雨。


悲鳴。


サイレン。


立入禁止の、黄色いテープ。



雨と一緒に、赤いものが流れてる。

ひしゃげた鉄のかたまりに、赤いペンキがぶちまけられてる。




赤、あか、アカ。


知らない人が叫んでる。
知らない人の名前を、ずっと。


おとうさんって。
おかあさんって。
隣で子供が叫んでる。



青いシートが、また一つ。


さっきとおなじ、肉のかたまり。


きれいに残った腕が突き出た、肉のかたまり。



「たすけて…○○…」

「アヤ…?」


あれ?アヤの声だ。

おかしい。





だってアヤは、あのなかにいる。





ああ、あの肉のかたまり。



俺の膝ぐらいの、肉のかたまり。



一つだけきれいに残った腕がしてるのは、あのこの誕生日に贈った。











__________指輪。











「ああぁあああああああああああああああああ!!!!!!!!!!」






仰向けのまま、彼は自らの悲鳴で目を覚ました。

意識がある際は、今はまず起こり得ない拍動。
それが睡眠からの覚醒と、悪夢を見ていた事を告げる。


“…夜明け前か。
そう言えば、神社で呑んでたっけか。
誰も起きてないな、深酒な連中で助かった。”


悲鳴で誰も目を覚まさなかった事に安堵し、彼は一つ、息を吐いた。

冷静さを取り戻せば、腕に何かがつかまっている感触。
そこには彼の腕に掴まって眠る、文の姿があった。


“ったく…寝る時に掴まるモノ探すなんて、こいつも一応は女の子って所か?”

「よっ、と。」

「ん…」


腕を抜き、床から上半身を起こす。
夜明け前の薄闇の中、伸びを一つ。


“他の連中に誤解されても、こいつが迷惑だろうしな。
…しかしまあ、隣であれだけ叫んだのに、よく寝てやがる。”


膝のすぐ傍には、相変わらずすやすやと寝息を立てる文の姿。
起こさぬように優しく、そっと彼女の黒い髪を撫でる。


「…“アヤ”。」


その寝顔を見れば、彼の胸にはいとおしさが込み上げる。

しかし、それは“アヤ”と瓜二つな目の前の少女に、その影を重ねているだけに過ぎない。
それは彼自身、充分に自覚していた。


「…ごめんな、射命丸。俺は随分と、勝手な奴だ。」


眠る彼女には聞こえるはずも無い言葉を、独り言のように呟く。

気付けば完全に夜も明け、早朝の日差しが境内を照らす。

それを見た彼は、最後にまた一つ彼女の髪を撫で。
そして独り、神社を出ていくのだった。



彼が去った後。
文がはっきりと、その双瞼を見開いていた事には気付かずに。






「…そうやって、ずっとその人に囚われて。
また、私の“文”を呼んではくれないんですね…。」




文は横になったままで。
ただ、彼女の口許だけが、貼りついたような笑みを形作っていた。











「帰ったぞ、霖之助…。」

「おお、なかなか酷い隈だな。」


香霖堂に戻った○○は、意気消沈と言った様子だった。
目覚めた時はすっきりしていたが、道中で寝不足と深酒のダメージが来たらしい。


「あいつら半端ないのな…やはり酒は静かに呑むモンだ、お前の気持ちがよく解ったよ…。
まあ、それでも気合いで撮影はしたがな。」


一応カメラを持って行っていた彼は、宴会の様子を撮影していた。
それが尚深酒をさせられる要因になるとは、予想だにしていなかったようだが。


「彼女達の恐ろしさが解っただろう?その辛さは僕もよく解る、今日は休んだ方が良い。
もし文が来たら、現像は僕の方から頼んでおくよ。」

「解った…恩にきる…」


霖之助に促され、○○は寝床にしている居間へと引っ込んで行った。





「ん…。」


もう慣れた部屋の匂いの中、意識が戻る。
時刻は昼過ぎだろうか。

“…夢も見ないとは、あいつら呑ませ過ぎだ。”

「………。」

「…何をしてる?射命丸。」


瞼を開けた先には。
微笑みながら、無言で彼を覗き込む文がいた。


「いえいえ、あれしきの酒で二日酔いになる惰弱な方の取材をしていた所でして。
さ、どうぞどうぞ。また寝込んで下さい。」

「笑顔でさらっと酷な事を言う…。
流石に今日は取材拒否だ、明日の仕事に障るんだよ。」


口では反抗しつつも、やはり身体のだるさが勝ち。
彼は布団を被ったまま、そっぽを向く。

すると一瞬背中側にひんやりとした風が入り、そして何かが密着した感触。



「…なんで布団に潜り込むんだ?」

「いえいえ、ちょっと今日は肌寒いかなー、と思いまして。
あ、それとも興奮しちゃいましたか?きゃー、あやや、食べられちゃう。」

「生憎と私めは1000歳に手を出す熟女趣味はございませんので、早々にお引き取りやがり下さいませ。
…全く、何しに来たんだ?」

「店主さんからまた寝てるって聞いたから、様子を見に来ただけですよ?
カメラもこの部屋に持ってったままですし、フィルムを預かるついでに、という事で。」

「ああ…あいつに預けるのを忘れてたな。
すまんが取材は明日倍で受けるから、勝手に持って行ってくれ。」


“だからってここに上げるとか、あの野郎…。”


内心霖之助に恨み事を吐きつつ、追い返す気力も無いので放置する事にした。
しかし、そんな彼の体調を無視するように、文は布団から出て行く様子が無い。


「…大体、いつまで入ってる気だよ?
俺も霖之助も、冷やかしには優しくないぞ?」




「………冷やかしじゃ、ないですよ。」



“え…?”

