つカメラを見付けたようだ。


「ああ、射命丸か。怪我も良い感じになったし、リハビリがてら、そろそろ撮ってみようかとな。」

「ふふ、楽しみですねー。
写真は撮り手の心をも写すと言いますし、どんな写真が撮れるんでしょうね?」

「よく解ってるな。
場面に対して抱く撮り手の感情とが混じり合って、写真にしか出せない瞬間って奴になるのさ。」


珍しく、文に対して彼は皮肉で無い笑みを浮かべる。

“…今はどう撮れるかは、あまり考えたくはないがな。
まあ、うだうだ考えてもしょうがない。さて、まずは何を撮るか。”


「あ、○○さん。なら早速撮りに行ってみませんか?
お店の周りにしか出ていなかった訳ですし、ボディガードは妖怪である私にお任せを!!」

「…それもそうだな。じゃあ、頼むとするか。」


丁度○○が思案している時に、文に外出を促された。
快活に笑う文の顔を見て、彼もとりあえずは外出する事に決めたようだ。


「おや、早速撮りに行くのかい?
ならばついでに人里へ届けものをして欲しいんだ。ただ渡すだけだし、帰りで構わないよ。
文。すまないが、その時は○○の案内を頼みたい。」

「畏まりました。じゃ、早速行きましょうか!!」

「おい、手を掴むな…!!」


そうして二人は、脱兎の如く店を出ていった。





「はー…お前、速いだけじゃないんだな。」


文が○○を支える形で、二人は空を飛ぶ。
生身での飛行は初めての体験であり、彼はその空気に感嘆の念を抱いていた。


「妖怪の力なら、このぐらいお安い御用です!!なんなら岩も運べますよ?」

「なるほど、怪力乙女って奴か。」

「ほう…絶景ポイントの滝に落としてあげましょうか?」

「冗談だよ…。」


軽口を叩き合いつつ、二人は空を飛び続ける。

最初は文にだけは壁を作っていた○○だったが、最近はそれも薄れつつあった。

ただ一つ、未だに彼女を苗字で呼ぶ事。
それだけは変わらないまま。


「すごいな…ちょっと飛んだだけでこんな所があるのか。」


その風景を見て、彼は感嘆の声を漏らす。

二人が着地したのは、とある丘。
そこからは美しい幻想郷の風景が見え、背後には豊かな森もある。


「ここは穴場なんですよ。何か特別な力がある場所じゃない分、人も妖怪も、あまり寄り付かないので。」

「住めば都とは言うが、同時に気付きにくくもなるからな。勿体ない話だ。
遠くや何かある場所ばかり綺麗に見えるのは、人も妖怪も一緒なのかね…。」


呆れと皮肉を含んだ声。
それは、“アヤ”の幻影を彼女に向けている自分に向けた言葉でもあるのだろう。


「そうかもしれませんね。
でも、それはそれで良いものですよ?ほら、自分だけの秘密の場所って感じで。
新聞で煮詰まったりした時は、いつもここに来るんです。」

「よく解ってるな。
そういう秘密の場所の、その瞬間だけの美しさや感情を切り取るのも、また写真の醍醐味なのさ。
…外にいた頃は、そんな場所を幾つか作ってたな。」

“あいつをそこに連れてくのも、また楽しみだったがな…。”

自らの言葉にまた“アヤ”との記憶を思い出し、彼は何処か遠い表情を浮かべる。




「…作ればいいじゃないですか、ここにも。」




そうして思い出の中に沈んでいると、隣から文の声が響く。
それは、何処か寂しさと優しさを含んだ声色で。


「…何をだ?」

「○○さんの秘密の場所を、ですよ。
外の世界には戻らないのでしょう?ここで生きていくのなら、また作れば良いんです。そういう場所を。

あ、でも現像のお代は取材ですよ?
ここは今日から、あなたと私の秘密の場所です。内緒ですからね?」


そう言って文はいつもの悪戯な笑みを浮かべ、人差し指を口元に当てた。

「…そうかもな。」

それを聞いた○○は、微笑みを浮かべた。
それは日頃の何処か自嘲混じりの笑みとは違う、“アヤ”といた頃の彼に近い、柔和な微笑み。

すると。

“カシャリ。”

