火を起こしたり、暖めた味噌汁を器に盛り付けたり。そこに保存食の漬物と、今日は卵焼きもつけた少し豪華な夕飯だった。
川魚の佃煮は、食べようかと悩んだが。漬物味噌汁で十分なところに、今日は卵焼きもあるので。明日の弁当に取っておく事にした。
味噌汁にせよ、漬物にせよ、卵焼きにせよ。味付けで個々人の好みがよく現れる。
○○の場合は、味噌汁に漬物と。塩気のあるものが続いている場合は卵焼きは薄味で仕上げるのが好みだったが。
慧音の場合は、味噌汁を薄めに仕上げてその分卵に使う方を好んでいた。
卵焼きに限らず、料理の味付けの好みには人となりと言うのがよく出てくる。
誰かがいれば、その事を談笑の種にして花を咲かせるには十分だろう。
「……」
しかしながら、今この場にいるのは○○1人だけだ。日中は慧音や子供たちを相手に、ずっと喋っている物だから。
帰った後感じるこの落差に、軽く心を痛めつけられている。
それを紛らわせる為に、意識的に独り言を呟いていた事もあったが。余計寂しくなるのですぐにやめてしまった。
卵焼きは、満足の行く出来だった。見た目でもう十分、俺は美味いぞと存分に主張してくれていた。
しかし、その喜びを分かち合える存在はここにはいない。達成感で、自然と浮かび上がる笑みが物悲しさを助長させる。
「……いただきます」
そう言った所で、誰かが返してくれる訳でもなし。黙々と箸を動かして口に運んで咀嚼して飲み込む言う動作を繰り返すしかなかった。
「ごちそうさま……」
指して特筆すべきことも何も無く。また、何か箸を止めるような自傷も起こるはずも無く。あっという間に本日の夕飯は終わってしまった。
慧音や子供達と一緒に食べた弁当と比べて。夕飯の方が出来立てで、暖かいのだが。
米と漬物だけでもいいから、皆で食べているときの方が。○○にとってはずっとずっと、満足感のある食事だった。
「……」
正直な話、夕飯を終えた後は、まるでやる事が無くなってしまうのが常だった。
洗物と言っても、1人切りの食卓に上る食器の量など、たかが知れている。
馬鹿みたいに丁寧に洗い流して、洗った後の器の水気もこれでもかと言うほど切って行っても、やはり一時間もかからずに終えてしまえる。
早く明日にならないか、本日の出来事を全て消化してしまった○○は、毎日のようにこう思っていた。
「…………ッ!」
寝転びながら、ぼやっとしていると。意識しなくても今日合った事を中心に考えが及ぶ。
これは、別にいつもの事だったし。いつもならば、その思考の回転をあえて止めようとは思わなかったのだが。
だが、今日はいつもとは違う、とても濃い出来事があった。
その濃い出来事が脳裏に横切った際、その思考に囚われてしまい。行く所まで行ってしまう事を恐れて、思わず跳ね起きてしまった。
○○の脳裏に横切った、濃い出来事。慧音の様子がおかしかった事もそうだが、何故あんなふうになったかの理由は、おぼろげながらも把握できた。
消化しきる事のできない感情にはなりえなかったし。跳ね起きる等と言う、拒否反応の如き動きには繋がりようがなかった。
○○の体を跳ねさせた原因は、その後の事に合った。
慧音が妙な行動を見せた事を、慧音自身が説明してくれた折に。慧音が行動で持って示した、○○と、里人との違い。
それは、慧音の事を過度に敬っているかどうかであった。
それを慧音は○○の顔に思いっきり近づく事で、言葉を用いずにで説明してくれた。
○○は慧音の息遣い、匂い、体温。その全てを感じれるくらいにまで慧音が近づいてきたのだった。
急にそのような事をされた物だから。ましてや、慧音の事を多少なりとも、魅力的な異性として見ている物だから。
劣情と言う感情が、駆け巡らないはずは無かった。
あの場では、目の前に当の本人である、上白沢慧音が目の前にいたから。
まさか、私は貴女に劣情なる感情を抱いていますなどと。そんな感情、あらわに出来るはずが無かった。