思わず背中を翻そうとした矢先、後ろから彼に絡み付く腕が二つ。






「ねえ、○○さん…私は、“誰”でしょうか?」






彼の耳元で、文がそっと囁く。


冷たい。

その声色から彼が感じ取ったのは、そんな印象。


「誰って…お前は射命丸だろ?」


振り向いてはいけない。
何故かそんな予感に駆られながら、至極当たり前な言葉を返す。





「“文”、ですよ…私の名前は。」

「……!!」

「私だけいつも名字で…結構寂しいんですよ?それ。
今度からは、私も名前で呼んで下さいね?」

「…ああ、すまない。」



するりと背中から彼女が離れた感蝕と、襖が閉まる音。
どうやら帰ったようだ。


“…まさか、な。
何も話しちゃいないんだから。”



「“文”、ね…。」


彼はそう独りごちると、ペンダントをぎゅっと握り締めた。







「さて、これで全部ね。」

文の手元には、現像したての昨日の宴会の写真。


その中には、隣同士に並ぶ二人が写った写真が一枚。
囃し立てた者達が、彼のカメラを奪って撮影したものだ。

それには、○○は何処となく困り顔を浮かべ、対照的に文は楽しそうに笑いながら写っている。


“…この時も、きっと戸惑ってたんだよね。
私じゃなくて、私の向こうにいる、違う人を重ねてしまって。

ずっと、初めて会った日からずっと。
そうだったんだろうな…。”


目の前の壁に貼られた、彼の微笑みが写った写真。
その隣に、二人で写ったその写真を貼る。


“どうすればあなたは、私を『わたし』として見てくれますか?”


棚から一冊、資料用のアルバムを取り出す。
表紙に書かれているのは、彼が幻想郷にやって来てからの日付。



“…それでも私は、あなたを見ているんです。
どれだけ、違う女の影を着せられても。


他でも無い。
誰でも無い。


あなた自身を。”



気付けば何十枚と溜まっていた、彼の写真を取り出す。





ぷつり。



ぷつり。




ぷつり。
ぷつり。
ぷつり。
ぷつり。





”何か薄いものを刺す音”が、無機質に彼女の部屋に響く。
それは何十回か響き、ようやく止まる。



“ほら。いつだって、私はあなたを見ているんです。

だから。
あなたも他人の空似じゃなく、わたし自身を見て下さいね?”





仕上がったものの出来を見て、彼女は満面の笑みを浮かべた。

その笑みは。
何処か能面の様な、無機質な笑みだった事を。






誰も、知る由は無かった。












「数日泊まり込みで妖怪の山に来い、ねぇ…この前といい、また急だな?」

唐突な提案に生来の鋭い目付きを更に鋭くし、○○はジトリと文を睨む。


「ええ。○○さんの撮る写真を仲間内に見せたら、随分と評判になりまして。
それで大天狗様の方から、特例で一度山内の撮影を依頼してみたいと。」


“まあ、本当はそそのかして無理矢理許可取ったんだけどね。”

そんな彼女の意図は露知らず、彼は思案を浮かべ、口を開いた。


「…やなこった。
妖怪の山は、要は天狗の住処なんだろ?
お前みたいなザルでウワバミなのが何人もいるなら、どんな目に遭うか解らん。」


しかし返ってきたのは、拒絶の言葉。
この前の宴会が相当効いていたらしく、天狗の住処は彼にとっては危険地帯と認識されたようだ。


「そんな無理矢理呑ませたりしませんよ?
清く正しい私の目に賭けて、嘘はついていません!!」

「嘘は無くとも、誘導して呑ませようって魂胆なら見え見えだがな。
無駄に目えキラキラさせると、逆に怪しい。」

「ぐぬぬ…」


取り付く島も無く、彼は片手に持った本に視線を戻す。


“この態度と言い、最近ダメな所ばっかり店主さんに似てきたわね…


ん?店主さん?


…よし。”



「あー、そうそう、最近ちょっとある疑惑を私は持っていまして。」

「疑惑?」


怪訝な顔を更に深め、○○は問い返す。
それを見た文は実にいやらしい笑みを浮かべ、彼にそっと耳打ちをした。


「ええ、ちょっとある方に男色疑惑を抱いていまして。

その方は健やかな年頃の20代男子なのですが、彼はある店の店主である男性と一つ屋根の下で同居していまして。
普通に考えれば、そのような状況では、欲求不満に至るのは当然の事かと思います。

