血の、匂いがする。


真っ赤な湖に弛立っていて、まるで俺自身が水になった様に、酷く意識は朧気で。

それは眠りに落ちそうなほど、心地良く。
そしてそれは、吐き気を催しそうなほど不愉快で。

俺は、誰だ…?
水底からは、悲鳴と、無数の真っ赤な手が伸びて来る。

もう、何も解らない。
ああ、このまま沈んでしまおうか。
そう思った時だった。


花の香り。
あいつの、匂い。


不意に、身体が浮き上がるのを感じた。
そして赤い水の中から這い出たのを感じた時。



そこは、見慣れた自分の部屋だった。








初の心にさざめく夜は。-ep.7-








“……………まだ夜中じゃねえか、ったく。”


ずるずると布団から這い出し、卓袱台に置いた懐中時計を手に取ってみればまだ丑三つ時。

起き上がると解るが、やはり冬場の真夜中は、凍える程寒い。
すぐに布団に戻ってはみたものの、どうにも肩が震えちまうのは仕方の無い事か。


“夢と同じだな、これだけは…。”


目が覚めてみても、血の匂いだけは同じで。
それはきっと、俺の無意識に染み付いた幻覚の香りなのだと思う。

この前は7人殺した。
じゃあその前は?
果たして何人殺したのか、ついこないだの事でも大雑把にしか覚えきれてはいない。


腕を見れば、百足みたいに真新しい縫い痕がぐるぐると巻き付いている。

これは誰が付けた?
この傷は何の攻撃だった?

やはり、完璧には思い出せはしない。
ただ覚えているのは、これら全てはあいつが縫った傷だって事ぐらいだった。


そして、血の匂いを掻き分けて、花の香りがする。


何でだろうな、この匂いは酷く落ち着く。
あいつが残して行った、不釣合いな大人びた匂い。
そいつが鼻を通る度に、あの笑顔が浮かんでは消えて行く。

始めはナメたガキだと思ってた。
生ぬるい剣を振るあいつが師匠の孫だと思うと、ムカついてしょうがなかった。


真剣勝負、命の奪い合い。


そんな血生臭い場所に、軽はずみに立ち入ろうとしたあいつを許せなくて。
二度とそんな気を持たないように、誇りがズタズタになるように痛めつけたつもりでいた。

だけど、あいつはまた俺の前に現れた。
それどころか傷まで縫って行きやがって。

それからも散々雑な扱いをしてやったし、俺がどれだけ汚ねえ場所にいるかも見せ付けた。
ビンタまで喰らった時はさすがに諦めたかと思ったが、あいつはそれでも俺の前に出て来やがる。


もう、追っ払うのも面倒だった。
今思えばそれ自体が、俺にヤキが回った瞬間だったんだろうが。


“いつからだっけか、あいつが来るのを待つよーになったのは…。”


そう、いつの間にかだ。

いつの間にかあいつは、当たり前になっていた。
あいつがいない時の方がずっと多いはずなのに、何でかそっちの方が違和感があるように感じちまって。

それでいつだか血を抜きすぎてぶっ倒れた時、目が覚めるとあいつが半泣きで俺を見下ろしてた。
何だろうなあ、あいつのツラを見た時、妙に安心してたのさ。


“ああ、生きてる。”って、別に死んでもいねえのにそう感じてさ。


うるせえ妹分みてえなもんだとばかり思ってたが、慧姉に感じるそれとはやっぱり違う。
あの月夜に何となく髪を束ねて出掛けたのも、今となれば、心の何処かであいつが来るのを待ってたんだろう。

あいつになら、本音を話してもいいかと思えた。
理由はただそれだけ。

で、あいつが魚を釣って笑って見せた時さ。初めて心臓が思い切り跳ねたのを感じたのは。

いつも通りを装っちゃあみたが、足滑らせて沼にドボンなんてカッコつかねえオチでよ。
まあでも、あの時はそれで良かったんだ。キレた振りして引きずり込んだってのに、あいつはけらけら笑ってて。
実はそれに見惚れちまってたってのは、口が裂けても言えやしねえが。


