「過剰なんだ……全てがな。その過剰さは今は見えないが、成長と共に現れてくる」
机の上を突っ切った物だから、こぼれたお茶は机の上に留まらずに、畳にまで向かい染みを作っていた。
それを二人でふき取っていると、ボソリと慧音が呟いた。
「過剰……ですか」
ここで何も反応を示さずに、慧音の思うように喋らせるのが良いのか。それとも、何か相槌を入れていくのが適当なのか。
先ほど慧音が見せた、○○が知る限りでは初めて見たあれ程の狼狽。
慧音ほど理知的で、才を持った人物があれ程にまでうろたえてしまうのだ。果てしなく、部外者に近い存在である○○には想像だに出来ないほどに深い根がありそうだった。
なので、正直な話。何をやれば、どんな行動を取れば良いのか、その辺りの事に対して皆目見当がつかなかった。
だから、さっき黙ってたら失敗したから、今度は少し反応を返してみようかという。
推理や推察も何も無い、消去法と言う半ば行き当たりばったりな方法で当たりを見てみるしかなかった。
「立場や今までやってきた事で、周りのその者に対する態度などが変わるのは当然だろう」
掃除をするという作業と並行しているからなのか、ボソボソ声ではあるが少なくとも先ほどよりは感情の起伏は小さそうだった。
「しかし、だな。私は神ではないんだよ……最近じゃ、神様ですら砕けた言葉を使って接しやすく……横文字でなんと言うのかな」
「フランク」
「そう、フランクだ。今の○○の合いの手なんかが……私にとっては丁度良いんだがな」
別に何か特別な事を言ったわけではない。ただただ普通に、慧音の言う状況にあった横文字言葉を言っただけなのに。
○○からすれば、それは指して特別でない事なのに。その特別でない事を、慧音はことのほか喜んでくれているのだ。
「そう……ですか?別に大したことをやっているわけじゃあ」
そう言って謙虚にするが。少しばかり恐縮してしまうぐらいに、余りにも喜んだ表情や雰囲気をふんだんに見せてくれる物だから。
○○の表情や仕草も、謙虚を通り越して恐縮にまで達していた。
それでも慧音の発している喜びの空気は、留まる所を全く知らなかった。
ニコニコ顔の慧音を見ている内に、○○の中ではある推測が組み立てられていった。
恐らくは里の人間達は慧音の事を、過剰なまでに崇め奉っているのかもしれない。過剰と言う言葉は彼女も使っていた。
何となく、分かる気がする。それ程信仰心の深くない○○でさえも、神社や仏閣等の祭壇に対しては不用意に触ってはならないと言う意識がある。
その、神社や仏閣に対して持つ感情を里の人間達は慧音に対して持っているのではないか。
それこそ、過剰な程に。
その下地は、十分に存在していた。
慧音はこの人里で、人里を守る守護者としての役割を果たしながら。もう一方では、子供たち相手に、寺子屋の教師を営んでいる。
どちらにおいても、この人里で彼女の果たす役割は大きかった。つまりは、平時と緊急時の両方で慧音は完全に大黒柱の一本として機能していた。
その上、彼女は種族的に人より長く生きることが出来る。それも、若々しい見た目を長く維持したままで。
慧音から教育を、知識を与えられた者たちの中には、今では立派な大人所か。上は里長だし、そこまで行かなくとも大人を通り越して、老人にまで大勢いる。
彼らの目に慧音は、あの時この学び舎で学んだ時と同じ姿で映っているのだ。
そう考えれば、確かに分からないでもない。
いつまでたっても変わらぬ姿に。そこに対して、更にはほぼ無償に近い形でこの里の為に尽力し続ける姿に対して。
その両方が合わされば。例え慧音の望む形ではなかったとしても、住人達が天上人のように慧音を見る目を、一概に批判は出来なかった。
まだ短い時間ではあるが、慧音がこの里の為にどれだけ尽力しているかは、見れば見るほど頭が下がる思いだから。
「なるほど……過剰に、敬う。崇め奉る、と言った方がより正しいかも……」
