「間に合ったぁ!!」
そうやって、種々の事柄を犠牲にした甲斐あって。○○はいつも通りの時間に、子供たちよりも早くに、寺子屋に到着することが出来た。


「案外、何とかなるものだな……食事とか風呂とか省いたけど」
かなり息を切らしてしまった。それに、空腹感も結構大きい。それでも、色々と準備をするには十分な時間的な余裕を持たす事の出来る。
いつも通りの時間に、○○は寺子屋にたどり着くことが出来た。

玄関で履物を脱いで、多少息を切らしながらだがいつものように寺子屋へと上がりこんでいく。
その際、窓と言う窓が全て開け放たれているに気がついた。一つ程度ならば、空気の入れ替えだと思って、気にも留めなかっただろう。
しかし、目に付く全ての窓が、全開にまで開け放たれていたら。それは流石にいぶかしむしかなかろう。

妙だなと思いながら、こう開け放したままでは肌寒いので目に付いた者から閉めて行っていた。
何個目かの窓を閉めたところで、慧音の姿が奥の方に見えた。
普段と違って、余り締まりの無い服装だった。埃っぽそうなその服装は、掃除の時に着るような衣服だった。
それに加えて、いつもの慧音ならば。○○の姿を見受けたら挨拶をしながら、すぐに近づいてくるのに。
今日に限っては立ち尽くしたままで、一向に動こうとしなかった。
遠目なので、表情の動きまでは読み取ることが出来なかったが。服装も含めて、いつもとは違う反応を見せていたので。
確認などろくに取れていないはずなのに、何だか雰囲気が。
見た感じ、いつものそれとは違うような気が、少しだけ感じていた。

しかし、そんな確証に欠ける感覚だけでは。○○が慧音への態度を変えるはずは無かった。
○○の、慧音への好意的な感情が、この程度で揺るぐはずは無かった。
「慧音先生、お早うございます。掃除でもしてらしたのですか?」
開け放たれた窓を閉めながら、朝の挨拶と。全開の窓に対する疑問を呈してみた。
最も、今しがた呈した疑問は、別にそこまで気にはしていなかった。
ただ何となく気になったから、朝の挨拶ついでにその事を話題に出しただけなのだが。

「ッ!?」これでもかと言うほど、慧音は体を跳ね上がらせた。
その上、近づこうとすれば慧音は一歩後ずさりをして。○○との距離感を一定に保とうとしてくる。
○○はただ挨拶をしただけなのに。当の慧音の方が、非常に挙動不審な態度を取っていた。
「……あの、慧音先生?」
ここで慧音が必死に、多少歪でもいいから挨拶を返したりなどして。
平静らしき物を取り繕うことが出来ていたならば。多少の違和感は抱えつつも、○○はいつも通りと思えただろう。
しかし慧音の反応は、○○の中で蠢いていた、何となく変だなと言う。
そういう違和感が、ここに来てはっきりと目の前に提示された思いだった。それは○○の表情や声色にもはっきりと表れた。

「あ、あ……ああ、すまない○○。いや、大丈夫だ。うん、本当に大丈夫だから」

どう見てもそうは思えない。今の慧音の状態は、異様と言う他ないだろう。
今の慧音の状態を見ていると、○○は否応無しに昨日の様子を思い出すしかなかった。

そして、後悔が○○の周りを付きまとった。
自分がいつも通りに帰って行ってしまったのは、もしかしたら慧音の精神の安定において、かなり不味い事だったのではないかと。
実際問題、今目の前にいる慧音を見ても。とてもじゃないが、普通の状態とは思えなかった。

「……あの」
とにかく、近づいて話をしなければ。何も始まらない。こうやって向かい合ってにらみ合うだけでは、時間が勿体無かった。
そう思って、まずは一歩でも。○○は慧音との距離を詰めようとはするが。
「……ヒッ!?」
のけぞる様な動きでまた距離を、今度は先ほどとは違い、更に離されてしまった。
こうあからさまな、拒否の感情を示されてしまったら。たとえ今の慧音が平静ではないからと言う、事情を分かっていても。
やはり、少しは傷ついてしまう。



「あの……」
○○を傷つけてしまった。それは雰囲気ですぐに分かった。
特に、力なく慧音のほうに手を向けてくれるその姿。慧音の心に深い傷跡を作るには十分すぎる仕草だった。

今の慧音にとって、最早○○は唯一無二の理解者となり続けてくれる存在だった。
その考えは、昨晩の狂乱でより強固な物として、慧音の心の奥深くにまで根付いてしまった。
ただ○○と、いつまでも、この寺子屋で、教師の真似事をしていたい。その願望ばかりが強くなってしまっていた。