……だからカマイタチとやり合って帰った時、あいつが待ってたのは最悪だった。
あの時はぼろぼろに泣かれちまって…何だろな、ただ大丈夫だとも言えなくてさ。肩を抱いてやるぐらいしか出来なかった。


こんな事言ったらあいつは剣士の誇りがどーのこーの言い出すから言わねえが、守りたいモノが増えちまったのは、その時からだ。


つくづく俺も、ヤキが回っちまったもんだなぁ。
そう遠くねえ将来、俺はあいつや慧姉の前から消えなきゃならないってのに。

前みてえに冷たく当たってりゃあ、その内愛想尽かして勝手にいなくなってたかもしれねえのによ。
わざわざ地底にまで連れてっちまって、意志の弱い男なこって。


………俺が退治屋でいられるのも、きっとあと一度戦うまでだ。もう妖怪の血を制御出来るのは、限界が近い。

現にこの前も、あいつを殺しそうになっちまってさ。
…俺なんかの為に、あいつは自分の喉に刃を突き刺そうとしちまって。

あいつにはああ言ったが、先代を殺すのを最後に消えようかと思ってる。


妖怪は、精神に依る生き物だ。


俺の腹の底なんざ、結局は恨み辛みばっかだ。
何回てめえの人生を恨んだかも忘れちまったし、何回こんな世界をぶっ壊してやろうと思ったかも覚えちゃいねえ。

そんな奴が完全に妖怪になっちまえば、力に呑まれてただ殺したいだけの獣になるか、例え理性が残っても、先代みてえに力に溺れて馬鹿をやらかすか。
どの道、正真正銘ただの化け物の出来上がりだ。


“妖怪は人が産んだ以上、討たれる時は人の手でなくてはならない。”


いつだか八雲のが言ってた事だが、それは恐らく現実だ。
もう退治屋も廃業。ならせめて、俺が僅かでも人間でいられる内に先代を殺す。

先代は、真っ先にあいつを殺そうとするだろう。
あの時の会話で見えたのは、てめえを退治屋に仕立て上げた師匠を最も恨んでいると言う事。
その孫であるあいつの首を斬る事を、きっと一番に狙ってくる筈だ。

あいつは簡単にやられるタマじゃねえが、そういう問題じゃねえのさ。
単に俺が、あいつには血で汚れて欲しくねえだけの話。

放っておけば慧姉も、地底の連中も皆狙われるだろう。
先代が好き勝手してやがる限り、退治屋の出番も減りゃあしねえだろう。




_________何より、妖夢には傷の一つも付けさせやしねえ。





あいつはその内まともな男でも見付けてさ、魂魄の血をちゃんと繋いで行くべきなんだ。
殺す為じゃなく、守る為に剣を触れるようガキに教えてよ。んで、何だかんだ幸せに生きてさ。


俺の事なんか、そうやってとっとと忘れちまえばいい。


俺があいつにしてやれる事は、きっとそれだけだ。
だから何としてでも、あの野朗だけは殺す。


例え刺し違えようが、絶対にだ。


今日、また文が来ていた。
“私はあの柳の下で待っている。”だとよ。

余裕ぶっこいてんのか知らねえが、いつでも掛かって来やがれって事だろうな。



……さて、思い立ったが吉日。そんじゃあお望みどおり行くとしますかね。


















「……………っ!!」



同じ頃、妖夢は突然に目を覚ました。

息は荒く、襦袢は汗で酷く濡れている。
過呼吸により視界は酷く混濁し、そして頭がぐらぐらとした重みを持っていた。

だが、それ以上に彼女は安堵していた。
先刻まで見ていた夢が、それが夢であると漸く認識出来た事に対してである。


夢の中では、何度も彼の首が宙を舞っていた。


四肢をもがれ、肉を喰いちぎられ、それを見た事の無い剣士がぐちゃぐちゃと貪る夢。
彼女の中にある不安は、夢の中ですらその恐怖を映し出し続けていた。


“もしかしたら、こうしてる間にも決闘に向かっているかもしれない…”


彼の性格を考えれば、妖夢に黙って戦いに赴く事もおかしくはない。
そう考える程に、彼女の中の衝動はより激しさを増して行くばかり。

今は丑三つ時。
だが、彼女に迷いは無かった。


“会いに行かなきゃ…今すぐに!”


