獣が、ここにはいる。





血肉を欲しがり、喰らえども喰らえども、乾いて行く獣。
それはやがて喰らう者も無くなって、いつしか自身の血肉ですら欲しがるようになる。


無理矢理に封じ込めたそれは。
ふとした隙間から、やがて爪を這い出す。




裏返り、そして取って代わろうと鳴き声を上げて。









初の心にさざめく夜は-ep.6-








夜もとうに更けた白玉楼。
妖夢は暗い自室の中で、一人物思いに耽っていた。

脳裏に浮かぶのは、あの日地底で触れた○○の手のぬくもり。
布団を頭まで被ってはみたものの、手形の様にくっきりと心に刻まれたそれは、寧ろ妖夢の眠りを妨げる物と化していた。

そっと掌を布団の外に出してみれば、そこにはただ冷たい外気があるだけ。
それは布団の中で温まっていた彼女の手には、実際のものより冷たく感じられた。




“寂しいなぁ…”



いつか怯えていた彼女を抱きしめていた腕は、ここには無い。
あの日繋いだ大きな掌も、やはりここには無い。

不意に、首筋へと手が伸びる。
目を凝らさなければ見えない程の薄い刀傷。
妖夢に形として残る彼の跡は、それだけだった。

彼が戦いで傷を負う度、妖夢は率先してその傷を縫い合わせて来た。
彼女はそうして自身の跡が彼に残る事に、仄暗い悦びを感じていた。

しかし日を重ねる程に、彼の心とぬくもりを知る程に、それは更なる暗い欲求を産む。


“この身にも、彼の跡を”と。
“互いの、消えない跡を”と。


刀傷が、熱を持つ。
彼の爪痕が自身の身体に喰い込む妄想が、とめど無く溢れる。
血が滲み、牙が喰い込む様な空想の痛みが。
想像の中の、狂おしいまでの彼の熱が。
妖夢の鼓動を、より激しいものにして行く。




“○○、さん…………!”




気付けばそのしなやかな指は下腹部へと伸びていて、そして彼女はその妄想の中で、静かに達した。

絶頂の熱が引けば、そこには部屋の温度と同じぐらいに、寒々と冷えた心があった。
その冷たさの中、不意に妖夢は自身の頬を涙が伝っているのを感じる。


ここには、彼はいない。


想い、その空虚を埋めるが為に熱に己の身を投げる程。
その熱が引いてしまえば、目の前にはただの現実が転がるだけだった。

まだ何も、彼には伝えていない故に。
壊れてしまう事を、恐れるが故に。

彼女は今も、その想いまでは告げられないままだった。




そして妖夢の脳裏には、ある女が浮かぶ。
その姿が浮かべば浮かぶ程に、今度は掌に深く爪が喰い込んで行く。


それは、彼が戦いに身を置く理由。
それは、彼が本心を圧し殺してでも残虐であろうとする理由。
それは、彼を縛り付ける呪縛。
それは、彼に血を浴びせ続ける枷。


それは、彼の目を独り占め出来ない理由。



“……あの人さえ、いなければ。”



ふと過る突飛な考えに、妖夢は独り首を振る。
しかし心の奥底で悲鳴を上げる本心は、何度もその首を切り落とす様ばかりを彼女に見せ付けていた。


彼が守ると決めたその義姉。
上白沢慧音の首が舞う、その様を。










妖夢が彼の元を訪れるのは、週に2、3度程。
そしてこの日も例に漏れず、いつも通りに彼の家の扉を開ける。


まだ昼過ぎではあるが、そこには珍しく眠りこける彼の姿があった。
髪は濡れており、一度湯浴みをしてから眠ってしまった様子。

傍には乱雑に木刀や鍛錬の道具が置かれていたが、それらには血が付いていた。
ふと彼の掌を見れば、血の滲んだ包帯が巻かれており、早朝から鍛錬に臨んでいた事が解る。

基本的に剣に慣れた者は、負担の掛かる場所に厚いタコがある。
それが更に擦り剥けていると言う事は、相応に過酷な鍛錬の後である事を意味する。

それを目に収めた時、妖夢の心はざわめきを覚えていた。


“こんなになるまで…まだ強くなりたいんですか?
まだ、あの人の為に戦うつもりなんですか?
○○さん、あなたは本当は…。”


妖夢は考える。

例えば彼が地底で暮らしていたのなら、それは平和な暮らしを送れるのではないかと。
例えば戦う事が無くなれば、もう狂気に身を晒す必要は無いと。

例えば“彼女”がいなければ。もう、心を圧し殺す必要は無いと。



“深く眠ってる……今なら、きっと…。”