とシャッターを切る音が一つ。


「ふふ、初めてそんな風に笑いましたね?」


見ればカメラを構える文の姿。
どうやら珍しい表情を、しっかり撮られてしまったようだ。


「あ、このヤロ!!ま、待て、誰にも見せるなよ!?」

「ふふふ、どうしましょうかねえ?
元が悪人面なんですから、そんなしかめっ面しないで下さいよ。おお、こわいこわい。」

「お前な…」

珍しく照れで真っ赤になる彼を見て、からからと明るく笑う文。
するとまた一つ、カシャリとシャッター音が鳴る。

「だったらお返しだ。美少女写真は高く売れるもんだぜ?」

今度は○○もカメラを構え、仕返しとばかりに文を撮ったようだ。


「び、美少女って!?ちょっと!肖像権の侵害ですよ!?」

「マスコミ様が何を言う、これでおあいこだろうが。
記念すべき俺の幻想郷での一枚目なんだから、誇っていいぞ?」

「もう、怒りますよ…」


“わ…この人こんな風に笑うんだ。”


文は彼の笑顔を見て、思わず抗議の声を止めた。

○○はこの時、幻想郷に来てから初めて、心から笑った。
それは普段の彼からは想像も付かない、屈託の無い少年のような笑顔だった。




その後風景写真を録り、気付けば夕刻間近。

「さて、フィルムはまだあるが、そろそろ人里に行かないとな。」

「そうですね。ちゃんと届けないと、店主さんに怒られちゃいますし。」

二人は人里へと移動し始めた。
向かうは里にある寺子屋だ。

「あ、天狗のお姉ちゃんだ!!ひさしぶりー。」

「久しぶりね、元気にしてた?
そうそう、先生を呼んで来てくれるかな?」

「何で懐かれてるのかと思ったが、まさかあんなガキ共にも取材した事があるとはな。」

「子供は大人が気付かない事に気付きますからね、そこを押さえるのもブン屋のキモです。
あ、この寺子屋の先生なのですが、半人半獣にして、人里の守護者でもあります。一度ご挨拶しておいて損は無いかと。」

「半人半獣ねぇ…本当何でもござれだな。お、あの人か。」

そうして寺子屋から出てきたのは、青いワンピースを着た女性。

「待たせたな、香霖堂からの使いと聞いたが。
ああ、あなたが奴の言っていた外来人の方か。初めまして、上白沢慧音と言う。」

「初めまして、○○と言います。届け物はこれですね?」

「ああ、これで間違いない。
おや、珍しいな?写真機を持っているのか。」

「これは霖之助に借りた物です。
現像はそこのカラスにやってもらう予定ですけど。」

「カラスじゃないです、鴉天狗ですよ…。」

「ははっ、奴の言っていた通り、本当に変わった奴だな。
射命丸が相手とはいえ、妖怪にも遠慮が無い。
そうだ、折角なら寺子屋の写真を撮ってくれないか?良い記念になりそうだ。」

「あいつに変人扱いとか、あの野郎…。
解りました、じゃあ撮らせていただきますね。」

撮影を承諾した○○は、早速カメラを構えた。



「じゃ、最後に一枚。撮るぞー、笑って笑って。」


集合写真を一枚撮り、撮影を終える。


「ありがとう、良い記念になるよ。」

「いえいえ、こちらも楽しめたので。仕上がりをお楽しみに。」


そう言って、彼は慧音に笑顔を向けた。

普段は無愛想な彼が、珍しく愛想が良い。
久々に様々な写真を撮れた事が、余程楽しかったのであろう。


“ふふ、昼間の時といい、あんな顔も出来るのね。”


