「慧音先生!?聞こえてますか!?慧音先生ぇ!!」
○○から発せられた突然の金切り声に、まず子供たちの動きがピタリと止まった。
何が起こったか分からなかったからだ。寸劇で大きな声を出す事は何度もあったが、それとは明らかに違うし。そういう場の空気では絶対に無いし。
尚且つ、ここまで感情的で、耳をつんざいてくる金切り声。子供たちの前では勿論だが、○○自身人生の上であげた事など片手でも余るぐらいだった。

慧音が倒れこんだ光景を目にして、慢性的な胃の痛みに、少しの間だけ鈍感になっていたが。
大きな声をあげると言うのは、かなり腹を使う動作だ。勿論、胃を始めとした消化器官も腹が動くのにつられて動いていた。

「ッ!!」不味い。そう思った時にはもう手遅れだった。喉の置くから、嫌な液体が込みあがってくるのがはっきりと分かった。
腹の大きな動きは、○○がずっと耐え忍んでいた嘔吐感を。耐え忍ぶことが出来ないぐらいにまで増幅させてしまったのだ。

奥歯を噛み締めて、喉元に力を入れていても、舌に不快な酸味がぶつかってくる。
部屋でこいつを散らすのだけは避けたかった。後の掃除も大変だが、目の前で教師が盛大に嘔吐など。
それを直に見てしまうなど、子供たちには刺激が余りにも強すぎないか。そう考えていた。
○○は最後の力を振り絞って、窓際まで駆けた。


「うぇッ……げ……が」
ビチャビチャと。多分この嫌な音は教室の中でも聞こえただろう。でも、教室の中でやっちまうよりかは随分マシだったはずだ。
何より、部屋の中を汚さずに済む。それが大きい。


残っていた力で、何とか○○は窓際まで駆け寄ることが出来た。
窓枠から頭を突き出すと、何故だか安心感と多幸感が駆け巡った。ああ、これで教室を汚さずに済むし、醜い姿を直に晒す事もなくなった。
吐き散らかす姿も、面と見るよりは後姿の方がまだ、幾分かはマシのはずだろう。
そう思って、安心したのとほぼ同時。安心して気が緩んでしまったのだろう、今まで必死に守っていたタガが一気に外れた。

「うげぇ……」口の中には不快な酸味。おまけに液体の嫌な落下音まで聞こえてくる始末。
「くそう……」
盛大に吐き散らしたが、口の中にはまだ残滓がこびりついている。
それを唾をペッと吐き出すかのように、また地面に落とす。ただの唾と違って、地面に落ちた際何か嫌な音が、また聞こえたような気がした。

「はぁ……くそ……酷い臭い……そうだ、慧音先生は……」
まだしばらく呆然として頭を止めていたかったが、地面から上がってくる酷い臭いに気圧されて。突き出した頭を引っ込めて、臭いが入らぬように窓を閉める。
しかし、胃の中身をぶちまけたお陰なのか。慢性的な痛みが随分和らいでくれたし。
自分が吐き散らかした物の酷い臭いで、頭を現実に引き戻すことが出来ていた。非常に皮肉な展開だった。


それでも、嘔吐で体力を奪われて。慧音の元には駆け寄る気力がまだ戻ってこず。フラフラとした足取りだった。
「慧音先生……慧音先生、聞こえますか」
すがりつく様に、○○は倒れて動かない慧音の体を揺さぶる。
子供たちも、徐々に事態を飲み込めてしまったらしく。泣いている子がいる。
中には泣きすぎて、飲み込んだばかりの弁当を口から逆流させている子供もいる。○○の努力はどうやら、無駄に終わったようだ。


「先生……慧音先生。声が聞こえますか?」
泣いたり、もらい吐きを散らかす生徒の事は気にはなるが。一人で見れる物の数など限られている。
放っておくような真似をして、申し訳は無かったが。どちらがより重篤な常態かと問われれば、倒れこんで微動だにしない慧音の方だろう。

「熱い、何だこれは……物凄い熱じゃないか」
声をかけても反応が無いので、少し揺すろうとしたら。目には見えない、触って始めてわかるその変化に驚愕した。

熱いのだ。普段から平熱が人より多少高いとか低いとか。そういう個人差とかなどでは絶対に無い。
明らかに、これは不味いと。医療従事者でなくとも言い切れるような高熱。それを倒れている慧音は持っていた。