妖夢は不意に、彼の頭の横に手をついていた。
その手で身体を支え、丁度横から覆い被さる様な体制から、じっと彼の顔を見つめる。

唇までの、僅か数センチの距離。

妖夢はただ真っ直ぐにその顔を見つめていた。
しかし、そのたった数センチの距離だけは、まるで石になってしまったかの様に詰める事が出来ずにいた。


「…………妖夢か。」


固まったまま、かなりの時間が過ぎてしまっていたのだろう。
薄らと開けられた彼の瞳は、まだうつらうつらと夢と現実の境目にあった。

まだ寝ぼけたままのせいか、彼は不意に妖夢の名を呼んでいた。
しかし妖夢は慌てる気配も無く、ただじっとその瞳を見つめている。

彼の瞳の奥に映る、妖夢のその表情は。
何処か、儚さや哀しさを含んだもので。


「……何てツラしてんだよ、お前。」

「…………!?」


伸びた手は、そっと彼女の頬に触れた。

予期せぬ行動に妖夢の鼓動は速さを増して行くが、彼女の脳裏に抵抗と言う選択肢は浮かばず。
妖夢はただ、自身の瞼が熱を持って行くのを感じていた。

哀しみと、喜びと。
そしてそのぬくもりが呼び覚ます、深い欲望への恐怖と。

それらから来る涙が、際限無く彼女の頬を濡らしていた。



「……何があったか知らねえが、泣きたきゃ泣けよ。
ただ、ちょっとそこどいてくれねえと頭突きかましちまうぜ?」

「ぐす…すいません…。」



溜息混じりの、困った様な微笑みが妖夢の目に映る。
あやそうとくしゃくしゃと頭を撫でてくれる手は優しいものだが、やはりそれは、彼女の求めるものとは違っていた。
気恥ずかしさと不満から、つい妖夢は下を向いてしまう。

故に、彼女は気付かなかった。
ぴたりと突然手の動きが止んだ時の、彼の身に起こった異変に。




「………逃げろ、妖夢。」

「えっ……!?」




その言葉に前を向こうとした時には、もう彼女は組み伏せられていた。
床に叩き付けられた衝撃が肺から酸素を搾り出し、一瞬彼女の視界は朧気になる。

だが、その朦朧とした視界でも、確かに見えた。
長い髪の奥に隠された、彼の瞳。
それが血の様な真っ赤な色に変わっている様が。



「ぐる…ぎ……し……る…。」


荒い息遣いと、獣の様な唸り声。
爪は先程より明確に鋭さを増しており、それが彼女の襟元に触れる。



「○○…さん………っ!?」


その瞬間、彼女の襟元に痛みが走った。


爪はその白い肌を傷付け、赤い血が彼女のブラウスに少しずつ滲んで行く。
そしてその赤を見た時、彼は獣の様な笑みを浮かべた。


“今の彼は、人間とは違う。”


それらの異常が、その事実を妖夢の身体へと刻み付けて行く。


「ん………!」


はだけた傷口に、彼は顔を埋めた。
肌に触れる舌は、流れた血を無心に舐め取っている。
それは渇ききった果てに水を求める獣の様な、生を求める必死さを伴っていた。


恐怖はあった。
今の彼は、果たして本当に彼なのか。それすら解らなかった。

しかしそれ以上に、妖夢の胸には愛おしさがこみ上げていた。

求められていると。
確かにその痛みが、彼の跡が刻まれた証であると。

彼女には、そう感じられた。


妖夢はその両腕をそっと伸ばし、より強く、胸元へとその頭を抱き寄せた。
その直後、血を啜る動きが止み、彼は立ち上がる。




「ぐ…ぎ……があああああああああああああああああ!!!!!!!!!」




それは、獣の咆哮だった。
口元からは未だ血を垂らし、そこには鋭い犬歯が見て取れる。


“ぞく…”


その様を見た時、妖夢は下腹部に熱を感じた。

彼の牙が肩に刺さる様が。
より深い痕が自身に付くと言う妄想が。
いつの間にか、彼女に笑みを浮かべさせていた。



“来て、○○さん………もっと、もっと深く……!”



