「はぁ……はぁ、クソが。クソッタレが……!」
全力で走りながら。全ての力を振り絞って、彼は走り抜けていた。
それは逃げる為にである、あの化物から、その化物の住処の一つである寺子屋から。

そして分や立場をわきまえもせずに、馴れ馴れしく話しかけてくるあのよそ者。
そんな奴と相手すると言う煩わしさから逃げ出したくて。
男は懸命に、通りや辻を走り抜けていた。

「ご無事でしたか、本当に良かった」
辻の一つを曲がった所で、男は何人かの集団に行く手を阻まれてしまった。
「……ッ!」
咄嗟に後ろを振り返るが、先ほどまでは誰もいなかったのに。一体何処に隠れていたのだろうか。
後ろの方にも、やっぱり何人かの男が現れていた。すっかりと、取り囲まれてしまった形だった。


しかも取り囲んできた相手も悪い。
彼らはいわゆる、ばくち打ちやチンピラの類だった。巷での評判はすこぶる悪かった。

一難去って、また一難とも思ったが。この難に比べれば、先ほどの出来事は。まるで語るに値しない程の、些末な出来事のようにすら思えてくる。
その理由は。彼らの目の奥には、明らかな悪意が存在していたからだ。口では無事生還できた事を喜んでおきながら、透けて見える悪意になど気にもかけていない。
白々しいにも程があるし、本当に……こういう時だけ、こいつらは仕事が速かった。
しかしながら、立場が逆ならばきっと彼だって。何でこんな時だけ仕事が速いのか、と思われる側に間違いなく滑り込んでいただろう。
これが足の引っ張り合いと潰し合いに興じている、この里の内実でしかなかった。


「随分、慌てておられましたが。例の寺子屋で何か揉め事でも?」
案の定、取り囲んできた者達は彼が一番触れて欲しくない事柄に触れてきた。
嘘は言えない、かといって真実をありのままに話すことにも二の足を踏む思いだった。
嘘を言ってしまえば、それが大きな仇となり。そこから責を問われてしまい、色々と背負い込まれるのは目に見えていた。
しかし、真実を話してしまっても背負い込まれるのは確実だった。
あの時、○○が話しかけた事を。やつが親しくなろうとでもしていたのか、妙に馴れ馴れしく喋りかけてきた事など。
絶対に話せるはずが無かった。話せば全てが終わる、そういう予感が確かに彼の中にはあった。
逃げるのに必死すぎて、周りの目等全く気にせずに走り抜けていた事に、今更ながら後悔するしかなかった。

思い起こされる、化物とつるむあの○○の、能天気な笑顔が思い起こされて、腹が立って仕方が無かった。
そもそも、奴が無駄に話しを長引かせなんぞしなければ、自分はこんな面倒くさい事に巻き込まれずにすんだのに。
そういう、的外れな憤りで彼の思考は満たされていた。
だが、そもそもの発端である弁当を家に忘れて行った息子。そこには何も思わないし、責めようともしない所は、一応親らしいなと言えなくもなかった。


「ええ、まぁ……少しね」
後悔の念ばかりが駆け巡りそうになるが、巻き込まれてしまった物は仕方が無い。今は何とかこの場を切り抜ける事を考えるのが先決だろう。
嘘は言っていないが、核心も突いていない。とにかくそういう玉虫色の物言いで、この場を早く切り抜けたかった。
そんな玉虫色の会話が出来るかどうかは、また別問題なのだが。しかも、今の彼は強がっていて内心ビクビク物だった。

「宜しければ、何が合ったか。教えて貰えませんか?何か力になれるかもしれませんし」
馬鹿みたいに似通った、わざとらしいぐらいに丁寧な物言いだった。
しかも今度は後ろから声が聞こえてきた。恐らくは、こいつらなりの折衷案なのだろう。
1人で相手するのが嫌だから、一言一言、交代して話しかけようと言う魂胆なのだろう。
しかし存外にも、彼にとっては効果があった。あっちこっちから一言ずつ声をかけられるのは、中々精神的に萎える物が大きかった。

「何……あのよそ者が、ちょっと馴れ馴れしくてね。それだけですよ」
「……それだけですか?」そんなわけは無いだろう。それだけが原因で、あんなに息を切らせるものか。
声色と表情と、間に隠れた本音が相変わらず透けて見えていた。隠す気がまるで感じられなかった。
数では向こうの方が圧倒的に有利だから、隠す必要も無いのだが。

