柳が、ざわざわと揺れる。
それは心のざわめきと重なり、彼の心にはより一層大きな音に聴こえた。
視線の先には、忘れもしないあの忌々しい微笑みがある。
悪趣味な派手な着流しに、二振りの刀を差した妖艶な剣士。
かつて人間であり、そして退治屋であった男。
「くく…待ちくたびれたぞ、随分遅かったじゃないか。」
「ケッ…待つよりは待たせる方が好きでな。
だがそれは女限定だぁ、わざわざてめえみてえな野郎の為に出張ってやったんだ、感謝しやがれ。」
「ふふふ…なぁに、すぐに私に感謝するようになるさ。
お前を倒し、そして新しいお前が我が下僕となるのだからな!」
「気持ち悪、ホモかてめーは。
…御託はいい、とっとと始めようぜ。」
柳が再びざわめき。
その刹那、刃のぶつかる音が響いた。
初の心にさざめく夜は-ep.8-
「○○!!」
上白沢慧音がその家へと飛び込んだ時、既にそこに家主の姿は無かった。
代わりにあったのは一つの蝋燭の灯りと、それに照らされた白銀の髪。
その白銀の髪の持主である魂魄妖夢が、ただ呆然と蝋燭の炎を見つめていた。
「妖夢…お前が何故ここに…。○○はどうしたのだ!?あの子は…。」
「………彼なら、決着を着けに行きましたよ。」
「………………っ!?」
狼狽える慧音の姿を目に収めるも、妖夢の心の内は静けさを増して行っていた。
それまで独り不安に震えていたが、慧音の来訪に気付いた瞬間、それは酷く澄んだ感覚に変わっていたのだった。
ちきりと、刀の鍔が乾いた音を鳴らす。
今妖夢の胸に去来していたのは、鉛の様な、無機質な想い。
それは慧音の瞳孔の揺らぎに相反し、よりその冷たさを増して行くのだった。
「………何故、ここに来たのですか?」
「夢を見たんだ………それで、嫌な予感がしてな。
前から先代を探していると言っていたが、まさか本当に…。」
「嘘ですね…あなたは彼の覚悟や変化に気付きながら、見て見ぬ振りをしていた……。
迷っていたんじゃないんですか?ここに来るまで。」
「…………!」
妖夢の視線がまっすぐに慧音を捉えた瞬間、慧音の背中を冷たさが走った。
それは慧音の知る妖夢とはかけ離れた、鉛の様な冷たい視線。
まるで抜き身の刀を突き付けられた様な緊張感が、慧音の全身へと走っていた。
「そ、それは……まさか本当に行ってしまうとは思わなかったんだ。」
「それも、嘘ですね…。
仮にも義理の家族、ましてや私よりは付き合いの長いあなたであれば、彼の性格はよく知っている筈。
ですがあなたは、そうやって迷って見送りにも来なかった…。
怖いんですか?人でなくなった彼を見るのが。」
「……………。」
慧音は俯き、暫し自身の足下を見つめるばかり。
妖夢はそれを冷たい瞳のまま見つめていた。
そうして数分が過ぎ、慧音は漸くその口を開く。
「……………怖くない筈が無いだろう。
幼い頃から必死に生きてきたあの子が化け物に変わる様など、とても恐ろしくて見てはいられない!
あの子が…優しいあの子が人を喰らう様など……私には…。」
「……そうやって、あなたは逃げたんですね。
彼はどうなっても、彼ですよ…あなたはただ人でなくなっただけで、彼を見放すのですか?」
「………っ!?」
握り締められた慧音の拳から、ぼたぼたと血が落ちる。
ぎりぎりと歯の軋む音が静寂を噛み砕き、その肩は荒い呼吸と共にぷるぷると震えていた。
「何を言っているのだ…?元は……。」
顔を上げた彼女の視線は、激しい殺気を伴って妖夢を捉え。
そして。
「元はと言えば………貴様らが!!!!!」
「くく…どうした?まだ本気じゃないだろう?」
「……るせぇ…ホモなんぞに本気出せるか…。」
何度目かの技の交差の後、膝を付いていたのは○○の方だった。
なりかけと完全な妖怪とでは、やはり力の差は歴然。
妖怪の力を解放すればまだ戦況は変わるかもしれないが、彼にはそれが出来ない理由があった。
“まじぃな…また血が騒いで来やがった……。”
今の○○は、例えれば破裂寸前の風船に近い。
怒り、殺意、或いは身体の傷。
それらはより妖怪の血を刺激し、彼の理性を奥底へと追いやろうとする。
傷は治り始めていたが、代償として妖怪化は進行する。
そしてそれ自体が先代の狙いである事を、彼自身は読んでいた。
“あの野郎、何か隠してやがるな…恐らく俺が呑まれた時こそ、そいつが……。”
「んの野郎………がっ!?」
「ふふふ…そろそろいい頃合かな?
