「あ…これってあの時の。」


鏡を覗いていた妖夢が気付いたのは、首筋に走る一筋の薄い傷だった。
そしてこの傷を残した張本人の事を思い出し、彼女の中には一つの心配事が産まれた。


“○○さん、また怪我してたりしないよね。”


彼の身体中にある傷跡。
その中の一つに、先日妖夢が縫い合わせたものがある。


そして、彼の片眉にある大きな傷に纏わる過去を、彼女はまだ知らない。
妖夢と同じ傷を持つ者が、もう一人いる事も。






初の心にさざめく夜は。-ep.4-








“もう真っ暗だ、今頃お酒でも飲んでるのかな。”


妖夢はいつも○○に会う時は、白玉楼での仕事をこなしてから向かうのが常である。

しかしこの日はトラブルにより仕事が長引いてしまい、既に日も暮れてしまっていた。
出た頃は遠くの方に僅かな夕暮れが見える程度であったものの、今やすっかり月明かりのみの夜空の下。
冬はまだまだ先とは言え、昼夜の寒暖差に少々肌寒さを覚える。

いつも通り人里に入るも、里には酔っ払い以外はぽつぽつとした家々の明かりしか見えず、妖夢はその中を真っ直ぐに彼の家を目指して歩いていた。


「こんばんわー。」


返事は無く、家の中は真っ暗だった。
布も暗器や防具の類も一処に纏められており、依頼があった訳でも無い様子。
妖夢は仕方なしに一度○○の家を後にし、しばらく里を歩いていると、寺子屋の側に来ていた事に気付く。


“そうだ、もしかしたらここにいるかも。”


「ごめんくださーい、慧音さんいらっしゃいますか。」

「おや、妖夢じゃないか。○○を探しているのか?」

「はい。家にはいない様子で。」

「そうだな…ならば多分、里外れの沼にいるはずだ。
あいつはそこでよく夜釣りをしているんだよ。こんな時間に沼で釣れる訳でも無いのだが。」

「そうですか。ありがとうございます、ちょっと行ってみますね。」

「ああ……妖夢、少し待て。首を見せてくれないか。」

「…この傷ですか?そんな大した事じゃないですよ。」

「やはりな………私にも、お前と同じ傷がある。」


そうして髪を掻き上げた慧音の首筋には、同じ様に薄らとした刀傷があった。
それは妖夢が最初に付けられたものと同じ、刃先が撫ぜた事による傷。
その線は、かつて慧音も同じ様に刀を向けられた事を気付かせるには充分だった。


「強い念が込められた刀傷は一生残ると言う噂は、お前も剣士ならば聞いた事があるだろう?
……あいつは、何を想ってお前に刀を向けたんだろうな。」

「………解りません。でも、私が会いに行きたいだけですから。
ありがとうございます、探してみますね。」



そうして妖夢が慧音に見せた笑顔には、少しばかり引きつったような不自然さがあった。
妖夢自身も無意識ではあろうが、以前の件による不信が表に出ていたのかもしれない。

…或いは、またそれとは別の感情か。


そのまま妖夢は○○の元へと向かい。
一方の慧音は玄関も閉めず、ただその背中を見送るばかりだった。


その唇を、憎々しげに噛み締めて。




「…妖夢。何故、何故貴様なのだ……。」










その沼の畔には、小高い大岩があった。

妖夢はそこから糸を垂らす人影を見付けるも、最初は○○だとは認識出来なかった。
いつも横顔を隠す長い髪を、珍しく後ろで束ねていたからである。

月明かりに照らされていたのは、何処か哀しげな横顔。
それは彼のまた違う一面を見せていて、妖夢は暫し呆然とそれを見つめていた。


「……釣れますか?」

「お前か……いや、毎回ボウズだな。」


微笑みながら彼の隣に腰掛けた妖夢であったが、その内心には僅かな痛みが走り、瞳は彼の或る一点に目を奪われていた。
片眉の上からこめかみに掛けて走る、痛々しい古傷。
露わになったその傷は、何故か妖夢の胸を酷く締め付けるものだった。



「髪、今日は束ねてるんですね。」

「…まあ、釣りには邪魔だからな。誰か見てる訳でもねえし。」

「傷を、誰にも見られないからですか?」

「…………。」


さらさらと葉の揺れる音と、水が流れる音だけが響く。
その静寂の中にあっても尚、彼は妖夢の方を見る事は無く、ただじっと糸の先を見つめていた。

その先は、微動だにしない水面に映る月へと垂らされたまま。



「……教えてくれませんか?その傷の事。」

「そうだな……お前、俺の二つ名は知ってるか?」

「いえ…。」

「“血色の化け物”、なんだとよ。妖怪連中と里の連中、共通の二つ名さ。」

「化け物、ですか…。」

「慧姉ん所から攫われた後は、師匠の所でひたすら修行だったよ。
何で修行しなけりゃならないかも解らなくてよ、ただ帰る為に必死だった。
それで13になる時に、またスキマ送りにされてな。
そこは夜の森だったんだが…そこで俺は、初めて妖怪を殺した。」