「ああ、そうだな。わがままかも知れないが、そういう目では余り私の事を見て欲しくないんだ」
確かに、里の住人達を一概に批判は出来なかった。
しかし、慧音が自分の腕をかなりの力で掴んだり。子供たちの声を聞いて、歪みの激しい表情で笑ったり。
果てには、机上の物をなぎ倒して自分を押し倒してしまったり。
一体どれほどの期間、慧音が自らは望まぬ神格化をされ続けたのかは分からないが。
今のままで、良い訳が良いはずは無い。それだけは確かだった。
それによる歪みやひずみは、間違いなく溜まってきている。しかも、現時点で相当大きな物になってきている。
慧音の優しさから来る我慢も、いつまで持つか。事情を知ってしまった身としては、それが怖くなって仕方が無かった。
「つまり……慧音先生は、里の人が自分との付き合いにおける態度を一段下げて欲しい」
「多分、一段どころではないな…………正確には上げるなのかもしれんが」
「えっ?」少しの間の後に、慧音が何かを呟いたが。残念ながら、○○の耳には明瞭に聞き取ることが出来なかった。
「いや……なんと言うかだな。そうだな、正確には同じ場に……同じぐらいの高さで扱って欲しいだな」
ただ、慧音の身からすれば。聞き取られなくて助かったと言うのが本音だった。
しかし、そんな慧音の胸中など知る由も無く。
たっぷりと間を使って、言葉を選んでいる慧音の姿にも。○○は、繊細な問題だからな、と言う非常に好意的な感触で見ていた。
「ああ、確かに。その通りですよね」
先ほど聞き逃した呟きに対して。それ以上は興味を示さなかった○○の姿を見て、慧音は胸をなでおろした。
相反する感情であった。
「……いきなりどうにか出来るとは思えん。今までが長いのだからな」
正直な話、慧音は少し慌てていた。この話を、少なくともこの日この場ではもう仕舞いにしてしまいたかった。
そう思えば思うほど、先ほど感じた相反しているなと思う感情。
それがまた一段、また一段と。増幅されていくのがよく分かった。
「まぁ、今日明日で何とか……出来るはずはありませんよね」
幸いにも、この場は○○の方が身を引いてくれた。子供たちはいずれどこか遠い所に。
物理的にではなくて、精神的に。本当に遠い所に行ってしまうだろうが。
○○だけは、今慧音の目の前にいる、○○だけは。大丈夫だと。
根拠など何も無いがそう言い聞かせていた。
「……すまないな、○○。私の話に付き合ってもらって……随分良い時間になってしまった」
今はもう、これだけで。○○さえ自分の傍にいてくれさえすれば、大抵の事は我慢できる気がしていた。
だから、その安定が壊れてしまいかねない事柄は、出来るだけ○○の耳には入れたくなかったのだが。
「では、慧音先生。また明日」
○○の姿をしっかりと見送って、慧音は中に戻った。そして、戸を閉めるとヘナヘナと。体中の力を一気に崩して、座り込んでしまった。
「すまない、○○。今日お前に話した内容は全て……だったら良いなと言う、私自身の希望的観測でしかないのだ」
実の所、慧音ですら里の暗部には薄々感づいている。それでもまだこうやって、教師の真似事と守護者ごっこを両立している。
そういうのを、人は未練たらしいと言うのだろうが。頭では分かっていても、感情がその未練を断ち切れずにいた。
でも、寺子屋で子供達相手に勉学を教えているときは。その未練がましい自分の心にも気付けずに済む。
それだけ一心不乱に、慧音は教師の真似事を続けていた。
その、随分駄目な方向性とは言え。何とか安定していた慧音の心理状況。その状況が崩れたのは……○○が現れてからだった。
始めは、子供たちと仲良くやっているから、どういう人間なのだろうと言う興味と。
どうせ里の内部には入れないで、孤立しているだろうか、せめて……と言う同情心だったのだが。
○○は、いわゆる普通の人だった。何処にでもいそうな、ごくごく一般的な、常識的な人だった。