妖怪と化した時に手に入れた我が力、少しお見せしよう…。」
○○は掴まれた頭から、何かが流れ込んで来るのを感じていた。
首が飛び、四肢が舞い、そして悲鳴が響き渡る。
それらの死者は、地底に住む彼の知己の者達。
皆一様に○○に助けを求め、そして次々に彼の目の前で肉片へと変わって行った。
「“自身の想像を相手に仮想体験させる程度の能力”……と言えば良いかな?
これを妖怪共に使った時は見物だったぞ…皆次々に怯え、我が忠実な下僕となる。
生々しく自身が死ぬ様を見せ付けられるのだからな……くくく、その恐怖は精神に重きを置く者には、正に劇薬よ。」
「……て、めえ…」
「ほう…まだ振り払うか。ならばこれはどうかな?」
「ぐ…ああああああああああ!!!!!!」
次に浮かぶのは、師が先代の手により惨殺される様。
そこから感じ取る怒りは確実に妖怪の血を呼び覚まし、そして彼の理性をゆっくりと破壊して行った。
頭の中を、殺意が埋め尽くして行く。
「怒りに我を忘れ、力を解放しろ……さすれば獣同然の貴様に死のビジョンを流し、恐怖で貴様を我が忠実な下僕としてくれる!!
憎かろう、この世界が……私と共に来い!!この宿命に我らを叩き込んだ全てに血の粛清を与えようではないか!!!
さあ……何も恐れる事は無い…。」
「ぎ…うる、せえええええええええええ!!!!!!!」
激昂と共に一閃が舞う。
それは確かに先代の身体を切り裂いたが、まだ致命傷と呼ぶには浅い。
だが、○○にとってはその時間こそが重要だった。
「けっ…俺をブチ切れさせてえらしいが、あいつらや師匠がてめえなんぞに殺られるか。
所詮まやかしだ、少し頭冷やせば抑え付けるのは訳ねえ。」
「ふふ……ははははははは!!面白い、ますますお前が欲しくなったぞ!!
そうだな、ならば次は趣向を変えさせてもらおうか…。」
「ほざけ、触れなきゃてめえの力は使えねえんだろ?
なら簡単だ!もう一発喰らう前に決めさせてもらうぜ!!」
鍔迫り合いの音が鳴り、戦いは再び幕を開ける。
彼の黒いマフラーには、既に傷の血が染み込み始めていた。
その血が、彼の中の妖夢の香りを塗り潰して行く事にも気づかぬまま。
「……………っ!?」
気付けばむせる間も無く、妖夢の呼吸は圧迫されていた。
首をぎりぎりと締め上げていたのは、慧音の細い指。
その爪が妖夢の喉に喰い込み、赤い跡が深くその肌へと刻みつけられていた。
「……ふざけた事を抜かすのはその喉か?
元はと言えば、八雲紫と貴様ら魂魄の者があの子を修羅の道へと引き込んだのだ…。
貴様らさえいなければ、あの子は人として幸せに生きられた筈なんだ、それを貴様らが…!
里の娘でもあれば、私も素直に喜べた…なのに…。
妖夢……何故…何故貴様なのだ!?
あの子に剣を与えた忌々しい魂魄の者と恋に落ちるなど、私は決して許せはしない!」
「………ひゅ……ふふ……。」
薄れ行く意識の中、妖夢は慧音の鬼の形相を笑ってみせた。
それは強がりではなく、静かな侮蔑の微笑み。
首を締められながらも尚、ただ躊躇いも無く、慧音の行動と言葉を嘲笑う。
妖夢はベストの中へと手を伸ばし、黒地に桜があしらわれた小刀を掴んだ。
慧音は尚も怒りに我を忘れ、妖夢の首をより強く締め上げる。
怒りと殺意を真っ直ぐにぶつけるが故、妖夢の小刀に気付く事は無く。
「痛ぅっ………!?」
そして慧音が漸くその動きに気付いたのは、既に自身の腕を刃が突き抜けた時だった。
「…さっきから黙っていれば、己を省みれていない事ばかり……里の守護者が聞いて呆れますね。
確かに貴女の怒りは尤もです。
紫様とお祖父様が彼を修羅の道へと引き込んだ、それは言い訳出来ません。
……ですが、貴女は何の為に彼がその道を更に突き進んだのか、それを理解していますか?