そんな彼の姿を見て、文は微笑む。

その視線の先の彼は相変わらず、慧音と談笑している。実に楽しそうに。




“ズキ…”




すると彼女の胸に、一瞬鋭い痛み。



“……でも、やっぱりあの顔は簡単に振り撒いて欲しくないかな。”


「あ、○○さん。そろそろ戻らないとですよ?」

「そうだな。
じゃあ慧音さん、写真はまた仕上がったらお届けします…って射命丸、襟を掴むな!!し、絞まる…」

「もう、早く行かないと夜になっちゃいますよ?
それでは皆さん、またお届けに参ります。」

半ば強引に○○の首根っこを引っ張る形で、文は夕焼けの中を帰って行った。














“……………。”


普段は眠っている時間。
○○は横になり、呆然と部屋の暗闇を見詰める。


“…やっぱり、重なるな。
あの時のあいつは瓜二つかと思うぐらい、アヤと一緒だった。”


思い出すのは、昼間最初にレンズに収めた、文の笑顔。

気付けば暗闇に目も慣れ、月明かりが部屋の中を薄く照らす。
彼は身体を起こし、首に掛けたペンダントを取り出す。

蓋を開け、小さな破片を取り出せば。
そこには花の様に笑う、“アヤ”の写真が一つ。


“…この写真も、俺が撮ったんだっけか。”


ふと、その事を思い出す。
ペンダントに収められた写真は、彼女を初めて彼の秘密の場所へ連れて行った日に撮ったもの。

彼は白い欠片をペンダントに戻し、また蓋を閉じる。


“……………。”


一度ペンダントを強く握り締めると、布団を被り、目を閉じた。

彼の目に写るのは、今この世界にいる“文”なのか。
それとも、その向こうに重ねた“アヤ”なのか。

それは彼自身にも、解らないままに。







「よし、出来た。」


現像を終え、文は○○の撮った写真と、自分の撮った分とを分ける。


“どんなもんかと思ってたけど、あの人、相当な腕前ね。少なくとも、天狗の中ではこんな腕の者はいないわ。
外では機械工をしてたって言ってたけど、写真家になろうとは思わなかったのかしら?
あ、これは…”


その手には、一枚の写真。
それは彼女が撮った、○○の写真である。


“ふふ、こんな風に笑えるんだから、普段からそうすればいいのにね。
元が人相悪いんだし、冷めた男はカッコ悪いわよ?”


それを目の前の壁に張り、彼女は微笑を浮かべ、また仕分けの作業に手を戻す。

そうして手に取った最後の一枚。
それは彼が幻想郷に来て、一枚目に撮った写真。


“これ、本当に私?すごい…”


そこに写っていたのは、丘からの雄大な世界を背景に、太陽の反射に照らされた文の笑顔。
それは、その瞬間に彼が感じた物全てが混ざり合った、一枚の絵画の様な美しい写真。


“本当に凄腕ね…。でもなんだろ、何処か寂しさもある。何処か遠く、本当に手が届かない場所を見てるような。
…考えすぎね、きっと。”


纏めた写真の一番最初にそれを重ね、文はそれらを封筒に仕舞う。


“○○さん、私はきっと、あなたの事を…大切にしてくださいね、その写真。”


少しずつ自覚し始めた感情を胸に仕舞い、彼女は封筒を綴じた。










「出来ましたよ、○○さん。」


○○が文から手渡されたのは、二つの封筒。
片方は、寺子屋での写真の封筒だ。

「ありがとな。
早速開けたい所だが…その前に、寺子屋に行かないとな。見てたら日が暮れる。」

「え、私の写真に見とれちゃうとかですか?」

「そんな訳はない。」


にししといやらしい笑みで茶化す文。
しかし躊躇いも無く、彼はバッサリと切り捨ててしまう。


“ちぇ、少しくらい慌ててくれてもいいのに。あ…。”


