紙袋を抱えて急ぎ足で街道を通る。
日増しに買出しの量が増えて今は両手でも抱えきれない。
腕が凄く痛むけどそうも言ってられない。
「ねぇまたあの子…」
「しっ、もうよそうよ…!」
道すがら鬼や妖怪の皆が同情と哀れみの目で僕を見てくる。
ふと後ろから声をかけられた。
「なぁ、お前なのか…」
「勇儀様…」
彼女の瞳を鏡に自分の顔を覗き込む。
鮮やかな緑の髪も今や白くぼさぼさになり、目の色も完全に泥水になっていた。
顔の痣もちゃんと引いてなかった。
「また、虐められたのか!?」
「い、いえ…転んだだけです」
視線を逸らしてしまう。
その様に勇儀様はますます驚愕に血の気を引かせた。
「もう駄目だ!ヤマメも心配してんだぞ!
このままお前を帰らせたら…、私と一緒に来ないか!?」
「すみません…」
堪えきれなくなって振り切ってしまう。
まだあの人を見捨てられないから。
戻らなきゃいけない。
取り残された勇儀は真っ白になって呆然とするしかなかった。
あんな悲痛な嘘をつかれたのは初めてだった。
嘘を嫌う気高き鬼でありながら、この有り様だと。
己の無力を痛感し、拳から真っ赤な涙を流すしかなかった。
地霊殿、覚妖怪である古明地さとり様とそのペットの住まう豪邸。
見る度に何度も引き返そうと思ったけどここを離れられない。
恐る恐る足を踏み入れようとすると、入り口に通りがかる影が一つ見えた。
大きな黒い翼、霊烏路空だった。
服がボロボロで体中が傷だらけで苦虫を噛んだような表情だった。
恐らくどこかの決闘で負けて帰って来たのだろう。
合わせたくない目と目が合う。
「なに」
鋭い視線で睨まれた。
「え、いや…あの。ごごめんなさい、その、なんでもありませんっ!」
怒らせては拙いと愛想笑いして立ち去ろうとした。
そのとき、
ガンッ!
脇腹に衝撃がぶつかる。
制御棒のはまった右手で腹を殴られた。
衝撃で落とした買い物袋の中身がぶちまけられる。
「うげぇ、うくっ…!」
「一々癇に障るんだよ、チクショウ!!」
頬を撫でてると、空さんはずかずかと僕に歩み寄る。
僕の上に馬乗りになる。
これからされることに気づき、思わずやめてと言いかけた。
「クソッ!この、ふざけんな!」
ガヅッ バンッ
ドゴッ メキッ
「お前の、せいで!こいし様が、こいし様が!」
肩に、頬に、腹に、鈍い衝突が次々と襲い掛かる。
鬼のような形相が涙目になって一心不乱に拳を叩きつける。
「ひっ、やめ…ごめんなさ、い」
「黙れ!」
痛みと共に彼女の憎悪が伝わってくる。
許せない、存在がどこまでも許さない、謝っても許さないって。
その中に悲しみも混じってるから何も言い返せない。
悪いのは僕なのは、事実だから。
「全部お前のせいだぁあああああああ!!!」
謝りながら甘んじて受けるしかなかった。
そのうち彼女は泣きじゃくる僕に怒りも収まった。
流石に泣かれると後味も悪くなったのか、暴行が止んだ。
「はぁっはぁ…、思い知ったか、ざまあ見ろ…!」
荒い息を整え空さんは捨て台詞と共に踵を返して消えた。
彼女はいつも憂さ晴らしに暴力を振るっている。
けど今日は怒り任せだったから手加減されてる方だ。
いつもはスポーツ感覚で生殺しにされてる。
「うぅ、くっ…ひぐっ」
痣だらけの身体に鞭打って買ってきた食材を拾い集める。
殴られて腫れあがった所が熱い。
僕は妖怪だから傷の治りが早いのが幸い、いやさらなる不幸だった。
地面に、ぽたぽたと血の混じった塩辛い雨が落ちていた。
「ほらよ、さっさと食べろ」
死体運び役の火炎猫燐から今日の分の食事を投げ渡される。
それも乱雑に床に放り投げて。
細長く青白い腕一本だった。
僕も妖怪だから人間の血肉を食べなきゃ生きていけない。
けど最近減らされてるようだった。
前は大きな脚とかだったのに。
考えても仕方ない。
今は飢えを凌ごうと、それを手に取ろうとする。
ガシッ
燐さんは顔を顰め、手を足で踏みつける。
「い゛っ…!」
「そうじゃないだろ」
肩がビクッと震える。
恐る恐る見上げると、燐さんは嗜虐的な笑みを浮かべていた。
踵を捻るように押しつけられる。
「何度も教えてるのに分からない?」
「は、はい。ごめんなさい!今からやります!やりますから…」
歪んだ顔を崩さず脚をどけられる。
機嫌を損ねないように猫のように四つん這いになる。
燐さんは上唇を舌を慣らす。
「はぐっ、がつ、ぐむぅっ」
必死に肉にしゃぶりつく様子をニヤニヤと見つめる。
「やっぱ気に入らないね」
「ひっ、ギィヤアアアアアアアアアアアアア!!!」
髪を掴み上げられる。
額に爪が食い込んでて血が流れている。
やめての羅列を頭の中で繰り返し、それを豚のような金切り声で口から吐き出す。
「静かにしてろよ!」
「ひぃっ、…!」
一喝され、恐怖に何も言えなかった。
彼女は白い歯を剥き出しにして顔を覗き込む。
「あたいね、アンタのようなクズがさとり様と同族とかさ…」
「いや、いや…やめで、ぐだざい゛やめてっ…!」
「そんな冗談、どこも笑えねえんだよ!!」
ガンッ!!