いつもの格好に着替えた彼女は、箪笥からあるものを取り出し、それを自身の首へと巻き付けた。
それはせめて、彼にとって彼女の身代わりになるように考えて手に取ったもの。

誰にも気付かれぬよう門を閉め、彼女は白玉楼を飛び去って行った。
それを見守る影がいた事には、気付く事も無く。




“いってらっしゃい、妖夢……。”
















「○○さん!!」



扉を開け放った時、真っ先に彼女の目に映ったのは赤色だった。

それは彼が闘いに赴く時に纏う、血染めの布の赤。
既に装備は整えられており、後は戦いの舞台へと赴くのみの状態であった。


「……どけよ。これから仕事だ。」


妖夢の方には目もくれず、彼は冷たくそう言い放つ。
彼女の横を素通りしようとしたが、しかし、それは叶わなかった。

裾をしっかりと掴み上げていたのは、彼女の小さな手。
それは強い力で掴まれていたが、それ以上に、違う何かで彼女の手はぷるぷると震えていた。


「離せよ…何のつもりだ?邪魔すんなら殺すぞ。」

「離しません…!あなたは決着を付けに行く気でしょう?
何で私に何も言ってくれないんですか!?死んじゃうかもしれないんですよ!!」

「はあ…てめえに話す義理なんざねえだけよ。
所詮仕事の一部だぜ?単にやる事はいつも通りさ。とっととブチ殺して帰るだけよ。」

「うそつき……本当に戻って来る気はあるんですか!?例え勝ってもそのまま消える気でしょう?」

「……………どけ。」

「嫌です!!」


意地でも裾を離そうとしない妖夢に痺れを切らし、彼はその刀に手を掛けた。
裾を斬るか、脅しを掛けるか。とにかく無理矢理にでも彼女を引き離そうとした、その時。


“ふぁさ…”


首に掛けられたのは、彼女のリボンと同じ、黒いマフラーだった。
それは先程まで妖夢の首に巻かれていた、まだ彼女の温もりを残すもの。

そしてそれは、彼女が身に付けている香りを漂わせていた。



「今日は寒いですから、これを貸してあげます。でもお気に入りだから、ちゃんと後で返してください。
………返してくれるまで、ずっと探しますから。」



彼は戦う決意を、決して変えはしない。その事を妖夢は解っていた。

故に願うのは、ただ一つ。
ただ今は、必ず戻ってきて欲しい。それだけだった。

涙で頬を濡らし、今にも漏れそうな嗚咽を必死に押し殺しながら。
ただ真っ直ぐに、彼女は強い意志を宿した瞳で彼を見つめていた。

彼は諦めた様にその手を伸ばし、彼女の髪をくしゃくしゃと撫でた。
それは噛締めるように深く、そして優しく彼女の髪に触れている。



「……わーったよ。てめえのモン借りパクなんざしたら、それこそ何処までも追っかけて来そーだ。」

「ふふ……ちゃんと返してくださいね。」

「ったく、これから血達磨になる奴に衣類貸すなんざ、お前もつくづくバカだわ。」

「もちろんちゃんと洗って返してもらいます。それから……。」

「へ…………?」



巻き方を直す素振りをして、妖夢はマフラーに手を掛けた。
そうして頭ごと下に引っ張られた彼を、触れた事の無い感触が襲う。


それはやわらかい、彼女の唇だった。



「これはもう一個の約束です。
……そのマフラーを返す時に、答えを聞かせて下さい。
だから…だから必ず……生きて……帰って……。」

「解ったよ……だから泣くな。
………さて、んじゃあクソ野郎をブチ殺しに行くかね。」



凍える夜風が吹き荒ぶ中、剣士は最後の戦いへと赴いていった。

妖夢は瞬きもせず、その背中を見守っている。
風が揺らす赤い布と黒いマフラーを、やがてその姿が見えなくなるまで。





「はぁ…はぁ…まさか、もう………!」




そして近づく足音に、彼女はまだ気付かぬまま。
青銀の髪を揺らし、息を切らして走るその影。







_________もう一つの彼の『守る者』、上白沢慧音の姿に。


 
 
 
 




続く。
 
 
 
 
 
 

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最終更新:2013年07月03日 11:57