例えばそう…その気になれば殺した妖怪の血肉を喰らい、自ら妖怪となって脱走や復讐をする事も出来た。
きっと何年も前から、それをする好機はあった筈ですよね?
……全てはたった一人の家族である貴女を守る為。
なのに貴女は、そうやって自分の価値観ばかり振りかざして…それがどれ程彼を縛り付け、そして苦しめていたか解りますか?
彼は優しすぎる、それは貴女も言っていた事じゃないですか?
ましてやかつては妖怪と共に生きていた彼が、それを殺さねばならない。
その苦痛は、少なくとも私達の想像を絶する筈です。
だけど地底には暖かく迎えてくれる仲間がいるのに、それでも人里での差別に耐えて剣を振るっているんですよ、彼は…………他ならぬ、貴女如きの為に。」
その口上の直後、妖夢が見せたあるものに慧音は凍り付く。
怒りや殺意は一瞬にして引き、刺し傷の痛みですら忘れてしまう程の戦慄。
くすり、では無く、にたり。
その表現の方が的確であろう程の、獰猛な微笑み。
それは更に真っ直ぐ慧音の心臓を射抜き、血液が冷水に変わったかの様な冷たさが全身を駆け巡る。
ただその視線を合わせてしまっただけでガタガタと肩が震え、終いには慧音はその場に膝をついてしまっていた。
そしてまた、ちきりと乾いた音が響く。
「ねぇ、慧音さん………。」
血溜まりの中に、○○は倒れていた。
片腕はとうに千切れ、足腰も最早使い物にはならない。
しかし残った利き腕は剣を離す事をせず、今もまた、彼は立ち上がろうとしていた。
「くく………随分と端正な見てくれになったんじゃないか?
はて、お前の強みは機転と奇策、そして時には肉を斬らせて骨を絶つ覚悟と聞いていたのだが……何故真っ向から挑むのだ?」
「……る、せぇ…てめえなんぞ、に…頭ぁ使う…価値がねぇ、だけよ…。」
「……違うな。最早策を仕込む余裕も無い程、お前の妖怪の血は制御しきれぬものなのだ。
大体、何故その傷で生きていられる?それこそ私と同じ、人を捨てた者の証よ。」
「黙れ…ホモ野郎……。」
力無く立ち上がった直後、容赦無く肩に突きが決まる。
○○は再び血溜まりへと縫い付けられ、先代はその様を愉悦の表情で見下ろしていた。
「良い様だなぁ、小僧。半死半生にして尚も妖怪の力を抑えるその意志、尊敬に値するぞ。
だが、貴様に一つ教え忘れていた事がある。
……私の能力はな、剣を媒介して使用する事も出来るのだよ。こんな風にな。」
「…………!?」
どくん、と一度身体が跳ねた直後、○○の脳内をあるビジョンが埋め尽くした。
嬌声と、悲鳴。
爛れた肉の宴と、体液の匂い。
そして、舞い踊る血肉の花びらが彼の視界を埋め尽くす。
慧音が、そして妖夢が次々に先代に犯されては、最後はバラバラの肉片に引き裂かれ、殺されていく。
何個も、何個も彼の足元には彼女達の首が転がり、それらは一様に光の無い目で彼を見つめ、声にならない言葉を形作る。
「たすけて」と。
ただ口角の動きだけでしか判別できないその言葉が、何度も生々しい声として彼の脳内を埋め尽くして行った。
血が、騒ぐ。
力が際限なく溢れ、そして真っ赤な世界の奥へと彼の理性は追いやられていく。
今も尚握り締められた鍔からは、びきりと何かが砕ける音が響いた。
「ふふ……人を捨てた日から、私は人妖問わず様々な女を抱いては殺し、その血を楽しんできたのよ。
だが、生娘や半人の類は抱いた事が無くてなぁ、さて…あの忌々しいクソジジイの孫は、どんな悲鳴を上げてくれるかな?
貴様の義理の姉も同罪よ……守護者を騙っておきながら、私の時は気付きすらしなかった…。
……さあ、怒れ!怒りで己を忘れ、その時こそ貴様は我が最高の木偶となるのだ!!!!