内心いじけた感情を抱えた彼女の前に、無言で差し出された手が一つ。


“え!?いや、この人から手なんてまさか……”


何やら思考が先走ってしまったらしく、一瞬挙動不審になってしまう始末。
しかし…


「何ボケっとしてるんだ?一応お前も届けに行かないと失礼になる。
近くまで飛んで行った方が早いからな、頼むぞ。」


この男に、そんな気遣いは微塵も無いのであった。



「………○○、さん?」

「何だ?そんなニコニコして。」

「…空気読めやこのヒゲエエエエエエエエエエエエっ!!!!!!!!!」



その瞬間、


ゴツン。


と、実に軽快な鉄拳の音が香霖堂に響いた。





「痛てえな…俺が何したんだよ。」

里の近くに降り立った彼ら。
○○は未だに頬をさすっている。

「いえいえ、虫が止まっていたもので。それに手加減しましたよ?」

「妖怪基準の手加減は、人間にとっての達人の一撃な。覚えとけ。
…ん?やけにハエが多いな。」

「そうですね…うっ!?」


視線の先に彼らが見付けた物は、“人間だったもの”の肉塊。
それは妖怪に襲われたものらしく、もはやある程度の部分だけしか原形を留めていない。


「また派手に死んでるな。」

「1000年生きてますけど、何度見ても慣れないですね…。」

「…お前も妖怪だろ?てっきり見慣れてるもんだと思ってたんだが。」


不快感を露にする文とは対照的に。
同族の肉片に対して、○○は眉一つすら動かさない。


「天狗の大半は、人の畏怖の念で喰ってる節もありますから…やはり腐った生き物は、あまりいい気はしないですよ。」

「成る程ね…まあ、ここに置いておくのもアレだな。とりあえず供養はするか。」


そうして彼は手頃な穴を掘り、そのまま死体を放り込んで埋めてしまった。
その時の表情は、まるでゴミを処理するかの様に無表情なままで。









「宴会だと?」


数日後、ある日の香霖堂。
いきなり文から飛んできた提案に、怪訝な顔をする○○。


「ええ、今夜博麗神社でやるそうですよ。
幻想郷で生きて行くのなら、お店以外での親交を深めるのも良いかと思いますが。」

「だがなぁ…。」


しかし相変わらず浮かない顔の○○。
元々基本がクールな性格である彼は、あまりそう言った席は得意ではないのだ。


「行ってくると良い、幸い今日は君の仕事も終わりだ。
まだ君が知らない客もいる筈だし、一度幻想郷の宴会の恐ろしさを知れば、後々の対策にはなると思うぞ?」

「げ、お前もか…仕方ないな。」


頼みの綱の店主にも裏切られてしまい、彼は渋々宴会に参加する運びとなった。





博麗神社



「…ひどいな、これは。」

「あはは…ま、まあいつもの事です。」


まだ呑み始めて間もないと言うのに、既にそこは人妖入り乱れた乱痴気騒ぎの体を露わにしていた。

○○の引きっぷりにさすがに悪いと感じたのか、文は申し訳なさそうな顔を浮かべる。
ある意味当然の反応と言えなくも無いのだが。


「弾幕は初めて見たが、あれはこんな所でぶっ放して良いモノじゃないだろ…。
あの鬼の嬢ちゃんとか、とっくに巨大化してるし。」

「あの方々は、いつも暴れちゃいますからね…でも、不思議ですね。」

「何がだ?」

「あなたは私達のどんな力を見ても、恐怖を抱く気配が無い。

ほら、この前妖怪に食べられた死体を見付けたじゃないですか?
だけどあなたは眉一つ動かさなかったし、付き合いのある妖怪への態度も変わらなかった。

…怖く、ないんですか?」

「………。」


○○は一度遠くを見詰め、酒を一口煽る。


「…まあ、人死にには耐性が付いてる、って所か。
昔、あんな死体がゴロゴロしてる現場を見てな、そこから死に対しては麻痺してる。

一度心が限界を超えると、人間は耐性が出来ちまう生き物でな。
知ってる奴の肉塊なんか見た日には、赤の他人が死んでも何も感じられなくなるのさ。

“死に対する恐怖や、生への執着”って奴か?いつの間にか、俺はそいつを持てなくなってな。
そこから、起きてる間は恐怖を殆ど抱けなくなった。生存本能の欠如、って奴なのかもな。」