その数的優位が気を大きくしているのだろう。例えそれが見かけの上であっても、穏便に、そして丁寧に繕う事が面倒くさくなっているようだった。
彼に限らず、今彼を取り囲んでいる物達だって。あの無意味な会合から早く抜け出したい部分では。
誰かに全てをおっかぶせてしまいたいと言う部分も含めて、心を一つにしていたのは事実だった。
今彼を取り囲んでいる者達からすれば、これはまたとない機会だったのだ。
自分以外の誰かに、厄介ごとを押し付けられるかもしれない、絶好の好機と捉えていた。

「何か、問題でも?」
「大有りです!そもそも、何故貴方1人で、不用意に寺子屋に足を踏み入れるなどと言う暴挙を……」
「うちの息子が、弁当を忘れてしまいましてね……化物から妙な物を食わされるかもしれないから、急いで持っていったのですよ」


「……はっ」
誰かが鼻で笑った声が聞こえた。弁当を忘れると言う、初歩的な失敗を嘲笑したのは明らかだった。
その他者を馬鹿にした、不愉快な笑い声に彼の感情は昂ぶってしまった。
「……てめぇか!今鼻で笑いやがったのはぁ!!」
「いえ……別に」
「別にって言う割りには、顔がニヤけてるじゃねぇか!!」
ここで素直に謝っていれば。多少は燻りを続けただろうが、彼だって矛を収めたかもしれない。それぐらいの理性はまだ有った。
しかし、鼻で笑った方は謝る所か、濁りのある言葉でうやむやにしようとしてきた。
それでも、凄まれた事で多少怯えた表情をしていれば、まだマシだった。
よりにもよって、凄まれているにも拘わらず。誰かを馬鹿にしたようなニヤけ面を、まだ浮かべていた。
それが彼の堪忍袋の尾を切ってしまった。
こんな口調だったが、これでもかなり子煩悩の性質だった。親として見れば、中々良い親だった。親として見れば、の話に限ればなのだが。

「てめぇだって!小銭入れた巾着袋ぉ!前の会合で忘れて帰ったじゃねぇか!しかもあれ一回だけじゃねぇだろ!!」
しかも、なお悪い事に。彼の息子を嘲笑った男は、彼が知る限り何回も忘れ物をしている。
しかも、弁当ではなく。金銭の類と言った貴重品を、である。弁当よりも明らかに忘れては不味い物だった。

「てめぇにうちの息子を笑う資格があんのかぁ!?まずはその忘れ癖を直してから来い!!」
「今はッ!そんな事関係ありません!!」
「関係あんだろうがぁ!!てめぇらは子持ちじゃないから分からんだろうがなぁ!!」
息子を馬鹿にされた。この一点が、彼をここまで激昂させるとは思ってもいなかったようで。
複数で取り囲んでいるはずなのに、彼1人に完全に気圧されてしまっていた。

「この、親馬鹿が!!」
また後ろから声が聞こえてきたから。親馬鹿で構わん、と。反論をしようと振り返ったのだが。
振り返って視界一杯に入ったのは、肌色の物体だった。


「馬鹿!何殴ってんだ!!流石にこれだけ大騒ぎしたら、人が来るかもしれないのに」
視界一杯に広がった何かが、一体何なのか。
その正体を探る為に思考を向ける前に、彼は鼻っ柱辺りに熱さにも似た痛みを感じて。気付けば地面に倒れこんでいた。
朦朧とする視界の中で、相手方の声だけは鮮明に聞こえていたので。その声でやっと、自分が殴られた事に気付いた。

聞こえてくる声は。彼を取り囲むのを指揮した、主犯格と思しき人物の慌てた声だった。
慌てたくなるのも無理は無い。今の状況は余りにも不味すぎるからだ。
多人数で、1人の人物を取り囲んでいる時点で、申し開きの場では不利にしかならない材料なのに……しかも、最初に手を出してしまった。
どう弁解しようが、逃げ道は無かった。
殴られた衝撃で、彼の方はまだ視界がぼやけていたが、痛みと引き換えに先ほどよりは有利な状況を得れたのは、理解できた。

「何を笑ってやがる!!」
所詮はばくち打ちやチンピラの類、行動の端々は軽率でしかなかった。
ほくそ笑む彼の表情を見て、苛立ちを隠しきれずに。今度は彼の事を蹴ったりし始めて来た。
「待て!だから、やめろと言ってるだろう!!」
主犯格はまだ冷静に状況を読めるようだが。連れてきた連中が悪かった、ばくち打ちやチンピラ相手では満足に言うことも聞いてくれなかった。

