川辺に突き出た岩の上から、男は糸を垂らす。


時刻は夜。
おおよそ川釣りには不向きな時間に、彼は何を釣り上げようとするのか。

それは、彼にしか解らない。




「釣れねえなぁ、今日も。」




糸の先には、水面に映る月。
その夜も、竿の先は微動だにする事は無かった。








初の心にさざめく夜は。-ep.3-










“気が重い。”


今日の私の気分を表すのなら、その一言で充分でした。

数日経って冷静になるほど、やはり平手打ちはやりすぎたのだろうかと、自責の念には駆られてしまい。
私も結局は子供なのだと、溜息ばかりが出てしまいます。

彼も正しい訳では無いけど、私も余りに無自覚過ぎたのです。
ああやって咎めはしても、あの時確かに、心の何処かで彼がどう“殺す”のかを見られるか期待していたのも事実。

せめて平手打ちの事だけは謝らなくてはと思い、気持ちだけはのたのたとしたまま、人里へと飛んでいました。


少し見慣れて来た家の前に立つと、胃がキリキリと痛みます。
この扉、こんなに重そうだったかなぁ…でも、あのままじゃダメだ。
よし、覚悟は決めた。




「お、お邪魔しまーす…」




あれ、いない?
でも何でこんな暗くして……え、これって、血の匂い…?

とにかく明かりを探そうと中に入ると、足にコツンと何かが当たりました。
それは空の小さな桶で、ふと中を覗いてみたら…




「ひっ…!?」




桶の中には、べったりと血がこびり付いていました。
一体何が…そうだ!○○さんは何処に……




「てめぇか…療養中だ、静かにしろい……。」




部屋の隅の方から聴こえたのは、○○さんの声でした。
だけどいつものガラの悪さも無くて、それは何とも弱々しい声で。


「ど、どうしたんですか!?」

「体調悪りいから、暗くしてるだけだよ…あー、気持ち悪…。」


明かりを点けてみると、布団に酷くやつれた様子の○○さんが横たわっていました。
何でこんな…まさか傷の具合が…。


「傷、良くないんですか?」

「ちげえよ…ちっと符の補充をしてたんだが、やり過ぎたな…。」


彼が指差した方には、机が一つ。
その上には、大量の赤い文字で書かれた符が。
よく見れば、彼の手首には包帯が巻かれていました。


「あの呪符は…俺の血で書いてるって言ったろ…?
まあ…補充したら2、3日は毎回こうなるのさ…説教なら後で聞いてやるから、今日は帰ってくれ…。
さすがに…ゲロ吐きそーなんだわ…う…。」


一見ただの体調不良のフリをしているけど、どう見ても目の焦点が合っていません。
多分、倒れるギリギリまで血を……私の言う事は、その状況を読んだ時点で決まりました。


「………バカ!!あなたは本物のバカです!!
何でそこまで身を削って闘おうとするんですか!?心配ばっかりさせないで下さい!!」


ああ、謝らなきゃいけないはずが、またこんな事ばかり言ってる…。
いつもこの人は、私の予測を外れる事ばっかりして、もう。


「だからうるせーっつーの…こちとら血が足りねんだよ……あ、やべえ。」


彼は一瞬だけ身体を起こした直後、すぐにまた横になってしまいました。
全くもう、無茶ばっかりするから……って、意識が無い!?




「○○さん!?」

「………すう…すう……。」




…………ね、寝ただけですか。あー、どうしよう…。




「……すまないが、そっとしておいてやってくれないか?」




玄関から光が入ると同時に、聞き覚えのある声が耳に入る。
この声は…


「慧音さん…。」

「こいつはこうなったら当分起きんよ。そうだな、うちで少し話をしないか?」








「わざわざ来てもらってすまないな。
うっかりあいつが起きたりしたら、色々と騒ぎになってしまうんだ。あまり自分の話は好まない奴だからな。」

「いえ、ありがとうございます。」


うぅ、何だか緊張するなぁ。
呼び出されたって事は、やっぱり…


「妖夢、あいつの戦いを見てしまったそうだな?」

「はい。その、あまりにも激し過ぎて、残忍で……。」

「…ああ、まさに狂気の沙汰だよ。
私も初めて見た時は、自分の目を疑ったものさ。」

「…慧音さん、そもそもあなたと彼の関係は?」


ずっと気掛かりでした。
荒くれ者の彼が、初めて私と戦った時は慧音さんの一言で引いた。
この人はきっと、彼の何かを知っている気がしていたのです。


「…そうだな、弟の様なものさ。
あいつがまだ幼い時、あいつの両親が妖怪に喰われてな。
その頃に一度引き取って以来の付き合いさ。
…もっとも、すぐにそれも終わってしまったが。」