全てを受け入れんとばかりに両手を広げ、彼女は微笑んだ。
ただしそれは、いつもの少女らしい可憐なものでは無い。


それは毒婦の様とも言える、妖艶な『女の貌』だった。


彼は、足元に転がる刀を手に取った。
理性を失っても尚剣を用いようとする様は、剣士としての本能か、或いは僅かに残る人としての魂か。

刃を抜き、そして浮かぶのは獰猛な笑顔。
血に混じり涎が垂れ、これから味わうであろう血肉の味を求める衝動だけが彼を突き動かす。


構えも何も無い、ただ肉を裂こうとする意図を持った刃が振り下ろされる。
それは薄暗い部屋でもぎらぎらと線を描き、その突きは真っ直ぐに妖夢へと向かって行く。

恐怖は無い。
彼女の中にあるのは、何処までも仄暗い愉悦と欲望だけ。


妖夢は瞬きもせず、ただ真っ直ぐにそれを受け止めようとした。



しかし。





「…………!!
……くっ、はあ…はあ…。」



鮮血が舞ったのは、妖夢の身体ではなく、彼の足からだった。
刃は床へと縫付けるかの様に足の甲へと突き刺さり、しゃがみこんだ彼の瞳からは、先程までの狂気と赤色は消え失せていた。

いつも通りの、漆黒の瞳。
そこには獣のそれではなく、本来の彼が持つ意志を取り戻した姿があった。



「………クソッタレ、てめえにゃバレねえようにしてたのによ。」



足から刀を抜き、彼は血まみれになってしまった妖夢の襟元に触れた。
はだけられた白い肌には、先程の爪痕が深く刻まれている。



「…………!?」



その瞬間、妖夢は彼の腕に抱き締められていた。
それはとても強い力で、しかし何かに縋りつくかの様な、か弱き抱擁だった。

彼の肩の震えが目に入った時、妖夢はその震えが示す感情を理解した。



「……大丈夫ですよ。私だけは、ずっとそばにいますから。」



彼女の腕が、そっとその背中を抱いた。

彼とは違い、優しく。
その感情の全てを包み込む様に、妖夢はただその背を撫ぜ続けていた。








いつの間にか日も暮れてしまい、部屋の中はよりその闇を濃くしていた。

囲炉裏の火に照らされた妖夢の胸元には、痛々しい包帯が巻かれている。
それを見かねた彼により、その華奢な肩には毛布が掛けられていた。

囲炉裏の火が部屋の熱を上げ、その度に胸の傷がひりひりとした痛みを持つ。
しかし彼女にとっては、その痛みですらまた愉悦を深めるものでしか無い。

吊上がりそうになる頬を抑えながら、彼女はそっと声を発する。



「……○○さん。あなたはもう、人間じゃないんですね…。」

「……ああ。」



彼の足の甲にあった刺し傷は、既に塞がってしまっていた。
貫通するほどの傷が、僅か数時間で癒えているその事実は、彼女の問いを否定する事を許しはしなかった。



「……退治屋の任期は満十年。だがそいつは、持って十年って意味さ。
所詮は俺も、元はただの人間だ。幾ら腕を磨こうが、妖怪を殺し続ければ、その返り血で身体を犯されちまう。

俺は少々殺りすぎたんだろーなぁ、最近じゃ段々制御も利かなくなって、さっきみてえに妖怪の血に取り込まれそうになる。
妖怪になった退治屋は放逐されて、晴れて自由の身だが……まだ、降りる訳には行かねえんだよ。」

「何故ですか?せっかく自由の身になれるのに……やっぱり、慧音さんなんですか?」

「それもあるが……俺が消えちまえば、今度は次の退治屋が来る。
俺がギリギリまで粘らねえと、ガキがゴミ掃除をする番になっちまうからな。」

「……………嘘つき。」



咄嗟に口をついて出た言葉は、妖夢の本心だった。

それらの理由も、また彼の本心ではあるだろう。
だが、まだ隠している事がある。妖夢はその事を知っている。

彼がその血に取り込まれかけた時、彼女はその獣の様な唸り声の中から、僅かに囁かれた言葉を聞いていた。


『殺してやる。』


それは暴走していたからこそ漏れ出た、彼の奥底に潜む深い感情を指す言葉。


妖夢はくすりと一つ微笑みを浮かべると、そっと彼の手を取り、自身のベストの内側へと招き入れた。
そこには扇子ほどの小さな短刀が隠されていて、その柄を手に握らせる。



「お前、何を……。」



困惑に揺れる彼の瞳を無視し、ゆっくりと鞘を外す。






__________そして妖夢は、その切っ先を自身の喉へと突き付けさせた。







「……本当は、憎いんじゃないんですか?
慧音さんも、お祖父様も、あなたにそんな運命を背負わせたこの世界も。

………そして、お祖父様の血が流れる私も。

もう、我慢しなくていいんです。
このまま私の喉を刺せば、あなたも少しは救われるでしょう?さあ…刺して下さい。」



笑っているのか、悲しんでいるのか。
自身の表情が今何を形作っているのかすらも、妖夢には最早曖昧だった。



“…それが憎しみでも、あなたの心が私だけで埋まるのならば。”


