「忘れてしまった約束は、ありませんか?」


 一日前の事。
 一週間前の事。

 一月前の事、一年も前の事。

 妖怪にとって、それは。
 一瞬と、変わらない事だって、あるだろう。

 嬉しい約束をされたなら、尚の事。


「土砂降りか……」
 梅雨の名残か、大雨が続いた。
 外には出ようとはしてみたものの、地盤の弱い場所では足をとられ、
 まともに歩く事もままならぬ状態。

 此処はどちらかと言えば、気候は安定しているほうだと思っていたが。
(異変などでまぁ、良く崩れはするのだが)
 珍しい事もあるものだ、と、残り僅かな食料のもやしをつまみ、口へと放り込む。
 いっその事、キノコの栽培でも始めるか。
 ……ふと一瞬、そんな考えが頭を過ぎったが、此処では何が生えるか判った者ではない。
 0.1秒待たずに回路はNOと答えを出すと、やる事も無いので寝る事にする。

 雨は、何時上がるのだろうか。


 カタ……

 浅い眠りの中、扉の方でそんな物音が聞こえたような気がした。
 この雨だ、多分気のせいだろうとは思ったのだが、やる事も特に無かったせいか、
 気の向くまま扉の方へと近付いて。

 ……カタン。

 もう一度、その音を聞いてしまう。

 特に開けない理由も無かった。


「……くしゅっ」
 扉の前に居たのは、小柄だが、何処か落ち着いた雰囲気のある妖精。
 その辺に沢山居る妖精とは少し違う、纏め役の大妖精、とでも言った感じの奴。
 開けた手前、そのままにしておく事も出来ず、うちに上げてやる。
「あ……」
 びしょ濡れの体を、無理矢理に家へと連れ込むと、扉を閉め、
 そのまま厳寒に老いてあったタオルで体を拭いてやる。

 一通り拭き終えてから、なるべく脅えさせないように声を掛けた。
「大丈夫か?今、何か暖かいものを持って来てやるからな」
「……あ、はいっ」
 脅えた様子もなく、にっこりと可愛らしく微笑んで、返事をする。
 こういう可愛らしい所は、妖精の長所だ。

 まぁ、これで悪戯好きでもなければ、
 妖精を嫁に貰う男共がその辺にごまんと転がっていそうなものだが。

 あたいったらひくてあまたね!

 何か聞こえた気がする。
 多分、俺の頭の中の妖精さんだろう。

 勿論聞かなかったことにした、気にしたら⑨だから。


「……てますか?」
「え?」
 彼女の声に気付き、振り向く。
「いえ、……何でも、ありません」
 何処か礼儀正しい彼女に、”違和感”を感じた。
 見た目の雰囲気としては、ばっちりあっているような気もするのだが。

 ……何故だろうか。


「悪いな、麦茶しかなかった。あぁ、火傷しないように気をつけて」
「ありがとう。……麦茶が、好きなんですか?」
「いや、そういう訳では……。
 ただ買い物にすら行ってないから、もう飲み物も食べ物も、全部使い回したと言うか。

 あ、これお茶請けね」
 そう言ってもやしを差し出す。
 彼女はそれをつまみ上げると、頭の上に ? マークを浮かべ。
「見た事も無いお菓子だぁ……」
 と、ほんのり顔を赤らめていた。

 口に入れたときのがっかりした顔が、非常に見ものだったとか。


「あの……」
 大妖精はマヨをつけたもやしを口に運ぶのを中断し、何か言いたそうにしている。
「ああ、安心していいぞ。厠も風呂も、室内にあるから」
「ち、違います!」
 怒られてしまった。
 デリカシーが無さ過ぎただろうか。
「そうじゃなくて……さっきも聞きそびれてしまっ……聞きそびれちゃったんだけど」
 ……突然、軽めの言葉に言い直すと。
「……あなた、○○でしょ?私の事、憶えてる?」
 意味の分からない言葉が、聞こえた。
「……は?」