残念ながら、表情の方は締まらないままであったが。それでも、必死に後ずさったりして精一杯の抵抗を見せた。
しかし、今は違う。今はこの部屋に○○1人しかいない。
誰かが入ってくる心配など、露ほども存在しないし。そもそも客が来た事もただの一回も無かった。
例の木こりですら、軒先までで。玄関に入った事すらなかった。
劣情を処理するには絶好の場所、好きな時に好きなだけ処理できる空間。好き物には堪らない場となっていた。
無論、○○だって男だ。劣情の処理の後に来る、空虚感に苛まれる事はあっても。処理の行為自体は嫌いではない。
なのだが、今回に限っては。処理したいと言う欲求の根本的原因である、上白沢慧音に対する劣情は、何としてでも収めたかった。
上白沢慧音を、劣情を処理する為の材料には、絶対にしたくなかったからである。
何故か?とにかく、生理的に嫌なのだ。例え妄想の中であったとしても、彼女を汚すと言う行為に。
そこに対して、生理的な嫌悪感を感じずにはいられなかった。
慧音先生は、上白沢慧音は、彼女は、とても素晴らしい人物だった。
外見だけでなく、中身も、そして生き方も。全てが○○自身とは、比べようが無いほどに眩しい存在と思っていた。
それほどまでに素晴らしい人物を、劣情を処理する当てにしてしまうなど。
なんだか、とてつもなく卑しい事で。絶対に、許されない事のような気がしてならないのだった。
ただ、その拒否感が。自分の考えすぎてある事は、○○だって理屈の上では分かっている。
例え我慢できずに、ここで処理してしまっても。○○が口を滑らさない限りは、慧音は知る由が無いし。
処理した後に感じる空虚感だって、いつもの奴と何も変わらない全く同じ物、寝れば消える物だってことぐらい。
頭の中では理解していた。しかし、感情が追いつかなかったのだ。理屈は分かるが、心の方で納得が出来なかったのだ。
「風呂に入って、もう寝ようか……いや、少し次の寸劇の台詞でも考えよう。うん、それがいい!」
劣情に気付く前に感じていた、いつもの孤独感。これから逃げたくて、さっさと寝て明日に意識を飛ばしてしまうのは、間々あったことだが。
今日は、さっさと布団に入ってしまうと。中でもぞもぞと、処理してしまいそうで怖かった。
「次の劇はぁ……朝三暮四かブレーメンの音楽隊が良いかなぁ」
その恐怖感を必死に紛らわそうと。却って寂しくなるから止めたはずの独り言が、いつの間にか復活していた。
寂しさの増大など気にはならない。それくらいにまで、生理的嫌悪を引き起こす原因となりえるのだ。
上白沢慧音の事を……下劣な言い方をすればオカズにしてしまうのを。○○は酷く恐れた。
それだけは、何が何でも避けたかった○○は。必死で、別のことに集中しようとした。
「おぇ……がふ、はぁ……はぁ……」
○○の中では、慧音の事は神格化がなされている真っ最中だった。
「はぁ……うう……」
○○の頭の中での慧音の今の状態は、明日の授業の下準備をしたりなど。やはり教育者らしい姿だったのだが。
現実の慧音は、いまだ寺子屋から離れることが出来ずに。相変わらず、嗚咽を漏らし続けていた。
慧音の脳裏には、相変わらず○○に嫌われるのではと言う悪い想像ばかりが渦巻き。その悪い想像は、慧音の精神や心理状態にとって、余りにも強烈な毒物であった。
当然の事ながら、毒物である以上は体の調子を著しく悪くする
そのせいで、もう日も沈んで大分たつと言うのに寺子屋から離れることが出来ずに。床などを汚す心配の無い、水回りの設備のある場所に這って行くのがやっとであった。
「うぉええ……○○、頼む……気付かないでくれ、私を……嫌いになら無いでくれ」
水のある場所にいるから、床などを汚す心配はほぼ無くなったが。
それでも、涎と涙と胃の中身。それらを混ぜこぜにした吐しゃ物を。口から旺盛に吐き出し続けていたから。