にも関わらず、彼は何一つ女性に対して浮いた話も無ければ、客をそう言った目で見ている様子も無い。


…あれ?
もしかしてその男性、やっぱり“そっちの方”でした?
これはすごいスクープを見付けちゃったかもしれませんねえ…?」

「おい待て。お前まさか、来なきゃそのガセネタ書くとか言わないよな…?」

「まさか。大体、誰とは私は一言も言ってませんよ?」

「この野郎…。」


彼の眼は静かな怒気を帯び、額には青筋が走る。
店の空気が徐々に凍り始めた時、彼に掛かる声が一つ。


「行って来たまえ。
変な噂を立てられて、これ以上閑古鳥に鳴かれても困る。」


またしても保身に走る店主である。


「味方はいないんだな…この店には。」


それを聞いて、彼はがっくりと肩を落とした。
アルコール漬けの数日間を想像し、非常にうんざりしているのだろう。


「解った、背に腹は変えられないな。霖之助、暫く出てくる…。」


こうしてその日の夕方、彼はカメラと着替えを片手に、妖怪の山へと連れて行かれるのであった。




“…やれやれ、文も苦労しているな。

幻想郷は全てを受け入れる場所だが、壊れた人間の心は同じようにはなれない、と言った所か。

しかし○○、君もそろそろ受け入れるべきだ。
最近文といる時の君は、確かに楽しそうだと言う事を。”


連れて行かれた友人の姿を上空に見詰め、霖之助はまた店の扉を閉めた。








「ところで射命丸、俺は何処に泊まるんだ?」

「あー、また射命丸って言った。
文って呼んでくれないと、滝壺に落としちゃいますよ?
泊まる所なら、私の家です。」

「はいはい悪うございました、文さんよ。簡単に癖が抜けるかよ。…って、今何て言った?」


返って来たとんでもない回答に、思わず目を丸くしてしまう○○。


「いえ、ですから私の家です。
あ、もしかしてあわよくば襲っちゃおうなんて…」

「安心しろ、1000歳の熟女を襲おうなんて微塵も考えてない。」

“こいつと一つ屋根の下とか…違う意味で気が休まらないな。”


彼にとって、就寝前の様な内省的な時間は、“アヤ”の事を思い出してしまい易い時間である。

そんな時にも、文が近くにいる。
それは、嫌でも彼女に面影を重ねてしまう事を意味する。


“まあ、同じ部屋で寝る訳でも無いか…耐えるだけだな。”


しかし引き受けた以上は、割り切らねばならない。
彼はそう考え、文の飛ぶままに妖怪の山へと向かった。





「ほー、一人住まいにしては、意外にでかいんだな。」


一人で暮らすには、ほんの少しだけ余りのある建物。
彼が文の自宅の外観に抱いた印象は、そんな感想である。

「写真の現像所も兼ねていますからね。居住スペースはそうでもないですよ?
さ、とりあえず撮影は明日からなので、今日はゆっくりして下さい。」

「解った、一先ず邪魔するぞ。」


“まあ、いくら狭くても違う部屋だろ…。”


そして促されるまま食事と入浴を済ませ、就寝と言った頃合。


「さすがに全部世話になりっ放しは気が引けるからな、自分の布団ぐらいは敷かせてもらう。
文、この押し入れで良いのか?」

「そうそう、そこの2段目です。
あ、ついでに私の布団も入ってるので、出して貰って良いですか?」

「は?お前は自分の部屋で寝るんじゃないのか?」

「お恥ずかしながら、自室は執筆部屋でもありまして。
その…資料を溜めこみ過ぎてしまって、寝るのはいつもこの部屋なんですよ…」


文は視線を泳がしながら、気まずそうに頬を掻く。
その表情を見るに、彼女の部屋は、おおよそ人には見せられない惨状を呈している事が彼には理解できた。


“マジか…まあ、布団離せばいいか…”


気にしなければ良い。


彼は無理矢理そう考える事にして、その現実を受け入れる事にした。












月明かりが窓から入り込んで、部屋を青白く照らす。

視線を横に移せば、そこには苦痛に歪む彼の寝顔。
本当に苦しそうに、額に汗まで浮かべて。



また、夢を見ているのですか?
私と同じ顔をした、違う“アヤ”の夢を。



布団から出て、彼へと近付く。

そっと、長めの黒い髪を撫ぜ。
彼の頭を膝に乗せ、その頭を抱き締める。




「う…あ…“アヤ”…。」



虚空に彼の腕が伸び、私の頬に触れる。

低く少し擦れた声が呼ぶのは。
私であって私で無い、名前。



「大丈夫…私は、ここにいますよ…」


私はそう声を掛け。
絡めた腕で、眠る彼の瞼を更に塞いだ。



そう。

私は、“文”はここにいる。



ねえ、○○さん…あなたの見ている、その“アヤ”は。
もう、生きてはいないのですよ?


大丈夫。
悪い夢なら、私が覚ましてあげるから。
今あなたに触れられる“あや”は、私だけだから。


だから、刻み付けてあげる。


あなたの呼ぶ“あや”は、これからは、私の“文”だけでいい。

その事実と、今を。


彼の頭を枕に戻し、同じ布団に入りこむ。
両腕を伸ばして、包み込むように彼を抱き締める。

また怒られたら、「寒かったから」とでも言おう。
この人はいつも通り困った顔をして、結局は流してしまうから。



あの神社の夜に感じた、このひとの、香り。
夜の森にも似た、何処か影のある匂い。


それを感じながら、私は眠りに就いた。










「…!!
……クソッ、またか。」

いつも通り。
しかしどうしても慣れない悪夢で、彼は目を覚ました。

見れば隣には、あの神社での夜と同じように、文がくっついて眠っている。


“素敵な目覚めに、寝起きにダメ押しのこいつの寝顔、ね。
これがあと2日は続くのか…”