「…どう言う事ですか?」

「前も言った通り、しきたりなんだよ。
ここには選ばれた孤児を修行に出し、退治屋にすると言うしきたりがある。
…あいつが4つになる時、その為に無理矢理攫われてしまってな。
私は、あいつを守ってやる事が出来なかったんだ…。」



そうか…それでお祖父様の所に。
でも、何で退治屋が必要なのだろう?
霊夢さんの様な存在が、既にいるはずなのに…。



「慧音さん、そんなに妖怪と対峙する存在が必要なのですか?
普段幻想郷で暮らしていて、私にはとてもそんな風には…。」

「そうだな、表向きはスペルカードルールを無視した者を処断する存在だと言ったが…実際は、少し違うんだ。
…妖怪の口減らしでもあるんだよ、あいつの仕事は。」

「……え?」

「人も妖怪も、放っておけば何処までも増える。
しかし、幻想郷はその全てを収めるには狭い。食料とされる外来人にしても、当然限りはある。
そうして生存競争に敗れ、追い詰められた者達が考えるのは、ルールを侵してでも人里を襲う事。

だが、それ自体がもう、その者達にとっては死刑宣告だ。
そうして人里を襲えば、里を守ると言う名目の下、退治屋によって殺される。

…幻想郷に於いてですら不要になってしまった者達が行き着く先が、あいつに殺される事なんだよ。

博麗の巫女は、言わば幻想郷とそのルールの象徴だ。
妖怪と人間のバランスの張りぼてである以上、本来の意味で手を汚させる訳にはいかない。
…だから、退治屋が作られたのだ。」



嘘…だってそれが確かなら、それをして得をするのは……。



「まさか、そのしきたりは紫様が…」

「ああ…正確には、昔の里長が八雲紫に提案したのが始まりだが。
○○は選ばれ、あいつに攫われたんだよ。そして13になる時、ようやく里に帰って来た。
…初めて殺した妖怪の返り血を、全身に浴びてな。」


そんな…じゃあ、幽々子様も紫様も、本当は……本当は……!



「余計な事話してんじゃねーよ、慧姉。」



「○○さん!?まだ起きちゃ…」

「黙ってろコケシ、歩けるぐれーにはなったよ。
…慧姉よ、こいつがあの女に関係あると解ってて話したのか?」

「………ああ、そうだ。」

「…まあ、あんたがあいつを恨むのは勝手だが、ここぞとばかりに縁者に疑念を植え付けるのはいただけねーな。
病み上がりに手間ぁ増やしやがってよ、ちっとこいつ借りてくぜ?オラ、行くぞコケシ。」

「あ、ちょっと!?」


彼に無理矢理手を引かれる形で、私は慧音さんの家を後にしました。
色々な事があり過ぎて、頭が追いつかない。
一体、何でこんな事に…。









いつの間にか蝋燭も尽き、月明かりだけの薄闇に、独り取り残された慧音がいた。

手には古ぼけた冊子が一つ。
それは、中は平仮名ばかりの拙い字で綴られた、ある日記帳だった。

その日記の日付は、14年前を境に途切れていた。


「○○…それでも私は、許す事が出来ないよ。」


月明かりに青銀の髪が照らされ。
そして、彼女の感情はその影に隠された。











「ちょっと!?何処に行く気ですか!?」

「あーうるさいうるさい聞こえやしねーな。
単に俺んち戻るだけだよ呪いのお菊人形がよ。」

「お菊人形じゃないです!!」


無理矢理彼の家に引きずり込まれたかと思えば、そのまま乱暴に居間に放り投げられてしまいました。
うう、ぶつけてお尻が痛い…彼は彼で違う部屋に行っちゃったし、もう何が何だか…。


「まーだ唸ってやがんのか。
さすが幼児体型、ケツの痛みを吸収する肉もねえか。そらよ。」

「ぶ!?何するんですか!!……これは?」


投げ付けられた物を取ってみると、それは彼が戦いで纏っている赤い布でした。
触れてみると解るけど、やっぱり血の匂いがする…。


「ったく、てめえにゃ話す気なんざカケラも無かったってのに、あんのクソ義姉が。
…おいコケシ、“8の幸福と2の苦痛、或いはその逆。”てめえならどっちを選ぶ?」

「……?
それは…やっぱり、前者ですかね。」

「だろーな。だが、そうも行かねえ事があんのも世の常だ。
慧姉から聞いたろ?追い詰められた妖怪連中が行き着く先って、何だと思う?」

「…やはり、力を失って消えてしまう事ですか?」

「…少し違うな。
あいつらは人間の恐れがその源流だ。
外の世界ならその幻想を否定され尽くしてお陀仏だが、ここは妖怪が人間の近くにいて、その恐怖は無意識に、常に妖怪全体に向いてる。
……これがどう言う事か解るか?」