「あ……す、すいません!!あまり思い出したくない事を訊いてしまったようで…。」

「気にするな。それに、人を喰わない奴や、喰う相手を選ぶ奴がいるのぐらいは解ってる。ここじゃそういうルールがあるんだろ?
…尤も、喰われても後悔は無いかもな。例えこの先俺が喰われても、それが運命って所だろ。」

そう言って彼は自嘲混じりの笑みを浮かべ、また盃を傾ける。
酒のせいもあるのだろう、彼は珍しく本音を文に話していた。


「…そんな事、言わないで下さいよ。」


「ん?」


「せっかく生き延びたんじゃないですか!!
これからも、あなたの写真を現像させて下さいよ…いっぱい秘密の場所を作って、そこの写真を見せて下さいよ…」

震える声が、彼の耳に届く。
それは珍しく激情に駆られた文の声。

彼女は気付けば涙目で、感情のままに彼に迫っていた。


「………。」


彼は考え込んだような顔を浮かべ、無言で文を見詰める。


「…え?」

そっと文の頬に触れる手が一つ。
それは、彼女の涙を拭う指の感触。

「早速呑み過ぎだよ、バカ。
泣き上戸は面倒だからな、呑みの席じゃ嫌われるぞ?

…悪かったな、ちょっと昔の事を考えて、卑屈になってた。」

「い、いえ、こちらこそすいません…。」



「おー、早速痴話喧嘩か?」




そこに割って入って来たのは、良い具合に出来上がった鬼の萃香である。

「見せ付けてくれちゃってー、こっちに来て早速女に手を出すとは、あんたなかなかの“ぷれいぼーい”って奴かい?」

「巨大化は飽きたのか、嬢ちゃん?いや、俺の何十倍も生きてるらしいから、泥酔婆さんか?」

「なにをー!!この若造め!!」

「「「あははははははは!!!」」」

そんなやり取りを聞き付けたのか、気付けば彼の周りにはちょっとしたギャラリーが出来上がっている。
喧騒の中、彼の意識はすっかりそちらの方に取られてしまっていた。


「…もう。あ、○○さん。私はちょっとあっちの方に行きますので。」

それを見た文は何処か不機嫌そうな顔を浮かべ、別の面子の元へ向かって行った。
つかつかと、足音にも機嫌の悪さが浮かんでいる。

「今度は怒り上戸かね。やれやれ、面倒な奴だ。」

「あんたそれは本気で言ってるのかい?文も苦労しそうだねえ…」

相変わらずな態度の○○を見て、萃香は呆れ顔を浮かべる。
彼のわざとらしい程の朴念仁ぶりには、誰もが呆れを感じるのであろう。

「しかしこうして見ると、あんた年の割に相当地獄見てるね。目を見れば解るよ。」

まじまじと彼の目を覗き込み、萃香はそんな感想を漏らす。

「そんなモンか?」

「これでも文より長く生きてるし、鬼に嘘は通じないよ?
…やれやれ、文も大変だねえ。
どれだけ影を重ねても、代わりになりやしないってのに。」

「……!!!!」


萃香のその一言に、彼は思わず目を見開く。
わざとらしいぐらい鈍感な態度に隠した感情を、一瞬で見抜かれてしまった事に驚愕を覚えていた。。


「あんたも薄々解ってるだろ?
あんたの目は、過去と今の間で揺れてる目だ。

今あんたはここにいて、目の前にいるのは文だよ?ちゃんと見てあげなよ。」

「…ああ。」


“…やれやれ、本当に泥酔ばあちゃんだな。話してもいないってのに。”