慧音が思うような、普通の人だった。そう……この里の大人たちには絶対いないような。
そう言う普通の人間と、慧音はついに、普通の付き合いを果たすことが出来たのだった。
普通の人間と付き合ったことが無い、それは慧音自身……○○と出会うまでは全く気付けなかった事だった。
だから、正直見くびっていたのだった。裏では悪意が渦巻いているのが常態化してしまったから、普通の人間と付き合うことの充足感を全く分かっていなかった。
慧音の感じたその充足感は、とてもよい物だった。
普通と言う物が分かっていなかった慧音にとって、それは絶対に、何が何でも手放したくない物に変わるまでに、それ程長い時間は要しなかった。
手放さない為その行動の一つが、○○には真実を話さないことだった。絶対にその片鱗すら、極力見たり近づけさせたりなら無いとすら思っていた。
だから、○○が居を構えていた場所を聞いて、慧音は安堵していた。
よそ者を酷く嫌う里の連中なのだから、当然と言えば当然なのだが。○○の構えていた居は、人口の密集地から、妙に離れていた。
そんな場所にいるのだから、それがこの里に充満する悪意と合わされば。必然的に、○○の人付き合いは少なくなる。
唯一の例外が、あの木こりなのだろうが。奴の事も全く信じていなかった。
どうせ監視役か何かだろうと思っていた。
○○の人付き合いの少なさ。それを加速させたくて、慧音はあの手この手を駆使した。
授業終わりの後に、慧音が用意する茶と茶菓子。それなど最たるものであった。
慧音は間違いなく○○を好いている。○○の方も、慧音とこうやって語らう事を嫌だとはまったく思っていない。
話に花が咲けば、自然と○○の帰宅は遅くなる。帰宅が遅くなれば、娯楽の少ないこんな場所では、後は夕ご飯を食べて寝るだけだ。
今では何の気なしに始めた小芝居。あれが子供たちに存外受けが良くて、次は何が言いかやどんな台詞回しにするかなど。
そんな事について、止め処なく話すことが出来ていた。
「すまない……○○……でも、私は、私は……うおおえ……!」
楽しくお喋りをしている時は考えずに済んでいるが。○○と分かれてからすぐに、それは一気に押し寄せてくる。
特に今日は、大分割り引いて、そして脚色に脚色を重ねているとは言え。○○にこの里の暗部を知ってしまうかもしれない機会を与えてしまった。
もし、○○が真相を知ってしまったら。果たしてどのような反応を慧音に見せるだろうか。
今の慧音の心理状態では、まるで良い想像はできなかった。悪い想像ばかりが、慧音の頭を駆け巡っていた。
ただでさえ、○○に対する自責の念で参っているのに。そこに対して、追い討ちをかけるように悪い想像がやってきた。
遂に慧音の精神の不安定さは、体にまで悪影響を及ぼした。
「おええ……!うぇっ……えう……」
涙を流しながら、涎と先ほど食べた弁当の中身を、吐しゃ物として混ぜこぜにした物を、旺盛に口から吐き出していた。
酷い臭いと不快な音が辺りに撒き散らされるが……それを見られたり、聞かれたり、臭いに気づかれたりする心配は。残念ながらまるで無かった。
慧音の記憶する限り、殆どありはしないからだ。慧音がこの寺子屋にいる間に、誰かが訪ねてきたことなど。今日が例外中の例外でしかないのだ。
唯一戻ってくる可能性のある○○も、この寺子屋から出る前には忘れ物が無いか何度も確認していた。
だから、今のみっともない姿を見られる心配は、何処にもなかった。
しかし、今回こうやって○○の耳に。多分に慧音が手を加えていたとは言え、里の事を耳に入れてしまった事で。
何か、不味い道を突き進み始めたのではないかと言う不安が。しきりに慧音の頭の中を跳ね回っていた。
それが慧音の不安を更に増大させて、精神を不安定にして。涙と涎と吐しゃ物は、一向に治まる気配は無かった。
最終更新:2013年07月10日 05:38