額を冷たい床に叩きつけられる。
鈍い衝撃から痛みに口から情けない呻きをあげる。
「フフフ、あ~すっきりした~」
いつもより遅く飽きた燐さんは去っていった。
ドアの陰から笑い声が聞こえる。
誰もいなくなった後でも僕は口で直接肉に齧り付いた。
まだ見ているかもしれない、って恐くて。
この後もペットから隠す気もない陰口を散々聞かされ、胸の目に辛子を入れられた。
裸にされ引き摺られ、炎に投げ込まれた事もあった。
嫌がらせは日に日にエスカレートしていた。
けど暴力だけならまだ優しい方だった。
また今日もさとり様に呼び出された。
空っぽな頭で部屋に入る。
ソファーベッドの上で寛ぎ、醜悪なものを見るようにこちらを嘲笑っていた。
僕の紺色の球体と、彼女の身体をつなぐ真っ赤な球体から瞳が見える。
その第三の目も嫌らしく釣り上がっていた。
「そんなに肩を竦めなくてよろしいのよ、同じ覚妖怪のよしみですもの」
最大限の皮肉を交えて湿った声で言う。
いけない、何も考えないようにしないと。
「今日こそ見せてくれるかしら」
ノイズ混じりに何度も見てきたスクリーンが映し出される。
見覚えのない男。
その人は素朴だが優しそうな表情で見つめている。
さとり様は彼を忌まわしそうに睨みつける。
「殺りなさい」
僕に目配せする。
彼女から彼への憎悪と悪意がこれでもかと流れ込んでくる。
それごと壊させようとしているんだ。
目の前の人間を憎めばきっと楽なことか。
けど僕には出来なかった。
だって大切な…
「どうしたの?憎いんでしょう、○○が」
「違う!駄目、僕には…出来ない」
父親の幻から目を逸らしてしまう。
その反応を気に入らないのか、さとり様は顔を顰める。
「クズめ!やはり固形燃料の血が混じってたせいかしら」
グジュウッ、どぼどぼどぼ…
「ひぃっ!は、ああ…」
幻影が彼女の毒々しい爪に引き裂かれる。
血を吐いて苦しそうにもがき、痙攣したまま動かなくなった。
その光景を何度も想起させられてきた。
まだ会いもしないけど大切な家族だった○○様の最期。
これが一番辛かった。
「よくも私の愚妹を、あんな人間如きのために!お陰で私たち地霊殿は笑い者よ!!」
勢いづいて僕に手を上げようとする。
顔に散らばる青紫の痣の数々を見て舌打ちする。
「チッ、ただでさえ怪しまれてるのに…」
前に勇儀さんが陳情に来たけど、結果は全部僕に返ってきた。
少なくともさとり様は直接暴力を振るわそうとしない。
だから精神的に虐め抜こうとしている。
さとり様が嫌うのも無理はないんだ。
「明日は外に出ないこと、いいわね?」
「は、はい…」
跪いて、力なく頷いた。
さとり様にとって、その仕草も不快なものだった。
身も心も、崩壊寸前だった。
それでも行かなきゃいけない所がある。
地下のとあるじめじめした牢屋のような一室。
重たい扉を奥に押し込む。
「あぁ、○○!」
「こいし様…」
中にいる彼女はすぐさま飛び込もうとする。
けど幾ら長さがあるとはいえ、首に繋がれた鎖は届かなかった。
だから僕から近づいて抱きしめてやらなきゃいけない。
「来てくれたのね!」
僕を抱きしめうっとりするこいし様。
けど彼女の淀んだ目を見てると凄く心が痛む。
「○○、どうしたのその怪我!?」
僕の名前は○○なんかじゃない。
○○ってのは、こいし様の恋人だった人の名前なんだ。
精神を病んでる彼女の時間は戻ってしまい、僕を○○様だと思い込んでいる。
昔の幸せだった頃の記憶に縋ってるのだろう。
僕を祝福してくれる人なんて誰もいなかった。
だから誰も僕に名前をつけてくれないし、古明地の姓すら貰えなかった。
いつもはそれとかこれとか、物呼ばわりだった。
「ねぇ、やっぱり一人じゃ寂しいよ…」
旅を――もとい家出を――していた彼女は旅先で○○という人間に惚れ込んでしまった。
普通じゃなく、それも執着的に。
それで、こいし様は彼を犯して身籠った。
当然、さとり様達の怒りを買って○○様は処刑されてしまった。