「文。朝だぞ、起きろ。」

「ん……。

………ふにゃ。」

「人様に抱き付いてまた寝てんじゃねえ、この寝ぼすけが!!」




「いった~…何もゲンコツする事無いじゃないですか。」

「人様をここまで拉致っといて寝坊とは良い御身分だな、オイ?」

「同意の上じゃないですか。それに、今朝は同じ布団で起きたんですし…。」

両手を頬に当て、わざとらしく身体をくねらせる文。



「はいはい、お前がガキみたいに寒いって入り込んでたお陰でな。朝から下世話で結構な事ですねこの野郎。
…さて、まずは何をすればいいかね。」





大天狗の屋敷

一先ず撮影の挨拶をするべく、彼らはここを訪れていた。


「いやー、わざわざご足労いただきありがたく存じます!!」

豪快な声で彼らを出迎えたのは、見た目には30代程度に見える、妙齢の女性。
彼女が大天狗のようだ。

「いえいえ、自分も撮影自体は楽しみですし。
しかし良いんですか?ここは人間禁制の場所では?」

「最近は、山の有難味や偉大さを解っていない若い衆が多いものでしてな。
一度余所の方の目を通した山を客観的に見れば、その偉大さも伝わるかと思いました故。

例えば弾幕ごっこで木々を倒してしまう者や、麓で騒動を起こして山の評判を下げる者ばかり。
余りにこの山がぞんざいに見られている事に、日々頭を悩ませていた所でありまして……のう、射命丸?」

「い、いやあ、そんな事は…むしろ、はたてあたりの方が問題ありかと…○○さーん…」

咄嗟に彼に助け船を求める文。
しかし、彼はその悪人面を楽しそうに歪めると、こう続けた。

「なるほど、確かにこいつは色々と問題だらけですからね。
脅し紛いの手はよく使うし、人に男色の疑惑は吹っ掛ける。
これは一度、お仕置きが必要なのではないかと。」

「ほう…それは真か?射命丸。」

「そ…そんな…あ、で、では私は入口でお待ちしておりますので!!」


それだけ言うと、文はひゅんっと一瞬で視界から消えてしまった。


「あっはっは、一度彼奴には灸を据えてやらねばと思っていたからな。お若いの、ご協力感謝する。」

「そちらもなかなかのドスの効かせっぷりでしたね。いやー、貴重なものが見れましたよ。」


一杯喰わせた事に満足したのか、からからと楽しそうに彼らは笑う。


「…さて、撮影を頼みたいと言ったのだが、もう一つ頼みがあるのだ。
あ、口調は崩して構わぬぞ?お主にも関わりのある事だからな。」

「……やれやれ、ここの年長な方々に色々見抜かれるのは慣れたよ。
で、またあいつの事か?あいつの話なら、何人かにもうされたよ。」

「ほう、本当に妖怪に恐れが無いのだな。察しているならば話が早い。
…文には、少し気を付けた方がいいぞ?」

大天狗の女性は、そう言って、それまでの目の色を緊張感のある物に変えてきた。


「どう言う事だ?」

「お主は付き合いが浅い故に、まだ知らぬのであろうが…。

あの子は普段あのように振舞ってこそいるが、少し影もある子でな。
一度思い込んだら聞かない時があり、それ故に、大きな過ちも何度か犯した事がある。」

「過ち、ね…。」

「…一度、取材方針を巡ってある哨戒天狗と大喧嘩をして、怪我をさせてしまった事があってな。
そこから彼女達は犬猿の仲になってしまい、今も修復は成されていない。

互いに譲歩すべき部分はあるだろうに、一度そうだと思いこむと、彼奴は聞く耳を持たないからな。

お主とて、気付いていない訳では無かろう?文が誰を見ているのかに。」

「………!!」

「過ぎた過去を想うのは、仕様の無い事だ。ましてや、その想いが深ければ深いほど。
何が起きたかまでは察しはつかぬが…お主が文を見ている時の目は、何処か違う影を重ねていたからな。

しかし、今のお主を見ている者がいる事を、忘れてはならぬ。
でなければ、取り返しのつかぬ事になるぞ?」

「…はあ。」


○○はいつもの様に一つため息をつき、改めて大天狗の顔を見た。


「…そのお説教は、ここに来てから3回目だ。

死んだ昔の女に似てる、って言えば、大体察しは付くか?

あいつの気持ちも、欠片も気付いてない訳じゃない。
文には悪い事をしてると思ってるよ。」

「そうか。ならば、尚更あの子にちゃんと向き合ってやって欲しい。」


「…善処はするさ。一つ、訊いていいか?」


○○は、今までの生活で疑問に思っていた事を、大天狗にぶつける事にした。


「他の連中もそうだが、あんたらは妖怪で、俺は人間。ましてや俺は外来人だ。
寿命も力も、根本的に違う。

立場が違うものを引き離すなり虐げるなりするのは、生き物の自然な本能だろう?
何故、あいつと俺を近付けようとする?」


今までの幻想郷での生活で、彼が抱えた疑問。

それは、まるで自分達と同じものであるかのように、妖怪達が分け隔てなく接してくる事。
死をあっさりと与えてくれるはずの存在が、誰もそれをしない事。

それが、彼に迷いを与える要因の一つにもなっていた。


「…お主が、壊れ物だからだろうな。」

「壊れ物?」

「お主は、恐れと言う感覚が壊れ過ぎている。それこそ妖怪以上にな。

妖怪は、人間の恐れや畏れを力と成す者だ。
それが欠けてしまった人間は、人喰いさえ味を好まないと言う。

無礼を承知で言うが、お主はもはや、肉体以外は人間では無いのかも知れぬな。

ヒトであって人では無い。
喰うにも値しなければ、襲うにも値しない。

皮肉なものだな…そうであるが故に、一人一人の捉え方次第で、家畜以下の存在にも、同じ心を持つ生き物にも変わる。
お主も、我々に恐れを抱かぬだろう?つまりはそういう事だ。」

