酷いめまいに襲われていた。しかしそれでも、なんと語っている事はできていたが。
皮肉な事に、こんな状況なのに立っていることが出来たのは。今の状況が理解できていなかったからだった。
それでも慧音の顔は、先ほどの反省から視界に収め続けていた。また視線を逸らしたら、何とかなりかけている慧音の精神状態が、どうにもならなくなってしまうだろう。

「…………そうですね、慧音先生。お早うございます」
なので、少し迷いはしたが。ここは乗っかってしまう事に決めた。
子供たちがやってくる時間も、刻一刻と迫っている。とにかく、今は。この状況を仮の状態でも良いから収めるのが先決だった。

「ああ、良い天気だな○○」
「ええ……本当に」
しかし、胃が痛くて仕方が無かった。その痛みからなのか、慧音ほどではないが○○の見せる笑顔も。また歪に成りつつあった。


胃の痛みは全く収まってはくれなくて。その上、よくよく考えれば子供たちは事情を知らないし、伝えれるはずも無かった。
慧音の服装が、いつもとは違う事など。これはもう誰の目にも明らかだった。○○が質問を投げかけたのだ、子供たちだって気になるだろう。
子供たちからの、遠慮の無い質問。それを考えると、○○の胃は更に痛めつけられる事となった。
自然と、手が胃の辺りをいたわる様になでていた。朝食を余り取れなかったのは、良かったのか悪かったのか。


「そろそろ、子供たちが来るな○○」
「ええ……そうですね」
今日ほど、この寺子屋が机とイスを用意した西洋式ではなく。長机を前に畳みに座る和式である事を嬉しく思った事はない。
こうやって、子供たちを待っている時はもちろんだが。教鞭を振るう時も、座っている状態が多くても余り不自然ではない。
緊迫感で○○の足腰は砕ける寸前だった。正直、立ち仕事は勘弁願いたい状況だった。

「どうした?元気が無いぞ○○」
しかし、ふら付く事は隠せても。顔色の悪さは隠せなかった。
それと相反するように、朗らかな顔の慧音。どうやら、慧音は何かを突き抜けたらしい。顔色が随分とよくなっているし、笑顔も大分自然な雰囲気が戻ってきた。

ただし、○○は突き抜けることが出来なかったので。今の多少息を吹き返したかのような慧音の顔を見ても、全く喜べなかった。
むしろ、また坂を下るように悪くなった時の事を考えてしまう。なまじ、今が多少良いだけに。反動が怖くて仕方が無かった。
特に、子供たちの目の前でそうなる事を考えてしまうと……そうなったらもう、助け舟の出しようが無かった。


悪い材料ばかりを見つけて、それを更に煮詰める○○の思考と発想に。胃の痛みがまた酷くなるのを感じた。
「ああ……朝食を余り取れなかった物で。多分、お腹がすいているせいだと」
とは言うが。今食べ損ねた朝食の代わりを持ってこられても。胃が受け付けてくれるかどうか、甚だ怪しかった。
「そうか……それはいかんな、少し待ってろ」
そう言って、慧音は立ち上がった。正直な話、慧音には余り動いて欲しくなかった。何処でどんなつまずきが待っているか分からないから。
なので、ご心配なく大丈夫ですよ。と言う言葉を投げようかとも思ったが。しかし、声をかける勇気も出てこないのが実情だった。
ここでご心配なくと言う言葉を投げかける事こそが。慧音の道中に一つの障害物を作るような気がしてならなかった。
先ほどの尋常ではない姿を見ている物だから。この程度の受け答えですら、けつまずいてしまうような気がしてならなかった。

言葉尻から考えて、慧音は何か食べ物を持ってきてくれるのだろう。
純粋に好意から来ているであろうその好意に対して、水を差すような真似。怖くて出来なかった。
水を差して何が起こるか。普通の状態ではない今の慧音では、予想が全くつかなかった。
また胃が痛くなってきたのが分かった。遂には口の中に酸っぱい物がこみ上げてまで来た。
色々と不味い物が逆流してきているようだった。
いっそ、自分も突き抜けてしまいたかったが。残念ながら、○○の精神はまだそこまでの、機能不全には陥っていなかった。


部屋の隅っこにある棚の中身を、ガサゴソとあさって何かを取り出してきた。
取り出してきたのは、簡素な木箱。中からまた、袋にくるまれた長方形の物体が飛び出してきた。
「固パンだ、水気が無しでは辛いだろう。少し待て。今水を取ってくる……木槌も必要かもしれないな」

パタパタと部屋を出て行った慧音を横目に。○○は差し出された固パンを手に取った。
固パン、文字通り固いパンだ。水気を極限までに少なくして、保存性を高めた非常食だ。
そういう物があるのは知っていたが、実際に手に取るのは初めてだった。

おもむろに、手に取った固パンの端っこを口に含もうとするが。正直、食品の固さを超越していた。
一瞬、石でも食っているのかと錯覚してしまうぐらいに固かった。パンっぽい匂いがなければ、そのまま投げ捨てていたかもしれない。
慧音が木槌が必要かもと言った理由が分かった、乾パンよりも更に固い為人の歯で食い千切るには無理があった。

「……食う事すら間々ならないのか」
これでは、一気に食べる事は無理だった。胃が痛い○○にとっては、救われたと捉える事も出来なくはないが。
この固さが、慧音にまとわりつく多難の象徴にも思えて。
果たして、自分の力だけでそれを振り払うことが出来るのかと思うと……意気消沈するしかなかった。

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最終更新:2013年07月10日 05:47