「木こり……?」
「ああ、あの世捨て人だ。よそ者と度々会っているらしい」
この意味の無い会合で。まともな言葉が交わされるなど、一体何年ぶりなのだろうか。
今までは、下手に口を動かすと厄介事を全て押し付けられる気がして。誰も何も話さなかったが。
今回は違う、今回は彼を殴ったチンピラ共に、全てを押しつけられるかもしれないから。皆、結構滑らかに話し合う事が出来ていた。

特に、殴られた彼の口は快活だった。被害者であると言う立場が、彼を強気にさせていた。
「何か妙な事を吹き込まれていなければいいのだが……監視くらいは必要かもな……なぁお前等」
殴られたことによる、頬の青あざ。それをわざとらしくさすりながら、彼はチンピラ共のほうを向いた。
その姿に、チンピラ共はますます縮こまるだけであった。
最早この者達に発言権などは無かった、茶すら置かれていないのがその何よりの証だった。

対して、被害者である彼の方は。見舞いの気持ちでも詰まっているのか、いつもの茶と一緒に小ぶりとは言え饅頭までついてきた。

「確かに、そうですね……」
「あの木こりだって、変人だが俺達と真正面から争う気は無いはずだ。今は○○と言う橋を使えるかもしれないから……そこだけは注意しないといけないが」
いつのまにか、彼が中心となって話をまわしていた。それでも、彼はといえば、この空気に危機感など抱かずに。
出された饅頭を食べながら、偉く上機嫌だった。すこし、上せていると言われてもしょうがない様子だった。

場の状況が、少しだれてきたのか。あの木こりに監視が必要だと、彼が言ってから。話の回転が止まってしまった。
彼とチンピラ共以外の里人は、この両方を見たり里人同士で顔を見合わせたりして。かなり長い時間、そうやって時間を浪費していった。

始めは饅頭でも食らいながら、上機嫌の彼だったが。徐々に、この変質していく空気に違和感と危機感を覚え始めた。
時を遡る方法があるならば、きっと彼は数時間前の上機嫌な自分を殴りに行っていただろう。

彼は余りにも、被害者の立場に安心感を抱きすぎていた。
この里の内実が、そう簡単に変容するわけが無いのだ。本当に、迂闊としか言いようが無かった。

しかし、誰が彼に話を振るか。正直な話誰もやりたくないと言うのが本音だった。
その為、どいつもこいつもチラチラと。視線をあっちにやったりこっちにやったりとするばかりで。誰も口を開こうとしなかった。

しかしこれがある種の好機だと言う事は、全員が共通して思っていた事のようだった。
徐々に、さまよう視線はその場で一番年を食っている方で。一番位の高そうな人間に集まって行った。

「一つ、聞いても……宜しいですか?」
「……ええ」
押し付けたいとは思っていても。やはり、それでもどこかに後ろめたさがあるのか。快活とは程遠かった。
糾弾の空気も薄いので、そこだけはほんの少しだけ安心できた。

「ああ、何を聞きましょうか……」
質問者の方からして、何を質問するかを考える前にこちらに話しかけてきたようだ。
そもそも、質問者からして乗り気ではないのだ。自分が話を進める役を引き受ける事に。
これでは、話など上手く進むはずが無い。

その状況に、他の物も別に助け舟などを出してやる空気。そんな物は微塵も感じ取れなかった。
またいつも通りの空気に戻っていった。全員が全員、我が身可愛さで動く、このどうしようもない無為無策で無駄な所業。
いつもは、この空気に。息が詰まらされるし、良い事など何一つ無いのだが。
今回に限ってはこの逆戻りしたどうしようもない空気に。酷い安心感を覚えている。そう簡単に変わるはずが無いのだ。
自分を含めた、こいつ等全員が。だから何も変わらないのだ。

こんな状態なのだから、何も変わる予兆が無いのだから。別にこちらが口を動かしてやる必要も感じなかったし。感じたとて、行動に移すはずが無かった。

また、顔は正面を向いた風に装って。目線はあらぬ方向を向けて、他者との会話や接触を徹底的に拒否し続ける。勿論、お互いにだ。
そういう暗黙の了解が、またこの場でも息を吹き返した。


