「……まあ、今日はこんな物でしょう。」
「ありがとうございます、でも一つ質問が」
俺は昼下がりの講義を終えた鈴仙にここぞとばかりわからないところを質問攻めしていた。
「ここはですね、この結合よりこっちの結合が強いので…」
「あー、はい、はい。成る程、そうなるわけですね」
鈴仙の講義は看護士見習いの因幡たちも多く受けていたが、鈴仙へとおざなりに礼をした後は机に突っ伏している者が多い。
「えっ、じゃあここも同じ順で反応していくんですか?」
こうして鈴仙に質問している間も、どこか冷ややかな視線を背後に感じている。
「いやこれは違います、今は時間が厳しいので昼にでももう一度来てください」
「わかりました、じゃあ後ほど」
その空気を察したのか鈴仙はばつが悪そうに部屋から出て行った。
今日の内容が良くわからなかったこともあって、もやもやした物を抱えたまま自分の席に戻る。
「〇〇は真面目だなあ、鈴仙なんて適当にやっても及第点くれるのに」
そこそこ仲のいい因幡のひとりが俺に話しかけてきた。 たった今起きた事が真っ赤になった額から知れる。
「まあこの講義が好きだからねえ」
「好きなのは講義だけ? 鈴仙も好きなんじゃないの?」
なんとなくは予想できた冷やかしを浴びせてきた。 こう言った話題は人妖問わず人気らしい。
「いやまさか、だって鈴仙先輩の授業わかり難いんだよ、おまけに声も小さいし」
わかり難いどころか、常に軽く復習しながらの授業なので何処を聞いてもわかる教え方をしているが、疑惑を晴らすためにも
少しくらいは心にも無いことを言っておいたほうが良いだろう
「ははっ、いえてるよ鈴仙はすっごい声小さいもんねえ。元軍人とは思えないよ」
「まったくだね、私はもう少し怖い人かと思ってたよ」
もう一人の因幡が話題に加わって話し始めた。
「ああでも脱走兵だもんねえ、そんな根性無いか、ははははっ」
「うわあ、酷いけど違いないね」
二人は鈴仙をこき下ろして笑いあっていた。
俺は外にいた頃、軍事系の事にも興味があった所為か、彼女の積んできた苦労が何とはなく察せて、出来てあまり笑う気にはなれない。
「あんなんじゃ細腕の〇〇でも勝てるんじゃない?」
「きっと勝てるよ、私が保証する。そうでしょ〇〇?」
「頑張ればいけるかもしれないね、今度後ろからこっそりやってみようかな。ははっ」
表面を取り繕うことの出来る自分がたまらなく嫌になりながらも、おくびには出さずにいた。
「おらぁ、座れ座れ」
「うわ、てゐ先輩だ」
そうこうしているうちに次の講義が始まったが、どうしても身が入らず、ぼんやりと板書をすすめる。
この世は皆が本音でできているとは思えるほど夢見てはいないが、どうしても自身に付いた後ろめたさがずっと張り付いて離れない。
「良いかーここは大事だから、しっかり覚えておいて」
大切そうな語句や説明が聞いた端から零れ落ちていった。
この年になるまで生きる中で、嘘というものが関係を円滑に維持する潤滑油になりえることを学んだはずだった。
歯車どうし、お互いの歯で傷つけあうことが無いように、薄い嘘の油膜が張りながら回り続けるのだろう。
「よし、じゃあ次〇〇読んで」
突然先輩に当てられてしまい、全く違うことを考えていた頭は早々すぐに切り替わるわけが無かった。
「〇〇、さては聞いてなかった?」
「すいません」
当然、取り繕えるわけでもなく素直に非を認めた。
「……245ページ初めから」
先輩はあからさまにため息をついて読むことを促す。 まともに教科書を開いてなかったことにうろたえていると、
忍び笑いがそこかしこから上がった。
「図のような反応経路を辿るとき…」
訳のわからない図やグラフの散らばる、英字新聞にしか見えない代物を読み進めた。
その後もてゐ先輩は俺を目の仇のようになんども設問を答えさせたり、教科書を読むときに指名してきた。
灰色でもない脳細胞を必死に励起させ、どうにか終業の時間を迎えて、開放させるかと思った矢先
「〇〇、後で私んとこに来なさい」
元来あまり神や風水の類はあまり信頼していなかったが、今日ばかりは無性に藁にでもすがりたい気分になった。