「おい!何を騒いで……またお前等か!!殺すきか!」
「やりすぎだ!お前等、やっぱり馬鹿だろう!!」
「やっぱりお前等に任せたんじゃ……!!」
これだけ騒いだんだ。誰も来ないはずが無い。
最初に脛に傷を持っていたのは、寺子屋に不用意に足を踏み入れた彼の方だったが。
なのにいつの間にか、彼は被害者の立場に座ることが出来ていた。



色々と話を聞きたいので。そういう名目で、彼と件のチンピラ連中。そして里の人間が、いつもの寄り合い所に集まっていた。
寄り合い所に向う道すがら、チンピラ共は里の者に羽交い絞めにされながらで。一言も喋れなかった。
そんな緊迫した雰囲気で、辺りを練り歩いた物だから。色々な人間に見られてしまったが。
怪我をした彼と、羽交い絞めに去れているチンピラ。この二つで、皆おおよその事を察してくれたのは有り難かった。

そして、どうしたどうしたと言う。野次馬のように事情を聞く周りの者に。
「殴られたんだ」を枕詞に、彼が説明しようとするが。
「後で話すから!ちょっと寄り合い所借りるぞ」と、先程は彼を助けてくれた中の誰かが。無理に制止してしまった。




痛々しく腫れた顔の彼、茶をすすろうとすれば、口内の傷でしみる。
しみる傷を堪えながら、その原因を作ったチンピラどもを忌々しげに見て回る彼の姿。
先ほどのチンピラどもは、それを前にして小さく縮こまるばかりであった。

最も、中にはお門違いにも甚だしいと言うのに。腹を立てたり、周りの人間に凄んでいるものもいたが。
これ以上立場を悪くしたくない主犯格に制止されたり、倍以上の数で取り囲んでいる里の人間に逆に睨まれたりで。
腹の中身は別として、意外にも全員が頭をたれて、静かに座っていた。

しかし、彼は1つ気になったことがある。
件のチンピラ共が、居心地が悪くて頭を垂れるのは当然の成り行きだが。
辺りを見回してみれば、助けに入ったはずの里の人間にも。居心地が悪そうにしている者が何人も見受けられた。

そして彼が目を合わせようとすると。露骨に避けられたり、ぎこちない笑顔で返されたり。酷いのになると、目を合わせたくなくてずっと頭を垂れる者までいた。
何か隠し事を、何かやましいことがあってソワソワしている。はっきり言って、そう言う反応にしか見えなかった。
特に頭を垂れる姿など、件のチンピラと瓜二つだった。


彼は辺りをぐるりと。何回も何回も見回したが、その度に皆縮こまっていくばかりで。
最終的には、真正面を向いているのは彼意外に誰もいなくなって。沈黙が辺りを支配していた。
「……どうしました?皆さん」
いぶかしみながら、彼は沈黙した場を進めたくて声をかけるが。
「いや……ご無事でよかった」
先ほど取り囲んで来たチンピラ共から聞いたような言葉を聞くばかりであった。
但し、歯切れの方は随分悪かったが。

彼を殴り飛ばしたチンピラ共が、居心地悪そうに縮こまるのは分かる。
しかし、何故その周りに座る。自分を助けてくれたはずの里人たちも、妙に居心地が悪そうにしているのか。
こんな姿を見せられれば、疑心の1つくらい沸き上がってもしょうがないだろう。
いつの間にか、彼は回りに座る里人たちも。件のチンピラ共に対するのと、同じような目で見ていた。

そもそも、彼が例の寺子屋に足を踏み入れたと言う情報。これを件のチンピラ共が、どこでどうやって手に入れたかは分からないが。
手に入れてから、それを当てにして彼に全ての厄介ごとを押し付けようと画策するまでの間に。
どうやったとしても、寄り集まって相談しているはずだ。よしんば、相談の場面を見られていなくても。移動中には絶対に誰かが見ているはずだ。
この里における騒動の種は、大体このチンピラどもだった。その種が寄り集まっている姿、黙って放って置くはずが無い。

「なぁ、アンタ。何をそんなに居心地が悪そうにしているんだ?」
「……ッ!?いや……そんな事は」
「ふんっ……。そうかい」
確証など何処にもないが。彼らの態度とあわせれば、果てしなく黒に近かった。
これはもう、知っていると見てほぼ間違いは無さそうだった。
あのチンピラ共の謀を。彼が不用意に寺子屋へ足を踏み入れた事を材料に、厄介事を押し付けようと謀っていた事。
どの段階で知ったかは知らないが。間違いなく知っている。
だから放っておいたのだ。件のチンピラ共が寄り集まっていても、何も口を挟まなかった。
下手をすれば、黙認すると言う生易しい物ではなく。完全にグルだったのかも知れない。