いつもなら、本当に暇で、無駄で、悲痛ですらない何の意味も無いこの沈黙。
普段の彼なら、退屈で退屈で。少しばかりイラつく事この上なかったのだが。
何だか、うやむやの内に。自分への糾弾、もとい押し付けの手が緩むどころか消えてなくなった事の安堵感の方が強く。
今日だけは、この無駄に長く感じられて、退屈な時間も容易に耐えることが出来ていた。

なのだが。
「大変だ!お前等、大変だぞ!!」そういう男の声で場は一変した。
何の前触れもなしにやってきた。無遠慮で品の無い、ドタバタとうるさい足音と大きながなり声が場の空気を動かした。

「お前等!こんな所でがん首そろえてる場合じゃないぞ!冗談抜きに大変な事になったぞ!」
そして、ガタンと。ふすまをけたたましく鳴り響かせて、男はズカズカと入ってきた。
折角、何事も起きずに。今日のこの会合も無駄に終わらせることが出来そうだったのに。
正直、少し腹が立っていた。
それこそ、乗り込んできた人物の言う大変な事が。火事とかでもない限りは、この腹の虫は大きくなるばかりであろう。


どうやら彼以外の殆どの人物も、似たような感情を抱いていたらしい。
口のこそは出さないが「何だよ」と言う無言の圧力が部屋全体に充満するのが分かった。
だが、乗り込んできた男は。その充満する圧力に負けることは無かった。それ程にまで大変な事らしかった。

圧力に負けない姿を見て、何人かは不安そうな表情に変わる。
「お前等、よく聞け……あのばけ…………」
“あのばけ”この途中で途切れこそはしたが、男の言いたい事が何に関わるかは、それだけで十分に分かった。
そして“あの化物”と男が言い切らないということは……近くにいると言う事だあの化け物が。
だから途中で言いよどんで、間をおいたのだ。聞かれでもしたら、一大事だ。

本当に、こういう時だけは。皆、とても察しが良かった。怪訝な顔付きをしていた者も、一気に顔が強張った。
勿論彼もその中の1人だった。

「上白沢慧音が倒れた!!」
寄り合い所に集まる者達全員が、恐れおののいた。




流石の固パンも、水気と一緒に食べれば口の中で溶けてくれて、随分と食べやすい物にまで優しくなってくれた。
それでも、半固形物とは言え。胃の痛みを感じる所に食べ物を無理矢理流し込んだのは少しばかり堪えたのは事実だった。
だからと言って、食欲がないと無碍に断る勇気が出て来るはずはなかった。
体からのやめろという声を無視して食らい続けた為。今では胃を始めとした消化器官からの逆流現象に耐える時間がずっと続いていた。

子供たちを待っている今ですらきついのだ。これでまともな教鞭が取れるのだろうか。不安で堪らなかった。



いっそ、時間が止まってくれればどれほど助かる事か。しかし、そんな常識はずれな現象が起こってくれるはずもなく。
そうして今日も、子供たちは元気に寺子屋の敷居を潜り抜けていった。

「あれ、先生ぇ。いつもの服と違うね」朝の挨拶もそこそこ。ある子供が開口一番にこう述べた。
ああ、やっぱり。覚悟はしていたが直面すると、やはり、また胃が痛くなるのが分かった。

しかし至極真っ当な成り行きではないか。今の慧音の姿は普段の整った服装とは似ても似つかない、全くの作業着姿。そして何処と無く埃っぽい気もする。
だからこの種の疑問、持つのは当たり前だし、口にして当然だろう。

「ああ、うん。ちょっと早く来たから。掃除でもしてようかなぁ~と。ねぇ、慧音先生」
その疑問をかわす為の方便だが……これぐらいしか良さそうなのは思いつかなかった。
「……ああ」
完全に、口からでまかせだった。笑顔とは裏腹に、冷や汗が吹き出るし。笑顔も固いのが自分でも分かる。
妙に滑る口が白々しさを演出してくれていた。
慧音の方も、柔らかい笑顔こそ維持はしているが。やはり何か違和感は拭う事が出来ない立ち居振る舞い。