「…なるほど、な。

まあ、棺桶に片足突っ込んでこっちに来た身だ。
今更壊れ物扱いされても、皮肉にしか思わないね。」

「ふ…本当に面白い奴だな、お主は。
…しかし、“そうであるが故に生まれてしまう諍い”もある。
いいか、先刻私が申した通り、気を付けるのだぞ?」

「…ああ。」






「もう、待ちくたびれましたよ。」

「そうカッカするなよ、ご依頼主様と世間話をしてただけさ。」


“こいつの影…ね。あんまりそうは見えないがな。”


からからと笑いながら歩く文を見て、そんな事を○○は思う。


“だけどまあ…こいつが俺にそこまで惚れてるっ、てのは流石にな…。”


それを意識する様な事は、確かにあった。
しかし、完全な確証に至る要因は少ない。


何より。

今も彼女の向こうの“アヤ”を見ているのか。
それとも、横にいる“文”そのものを見始めているのか。

彼自身の気持ちもまた、未だに不確かなのであった。




“ったく…面倒事ばっか運んでくれやがる。運ぶのは新聞だけにしてくれよ。”


そう心の中で独りごちながら、彼はカメラを構え始めた。









今日の撮影を終えた二人は、文の家へと戻っていた。


「あれだけ集中力出してシャッターを切ったのは久々だ。流石に目が疲れたぜ…。」

「お疲れ様でした。」



濡れた手拭いを目に被せ、○○は横になる。

外の世界ではまずお目に掛かれない世界に、彼は夢中でシャッターを切った。

が、些か集中し過ぎてしまったらしい。
眼精疲労からか、酷く頭が重い。


「それにしても、随分お疲れのご様子ですね?」

「あの手の撮影は、一瞬の油断や呼吸の乱れが命取りだからな。

それがそのままピントや瞬間のズレに繋がる。
新聞用とは、また違う難しさがあるモンなのさ。

すまないが、暫く横にさせてくれ。」


彼はそう言い、瞼に乗せた手拭いの位置を直した。









随分疲れてるのね…。
手足も思いっきり投げ出しちゃって。

ふふ、本当に写真が好きなのが解るわ。



横たわる彼の胸元に目を遣る。
そこには、相変わらずあのペンダントが一つ。


…いつもそうやって、彼の側を独占している。
彼を縛る、銀色の呪縛。




彼の瞼は、相変わらず手拭いで塞がれている。
見えてはいない。

変な勘のある人だけど、今なら気付かないよね?



丁度頭の横の位置に這って行って。
耳を塞ぐように、彼の髪に指を通す。



「…何だ?」

「いえ、何となく。」



本当に、疲れているのね。
いつもなら、すぐに皮肉を吐くか、抵抗するかなのに。



部屋にはふたりきりで。

手拭いで、まだ目は塞がっていて。

その耳に入るのは、私の声だけで。

今、あなたに触れているのはわたしだけ。




________このままその眼を潰したら、あなたの世界は、私だけなのかな?






…いや、眼は写真家の命だもの。
それをやってはいけない。


それに。
例え目を潰しても、その心は、まだ過去を見てしまう。

私に似た、“過去”を。



あなたは、“彼女”の模造品として私を見ているのかもしれない。


…だけど、わたしにはあなただけなの。

妖怪でも天狗でも無い。
ただの“私”としていられる場所は。


何も。

人が抱く恐れも。
妖怪としての、異端を見る目も。

その、どちらも抱かなかったのは。

ただの“私”を、拒まなかったのは。

あなただけなのだから。




彼は相変わらず、何も言わない。
私がその頬を、髪を、撫で続けていても。

誰を、思い出しているのですか?
その感触の向こうに。



今、あなたの傍にいるのは。
同じ時間を、生きているのは。

私という、“文”なんです。





解らせてあげます。
必ず。










柔らかな心地の指が、髪の間をなぞる。

“アヤ”も、俺の伸びすぎた髪を撫でるのが好きだったっけな。



だけど。

今、肉体という確かな形と手触りを持って髪に触れているのは。

“文”の手だ。




妖怪である文を。
俺は恐れる事も、畏れる事も出来ない。

こいつの上司が言っていた通り、俺は確かに壊れ物だ。


そんな俺に。
妖怪として、襲う価値すら無い俺に。

お前は、何を見ている?


俺には、ただの“文”しか見えないのに。



俺は、“アヤ”の影以外に。
お前に、何を見ているのだろう?