しかし、言葉で追い詰めきる前に。チンピラ共は彼に手を上げてしまった。
これで謀は一気に音を立てて崩れてしまった。人死にが出るのは余りにも不味い事だった、しかも彼は子持ちの妻帯者。

同じ大人である妻は、まぁ何とかできなくも無い。しかし、子供相手では具合が全く違う。
よしんば、黙らすことが出来ても。寺子屋にいる間にも、同様を悟られぬよう、完璧な演技が出来るか。これはもう、無理と言ってもいいだろう。

そこから上白沢慧音に、あの化物に不穏な事態を感じ取られては……もしそんな事が起こってしまっては。
それはこの里の破滅に直結しかねない出来事。そう言っても過言ではなかった。それが無ければ、多分。行く所まで行っていたかも知れない。

遠巻きに見ていた里人達は、慧音の疑心を煽る、ただこの一点を恐れた。皮肉にも、彼はいつも化物と内心では蔑んでいる、上白沢慧音のお陰で、死なずに済んでいた。

「まぁ……あの化物にばれるのは、不味いでしょうねぇ……こんな事」
だが、彼らの中に1人でも。この皮肉な状況に気付ける物がいるならば。
そもそも、こんな事態には陥っていなかったかもしれない。
「よぉく見りゃ……妻帯者はいても、子持ちは少ないね。今の集まりには……いや、別に何の意味もありやせんよ今の呟きには」


子持ちの少なさに、彼の中で何となく合点が行った。チンピラも、一部の里人も親と言う物の底力を、少しばかり舐めていたのだ。
「いや……俺の方は、この間生まれたばっかだけどさ。あんたの気持ちはよく分かるよ!自分の子供があんな化物の手料理なん―
若い男が1人。彼に媚を売るかのように、前のめりになりながら言葉を発したが。
その自己弁護のような媚びた声は、横に座っていた者が血相を変えて口を塞いでしまった事で、聞こえなくなってしまった。


「ほぉ!あんたらいつの間に、うちの息子が化物の手料理を食わされるかもしれないって事を知ったんだい?」
彼が確証を手に入れてしまった瞬間であった。
「どうか、お聞かせ願えませんかねぇ?」
しかし、それでも彼の糾弾の手は止まらなかった。言ってもいないはずの、彼が寺子屋に足を向けた理由。それをいつ知ったか、更に聞き出そうとした。
「俺の記憶が正しければ。あんたら俺を助けてくれた後、このチンピラ共とは一言も喋ってないよなぁ!?」


しかし、彼からの糾弾じみた質問にも。一向に答えは返してくれなかった。
「なぁ……一体何が合ったんだい?そろそろ子供たちが帰る時間だからよぉ……俺も帰りたいんだが」
まただんまりかと。彼がイラついていると、出入り口のふすまが開いて顔を覗かせる人物が現れた。

彼以外の参加者が、不味いと思ったのも束の間だった。
「なぁ!自分の所の子供が、化物の手料理食わされそうになったらどうするよ?」
彼が先制の言葉を、発してしまった。
「決まってらぁ……どうにかして止めるしかないだろ」


彼以外の参加者が、不味いと思ったその理由。それは2つ合った。
1つは、この謀の露見を恐れて。もう1つは……この第三者が子沢山であった事だ。
その上、子煩悩としても知られていた。彼の味方をする事は……ほぼ間違いなかった。

「な!?そうだろ!?俺だってそうするさ!!それをこいつらは―
意外にも、この子煩悩な第三者への合いの手は、彼ではなかった。
恐怖と恐慌で、媚を売る男の口を押さえる手が緩んだらしい……そう、またあの媚びた声だった。

「こ……こいつらに、やれって言われたんだ!!」
状況の不味さを、チンピラの筆頭格も感じたようだった。
「てめぇ!俺等を売るのかぁ!?」
「嘘つくんじゃねぇ!!」
最早、この者達の置かれている状況は、どうにもならなかった。
子煩悩な第三者は、彼の方をじっと見た後。侮蔑の表情に変えて、醜態を晒す彼以外を見つめた。
それが、彼を信じた瞬間だった。こんな醜態を見せられて、彼以外を信じようとするはずがなかった。

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最終更新:2013年07月10日 05:41