「いや、違うんだ!○○」
そうは言うが。○○の心から誤解を解いてやりたいと思う気持ちに、嘘偽りなどあるはずは無いのだが。
「くっ……ううう」
どうしても、足を前に出せないのだ。あれほど水を被って、服まで取り替えたのだ。もう臭っているはずなど無いはずなのに。
「○○……」
今こうやって、○○との距離を開けたままにしている方が。より酷い結果になるとは、勿論分かっている。

「……くそう」
「慧音先生?大丈夫ですか……?」
それでも、間々ならないのだ。頭では分かっていても、やはり間々ならないのだ。
慧音の事を気遣う○○の言葉も耳に入らずに。必死に、自分の体や衣服の臭いを嗅いで、大丈夫かどうかを気にしていた。

時間が経てば経つほど。慧音の行動は常軌を逸していく。
自らの臭いの確認に没頭している慧音は気付いていないが。上半身の衣服を捲り上げ方も、周りの目など気にしてはいなかったから。
服の下に隠れている腹辺りの柔肌はおろか。その更に上のほう、胸あたりまであられもなく露出しようとしていた。
かなり、目のやり場に困る景色だった。多少なりとも、慧音の事は意識しているから余計に、色々な事を考えてしまう。
それらを、○○は自らの視界に入れる事を自然と避けようとする。どう考えても、それが普通の反応だろう。

「……ッ!?○○……」
その視線を外すと言う行為。○○でなくとも、今の慧音を見れば多分誰だってそうする。
およそ常識的な判断能力があれば、裸体を露にしている女性を目の前にすれば。取りあえずは視線を伏せてしまうのが道理であろう。

しかし、そうさせてしまう原因を作ってしまった慧音の方が。今の自分自身の姿に対して、考えをめぐらせると言う事が出来ないでいた。
「ああ……くそ……」
狼狽した声を出す慧音に、○○はそれも駄目なのかと毒づく。
しかし、視線を元に戻せば。否応無しに入ってきてしまうのだから。そうせざるを得ない。
だが、視線を外す事は。今の慧音の精神状態では傷つけてしまう事と同義。本当に間々ならなかった。


「……仕方ない」
だが、間々ならないなりにも。今のこの状況は少しでもよくしなければいけなかった。
意を決して、○○はまた正面に向き直った。
ただし、視線は上のほうに固定して。顔だけを注視出来るようにして、晒されている柔肌は視界に収めないように努力はした。

「……やっぱり出るしかないか」
しかしそれでも。向き直る前から多少の予想はついていたが。やはり多少は目に付かざるを得なかった。
視界にまったく収めなくする方法。考え付かないわけではなかった。しかし、その方法では多少の気恥ずかしさが付きまとっていたが。

「……慧音先生!」
その気恥ずかしさよりも、慧音の心中を穏やかにする。その事の方がはるかに重要な事柄なのは明白であった。
なので、気恥ずかしさをぐっと堪えて。○○は歩みを進めた。
いや、それは歩みというよりもずっと勢いよく。
イノシシの様に、突き進むといった方が的確な表現だった。

「え?○○?わっ、わっ!!」
○○が、また顔を向けてくれたのはただ純粋に嬉しかったが。かと言って、慧音自身はまだ自分の臭いに確たる安堵の念を抱くには程遠い状況だった。
○○からそっぽは向かれたくは無いが、かといって○○の近くにいるのは不安。間々ならないのは慧音も同じだった。

慧音は自分の方向に突き進んで来る○○から離れようと、また後ずさりをしようとするが。
衣服を捲り上げながらだったので、姿勢を崩してしまい。幸い、尻餅を付いたりなどして転ぶことはなかったが。
「慧音先生」
目と鼻の先までの至近距離に、○○を近づけさせるぐらいの時間的猶予は作り出してしまった。


お互い、吐息を感じるくらい近くに位置してしまった。
○○は、とにかく気恥ずかしかった。昨晩の事と言い、今のこれといい。これで余計に○○が慧音の事を意識するのは間違いなかった。

しかし、○○の懸念などかわいい物であった。
慧音の心中は○○の比ではないくらいに、修羅場であった。
「○○……臭くないのか?」
いまだ臭いを気にしている慧音は。こうやって○○に迫られた事により、ありもしない臭いに気付かれて嫌われてしまわないか。
そんな被害妄想ばかりが頭を巡っていたのだが。
「はい……?いえ、全然、これっぽっちも。それよりもこっちの方が心配です。昨日寝てしまってお風呂に入ってないから」
しかし、所詮はただの妄想でしかなかった。慧音自身がいくら気にしていた所で、第三者である○○は全く気にかけていないのが事実だった。