「……それは、もしかして…。」

「…そうだ、死ねねえのさ。

最期には力を殆ど失いながら、死体同然で尚も生き続ける。
生きたいと願えば願う程、精神の崩壊も遠くなっちまうしな。

……確かに口減らしの意味もあるが、奴らを殺してやる為でもあるんだよ。俺がいる意味はな。
八雲紫にとっても、苦渋の決断だったのさ。最悪な事に、そこで人里と利害が一致しちまった末のな。

何が楽園なんだか、全くもって不平等なモンさ。」



そんな事が……でも、それでもあんな戦いを繰り広げる理由には…。



「……何でああまでして殺すのか知りてえってツラだな。

一つ教えてやる。
妖怪が殺されて死ぬ為には、心が壊れちまう程の苦痛と恐怖が要る。その為には、当然残酷な事をしなきゃならねぇ。
……無理矢理にでも楽しまなけりゃ、あんな狂気の沙汰は出来やしねえのさ。それこそ俺の気が狂っちまう。

あいつらにも、生きて来た歴史も、血を分けた守るモノもいた。
殺すって事は、その全てを奪う事だ。

まぁこうやってもっともらしい事言っちゃいるが…それでも結局、殺さなけりゃ俺も守りてえモンが守れねえのさ。
人里を襲われるって事は…慧姉に危険が及ぶ事だからな。」


「……!」


あ…まただ。またあの時と同じ顔を…。

その寂しそうな顔を見た時、私の胸にちくりと小さな痛みが走りました。
それは同情や憐れみとは違う、何か不快さを伴ったもので。

ああ、私はきっと…。



「…その布はな、初めて妖怪を殺した時から身に付けてたモンだ。
元は真っ白だったが、今は見る影もねえ。
その赤がずーっと、俺に呪いを吐いてる気がしてな。
自分がこれだけの命を殺しちまったって忘れねえように、いつも纏ってんのさ。」

「……その、すいませんでした。
私、何も知ろうともしないで、あんな酷い事を…。」

「…お前は間違っちゃいねーよ。
俺はただの、殺しが好きな気違いさ。
お前の見た通り、俺は依頼次第じゃ人間も殺す。慧姉さえ守れりゃ、結局ん所他だって見殺しだ。」

「…そんな事無いです。あなたは自分の信念に命を賭けてるじゃないですか。
私は自分の腕の事ばかり考えていて、やっぱりまだまだで……私は、ずっと半人前なんでしょうか?」

「……それでいいのさ。お前は、俺みたいになるな。

ただ…もし命を賭してでも守りたいモンが出来ちまった時は、抜き身の刀になる覚悟を決めな。
剣を握っちまった以上、そうならなきゃなんねえ時もある。」

「…ありがとうございます。」




私はきっと、憧れている。

本当に命を賭して戦う覚悟を決める彼に。


私はきっと、少しずつ惹かれている。

残忍さで心を塗り潰してしまわなければ壊れてしまう程の、彼の不器用な優しさに。


…そして私はきっと、嫉妬しているんだ。


彼にここまで覚悟を決めさせた、慧音さんに。




胸の中が少しずつ熱を持って、苦しくて。

ざわざわと夜風が枝葉をさざめかせる音が、私の胸の内と重なっている気がして。

初めて覚えた感情は、酷く私の心をざわつかせていたのです。


いつまでも。いつまでもそれはさざめいて。














「只今戻りました。」

「おかえりなさい妖夢、幽々子なら今席を外してるわ。」

「……紫様。」


白玉楼に戻ると、そこには幽々子様ではなく、紫様がいました。

…正直な所、今はあまり会いたくない人ではあります。
あの話を聞いても、私の中の疑問は消えてはくれなかったのが本音です。


「……妖夢。最近、○○に会っているそうじゃない?」

「………!!」


やはり、知っていましたか…。
射抜くようで、それでいて楽しんでもいるような紫様の視線は、私の目には酷く不愉快なものに映りました。
いけない。そうだ、彼も仕方の無い事だって言ってたじゃないか。


「くす…彼は実に優秀だわ。純粋な剣の腕ならともかく、戦闘に於いてはあなた以上かもしれないわね。」

「はい、彼はこと闘うと言う事に於いては私以上だと思います。一度手合わせをしましたが、全く歯が立ちませんでしたから。」

「ええ、『殺す事』に於いてはプロ中のプロね。
そうね、霊夢が私の可愛いお人形なら…彼は私の自慢の懐刀よ。
私が手を下すまでも無く、『不用品』を排除してくれる優れた道具ね。いつか使えなくなってしまうのが難だけど。」

「…………道、具?」



………今、この人は何て言った?

