「……うぉ!?」
○○は全身が痙攣して、跳ね上がるような感触で目が覚めた。どうやら、机の上で突っ伏して眠ってしまったようだ。
痙攣も、跳ね上がるような感触も、不自然な体位で寝てしまったからだろう。
起き抜けに、まず目に入ったのは外からの光が注ぎ込んで来て、明るい室内。それで感じたのは勿体無いと言う感情だった。
寝ぼけ眼では、そもそも自分が何故机の上で寝落ちてしまう事になったのかは。容易には思い出すことが出来なかった。
なので、寝落ちてしまった事により。放置していたろうそくが完全に燃え尽きてしまった事を、○○は勿体無いと思ってしまった。
いっその事、このまま思い出せずに。燃え尽きたろうそくへの未練を抱えたままの方が、○○としては幸せだったのかもしれないが。
「あ……ああ……そうだった」
残念ながら、○○が慧音の事を考える気持ちは。そこまで軽い気持ちではなかった。
なので、すぐに思い出してしまった。
慧音への劣情を、必死に紛らわせる為に。とにかく、無理矢理にでも、別のことに集中しようとした昨晩の事を。
「……思い出さなきゃ良かった」
ぐったりと、再び机の上にうなだれる。しかし、時の巡りは○○にことごとく味方をしてくれなかった。
机に突っ伏したまま、十数秒ほど経過した所で。今度は寝起きざまの痙攣による、反射的な動きではなく。
今度は自発的な意思によって、慌てて飛び起きた。
「寺子屋!!」
そう、今日は平日。寺子屋ではいつも通りに、授業が営まれる日だった。
いっその事、今日が休日であれば。ふて寝なり何なりで、落ち着くかどうかは別として、気持ちを落ち着かせる時間が出来たのに。
何より、休日ならば、里に向わない限りは慧音に会わずに済む。
とは言っても、慧音と会わずともこの劣情が鳴りを潜めてくれるとは思っていなかったが。会ってしまえば、1人で悶々とするよりも更に激しく。
自分の中で、劣情が渦を巻いて勢いよくうねりを上げてくれるだろう。それほどまでに、○○の中での慧音の比重は大きかった。
「しまった……風呂にすら入ってないから、体臭が……ああ、でも」
明日の用意を何もせずに、朝まで寝落ちてしまったものだから。残された時間の割りに、○○にはやることが沢山ありすぎて、目が回ってしまっていた。
「そうだ今日の弁当ッ!!米炊く時間……無いな……それに体ぐらいは拭いて、ああもう!」
こんな状況に追い込んでしまったのは、誰のせいでもなく、自分のせいなのだが。それでも、苛立ちを隠し切る事はできなかった。
しかし、あまり粗雑な言葉と行為を続けていると。今度は自分自身に、みっともない事をしたと言う感情が跳ね返ってくるが。
「チッ……!」
それを分かっていても、舌打などはやむ事はなかった。
しかし、○○は露ほども知る由は無いが。慧音の置かれた状況は、精神的にも物理的にも。○○よりも数段酷かった。
「あ、あ、あああ!!!」
廊下や、部屋の掃除を始めた慧音は。自分の吐しゃ物によって、余りにも広範囲に、いろいろな場所が汚れている事を、ようやく知ることが出来た。
すえた臭いを飛ばす為に、窓を全開しつつ。雑巾をこれでもかと言うほどの量を、バケツに突っ込んで、その中に水をぶち込んで。
奇声を上げながら、辺りに点々と撒き散らされた吐しゃ物を拭いて回っていた。
とにかく、汚物の一片も、臭いの一欠片さえも残したくは無かった。
何がんでも綺麗にしなくてはならない、綺麗にしなくては○○にどう思われるか分からない。そんな強迫観念までもが、今の慧音には篭っていた。
半狂乱よりも更に進んだ。もうこれは、完全な狂乱と言って差し支えないような状態であった。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
案外、何とかなるものだった。目に付く全ての汚物は、完全にふき取ることが出来た。