うまくてゐのお叱りをなだめすかした後、鈴仙の部屋を訪ねようとしていた。
永遠亭で教えを請う身ではありながらも、外来の稀人という出自のせいで半ば客人としての扱いを受けている。
しかし長く厄介になりそうなことがわかって以来、雑用仕事にも当たって下男としての立ち位置もあった。
その中途半端なそれぞれの立場のお陰でこの永遠亭での上司になる先輩方や先生、果ては姫様までもいくらかお近づきにはなれたと思う。
中でも先輩にあたるてゐや鈴仙は同じ師の下で同じ釜の飯を食っている仲……というのは言い過ぎかもしれないが、かなり親しい方だった。
こうして茶菓子を持って行くのも初めてではない。
正直に言ってしまうと「あとでもういちど聞きに来い」というのはお茶を入れて欲しいという意味でもあった。
はっきりしない立場であることは因幡たちにも知れているが、客人でもある手前、おおっぴらには雑用を頼んでこない。
現代日本にはなくなりかけている美徳というものだろうか、本当に彼女達から学ぶことはまだまだ多い。
部屋に入ると鈴仙は読んでいた本から目を上げて待ちわびていたかのように声を掛けてきた。
最初は明るい表情を浮かべていたが、俺の姿をみると次第に気遣うような表情に変わり始める。
「その、随分やつれて見えるんだけど〇〇君」
「どうってことはないですよ」
「またそうやって……私はそんなに頼りがいの無い先輩?」
「うっ」
鈴仙にはどうしても隠し事が出来なかった。 外の世界で育つ中で身につけた筈の嘘も総て見破ってくるのだ。
「実はてゐ先輩の授業で下手を打ってしまって」
敵わないな、と思いながら喉に掛かる言葉を必死に押し出す。
「遅くなったのはさっきまで説教されてたからね」
「すいません、自分がぼんやりしていたからです」
「誰だってぼんやりする事はあるわ。 私の分のお菓子一つあげるから元気出しなさい」
「え、いや、そんな」
まるで子供をあやすような彼女の言葉に気恥ずかしさを感じたが、少しだけ嬉しいと思った。
「さ、お茶にしましょう」
私は〇〇を気遣いながら波長を視ている。
その波長は私が今まで見たことがないほど綺麗で、美しい弧を描いていた。
生涯を通してあらゆる者の波長を見てきたが、これほどの物は視たことはない。
正と負、二律背反の正弦の波形。
正に寄らず、負にも寄らない等しさ。
感情で周期は変わっても、その美しさは変わらない。
しかし人間の器では他の波長の影響を受けやすい。
そして彼は優しい、だがそれは自我の危うい儚さを孕んでいる証拠でもある。
まるで硝子細工のような精巧さと繊細さ。 そうしたものが持つ特有の切ない魅力。
「実はてゐ先輩の授業で下手を打ってしまって」
それをわからない馬鹿が壊そうとしている、私はそれが我慢ならない。
あいつへの憎悪が溢れそうになるが、〇〇の波長に影響が出ないように押さえ込む。
「え、いや、そんな」
あいつのせいで歪み掛けていた波長を矯正できたことに安堵しながら、湧き上がる怒りを鎮めた。
美しい波が目の前にあるのに、てゐの汚い波を思い出して楽しめないのは損でしかない。
鈴仙との用事を済ませた後、自室へ戻ろうとしていた。
外に面している部分から師走を迎えた永遠亭の庭を眺める。
師が走る月だけあってうちの師も宴会に呼ばれたり、姫様にかかりきりだったりと結構忙しそうだ。
ここ最近雪が降り、雪かきや雪囲いの済んでない場所を補うなど色々あった。
何かと手を煩わせる雪は眺める分には綺麗で、この庭すべてを真っ白に染め上げている。
ゆっくり眺めることが出来ればこの情景を楽しむことができるだろう。
だがしっかりとした冬物を身に着けていないせいで震えるほど寒かった。
短い周期で白い息を吐き出しながら、冷たくなった廊下を小走りに急ぐ。
客殿に差し掛かったとき、てゐが廊下の先にいた。 さっきお説教を受けた手前、どうにも気まずく感じる。
軽く会釈をしたとき、こちらに気づいて声を掛けてきた。
「おや、〇〇じゃないか」
「また会いましたね先輩」
「あんた寒くないのかい? そんな格好で」