慧音自身は、酷い臭いに包まれて。顔つきもグシャグシャのドロドロで。臭いも相まっている為、全く持って見るに耐えない様相であった。
結局。東の空が白み始める時間になっても、慧音はまだ嗚咽を漏らして立ち上がれないでいた。
空が白み始めると共に、聞こえてくる鳥達の声。これを聞いてようやく、自分が一晩中泣き伏せっていた事に気づいた。
「……朝か、そんなに長い時間…………不味いッ!」
夜の闇が白み始めたのを見て、慧音はようやく自分が追い込まれている事を悟った。
朝が来れば、またいつも通りの生活が始まる。
この寺子屋の教師として、○○と一緒に、教鞭を振るう一日が始まる。
しかし、今の状況。点々と吐しゃ物が撒き散らされ、今慧音がいる水場も、こぼしたり溢れたり跳ねたりした物で、床が汚れているし。
何よりも不快なのは、それら全部が酷い臭いを撒き散らしている事だ。勿論、吐しゃ物を吐き出し続けた慧音も例外ではなく、やはり酷く臭っていた。
余りにも見苦しい液体と、醜い臭いが辺りに散乱している。このことにやっと慧音は気付いた。
「不味い……不味い……不味い……!!」
それに気付いた慧音は、半狂乱に陥りながら辺りを駆けずり回った。
まずは自身にこびりついている吐しゃ物と酷い臭いを洗い流そうと。新鮮な水を得ようと、井戸のある場所にまで駆け出した。
井戸のある場所にまで辿り着いた慧音は、大慌てで水をくみ上げて。そして迷いもせずに、頭からぶっ掛けた。
「ふぅ……はぁ……!!」
冷える朝方に、冷たい井戸水。この組み合わせに、慧音の体は芯にまで寒さが達しそうになるが。その寒さを堪えて、何度も何度も井戸水を頭から被り続けた。
とにかく、全身にへばりついた吐しゃ物と、それから発せられる酷い臭い。
慧音はこれらを何としてでも、自分の体から取り除きたかったのだ。
理由はただ一つ。もうすぐ寺子屋での授業が始まるからだ。
本格的に朝がやってくれば、またいつも通り子供達がやってくる。勿論、○○もやってくる。
特に○○には、この惨状は絶対に見せたくは無かった。これ以上○○に真相を知る機会も材料も与えたくなかった。
ただでさえ、昨日の事で○○には近づく機会らしき物を与えてしまったのではないかと考えているのに。
その事で慧音は強い不安感と恐怖に苛まれて、動けなくなってしまったのだが。
皮肉な事に、今慧音の体を突き動かしているのは。先ほどまで慧音の体の自由を奪っていた、その不安感と恐怖と、全く同じだった。
水を何度も被り続けるが、慧音は自分の臭いがまだまだ良くはなっていないと。何かで確認をしているわけでもないのに、短絡的に決め付けていた。
そういう短絡的な思考は、遂には今現在着ている衣服を完全に敵視してしまった。
「クソ……こいつはもう駄目だ……!!」
ビリビリと、豪快に破く音を撒き散らしながら。己の肢体が露になる事など、気にも留めずに。野外だと言うのに、衣服を脱ぎ散らかした。
そのまま室内には戻っていかずに、また井戸水を豪快に二三度被りなおした。
「……よし」
何がどう良いのかは、傍から見てもさっぱり分からないが。とにかく慧音は何かに満足したらしい。
破り散らかした衣服をそのままに、慧音はまた大慌てで寺子屋の中に戻っていった。
一応裸である事の羞恥心はまだ忘れていなかったらしい。辺りに散らばる吐しゃ物で作られた水溜りに目は向けるが、まずは着替えを優先させた。
とは言っても、寺子屋にある着替えは、汚れても言いようの作業着ぐらいしかない。裸よりはマシだが、○○達がやってきた時、どうやって言い逃れをするのか。
「掃除……早く、綺麗にしないと……」
何より、吐しゃ物の処理でこれからまた汚れることになる。その後のことも大概だが、それ以前に今の状況を切り抜けれるかどうか。
ある意味、その後のことで悩めるようになるのは。今の状況を見れば、それは幸せな事かもしれない。
最終更新:2013年07月10日 05:42