くく……あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!!!!!!!!!!!!!!!!」
忌々しい程醜く歪められた愉悦の顔が、蟻を踏み潰すかの如く○○を見下ろしていた。
最早怒りと言う自身の感情の解析すら、彼にはままならない。
理性もほぼ消え果て、彼の中に蠢くのは衝動と言う名の殺意。
瞳が赤く変わる。
噛み締められた口元には牙が見えるようになり、その視線は人のものでも、ましてや妖怪のものでも無い。
「ぐるる……ぎあ………うがああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
あの日と同じ様に、獣の声が響いた。
ただしそれは、今までのように呑まれかけていたのとは違う。
完全に、『呑まれてしまった』が末の咆哮。
辺りには目に見えて妖気が漂い、それが今新たに産まれてしまった化け物を、よりおどろおどろしく飾り付けていた。
もう、彼は戻れはしない。
殺意のままに手を伸ばそうと強い力でもがく彼を見て、先代はそれを確信する。
「くくく……こうなってしまえば私のモノよ。
どれだけ力が満ち溢れていようが、その心は所詮は獣。恐怖を植え付けてさえしまえば、後は争いに負けた野良犬も同然。
さあ○○、貴様に今から死のビジョンを植え付けてやる……そして我が復讐の手駒として、この世界に生ける者全てを喰い殺すのだ!!!!」
いつかの夢の続きと同じ、真っ赤な世界の奥に○○はいる。
無数の手は更に増え、その全てを奥底へ絡め取っていく。
漂うのはただ、血の匂い。
水底へと進むほどに、それは濃さを増し、そしてその心を消し去ろうとして行く。
“私だけは、ずっとそばにいますから。”
声が、水中に響く。
それは誰の物なのかを彼は明確には思い出せず、しかし、閉じかけていた目がそこで開いた。
花の香りがする。
誰の香りか、ただ妙に大人びた、彼女には何処か不釣合いだった事だけが、その脳裏には思い浮かぶ。
“この匂いは、あいつの……あいつは、誰だ?”
不意に浮かぶのは、いつもそこにあった笑顔。
時に泣き、時に怒り、そしていつも心の奥にいた。
“……そのマフラーを返す時に、答えを聞かせて下さい。
だから…だから必ず……生きて……帰って……。”
血の匂いを掻き分けて、花の匂いがする。
それは首に巻かれたマフラーが放つ、彼女の香り。
_____彼にとっては忘れがたき、最も愛する者の香り。
“そうだ……あいつは……。”
その瞬間、彼は身体が浮き上がるのを感じた。
そして赤一色だった視界が晴れた時。
「くく……どうした?急におとなしくなって。
まだ貴様に力を流しては………………ふぐぅっ……!?」
形容しがたき激痛が、先代を襲った。
見ればそこには○○のブーツに仕込まれた刃が刺さっており、ぼたぼたとだらしなく血を垂れ流していた。
「カカカ、ざまあねえなぁ。所詮男に生まれた以上、ぶらさがってるモンは人妖問わず玉と棒、ってな?
念の為と思って入れといたが、買って2年目でやっと使ったわ。
………まあ、変態さんに一番のお仕置きは去勢っつー事で。てめえにゃお似合いだろ?」
それは睾丸とペニスに深々と突き刺さる、意志を持った攻撃。
実に○○らしい、小賢しく手加減の無い、そして痛快な奇襲だった。
「ふ……ふびゃああああああああああああああああああああああっ!!!!!?????き、貴様!!何故だ!?何故理性を!?」
「そーだな、ギャーギャーうるせえのに叩き起こされたって所さね。
……良いモン見せてくれてありがとよ、お陰で最っ高に胸糞わりいぞ俺ぁ!!!!!」
「ねえ………慧音さん……。」
緊張感が、その部屋を支配していた。
慧音の目の前で抜かれているのは、先程彼女の腕を突き刺した小刀ではない。
蝋燭の光に反射し、薄闇でぎらりと光るのは。いつも妖夢が携えている刀の内の一つ、白楼剣。
いつの間にか吐息が掛かりそうな程慧音の眼前にまで近づいていた妖夢は、じっとりとした視線を彼女の瞳孔の奥底へとぶつけている。
その瞳には一点の曇りも無く、そして光も無い。
慧音はただその瞳に恐怖し、そして目を逸らす事すら出来ずにいた。
「この刀、何か解りますか?白楼剣と言って、人の迷いを斬る事が出来るんです…。」
「ひ、人の、迷い……?」
「ええ。迷いです。」
伸びて来た指が、頬を通り抜け、そして髪に触れる。
それはとても優しい触れ方ではあったが、慧音にはまるで、蛇にでも絡み付かれているかの如く不気味な物に感じられた。
ゆっくりと真綿で締め上げる様な、毒で静かに息の根を止められる様な。
静かな、とても静かな憎悪が慧音の心を冒して行く。
「綺麗な髪ですね……とても、とても綺麗な髪です。
私も伸ばそうかなぁ…ふふ、そうしたら彼も、もっと私を見てくれるかもしれない…。」
「ひっ…!?」
首筋に掛かる吐息が、慧音の全身を粟立てた。
怯えを隠さない様子に、妖夢は更に感情の見えない笑みを深くし、その視線の毒は濃さを増す。
「……例えば彼の迷いを斬るとして、彼の心のそれを斬れば済む話だと思います?