「あぁやっぱり。○○だったんだ」
 口調は完全に崩れた。
 いや、崩れのではなく。
”本来あるべき関係のモノに戻った”のだと。

 感覚だけが、そう理解していた。

「約束破って、こんな所に隠れてたんだ?
 ずっと探してたのに……

 もしかして、私達と遊ぶのが、楽しく無くなっちゃったのかな?」
 首を傾げながら、問い詰めるような口調で。
 しかし、身に覚えは無い事。

 知能の低い妖精の事だ、誰かと勘違いしているのだろうと、軽くあしらおうとする。
「何の約束だ?確かに俺はそういう名前だが、ひょっとして何かの悪戯……」

 ぐしゃっ。

 顔に、衝撃。

 一瞬視界が暗転した。

 目を開くと、俺は踏みつけられていた。

「誰が逃げて良いって言ったの」
「ちょ、ちょっと待て!話を……」

 ぐりっ ぐり ぐり

 顔面を踏みにじるその力は容赦なく、想像よりも遥かに強かった。
「○○は約束したよね?私達はずっと友達だって」

「懐かしいなぁ。こうやって、○○を毎日鬼ごっこで捕まえてさ、こんな風にしてたっけ」

「楽しかったなー。○○の声聞いてると、凄くスッキリするんだもん。
 最近になるまで、少し忘れかけてたんだけどね?」
 そう言った大妖精の手には、千切れてしまったリボンがあった。
 少し、しょげたような顔になる。
「でも、○○がくれたリボン切れちゃって……思い出しちゃったんだよ、色々と」

 何処か見覚えのあるリボンと、彼女に感じた違和感。
 口調も、”あの妖精”と変わらない。
 ――まさか。

 彼女は色の違うリボンを取り出して、結んでみせると。
 ……あの頃と同じ表情で、笑った。

 残酷で、悪意の無い、可愛らしい笑顔で。


 ぐりっ ぐりぐり ぐりっっ
「や、やめてくれ!!」
 押し退けようと手を伸ばすが、顔面を足に押さえつけられたまま身動きが取れない。
「やだ」
 あっさりと言いのけた大妖精は、腹部へと足を伸ばし


 ずどんっ と、腹部へ降ろした。

 激痛と同時。
 胃から酸っぱいモノが溢れ、逆流する。
「わっ、汚いっ」
 彼女は足を除けてくれたが、意識は其処で途切れてしまった。


 ――。
 妖怪だとか妖精だとか、まだ理解していなかったあの頃。
 特に妖精と、とても仲良く遊んでいた記憶がある。
 妖精は優しかった。
 いつだって自分と遊び、微笑みかけていてくれた。
 明るく無邪気だった妖精達は、自分にとって太陽だった。

 それに比べ、人間は――
 自分を蔑み、傷付ける事しかなかった。
 あるのは確執、ただそれだけで――

 妖精の事を馬鹿にした彼らが許せずに、自分は喧嘩をした。
 手酷い、返り討ちにあった。

 一生残るだろう、そう言われた傷さえも負って。
 そこに、一人の妖精の姿が見えてくる。

「○○っ、どうしたのー!?凄い怪我してる……」
 あの娘だ。

 さっきまで、俺を踏みつけていた、あの。

「もしかして、あの人間?いっつもあの子達、○○の事っ」
 大妖精は、泣きそうだった。
 けれどそれ以上に、彼女の眼には違うものが映っていた。


「仕返し?」
「そう、仕返ししよう」
 土砂降りの雨の中、彼女に連れられるまま、俺は山の上へと来ていた。
 その辺りには、ごろごろと岩が転がっており、今にも崩れそうなものまである。
「ちょっとした悪戯だよ!
 この前調べたんだけどね、丁度あの子達の家って」
 そうして、崖下を指差す。
「此処から真っ直ぐの場所。あそこにあるんだ」
 真っ直ぐとは言ったが、その手前や横にも家はある。
「ちょっとした悪戯だよ――

 此処から岩を落としてさ、あの子達をびっくりさせてやろうよ!
 ○○だってやられっぱなしなんて、……いやでしょ?」
 何処か重い、その言葉。
 自分の傷を見て、俺はその岩に手を掛ける。
「一人じゃ無理だよね。

 だから、私も一緒にやってあげる」


 だ っ て ト モ ダ チ じ ゃ な い ?


 大妖精と一緒に押したその岩は、崖崩れを起こし、その人里を丸々飲み込んだ。
 気付けば、大妖精に手を握られていて、そこからずっと遠い場所に居た。
 まるで瞬間移動を、したみたいに。

「やったね!!」
 崖崩れの様相にあっけにとられていた俺の表情は、固まっていたらしい。
 彼女の笑顔を見て、漸く笑う事が出来た。

 雨もまた、何時の間にか上がっていた。
 彼女の、笑顔の様に。


 自分のやった事の重大さに、気付きたくは無かった。
 帰る場所も無くなった、戻る場所なんて無いと、考えるまで。

 残されていたものといえば、少し前に祭りで買った、
 大妖精に上げようとしていたリボンだった。

 崖崩れを聞いてだろうか、別の人里の人間に見つけられ、
 俺は、貰われることになった。

「あ、○○っ!今日は何して遊ぶ?」
 うきうきとする彼女。
「……どうしてそんなに嬉しそうなの?」
「え?だって、○○を虐める悪い奴は、もうこの世に居ないんだよ?」