狂おしいまでの想いだけは、言葉にはならない。

彼は妖怪と化した今ですら、全てを押し殺してでも唯一の家族の為に戦おうとしている。
妖夢には、ただそれが許せなかった。


もし彼が自身を手に掛けたのならば、それがどれだけ深く彼を傷付けるのかを、妖夢は理解している。
この先何度と無くその瞬間を夢に見ては、焼かれる様な自責の念に彼が悶え狂う事も、解っている。


“それでも。叶わないのなら、せめて傷跡や憎しみとしてでも、彼の心を自身で埋め尽くしてしまいたい。”


妖夢の強い想いは、いつしか激しく歪んだ物へと変わってしまっていた。



いつかと同じ様に、首筋に細い痛みが走る。
彼の目は、その奥にある獣の色を少しずつ濃くして行く。

そう、それでいいと。
彼女はまた、その笑みを深める。




「………ナマ言ってんじゃねーよ、コケシが。」




だが、その刃が刺さる事は無かった。

投げ捨てられた短刀は畳に突き刺さり、彼はとても哀しそうな目で、じっと妖夢を見つめていた。




「はぁ……慧姉にしろ何にしろ、確かに何回ブチ殺してやろうと思ったか覚えてねーわ。
実際てめえと最初にやり合った時だって、師匠の孫ってだけで血が騒いだもんよ。

…だがそれ以上にムカつくのは、無駄に仕事する事だ。
刺して下さいだぁ?報酬は?んな殺る気もねえ馬鹿を斬るだけの、簡単で胸糞悪いタダ働きは御免だね。」

「…………っ!!!このわからずや!!私がどれだけ……」

「いーから黙ってろこのボケ、人の話は最後まで聞けやこのシメジが。
最近仕事が多くてよ、今その原因の馬鹿を追っかけてるんだが、そいつはマジでクソ野郎だった。

まあ、俺もそいつと同じ道歩んでたかも知れねえが、どーにもあんなんにはなりたくねえって思ってな。
………そいつの正体は、先代の退治屋さ。妖怪の力を使って復讐しようとしてんだとよ。」

「………先代の、退治屋?」

「こないだ取り逃がしちまった時が初対面だったが、いけすかねえスカしたクソ野郎さ。

……そんな腐乱死体以下のゴミクズみてーにはなりたかねえ、って理由じゃ不満かよ?
復讐に燃えてあんなんになるぐれえだったら、まだやりてえようにやった方がマシだぜ。

だから馬鹿な事考えんじゃねえ。
……ま、その気持ちだけは受け取って置くぜ。ありがとよ。」

「……………すいませんでした。」




彼の目には、強い決意が宿っていた。

そしてこうなってしまえば○○は一方的に捲し立てては事を無理矢理収め、意地でも決意を変えない事を、妖夢はよく知っている。
一度引くべきだと、彼女は無理矢理にその心を収めた。


胸に、またひりひりとした痛みが走る。


入念な手当てが成され、そして丁寧に巻かれた包帯。
痛みはまだ残るが、その処置には彼の優しさと、深い後悔の念がよく表れていた。


妖夢はその意志の強さと、捻くれた優しさに更に惹かれて行く。
しかし、同時にその仄暗い激情も、より淀みを増して行くのだった。



“○○さん…私は例えあなたが自由の身になっても、優しいあなたのままだと信じています。

だからこそ、許せない。
あなたのその宿命も、あなたが守ろうとする物も。


戦う理由さえ無くなってしまえば、もうそんな思いはしないで済むのに。
あなたに守りたい物があるように、私だってあなたを……。







________やっぱり、あの人が邪魔だ。”







ちきりと、鍔が音を立てた。

その音はとても小さなものだったが、妖夢にとっては、自身の想いと同じ様に重い音に聴こえた。


鞘の無い刀は、触れるもの全てに傷を付け、そして収まる場所も無い。



そして彼女の心の鞘は。
少しずつ、また皹を増やし続けて行くのだった。
 
 
心の鍔が、ちきりと音を立てる度に。 
 
 
 
 
  
 
 
 

続く。 
 
 
 
 
 
 
 
 

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最終更新:2013年07月03日 11:53