全くの嘘を子供達についてしまうのは、やはり良心の呵責を感じるが。
そんな呵責を小さくしてしまうぐらい。○○は慧音の一挙一足が気になって仕方が無かった。
○○が気になる事柄。そう、慧音の精神状態だ。この不安が良心の呵責を、小さくどころか打ち消している感すらあった。
そんな○○の冷える肝を、知ってか知らずかは分からないが。慧音は笑っていた。いつもと変わりない様子で。
ただ、少し足元がおぼつかない気がした。

気がする程度なので。杞憂の可能性は高かったが。
一度可能性を見つけてしまうと。それが不安で溜まらず、安心する事はできなかった。と言うより、今日一日、本当の意味で安心する事は多分無いだろう。
どんな小さな仕草や動作でも。全て脈絡無く、何らかの可能性に結び付けてしまうことが、今の○○には出来た。

今の○○は猜疑心の塊だった。子供達からの何気ない一言でも、慧音の安定が崩れるのではないかと肝を冷やし。
慧音の何気ない仕草にも、何か悪い事の予兆に思えてしまっていたし。
自分が妙な不安定さを見せてしまえば、今度はそれが綻びを大きくする火の粉になりやしないかと怯えて。


表情筋と胃の痛み。そして耐え難い疲労感。おまけに断続的に襲ってくる嘔吐感。それらと引き換えにして、どうにか時間を刻一刻と進ませることが出来ていた。
子供たちも、何か怪訝な表情こそ時たま浮かべるが。
さりとて、○○も慧音も壊滅的な失敗を見せていないので。追及らしい追求は何も無かった。

本当に、この子達がとても良い子達で。本当に助かった。本当に、何度も何度も。何かに感謝していた。

「食べなきゃぁ……不味いよな」
しかし、○○にとっての鬼門は思ったよりもすぐにやってきた。そう、昼食の時間だ。胃は相変わらず痛い。
「……どうした、○○?」
「いえ何も」
かといって、食べない選択肢は存在しない。胃が痛いくせに腹は減っているからなおの事、食べなければ体力が持ちそうに無かった。
いつも通り、弁当を美味そうに食うしかなかった。

土壇場に追いやられると、色々な能力が底上げされるのか。
○○はこの短時間で、それなりの笑顔を作る事に大分慣れてしまった。
心の中では、固形物が入る度に嫌がる消化器官の動きと痛みにもんどりうっているのに。それなりの笑顔でいる事が出来ている。
何だか、自分で自分が悲しくなってくる始末であった。心中の姿と、今こうやって衆目に晒している姿との乖離が余りにも激しすぎる。



「……?まぁいいか。それより……○○、皆の分の水を運ぶのを手伝って、くれないか」
「……ええ、良いですよ」
何か慧音の発する言葉の区切りがおかしい気がしてならない。
頼むから、耐えてほしかった。昼さえ乗り切れば、一日の授業が終わるまではあと少しだ。
もしも、精神状態が崩れるのであれば。それは自分の目の前であって欲しかった。
ならば、いくらでもどうにか出来る。

「じゃあ、井戸に行きましょうか……慧音先生?」
○○は教室の隅に置いてあるやかんを二つ手に取り。一つは慧音の方に手渡そうとするが。
「…………」
何の返事もなしに、ぶっきらぼうに差し出されたやかんを撮ろうとしてくる慧音の姿に。
しかも、目線の動きも。気のせいだと誤魔化す事が出来ないぐらいに怪しく、動き回っていた。
まるで、目が回っているかのようだった。

(不味い……どうしようか)○○は、表情が少しこわばるのが分かった
とにかく外に連れ出そうか。でも、連れ出した後はどうやってなだめればいいのだろうか。
子供たちが教室で待っているから、余り時間をかけてしまっては不味いし。
そんな思考がグルグルと勢いよく回していたが。


勢いよく回った思考は、慧音がやかんを取り損ねて倒れてしまう姿が視界に映し出される事で。
道を外れたかのように、どこか遠い場所に飛び去ってしまった。
「慧音先生!!」
畳の上でも、やかんのような金属が落ちる音は、やはり耳に痛かったが。
それよりも更に鼓膜を突き破る、○○の金切り声であった。

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最終更新:2013年07月10日 05:49