考えても、すぐに答えは出なくて。


瞼を塞ぐ手拭いの冷たさと。

髪を撫でる、文の存在が。

ただ、心地好くて。





今はただ、それに身を任せていたいと思った。









彼は目を隠したまま、そっと文に手を伸ばす。

抱き寄せる様に彼女の頭を抱え、文もそれに従い、顔を下ろす。



無言の、口づけ。



そこに想いを表す言葉は響かず、ただあやふやな感情が浮かぶ。
重なったのは、少しの想いと、互いの唇のみ。


それぞれの想いの、交差とズレ。
ただそれだけが、部屋の空気を埋める。




彼は知る由も無い。
その後に彼自身を待ち受ける、数奇な運命の事を。











翌日



何事も無かったかのように、二人はまた撮影に向かう。


余りにも雄大な滝の姿。

鮮やかな色を持つ木々。

何より山全体を包む、彼のいた世界とは違う風。


彼は自らの目を通したそれらを、フィルムに刻み続ける。



「今日はこんな所か。」


気付けば日も暮れ始め、山内を夕焼けが染め上げる。
何処かこの世の物とは違うようなその色は、彼の胸にはよく沁みた。


「数えきれない程見てきましたけど、やはりこの時間は格別ですね。」

眩しそうに目を細めながら、文はそう呟く。

「…ああ。」

彼はただ、同意の言葉を一つ述べるのみ。



「ここもね、すごい景色ですけど。
やっぱり私は、あの場所から見る夕暮れが、一番好きです。

…今はきっと、前以上に。」

何処か儚げな空気を纏い、文は微笑む。



「……。

…文。」


「どうしました?」


すると。

カシャリ。

と、シャッターの音が一つ。



「…何となく、今“お前”を撮っておきたかったんだ。

気を悪くしたなら、すまんな。」

「…いえ。」


その後言葉も無く、彼らは文の家へと戻って行った。
















「…………。」



暗闇の中、彼は目覚める。
時刻は恐らく、日付を跨いだ辺り。

“いつの間にか、落ちてたみたいだな…”

考え事をしていて、そのまま一瞬途切れた程度の感覚。
半覚醒の強烈な眠気の中、身体を起こす。


“風でも浴びるか。”


文の忠告もあり、夜は外には出られない。
一先ず、彼は台所の窓から風を浴びようと考えた。


身体は重く、視界はぐらりと歪む。
一番嫌な時に目覚めたと思いながら、彼は立ち上がる。


“台所は、あの襖の奥だったはず。”


滲む視界と意識の中、危うげに手を掛ける。



誰でも、寝ぼけ眼では間違いを犯してしまう事がある。

例えば、電灯のスイッチを一つ間違えてしまう事や。
例えば、違うものを手に取ってしまう事。


彼が犯した間違いも、そんな些細な間違い。


しかし。
ただ一つの間違いが、突然に全てを変えてしまう事もある。





「………!!!!!」





その向こうを見た彼を襲ったのは、驚愕。

そして、僅かに感じる。
“アヤ”の死後、彼の中では壊れてしまっていた感覚。







恐怖と、戦慄。








その壁には。

一面の。
幻想郷に流れ着いた日からの彼を収めた。













____膨大な、写真。















「これは…!!!」

そこには見覚えのある顔が、余りにも常軌を逸した量で貼られている。

その中心には。
あの場所で文が撮った俺と、宴会の時のふたりが写った写真。





「見て、しまったんですね…。」





後ろに気配。
それはとても暗く、冷たい何かを孕んだ空気。


「…どう言う事だ?」

振り返らず、言葉を振り絞る。


「…あなたが、“私”を見てくれないからですよ…。

“私”と言う、“文”を。」



言葉と共に、耳許に吐息が掛かる。

背中から。
蛇の様に、白い腕が艶めかしい動きで絡み付く。




理解した。

秘密を、文が知ってしまっている事を。
それが、彼女をこうさせた事を。



「どうして、気付いた?」

問いかける。
文はくすりと笑い、その口を開いた。



「あの宴会の夜に…あなたのペンダントを見たんです。


あなたは最初に言っていたじゃないですか?

“死んだ知り合いに似すぎている”って。
“名前まで同じだとは思わなかった”って。


知り合いって言うのは…嘘なんですよね?
写真と遺骨まで収めるなんて、ただの“知り合い”をそこまで想う事は、ありませんから…。


…本当に、私にそっくりですね。



憎たらしいくらいに!!」




文の怒声と共に、風が通り過ぎた音。

直後にカマイタチの様な切り傷の痛みと、手足の力が抜ける感覚。
そのまま膝を付き、無抵抗のまま倒れ伏す。


気付けば文が身体の上に跨り、肩にその白い腕が伸びてくる。


唇に、柔らかいものが触れた感触。
口内に侵入してくる、舌。


それはくちづけと呼ぶには余りに暴力的で、呼吸が上手く機能しない。
昨夜のそれとは、全く違う物。



憎悪の末の、蹂躙。



そんな喩えが似合う気がした。




「くはっ!!