答えは違います。例え迷いだけを斬ったとしても、その元が無くならなければ、結局は一時的なもの。
慧音さん…………あなたは、彼の“迷いそのもの”なんです。」
それまでの不気味な笑みから一転し、妖夢の貌は、一気に違う物へと変貌した。
それは、悪鬼の如き怒りではない。
何処までも暗く、そして底の無い沼の様な、静かな殺意。
ざくり、と慧音のスカートと畳が縫い付けられ。
妖夢の表情は、次に、明確に狂気の笑みを浮かべて慧音を捉えた。
薄闇の中の妖夢の顔に、真横に裂けた真っ赤な月が浮かぶ。
「ふふ……あははははははははははははははははははははははは!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
あなたがいけないんですよ!?彼の心を縛り付けて離さないあなたが!!
あなたは、彼に何かをしてあげましたか?
少しでも彼の本心を理解してあげようとしましたか?
あなたは何もしようとしていない……ただ心配している振りをして、彼の理解者の振りをして、利用しているだけです。
彼も紫様も、覚悟を決めて悪となりました………ですが本当に始末が悪いのは、自身が悪だとすら気付いていない者……。
………貴 様 ノ 事 ダ ! 上 白 沢 慧 音 !!!!!
………例えばそう、あなたが縫ってあげた彼の傷は、たった一つ!
だけどそれ以降に負った傷がどれ程の数か、あなたはよぉくご存知ですよね?
私と出会うまでの五年間、それら全ては彼の手で縫われたもの。
その間あなたは何をしましたか?ただ心配している振りをして、悲しんでいる振りをして、心の中ではほくそ笑んでいたんじゃないですか!?
端から見れば彼を理解している様に見え、そして同時に、しっかりと危険人物を管理している様にも見える。
……“人里の守護者”としては、確かに箔が付きますね。」
「…………っっ!!!」
その言葉に、慧音の中を衝撃が走り抜けた。
妖夢の憎悪の言葉一つ一つが、慧音の前に鏡として立ち尽くして行く。
それは慧音自身目を逸らし続けていた、自身の影を突き付ける言葉。
退治屋として人里に戻ってからの五年間、かつては守ると決め手引き取った義弟に対する自身の振る舞いが、次々に彼女の中に流れて行く。
「妖夢……私は………。」
「くす……何を泣いているんですか?今更懺悔をしても遅いですよ…。
彼を脅かし続けていたのは、妖怪でも、退治屋としての宿命でもない。
________彼を喰らい続け、苦しめ続けていた“化け物”は、あなたなんですよ。」
「………………私は…。」
「ほー、実際にくっつくモンなんだなぁ。ま、これで振り出しって所か。」
拾い上げた腕を傷口に当てると、すぐに組織が再生し元通りとなった。
戦況は○○の方に向きつつあるが、同時に彼の胸には複雑な感情が去来している。
“逆に俺が妖怪の力を取り込んだ……つまり、完全な妖怪になったって事か。
さて、問題は今までの感覚で戦えるかどーか…。”
強い力を得たとは言えど、それが今しがた手に入れたばかりの物では限界点が見えない。
自身の力の境界線が見えない状態での戦闘は、逆に不利とも言える。
彼の言葉通り、あくまで振り出しに戻ったに過ぎないと言うのが現実であった。
「貴様……よくも、よくも俺の一物を…!!」
「“俺”、ねえ…やっとこさ地が出てきたみてえだな、先代さんよ。
まあ時代錯誤な派手な着流し着てんだし、丁度いいんじゃねーの?晴れてオカマになれてよ。」
「抜かせ小僧がああああああああああああああ!!!!!!!!!」
“見える……が、ここで過信するのは馬鹿のやるこったな。”
「煙に巻かれて演舞でも決めな!カマ野郎!!」
地面に符を叩き付け、土煙を煙幕代わりに視界を塞ぐ。
しかし、人間だった頃と比べて威力が弱い。
やはり妖術と言った人間の技の精度は、妖怪と化した現在に於いては落ちていると彼は判断する。
“マジか……奇襲にゃ丁度良かったんだが…。さて、となると呪符もダメか。残ってるのは……。”
現状では、選択肢は純粋な剣による肉弾戦のみ。
だが、剣技と妖怪としての経験差を超える為には、やはり策が必要な状況。
○○は考える。
決定的な一撃を決めるのに必要な一手、そしてその為に張り巡らせる罠を。
“ブーツのナイフはさっきみてえな時じゃなきゃ役に立たたねえ…分銅は多分調べを付けられてる筈………ん?待てよ…。”
「どうしたぁ!そんな遠くに逃げてばかりでは俺は殺せんぞ!?