臭いはまだまだ気になるが、幸いにも慧音自身は夜明け前から冷たい水を頭から何度もぶち負けたお陰で。
体の方は、いつもより冷たい気がするのは気になるが。臭いの方は、恐らく大丈夫そうだった。
ただ、今まで来ていた作業着の方は。汚物をふき取るさいにあれやこれとついてしまった為。いくらか酷い匂いがしていた。
所詮作業着なのだから、その程度なら荒って次に着まわせそうだったが。
今の慧音がそんな判断を下すわけが無い。先ほどと同じように、半狂乱になりながら破り捨てるように脱いで、くずかごに放り込み。また新しい作業着に着替えた。
作業着に着替えた後、慧音はしきりに鼻を動かして。念入りに自分の体臭を確認した。
「大丈夫だ……私自身が大丈夫なら……どうとでも、なる、出来る……」
この作業着も、ずっと仕舞われていた為に。少々どころではなく埃っぽかったが、そんな物は今の慧音はまったく気にしなかった。
あの不快な臭いに比べれば、少々埃っぽいくらいは遥かにマシだったから。
ならば、何とかなるはずだ。どうとでも出来るはずだ。どうにか言いくるめる事が出来るはずだと。
そう自分に言い聞かせるように、慧音は何度も何度も。同じような言葉をブツブツ呟いていた。
「はぁ……はぁ……はぁ……!」
遅刻だけは絶対にしたくない。なぜならば、慧音に及ばないとは言え、糊口をしのぐ為とは言え。子供たちにとっては、自分も1人の教育者、先生なのだから。
先生とは、必然的に子供たちの上に立つ存在である。ならば、子供たちの上に立っているならば。
可能な限り、模範的な生き方をすべきだろう。
クソ真面目に生きろと言うわけではない。○○だって、濁り1つ無い善人と言うわけではあるまい。
しかし、遅刻は不味いだろうと。
遅刻はしない、時間を守ると言うのは、およそ模範的な生き方のはずだ。
自分の為にも、そして相手の時間を無為に消費させない為にも。ちゃんと集合時間や授業の開始時間は絶対に守りたかった。
そうでなければ、格好がつかないし。遅れてきたりした子供がいた場合に、注意するにしても。
注意している当の本人が、遅刻魔では言葉の重みが全くなくなってしまう。
しかし、今日は相違体裁を整える為に、犠牲にしなければならないものが随分あった。
まずは風呂。湯船に沸かすのは、かなり最初に諦めたし、お湯で体を拭くのも結局諦めてしまった。
結局、冷たい水で我慢するしかなかった。
次に朝食。始めは、昨晩炊いたご飯の残りをかき込もうと思ったが。
これが無くなると、今度は昼に食べる分がなくなってしまう。
いつもは、早くに起きて昼に食べる分の米を少量炊くのだが。風呂を沸かす時間が無いのだから、米を炊く時間だってあるはずが無かった。
結局、何も食べないのは不味いので。昨日弁当に入れようと思い、食べずに取っておいた川魚の佃煮。
あれを一尾だけ食った。ただしそのツケは、今日の昼食のおかずが減る事で払わなければならないのだが。
この幻想郷では、食料が貴重な為。そうやって帳尻を合わせるしかなかった。
川魚一尾。それも、佃煮にするような小魚が一尾では腹が空いて仕方が無かった。
しかし、その原因は全て自分自身にあるものだから。誰かを非難することなどは出来ない。
本来ならば、その原因がどこにあって。再び繰り返さぬために自己を省みると言う作業が必要なのだろうけど。
生憎、性と言う抗いがたい感情が。奥深くにまで食い込んだ問題の為、今回に限ってはその原因を努めて感がぬ用にしていた。
ただただ、遅刻せぬように走り抜けて。空腹感は昼食の時間まで、歯を食いしばって耐える。今はそれだけしか考えぬようにしていた。
「間に合ったぁ!!」
そうやって、種々の事柄を犠牲にした甲斐あって。○○はいつも通りの時間に、子供たちよりも早くに、寺子屋に到着することが出来た。
最終更新:2013年07月10日 05:44