そりゃ肉親が汚され既成事実を作られ、見ず知らずの人間を一つ屋根の下に住まわすなんて嫌
がるだろう。
残されたこいし様もお腹の子供と一緒に地霊殿に連れ戻された。
僕は、嫌われて当然なんだ。
皆の仕打ちは仕方のないことなんだ。
抱かれてぼんやりしてる頭で考え事してると、突然、後ろに倒された。
「こいし様?ひ、いや、何を、っ!?」
見上げると、眼前にこいし様の歪んだ笑顔が広がっている。
虚ろな目が僕を、いや…○○様を捉えていた。
「ねぇ○○…そろそろ私達、子供が欲しいよ…」
「お気を確かに!こいし様!やめっ」
口を口で塞がれた。
乱暴に頬を押さえつけられ、舌で蹂躙される。
「ん、んむぅっ!むぐっ…!」
顔を離されて、糸が口をつなぐ。
湿った息が互いを交わす。
「やぁん…、○○!私、○○とが…いいの…」
服を脱ぎだし、上に覆い被さる。
僕の服を引き剥がし斑点だらけの肌と真っ白い肌が触れ合おうとする。
もがこうとも強い力でしがみつかれる。
「いやだ、やめて!やめてぇ!」
そうなんだ。
彼女が犯そうとしてる人物は…
この人は、本当は。
「止めてよ、母さんっ!やめてえええええ!!」
乱れた服を直しながら、嗚咽を漏らす。
こいし様は体液と汗で塗れてもつやつやとしてて、隣で心地良さそうに眠っている。
対してこっちは頭が重くて手足が動かない。
「クッ、うぅ…」
今まで十年以上やって来たことが無駄だった。
こいし様が求めてたのは僕じゃなくてどこまでも○○の存在。
彼女はもう、戻れない。
「アハハハハハハハハハハ―――」
力なくされど狂ったように笑うしかなかった。
もう一線を越えてしまった。
その時点でもう彼女を救えないと諦めてしまった。
母親から最初に覚えた言葉が、“ごめんなさい”
あのときはまだ僕を認識してくれてた。
生まれてきてすぐにこいし様から離されて蜘蛛みたいな女の人に育てられた。
けど五年してその教育係からも引き離され、地霊殿で地獄のような日々が始まった。
あの人はどうしてるんだろう、そう考える余裕すら失った。
僕は生まれてはいけなかった―――
結局僕は虚ろな妖怪と異邦の人間から生まれた子供。
皆の敵で、忌々しきよそ者の血を引いていて
○○の罪を代わりに償う毎日。
空さんに顔が歪むほどに殴られ続け、
燐さんから恥ずかしい真似を延々とさせられてきて、
さとり様は親の死に様を見せつけてじわじわと追い詰めて、
勇儀様にも散々迷惑かけ続けて、
ほんの僅かだけど僕を育ててくれたヤマメ様に申し訳がたたない。
こいし様は僕を○○としてしか見てくれない。
きっと僕はいなくなった方が良かったんだ。
それがごく当然なのに。
もう嫌だ
死にたくない
もう堪えられない
僕は 何のために 生まれてきたんだろう―――
傷つきたくない
痛いのはもうイヤだ
目を閉じてれば傷つかないで済むのかな
瞼が重い。
夢の中なら痛い思いしなくて良いのかな。
明日もまた恨み辛みを小さな身体に受けるだけの一日が始まる
だったら、目を閉じてよう。
先に一眠りしようとしてる胸の目をゆっくりと撫でる
手が 透けて見える
こいし様におやすみなさいして
自分イガいダれモいない世界で
ず とズっト ネむっテイタい―――
とある山の神社。
晩秋に紅葉も色を失い始めたここにも、優しく朝日が彩る。
やや寒くなりだしたこともあり、巫女も青と白の装束の上に一枚袢纏を羽織っている。
今日も彼女は参拝客の訪問に備えて竹箒で境内を掃除する。
一息ついて、気だるそうに腕を伸ばし肩から大きく欠伸する。
「ふあ~ぁ、低血圧だった頃が懐かしいなぁ~」
ふと瞬くために目を閉じる寸前。
光から覆う目蓋が一瞬だけ曇ったような気がした。
「ん?何かしら…」
目を凝らすが、巫女の視界には何もない。
「気のせいですよね」
ただ枯れ葉がさわさわと息巻いていた。
それに微かな音の拍子が残るだけだった。
最終更新:2013年06月21日 13:17