「……本当か?」多分こう言いたいのだろうけど。か細い声だったので、はっきりとは分からなかった。
「ええ、もちろん」
○○からのはっきりとした答えに、慧音の顔が少しだけだが。それでも確かに、ほころんだ表情に変わった。
その様子に○○も安堵した。どうやらもう一押しのようだ。
「その……慧音船が何を気にしているのかは分かりませんが。多分、それは、そこまでのことではないと思うんです」
開け放たれた窓や服の事や、何故慧音は自分の臭いを気にしているのか。気になることはあったが。
それらは、もうこの際脇においておく事にした。それは、慧音の状態が安定してから確認しても、遅くは無いはずだ。

「そうか……良かった……」
慧音の体から力が抜けて。体を壁に預けて、ズズズとへたり込んでいく。
それを○○は支えようと、手を伸ばしたが。
「あー!!?」何かを思い出したかのように、慧音が大きな声を上げて飛び上がり。○○の手を振り切るように駆け抜けていった。

「慧音先生!?」
勿論、○○もその後を追う。追わないはずが無い。
焦燥感にかき立てられながら、○○は慧音の背中を必死に追いかけた。
少しでも安心した自分が馬鹿みたいだった。昨日、慧音が告白してくれた話の中身で、分かるはずだったのに。
慧音がどれほど寂しい思いをしているか、想像できたはずだと。
慧音の背中を追いかけながら、○○は思う。何とかしないと、という事を。

実際問題。○○にはどうしようもない事なのだが、仕方が無かった。
○○は何も知らないのだから。昨日慧音から聞かされた事など、それは事実から程遠い。
慧音自身が思い描く、最初期に思っていた、だったら良いなでしか無いのだ。

○○に嫌われる事を恐れる慧音が。事実を話すはずは無い。
また、よそ者を嫌う里の連中が、事実を漏らすはずが無い。それ以前に、まともな会話も無いと言うのに。
なのに○○は、慧音の精神状態が不安定になる原因を。里の慧音に対する過剰な神格化と捉えており。
そしてそれをどうにかしないと、どうにかして神格化をやめさせないと。
そういう風に考える○○の姿は。酷く滑稽だった。






「はぁはぁはぁ……」
後ろから○○が追いかけてくることにも気付かずに。慧音は必死になって走っていた。
ある物を捨て去るためにだ。そのある物とは……井戸の近くに破り裂いて捨てた、自分の衣服だ。
あれには、自分がはき散らかした汚物の臭いが染み付いているはずだ。
破り捨てた時は、廊下に散らかった吐しゃ物等、別の方にばかり気を取られて始末にまで頭が回らなかったが。
今やっと、そこにまで頭を戻すことが出来ていた。
折角、○○が自分の臭いを気にならないと言ってくれたのに。いつも着ているはずの、あの服を。
その服が、破り散らかって、更に異臭を放っている所を見られてしまっては。
全てがご破算になってしまう。
だから、必死だった。○○が後ろから追ってきている事にも気付けないほどに、必死だった。


「あった!こいつを……早く捨て去らないと」
井戸のすぐ近くに放置された、ボロボロの。かつて慧音の衣服だった物。
それを拾い上げて、辺りをキョロキョロと見回す。
幸いと言うか、不幸にもというべきか。走る速度が速かったものだから、慧音は○○をほんの少し振り切っていた。
だから、すっかり忘れてしまっていた。すぐ近くに○○がいた事を。
すぐ近くにいた○○の事。それを忘れ去ってしまうのだから、残念ながら慧音の頭はまだ平静とは程遠かった。

「先生!慧音先生!!何処に行くんですか!?」
「ッッ!!??」
そして、やっと追いついてきた○○の声を聞いて。慧音はまた恐慌状態一歩手前まで追い詰められてしまった。
ここで叫ばずにすんだのは、○○にこれ以上の醜態を見せたくは無いと言う思いからだろう。

「クソ……クソ……うあああ!!」
ボロボロの衣服だった物を、握り締めながら必死に慧音は考えた。これを○○の目に触れずに済ませる方法を。
そして○○がやってくる、その寸での所で、慧音は手に持っていたそれを寺子屋の屋根に投げ捨てた。

「慧音先生ッ!?」
「あ、あ、ああ……なんだ?○○」
どうやら、ギリギリ、間に合ったらしかった。
ぼろきれになった布を、見られることは寸での所で阻止できた。
それ以外に関しては、全く大丈夫でないのだが。

慧音は必死に、それでもかなり歪で、ガタガタの笑顔で、やってきた○○に接していた。
一応、何とかこれでも取り繕っている方だった。
「……先生?」
「お早う○○」
「え、ああ……お早うございます」
どうやら前後の時間間隔すら喪失してしまっているようだった。
慧音はさも、今日この時○○と始めて会ったかのように振舞っていた。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2013年07月10日 05:45