…はぁ…はぁ…」


唇を離されると同時に、肺が一気に酸素を求め、呼吸が乱れる。



沈黙。

文は俺の頭の両端に手を付き、胸元から視線を動かさずにいる。
その視線は、今も身に付けているペンダントに注がれて。


「今も…そうやってあなたの胸元には、違う“アヤ”がいる。

私は…その“アヤ”じゃない。
こんなにも…こんなにも私はあなたを見ているのに…。


解りますか?
赤の他人を着せられる者の気持ちが。

大好きな人に…。
“私”を見て貰えない私の気持ちが!!!!!」



暗闇に怒号が響く。

頬に、濡れた様な感触。
それは、彼女の瞳から落ちた雫。




「…ほら。
さっきだって風を使って、あなたを傷付けた。

腕力でも、あなたは抵抗出来ない。


その“アヤ”は人間で…私は、妖怪なんです。

私は…ここに生きている私は…違うんです。
違う…“文”なんです。


ねぇ…あなたが今いるのは、ここでしょう?



解らないなら、刻んであげます。私を。」



薄闇に、狂笑が浮かぶ。

嬉しそうで。
そして、とても哀しそうな。涙目の狂笑が。



文の爪が、胸元に触れる。
一つ、二つと、薄い引っ掻き傷が付いた痛み。

やがてそれが五つ目に達した直後、胸板に舌の感触。
薄い傷の上を、文の舌が這う。


血液か唾液なのかは定かでは無い、肌が濡れた湿度。

傷に沁みる痛みが。
痛覚を通して、文の存在を更に伝えてくる。



着擦れと、ボタンが外れる音。
彼女が寝間着にしているシャツははだけ、白い肩が覗いていた。


犯される。
殺される。


しかし、生存本能から来る筈の、無意識の興奮すら無い。


あるのはただ、色彩の掛けた様な文の瞳にも似た。



空虚な後悔と、悲しみ。





気付けば。
さっき取り返したつもりの“恐怖”は、また消え失せていた。

何もかも、俺の罪なのだと思った。


ただ、受け入れられなかっただけだ。

“アヤ”の死も。

文の気持ちに気付きながら。
それでも“アヤ”を着せて、そこから逃げていた自分も。


そして。

今、自分が誰を見ているのかと言う事も。



「え…?」




無理矢理に痛む腕を伸ばし。
あの宴会の日と同じ様に、文の涙を拭う。



余りに都合が良すぎるのは、解っている。


あの日から、死への恐怖すら壊れた。

恐怖を失うという事は。
誰かを失う事すら、恐れられなくなるという事。


“アヤ”の死と。
それを受け入れる以上の恐怖は、俺には無かったのだから。



…ただ、今は、一つだけ。
一つだけ、恐い。


今目の前にいる、文を失う事。

それだけが。



「ごめんな…“文”。」



返事は無い。

当たり前だ。
きっと俺はこのまま文に犯され、そして殺されて死ぬ。


それだけの事をしてきた。

ハッピーエンドなんか無いなんて、今までの人生で嫌って程解ってる。

“アヤ”の所にさえ、俺は行けない事も。




彼女の細い手首を手に取る。

その手のひらを、自分の喉元に当てる。


「…殺せよ。」


本当は彼女の気持ちに気付きながら、それでも嘘をついた。

そして影を重ね続けた。


俺が与えたその痛みは、許されはしないだろう。
今の文の行動が、その証拠だ。




何処までも、俺は自分勝手だ。

恐怖が壊れてしまっていた以上、いつでも死ねた。
だけど半年以上、それをしなかった。


何処かで、期待していたのだろう。

“これは夢なのだ”と。
“いつか、乗り越えられる”と。

それは幻想郷ですら現実として受け入れても、ただ一つ変われなかった妄執。



…もう、終わりにしよう。



「ごめんな…文。


本当は、解ってたのさ。

俺があいつの影をお前に着せて、現実から逃げていた事も。
今、お前を見ている自分から逃げている事も。


皮肉だな…。
それでも死ぬ事も、妖怪であるお前も、恐れる事が出来ない。


許されようなんて思わないさ。殺せ。」




喉元に持っていった手が、指が。
絞め殺す為の形を作る。

しかし、その力がふっと抜けた。
首から手が離れ、また肩を押さえられる。



「何で…何で恐れないんですか…

命乞いをして下さいよ…助けてくれって…妖怪に殺されるって、泣き叫んでよ…


死にたくないって…まだ生きたいって言ってよ!!!!」


悲痛さを増した声が、耳に響く。
それは、予想だにしなかった言葉。


「このままじゃ…全部あなたはその“アヤ”の物じゃないですか…
あなたを…その人の元に送るだけじゃないですか…。


恐れてさえくれれば。
せめてあなたの中で、違う“文”になれると思った…

妖怪として見てくれれば…。
この力を恐れてくれたなら、あなたは死にたくないって思ってくれると思った…


私は…あなたを誰にも渡したくないのに。
例えそれが恐れでも、“私”として、あなたの中にいたいだけなのに。


あなたに…生きていて欲しいだけなのに…。」



文は胸元に崩れ落ちて、ただ嗚咽を上げている。

ぽたり、ぽたりと。
肌を濡らすのは、血液と同じ温度を持った雫。




…まだ、足りてない、って事か。
死ぬ事ですら、その対価には。






“りい…ん…”




金属の音が鳴る。

それはペンダントから聴こえた音で、蓋を開けてみると、“アヤ”の遺骨が砂になっていた。

そして何処からか一陣の風が吹き、それは砂になった“アヤ”を舞い上げる。




“文さん…その人をよろしくね。”