「…………!!」

「あの時は怖くてな、無我夢中で滅多斬りにしたさ。
あの布は、元は咄嗟に掴んだ布団の敷布だったが…返り血で真っ赤になったそれを見た時、初めて命を殺したって実感したんだ。

そこから里に戻ったはいいが…待ってたのは修行の理由のネタばらしさ。
“お前が今日から退治屋だ”って、淡々と言われただけだった。

慧姉も結局、退治屋用の俺を野垂れ死なせない為に引き取ったんだろーなって思ってな。
あのバカ姉貴、そんなん知らねーで泣きながら俺んとこ乗り込んで来てよ…………頭来たから、お前にやったみたいに、真っ先に喉元に刀ぁ向けてやったのさ。」

「…さっきここへの道を尋ねた時、その傷を見せてもらいました。
とても薄いものですが、あれは躊躇い傷ですね。
○○さん。あなたは慧音さんを自分に関わらせたく無くて…。」

「……さてね。
まあ、その恨み辛みは片っ端から依頼にぶつけたさ。
んで、初めて仕事をこなした時、殺した妖怪連中から化け物って言われた。
同じ事考えたんだろうなあ、それは人間にも広まっててよ……まあ、よくある話だ。こいつは、それで石投げられた時の傷なんだよ。」



その一言を聞いた時、妖夢は自身の爪が掌に刺さるのを感じた。

それは憐れみでは無く、怒り。
痛々しく浮かぶ彼の顔の傷が、妖夢にはまるで自身のモノであるかの様に感じられた。



「……じゃあ、それを縫ったのは…。」

「ああ。慧姉にバレちまって、無理矢理縫われたモンさ。
ボロ泣きでよ、すまないって必死に謝ってさ。

……それまで散々追っ払ったし、斬りつけたりしてたんだぜ?
それでも諦めやしねーし、そんなもんにまで責任感じやがってよ。

何かもう、そん時に呆れちまってな。
“ああ、それでもこの人は変わんねえんだ”って。

…その時さ、何が何でも慧姉を守るって決めたのは。」

「…………!!」

「親が妖怪に喰われたって言っても、ツラも名前も覚えちゃいねえ。
血の繋がりはねえが、俺にとって家族は慧姉だけだ。

だからよ…里に手を出す奴らは、何が何でも殺す。
慧姉には、血の一滴も浴びさせねえ。」


きゅっと、妖夢は自身の唇に痛みを感じた。
無意識に唇を噛み、そして血の味が口内に広がる。

胸に渦巻くのは、複数の哀しみと、そして小さな嫉妬。
それらは清水に零れた血の様に、妖夢の心に赤く淀みを作っていた。


“…私だって、同じ跡をあなたに残しているのに。”


ふと過ぎった暗い感情に彼女は一度、小さく首を振り。
ぎこちない無表情を、必死に取り繕っていた。


「けどおかしいなあ。
身も心もすっかりバケモンになったつもりが、どう言う訳か、たまにこうやって釣りに出ちまう。
……小せえ明かりぐれえは掴めるモンだと思ってたが、沼のお月さんも結局は幻だ。釣れやしねえよ。」