呆れ顔を浮かべ、彼は何杯目かの酒を流し込んだ。









宴も酣となり、酔い潰れた者達が神社の中で雑魚寝をしている。
その中で、むくりと起き上がる影が一つ。


“皆、寝たみたいね…”


起き上がったのは、文である。

そっと彼女が近付いた先には、静かに寝息を立てる○○の姿。
文は○○の胸元に手を伸ばし、彼が肌身離さず身に付けているペンダントを外す。


“最初から、この人は何かを私に重ねてた気がする。

この前の事と言い、さっきの物言いと言い…きっと、この人の過去には何かある。
そのヒントが多分、誰にも触らせないこのペンダントに。

…○○さん、ごめんなさい。”


意を決し、ペンダントの蓋を開ける。

ころり、と中から何かが落ちた感蝕。
しかしそれ以上に、彼女はそこに収められたものに目を奪われた。


“これは…私?”


そこには彼女と瓜二つの、かつて彼が愛した少女の写真。


“いや、これはこの前の写真じゃない。じゃあ、誰なの?
あ、さっきペンダントから何か落ちたような…”


そう思い膝の傍を探ると、すぐにそれは見付かった。


“この白いのって…骨!?なんでこんなものがペンダントに…”


その瞬間。
出会ってから聞いた彼の言葉が、彼女の中でフラッシュバックする。



“昔、あんな死体がゴロゴロしてる現場を見てな、そこから死に対しては麻痺しちまってる。”

“一度心が限界を超えると、人間は耐性が出来てしまう生き物でな。
知ってる奴の肉塊なんか見た日には、赤の他人が死んでも何も感じられなくなるのさ。”




“…死んだ知り合いに、そいつにそっくりな奴がいたんだよ。名前まで一緒とは、世の中不思議なモンだな。”




何より彼女の中で強く蘇るのは、最初に自分と出会った時の、彼の反応。






“アヤ!!アヤなのか!?生きているのか!?”





そしてペンダントに収められていたのは。
自分にそっくりな少女の写真と、ひとかけらの骨。

それらの点と線が繋がり、彼女に残酷な事実を突き付ける。


“そ、そんな…それじゃ、死んだ知り合いに似てるって…。
本当は、死んだのは知り合いなんかじゃなくて…彼の…。”



文は、気付いてしまった。

彼の過去にも。
そして、自分が“誰に似ているのか”にも。

彼の心が。
自分ではなく、出会った日からずっと、その向こうの過去を見ていた事にも。



「はは…ははは…」


力無くへたり込み、彼女は。
その瞳から、生気は消え失せていた。


“自分は彼のトラウマの生き写しであり、彼もまた、自分に過去の記憶を見ている。”

“その壁を超えない限り、想いが届く事は無い。”


彼に抱く感情を自覚したばかりの文にとっては。
それは、余りにも残酷な壁。


彼女の膝の前には、眠る彼の姿。
過去の悪夢に魘されているのか、その顔は、苦痛を湛えている。

文は手を伸ばし、彼の髪を優しく撫でた。
赤子をあやすように、優しく、何度となく。


“…きっと、つらかったですよね?
悲しかったですよね?

本当は、私といるのも苦痛なのかもしれない。


だけど、今あなたは生きてここにいて。
そしてここにいるのも、その写真とは違う『文』なんです。

その人は、もう亡くなっているんですよ?
私はここにいて、今もあなたに触れているのに。

そこから、助けてあげます。
私が、あなたを。


…だから、私を見て下さい。

お願いだから。
今ここに生きている、私だけを。

私だけを見て。
わたしだけを、あいしてください…○○、さん…”



彼の手を強く握り締め、文はただその顔をしかめ、涙を流す。


しかし。
彼の苦痛に歪む顔は、決して緩む事は無かった。

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最終更新:2013年06月21日 13:04