気が変わった……この一物の怨み、貴様を百回串刺しにして晴らしてくれる!!!!」
“かなり頭に血が昇ってやがるな、良い傾向だ。一番威力の乗る射程は……よし、突っ込んできやがれアホ。”
怒りを露にした先代が、凄まじいスピードで以って○○へと向かう。
その距離は5メートル、3メートルと縮まり、そして遂に飛び掛ろうとしたしたその時。
“ざしゅっ…!”
届く筈の無い間合いから伸びた刀が、先代の頭を貫いた。
「ぎゃ嗚呼ああああああああああ嗚呼あああああああ!!!!!!!!!!!」
「へっ……組み合わせちゃいけねえなんて誰も言ってねえもんな。」
○○の刀の柄には鎖が巻かれ、その先は袖へと続いていた。
距離を取っている間に刀に分銅を巻き付け、それを妖怪の腕力で投擲する。
その奇策は確かに、動きを封じる程のダメージを先代に与えた。
「私は…きっとあの子を恐れていた。
心の何処かでは、あの時守ってやる事が出来なかった私が殺される日が来ると、そう思っていたんだ。
…ただお前達に責任を擦り付け、憎む事で自分のその心から逃げていたのだろうな。
退治屋の存在が“仕方のない事”だなんて解っているさ…だけど、それでも私が守ってやる事が出来たんじゃないかって…。」
俯いた慧音の口から零れ落ちたのは、酷く弱々しい独白だった。
妖夢は表情を変えず、その言葉を一言も漏らさずに自身の耳へと収める。
しかし、握られた刀は鞘に仕舞われる事は無かった。
「……言い訳は、それだけですか?
今更悔いても遅いんですよ……不幸な事に彼には才能があり、そして条件も整っていた。
ですが、あくまでもそれは退治屋となる為のもの。同時にその不幸から抜け出すチャンスは何度もあった。
それを全て潰して来たのは、あなたの存在なんです。」
「……言い訳などしないさ。お前のあの子を想うが故の怒り、私にもよく解る。
さあ……殺せ。それが私の、あの子への贖罪となるのなら。」
「慧音さん。あなたのお命、頂戴致します……。」
刃が、慧音の細い首へと触れる。
そして引かれようとした、その同時刻。
「良いザマじゃねえかクソ野郎がよ……そんだけ喰らっちまえば、死なずとも動けやしねえよなあ?
さーて………公開処刑のお時間でございますよー、先代さん?」
「ま、待て!!今私を殺した所でどうなる!?例え私が死んだ所で、お前はもう戻れはしないのだぞ!?」
「ふーん、で?だから?
……どこぞの賢者さんも嘘吐きだよなあ、何が“人の手でなければならない”だ。
どうなろうが俺は俺だ。んで、てめえはムカつくからぶっ殺す。そんだけだよ。」
「ひ……うわあああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!」
額から抜かれた刀が、真っ直ぐに先代を捉えた。
___________そして。
「あばよ。」 「さようなら。」
皮肉な事に、遠く離れた場所で、二人の斬撃は全く同じタイミングで重なる。
________そして二つの場所に、血の花が咲いた。
続く。
最終更新:2013年07月04日 10:28