「…………ちょっと、竿を借りていいですか?」


妖夢は彼から竿を取ると、その先をくいっと何度か動かした。
ただ糸を垂らすだけの彼とは違い、彼女のその糸の動きは、確かに何かをおびき寄せようとする動き。

それを繰り返すうち、手応えの後に彼女は一匹の魚を釣り上げた。
それは月明かりに照らされ、眩く銀色に輝く一匹の魚。

まやかしではない輝きを、確かにその魚は放っていた。


「月は釣れませんけど、何かを釣ろうとして竿をちゃんと操れば、魚ぐらいは釣れます。
身近なものですけど、こんなにきらきらしてるじゃないですか?灯台下暗しですよ。」

「……けっ、言ってろ。」


いつも通りの皮肉とは裏腹に、その横顔はとても穏やかだった。
それを見て、妖夢はただ微笑みを浮かべていた。


「さて、与太話はここまでだ。帰るかね。」


大岩を降り、畔を二人が歩き始めた、その時の事である。


「とりあえずこいつは塩焼きにでもして……おおおおおおおおおおお!!!!!????」


○○はぬかるみに足を取られ、その直後にばしゃんと激しい飛沫が上がる。
足元も碌に見ずに夜の畔を歩けば、ある意味当然と言える結果。

そして髪が解け、さながら水死体か幽鬼の様な姿の○○が水中から顔を出していた。


「ぷ…あはははははははははは!!!!!!
さっきまで散々かっこつけといてそれって!!本当に亡霊みたいですよ!!!」

「……………てめえ。」

「え……きゃ!?」


直後、再びどぼんと水音が響く。
○○が妖夢の足首を掴み、お返しとばかりに沼へと引きずり込んだのだ。


「柳の下に幽霊、むしろ半霊のてめえのほうがお似合いだろーがコラ。
……白のドロワ、ねえ。まあ色気の無い事で。」

「ちょ!?見たんですか!!」

「おー見たともよ。別にありがたくもねえよ馬ぶっ!?」

「ふふふ、ならお返しです。ほーら、亡霊に磨きが掛かったんじゃないですきゃっ!?」

「……んの野郎、飛べなくなるまで水ぶっ掛けんぞコラ。」

「受けて立ちますよ?いつぞやの決着もまだ着いてませんしー?」

「ありゃ俺の勝ちだろ。二度目の敗北でびしょ濡れになりやがれ。へっ…。」

「ええ、じゃあここでどっちが上か解らせてあげます。ふふ…。」


「「あははははははははははははははははははははははは!!!!!!!!!!」」



月明かりの下、陸に上がりもせずに二人は笑った。
それは妖夢にとっても、○○にとっても、久々に心の底から大声で笑った瞬間であった。

その時妖夢は、初めて彼の屈託の無い、彼の素がよく出た笑顔を目の当たりにしていた。



「……月が、綺麗ですね。」

「ん?何か言ったか?」

「いえ…何でも無いです。」



ぽそりと口に出した言葉も、そこに込めた僅かな想いも、彼の耳には届いてはいなかった。
だが、それでも妖夢の胸の内は幸せだった。

ほんの少しだけの淀みを、赤く残して。











それから幾ばくか過ぎた、ある日の事だった。


いつものように彼の元を訪れた妖夢だったが、その日は彼はおらず、武具の類も家から無くなっていた。
それを目に収めた彼女の心には、急速に不安が浮かぶ。


“また依頼があったんだ…どうか、無事でありますように。”


「泥棒か…オイ。」

「○○さん!?」


そこに現れた○○は、返り血以外の血を流していた。
布には幾つも鋭い切り傷が入り、そこから赤い切り口が見え、ぼたぼたと血を流している。

少なくとも、妖夢の記憶の中では最も深手を負った彼の姿がそこにはあった。


「どうしたんですか!?こんな傷…。」

「ああ…カマイタチの連中とやり合ってな…。
ちっとめんどくせえ奴らだったからよ…とりあえずそのままぶった斬った。」


恐らくは、攻撃を全身に受けながらも無理矢理突っ込んで勝利を得たのであろう。
帷子以外の防具には全て切り傷が入り、もはやそれは意味を成してはいなかった。

装備を脱がせて見ると、よりその傷の生々しい深さが妖夢の目に映る。
一部は肌を通り越して肉まで達し、滴る血は消毒を施して尚も止まる気配は無い。



“ぞく…”


そして妖夢の胸の内には、彼を気遣う心以外に、ある感情が浮かんだ。
それはとても暗く、柘榴の様にぱっくりと開いた彼の傷口と重なるような、酷く爛れた想い。



“この傷を縫ってしまえば、きっと私の方が……”



無言で針と糸を取り出し、前触れも無くその傷に針を通した。
彼は突然のその痛みに一度抗議の声を上げそうになるが、妖夢の顔を見た瞬間、その声は喉元で止まった。


それは、あまりに真剣すぎる眼差しだった。


丁寧に、一心不乱に傷を縫い合わせるその姿は、何か鬼気迫る物を纏っており。
無意識に声を掛けてはいけないと感じた彼は、ただ呆然と、一つ一つの傷が縫い合わされていく様を見詰める事しか出来なかった。




「……終わりました。」

「あ、ああ…すまねえな。」

「○○さん……もう、こんな無茶はしないでください!!」

「…………?」



妖夢は彼の腕にしがみつき、嗚咽を漏らしていた。
それは心から彼の無事を願うゆえの涙でもあったが、もう一つ、違う意味を持っていた。


傷を見た瞬間、妖夢の脳裏には、彼の目蓋の傷に纏わる感情が過ぎっていた。

それは慧音への嫉妬と、そして自身の縫った腕の傷が、忘れ去られていると感じた哀しみ。



“これを縫ってしまえば、私の跡が彼に残る”と。
“これを縫ってしまえば、あの人の跡よりも、私の跡が多く残る”と。





_______“もっと、私を見て欲しい。”と。





初めは少しだけだった筈が、日々強くなり続けていく彼への想いと。
そして、それが深まると同時に濃さを増していく、自身の浅ましい想いと。

初めて覚えた自覚出きるほどの黒い感情に恐怖し、我に返った妖夢は怯えていた。




「…………妖夢。」




彼は震える妖夢を抱き締めると、その髪を何度と無く撫でた。

それは彼女への罪悪感から来る、慰めの感情だったのかもしれない。
深まり続ける彼女の想いに気付かないまま、彼はその肩を抱き締める事しか出来なかった。


その腕のぬくもりが彼女を安堵させ、同時に彼女の黒い感情を濃くする事にも気付けずに。

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最終更新:2013年06月23日 11:15