道具?

あれだけの苦痛と恐怖に晒される戦いの中で、それでも誇りを捨てないあの人を、道具だと言ったの?



「里の守護者の義弟みたいだけど、彼女もまた良い歯止めになってくれているわね。
彼も自身の運命を恨んでいるはずだけど、彼女を守る為にそれらを必死に押し殺している。

……鉄の意志を持った人の子は、どこまでも強いわ。
例え利用されていると解っていても、守る者の為に己を殺せるほどにね。本当に、素敵な道具よ。」



「八雲紫にとっても苦渋の決断だった。」と彼は言っていた。

そしてこの人は、彼の苦痛も全て知っている筈だ。

でも、今の言葉は何?

まるで人の運命を弄んで、それを楽しんでいるじゃないか。




違う。




違う…!






___________________違 う ! ! ! ! ! ! 






「________!!!!」


「くす………そう、そのまま抜いて御覧なさいな。
きっと次の瞬間には、その可愛いおでこから刃が飛び出るでしょうけど。」

「…………参りました。」


柄を握った瞬間、私の右手の前にはあのスキマが広がっていました。
このまま抜いていたなら、恐らくは彼女の言う通り、私の体内から刃が突き出ていたでしょう。

勝てない……あれだけ彼を虚仮にされて、それでも私は刃を抜けないと言うの……。


「ごめんなさい…少し言い過ぎたわね。でも合格。それでいいのよ、妖夢。
もしあなたが今抜こうとしなかったら、逆にあなたをスキマに放り込んでいたかもしれないわ。」

「!?……紫様、それは…。」

「ふふ……何かを守る為には、時には悪になる覚悟も必要なのよ。
あなたはきっと、一人前の剣士になれるわ。また来るわね。」

「あ…紫様!?」


行っちゃった…ああ、でもどうしよう。カッとなって紫様に剣を…。


「あらあら、あの子もう帰っちゃったの~?おかえりなさい、妖夢。」

「幽々子様……。」

「……妖夢、ちょっと私の部屋においでなさい。久しぶりにゆっくりお話がしたいわ~。」

「は、はい…。」


やっぱり見られてたよね…ああ、恐れ多くも紫様に刃を向けようとしたなんて、きっと幽々子様も怒ってらっしゃるだろうなあ。
今日は長そうだなあ…。



「そんなにびくびくしないの。さっきの事は少しも気にしてないから、こっちへいらっしゃい。」

「はい…。」


姿見の前に座らさせられたかと思えば、幽々子様は何やら引き出しの中を探している様子で。
私はその間、呆然と鏡の中の自分とにらめっこをするばかりでした。

髪もずいぶん伸びて来ちゃったなあ、そろそろ切らないと。


“おい、コケシ。”