「人間って、よわいし、ね」

「だからまた、楽しく遊ぼうよっ!!ねっ!」
 彼女の言った、よわい、の意図はつかめなかったが。
 自分の、いや俺の敵が減った事を、心から喜んでいた。
「……うん」
 俺は、ただ頷くだけで。

 どちらにせよ、もう会えない――  会わない。
 だから。

「この前のお礼にさ」
「うん?何?」

「わっ……これ、可愛い!」
「大ちゃんに上げるよ。似合うと思って、買ったんだ」
「わぁ……わぁっ……わぁーっ」
 リボンをひらひらとさせながら、喜んで。髪を結んだ。
「ねっ、ねっ、似合うかな!どうかな?」
「うん。とっても可愛いよ、大ちゃん……」

 その時約束をしたのだ。
 これから居なくなるというのに。

「か、可愛いって……」
「……」
「ほんとに?ほんとに?」
「……うん」
「じゃあじゃあ、わたし、○○のおよめさんになりたいなっ」
「……うん」
「それでそれでね、○○の為にいっぱい綺麗にして……もっと可愛いって、誉めて貰うの!」

「……うん」
「やったぁー♪○○、大好きっ」

 不意を突かれて、口付けられていた。


 それで今日は、何をして遊ぶの? ○○。

 鬼ごっこにしよう。


 大妖精を鬼にして、俺は、あそこから去っていった。

 全て、忘れようと。
 全て捨てようとして。


「――」
「あっ。目が覚めたの?」
 大妖精がいる。
「こんなに強く怒るつもりなかったのに。○○が悪いんだよ?
 声も掛けずに、勝手に逃げてっちゃったりするから」
 結局、あの踏みつけも、何時もの事。
 彼女にとっては、遊びの延長でしかなかったらしい。
 あの頃とは違い、互いの体の差のせいか、加減がきかなかった、という感じに。

「大ちゃん……」
「うふふ。なーに?」

「ごめん」

 ただ、謝るしかなかった。

「何が?」

 でもきっと、伝わらないだろうな。

 判ってはいた。

「○○が謝っても、逃げた罰は取り消さないよー」
 けらけらと笑ってみせながら、その手には何かが握られている。

 自分の手だ。
「もう何処かに行っちゃダメだよ?
 あなたは、わたしのだんなさまなんだから♪」


 絶
 対
 に
 逃
 が
 さ
 な
 い
 よ


 何時の間にか空は、晴れていた。


 俺はもう、家に帰る事は無くなった。
 大妖精に言われるがまま、俺は、妖精と同じ様に自然の中で暮らす事になっていたから。
 人間、そんな生活にも適応してしまうものなのかもしれない。

「ただいまっ あ な た♪」
 何時もとは違う洋服を着こなして、自分の前でふわり、と待ってみせる。
 後ろの方で巻き毛の妖精がひんひん泣いていたが、気にしないことにする。

「ね、ねっ」
 何かを訴えるような目。
「可愛いよ、大ちゃん。誰よりも、すっごく」
「うんうんっ。わぁーいっ」
 はしゃぐように、自分に飛びつくと、ぎゅうっと体を抱きしめてきた。
「わたし、○○が好きでヘンになりそう……」
 手遅れ。
 と、言いたかったが、また踏まれたくないのでやめておいた。
「だから……」
「へ?」


 花畑を散歩していると、花の妖怪を見かける。
「こんにちは、風見さん」
「あら」
 何だか、こんな生活をしているせいなのか、妖怪にも慣れてしまったのだろう。
 寝床にそういった場所が多いせいか、自然と彼女とも話す機会があった。

 他愛の無い雑談を交わし、立ち去る。
 ただ彼女の妙な視線が、少しだけ、気になった。

「……浮気?」

「えっ」

「浮気したら……」

 空に、暗雲が広がる。
 直ぐに大雨が降り始めた。

「ヘンになる……かも」










「転生、ね」
 幽香は、先程の男を思い出して笑った。
「でもやっぱり、華やかでは無いわね。男の妖精って」
 そう言うと、暗雲から離れるようにして、ふわり、ふわりと飛んでいった。
最終更新:2010年08月27日 09:38