俺の姿を一瞥すると少し驚いたような表情で聞いてくる。
「いやあ、寒いです」
「当たり前じゃないか! まったく、あんたはどっか抜けてるんだから」
「その、面目ないです」
まるで母親にしかられているようなどこか懐かしい心境になり、いたたまれなくなった。
「まったく、ちょっと付いてきなさい」
これからさっきのようにお説教をされるのかと身を硬くしたが、思いがけない展開に少し戸惑う。
「ほらさっさとする」
ぼんやり立っていると手を掴まれ、手を引かれた。 驚いて間の抜けた声を上げるがてゐは手を引き続ける。
「あの、自分で歩けますから」
「……」
こちらの言葉など意に介さない様子だ。 正直てゐは自分より背丈が低いので歩き難いのだが…。
やがててゐの自室まで連れて行かれ、中に連れ込まれた。
部屋の真ん中に立たされるとてゐは掴んでいた手を離して、ごそごそと押しいれを漁り始める。
「ええと、あった。 コレがいいね」
小奇麗に片付けられた部屋を眺めていると、てゐが押入れから半纏を取り出して俺に着せた。
中に綿が隙間無く詰まっていてかなり暖かい。
「ほら、ぼさっとしてないで座りな」
そういって部屋の隅から座布団を取り出し、手渡してきた。
「ああ、寒いねまったく」
いつの間にか火鉢には炭が熾してある。
「それあんたにあげる。」
「え、そんな。 良いんですか?」
「良いから、寒そうな格好してるやつを見るとこっちまで寒くなる」
「ありがとうございます」
そうして二、三言葉を交わすとどちらとは無く黙った。 静寂が奇妙な緊張をつくりって流れ出す。
「……ああ、わかった。 もうだめだねこれは」
「は?」
沈黙を押し破っていきなり話し始めたてゐに困惑したが、気に掛けることなく話し出した。
「伊達に長い間生きてちゃいないさ、自分の気持ちはよーく解ってるつもりだよ」
俺は黙ったまま、てゐに先を促す。
「まったく、なんであんたみたいなのに。」
「あんたの面倒はこれから私が見ることにするよ。 あんたが逝っちまうまで。」
てゐの独白はそこで唐突に終わった。
「先輩、それはまるで」
「二度も言わせないでくれないかい……返事はいつでも構わないさ」
言葉の続きは遮られたが、彼女の一言がそれを肯定している。
「はい、返事は必ず」
「わかったらさっさと行ってくれ、私は慣れない事して疲れたよ」
火鉢の方に体を向けたままの背中が、年相応の少女の物に見えた気がした。
私は気が付いてしまった。
あいつだ、あいつが〇〇の波長を歪めたんだ。
私だって長くは生きていない、二人の反応を見れば解る。
そして〇〇の波はどうしようもなく汚くなっている、……あいつの様に。
〇〇は持ってないはずの半纏を着ていた、あいつのものだ。
〇〇からあイつの匂いがする。
私の〇〇がアいツに汚される。
また、
またわたしは失くしてしまう。
わたしのたいせつなものをなくしてしまう。
やめテ
わたしカら〇〇をとらなイで。
〇〇が精神に異常をきたした。
急に笑い出したり、落ち着きなく動き回ったりするのに、数分もしないうちに泣き崩れ、無気力になる。
躁と鬱をなんども繰り返している。
初期のうちはいくらか正気でいられたが、どんどんその時間が短くなっていった。
涙が枯れるほど泣いて、喉がつぶれるまで笑う。
ごちゃ混ぜになった感情の奔流はついに心を壊してしまった。
〇〇は記憶を全て失くして、無垢へ還っている。
そうなってしまうと誰もが〇〇を疎む。
てゐは最後まで〇〇に正気が戻ることを信じていたが、5年経つころには流石に諦めた。
そう、全ては私の思うように進んだ。
〇〇を愛しているのは私だけになった。
今日も〇〇へ会いに離れに隔離された病室を訪ねる。
冬の幻想郷に季節はずれの雨が降っている日だった。
私は傘を畳んで〇〇に近づく。
「〇〇、いい子にしていた?」
「……そう、将来はお医者さんになりたいの?」
「じゃあ頑張って勉強しなきゃね」
「……大丈夫、お母さんは何処も痛くないわ。 〇〇は優しいのね」
傘からつたう冷たい雨が、私を濡らしていた。
最終更新:2013年07月03日 11:54