……いや、やっぱりしばらく伸ばそう。
何だか言われっぱなしは無性に腹が立つ。私はお菊人形でもコケシでもない。


「あらあらどうしたの?そんなにむくれちゃって。」

「ひゃっ……!?ゆ、幽々子様いつのまに!」

「ふふ、妖夢もそろそろお年頃かしら~?最近前にも増して肌が綺麗になったわ。
でも、それだけじゃ足りないわ。ちょっとじっとしてなさいね。」

「幽々子様…?」


幽々子様は、真剣な面持ちで私の髪に櫛を通し始めました。
そうしてされるがままにしていると、徐々に姿見の中の私は、違う髪形に変わって行きます。


「……ごめんなさいね、妖忌の事を黙っていて。」

「いえ…お祖父様にはお祖父様の考えがあると思いますから。
それに、そうでなければ彼とも出会えては…。」

「ふふ…“彼”って誰かしら~?」

「あ。
いえいえいいえ、そんな長髪仏頂面の性格最悪の男の人の事じゃないですよ!!」

「ふふ…全然隠し通せてないわよ?初心でいいわ~。最近よくお出掛けしてるのはその人のせいかしら?」


うう…よ、よりにもよって幽々子様に…ああ、恥ずかしい。


「もう少し待っててね。妖夢もいつまでもおかっぱじゃ一人前とは言えないでしょうから、少し女の武器を教えてあげる。
よし、出来た…ほら、見て御覧なさい。」

「わ…。」


姿見に映っていたのは、少しだけ大人びた様に見える自分の姿でした。
すごい…髪型だけでこんなに変わるんだ…。


「髪は女の命であり、そして男心を斬る刃よ。
紫から聞いてたわ、気にしていたのでしょう?髪型の事。」

「う…き、聞いていたのですか?」

「…紫も本当は、あのしきたりを作った事を、とても後悔しているの。
あの子もその男の人と一緒で素直じゃないから、ああやって憎まれ口を叩いてばかりいるけど。

でもさっきのやりとりを聞いていた時、少し安心したわ。
きっと妖夢も一人前になれるって。

西行寺家に仕えるのは、あなたの場合はあくまで妖忌に与えられた役目に過ぎないわ。
だけど妖忌は自分で考え、そして私に仕え、守ると決めた。

だからさっきあなたが刀に手を掛けた時、“この子はやっと、自分の守りたいものを見付けられた”って思えたの。
あなたはその人を想うからこそ、紫に剣を向けたのでしょう?それでいいのよ。」

「私の、守るもの…。」

「だけど、その前にその男の人の心を斬らなきゃね。
女には女の闘いがあるわ。髪は命であり刃、そして殿方の心を惑わすための技も必要なのよ。
……うかうかしてると、他の子に盗られちゃうかもね~。」

「な!?か、彼は決してそんな訳じゃ…。」

「はいはい、暴れないの。はい、今教えた髪形だけじゃなくて、今後はちゃんとこの香も身に付ける事。
これは私の戦いの歴史と共にあった香りよ。きっとあなたの武器にもなるわ。
思い出すわ~燃えるような恋の戦の数々を。」



もう、そんなんじゃないのに…。

でも、今の私を彼に見て欲しい。
出来るなら、皮肉じゃない彼の微笑みが見たい。

確かにその気持ちは、私の中に強く芽生えていました。



そうだ、明日早速彼に会いに行こう。
きっとどうせ変な事ばっかり言って来るんだろうけど、少しでも見返してやらないと。


……ちょっとでも照れさせたなら、私の勝ちだよね。











「どうですか?これでもうコケシなんて言わせません!!」

「ふーん…まあ、前よりいいんじゃねえの?晴れてまな板に昇格だな。」

「ま、まな板って…!」


もう、せっかく時間掛けて来たのに。
…って、え?頭に何か…。


「チビは相変わらずだし、その香もお前にゃ若干早え香りだぜ?
……ったく、血生臭え奴ん所じゃ浮く香りだ。」


くしゃくしゃと頭を撫でていたのは、初めて触れた、彼の大きな手でした。
ごつごつしていて、手のせいで前も上手く見えないけど…その向こうの彼はいつも通り偏屈で、だけど少しだけ優しい顔で笑っていました。


……よし、一本取った。




「ふふ、いいじゃないですか。
血生臭い匂いばかりのあなたに、ほんの少しのおすそ分けです。」

「まな板がナマ言ってんじゃねーよ。ったく、少しはだらだら過ごさせろってんだ。」

「む。剣士は常日頃の鍛錬を欠かしてはならないものですよ?
あなたには魂魄流の何たるかを思い出させなければいけませんね、大体私の方が姉弟子なんですから、ちゃんと名前で…。」

「はいはい解ったよ、妖夢さんよ。」

「ふふ…初めて名前で呼んでくれましたね?」

「さてね、幻聴じゃねーの?」



ああ、やっと名前で呼んでくれた。
そうだ、これからは何かとこうやって食って掛かるようにしよう。


……もっと、名前で呼んでもらえるように。

















その日の夜。

妖夢も去り、彼は独り、蝋燭も点けずに部屋の闇を見詰めていた。
その額には酷く汗が浮かび、そして何かに縋り付く様に強く刀を握り締める。

虚空を見詰める彼の目には、酷く混乱と恐怖が浮かんでいた。
それはまるで、何かに追われる獲物の様な、弱々しい怯えを孕んでいる。


「はあ…はあ…。」


その刹那、彼の鼻腔を妖夢が身に付けていた香りが通った。
それを感じた瞬間彼の目は理性を取り戻し、そして酷く疲れ果てた様子で仰向けとなる。



「……ったく、つくづくここにゃ似合わねえ香りだ。」



荒くなっていた呼吸が徐々に平静を取り戻し。
そして彼の意識は、まどろみの奥へと呑まれて行った。

妖夢が残していった、甘く、そして何処か悲しげな花の香りに包まれて。









続く。
 
 
 

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最終更新:2013年06月23日 10:55