「え……今のは…?」



俺にも、その声が聴こえた。
そして確かに、“アヤ”が微笑んだ、その表情も。

ずっと、心配させてしまっていたんだな……。



例えば罪があったとして、生きる事が、その償いになるのならば。
俺のするべきことは、きっと…。




「ところでいつまで乗ってるつもりだ?いい加減重いんだが。」

「…何を言ってるんですか?
まだあなたは死ぬつもりでしょう?生きてくれるって言うまで、私はどきません。」


まだ彼女の涙は止まらない。
それでも毅然とした顔を崩さず、その目はじっと俺の方を射抜いていた。

……本当に直情型な奴だな。きっとここまで言わなきゃ解らないのだろう。仕方ない。




「負けたよ。降参するからどいてくれ……“文”。」

「………!?」



もしかしたら、初めて彼女を彼女として呼んだ瞬間だったのかもしれない。

死ぬのなんて、一瞬の事だ。
生きている間、自分が自分でいられる間に感じるモノが、結局は一番長い。

だから深い罰は、きっと長く感じるものが一番重いのかもしれない。
文を傷付けたことへの罰がそれならば、被害者である彼女の判決は、甘んじて受け入れよう。



「死んでからもあいつにああまで言われたら、もうお手上げだ。
お前の満足いくまで生きてやるさ、だから泣き止め。」

「………それだけじゃ、許せませんね。」

「……まだ足りないか?」

「……何度でも、これからずーっと、私の事は名前で呼んでください。
ちゃんと、“射命丸 文”として。」

「…解ったよ、情状酌量の余地は無しか。」

「ふふ…ええ、あなたがやって来た事の真実は、ずっと重いものですから。
例えば事実のままにこれを記事にしたら、世紀の大悪人として語り継がれるでしょうね。」

「おおこわいこわい。ペンは剣よりも強しだな…。」


ふと窓の外に目を向けると、外はもう明るくなり始めていた。
朝が来たとまともに感じたのは、一体いつぶりだろうな。


「…さて、今日で撮影は最終日だ。準備しないとな、“文”。」

「……よく聞こえませんでしたね。もう一度、言ってください。」

「だったら何度でもいってやるさ。そろそろ準備しないとだぞ、“文”。」

「……ぐすっ……はい…大天狗様に怒られちゃいますからね…。」

「はあ…“文”、泣き止めってさっき言ったばかりだろう?」

「すいません……でも、嬉しくて……ずっと、ずーーっとその名前、呼んでくださいね?」

「…ああ、ずっと呼んで行くつもりさ。」


“アヤ”はもう、この世にはいない。

その傷跡はずっと残っていて、忘れる事は死ぬまで出来ないだろう。

でも生きていれば、傷跡もいつかは当たり前のものになって、痛みもやがて薄れて行く。
それでもまだ俺は生きていて、また新しい一日が始まる。

このペンダントを、今日二人で埋めに行こう。
あいつが生きられなかった分まで、全てをこの目に収めて行こう。

年に一度、俺が生きて行くその跡を、花と一緒に手向けよう。

ちゃんと、文の手を取って。しっかりと、その跡を刻んで。


それが、俺に出来る“アヤ”への追悼と。
そして、今ここにいる“文”への罪滅ぼしならば。


















妖怪の山には、一つの小さな店がある。

それは写真に関する商品なども扱うが、基本は店主自身による撮影を主とする写真館。



ここの店主は元人間なのだが、自らの意思で妖怪へとなった少々変わり者な経歴の持ち主である。

曰く、

「諸々の事情により千年生きなくてはいけなくなった。じゃないと殺されるどころじゃ済まない。」

と本人は語るが、飄々と日々を生きる彼の様子を見るに、そこまで切羽詰った事情があるようには見えないのが実情である。



さて、この店には店主と新聞記者の妻以外に、幼い一人娘がいる。
父親の遺伝子を全否定して産まれたかの様な、極端に母親似のその娘は、時折妙な事をつぶやくのであった。


「お父さん、私長生きしたいの。」

「何だ?藪から棒に。」

「うーん、きっと私、前世は若くして死んじゃった気がするんだ。だからね。」

「ほう、また何でそう思う?」

「だってやりたい事がいっぱいあるんだもの。きっとやり残した事がいっぱいあるからそう思うんだわ。」

「誰だって若いうちはそんなものだ。例えば何だ?」

「そうねえ…例えば……お父さんみたいな素敵な人と恋をしたいな。で、結婚したい。」


その瞬間店主の口から飲みかけのお茶が盛大に吹き出し。
そして台所からは母親が何かを倒したらしく、金物が転げる音が激しく鳴り響いた。


「ま、待ちなさい!!お父さんは許さないぞ!!」

「そうよそうよ!!お父さんはお母さんのなんだから!!」


まだ見ぬ娘の恋人に鉄拳を喰らわせようとする父親と、何故か異様に娘に警戒心をむき出しにする母親の姿は、非常に滑稽な物だったそうな。


「ざーんねん。まだそんな人はいないよーだ。」


後に彼女が父親似の男を紹介し、一波乱が起きるのはまた後の話。
彼女がアヤの生まれ変わりであり、前世に果たせなかった分まで生を謳歌する事は、本人も知る由が無い事である。










文とアヤ、終。
 
 
 
 
 
 

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最終更新:2013年06月21日 13:06