慧音の様子が不味いのは、近づかなくとも子供たちも分かっているようで。
泣きながら、嗚咽を漏らしながらでも。必死に子供たちは慧音先生にすがりつこうとしてくるが。
「待て!お前達、今慧音先生を余り揺さぶるな!」
すがり付こうとする、寸での所で。これまた始めてみるであろう、鬼気迫る表情をした○○の姿に。子供たちは少し気圧されてしまった。

「熱が凄い……余り揺さぶると却って体に悪い………一体いつからこんな高熱を」
倒れる随分前から辛かったはずだ。なのに、○○や子供たちには倒れるまでその事実をひた隠しにしていたのだ。
その気力には、驚かされるばかりだ。しかし、何故慧音は一言。「高熱でしんどい」と言う事ができなかったのだろうか。

詳細な理由は分からないが……それでも、一つ大きな心当たりはある。
慧音に対する過度な神格化。これが無視できなかった。
最も、○○がつけている当たり等。慧音がつい先日与えてくれた知識が元では、的外れではあるのだが。
悲しいかな、今の○○にはそれを知る手段など何処にもなかった。

多分慧音は、○○に真実を伝える事はできない。それが○○が慧音を見限る理由になると、勝手に思い込んでしまっているから。
里の者達は、○○とは付き合わない。何故なら、よそ者だから。
結局、○○が出来る事など……何も無かった。

しかし、それでも。「……今は医者が先決だ。それ以外は後で考えよう」
慧音が見初めて、気に入って、手元においておきたいと思うだけはあった。どんな状況でも、○○は誰かの為に考え、動ける人間だった。



「誰か!この里で一番の医者を知らないか!?慧音先生を連れて行く」
○○は慧音を背中におぶせながら、周りで涙目を盛大に浮かべながら、心配そうに見つめる子供たちに問うた。
「おいじゃざんは……ぢくりんに比べれば……あんまり良くない」
「何?この里じゃなくて。里の外に、他にもっと良い医者がいるのか?」
子供たちは泣いているせいで、言葉の判別が難しかった。しかし、何かを言おうとしている事は分かる。
そして、その何かが。子供達ですら知っている、里の常識である事も。あわせて感じ取ることが出来ていた。

やはり、○○は物を知らなさすぎた。子供達ですら知っている常識を、全く分かっていなかった。
こういう急病人が現れた時どうすれば良いか、何処に駆け込めば良いのか○○には分からなかった。でも、子供たちは知っていた。

今まで、寺子屋で慧音と子供達以外とは、余り他人と関わってこなかった事を悔いるしかなかった。
そもそも、他人と余り関わらなくて、少し寂しい気がすると言うのも。自分でも気付いていなかったが、ただの振りでしかなかったのではないか。
口では味気ない振りをしながら、その実では面倒くさくなくて案外良い物だと思っているのではなかったのか。

「竹林?竹林が自生している場所があるのか?そこの何処にお医者さんはいるんだ?教えてくれ!」
楽でいいとか、面倒くさくないとか。耳に痛い言葉を、よりにもよって自分の声で叱責される。
そんな幻聴のような感覚を振り払いながら、必死で子供たちから里よりもずっと良いお医者さんの居場所を聞きだそうとする。

「……よぐ知らない。行った事あるけど……おっどうに連れて行っでもらったがら」
まぁ、そうだろうな。よくよく考えれば、正確な場所を知っている方が驚く。
幻想郷は外とは違うのだ。子供1人で歩ける場所など、たかが知れている。
この寺子屋で慧音の手伝いを始めた時も。里の外には日中だろうと不用意に出るな、日没後など言語道断だと。
かなり強い調子で、脅されるように言われたのを思い出した。それは子供たちだって同じはず。
ただ、教える相手が慧音先生か家族の違いでしかない……



子供たちが、竹林に住んでいるお医者さんの正確な場所を知らないのなら。それはそれで仕方が無い。
ただ、竹林のお医者さんに駆け込めば良いと教えられただけ、今は良しとした。
だったら後は、行ける人間を探す。この子達の親に助けを求めればいいだけだ。

そう考えて「分かった、じゃあ俺は誰か大人の人に道を教えに貰ってくる」と言い残して、○○は寺子屋から駆け出した。
履物も満足に履ききらずに、出入り口の戸も開けっ放しで、勢いよく駆け出してから。
子供たちには、寺子屋に残れと言うべきだったかと。今更ながらに考えが巡っていたが。
それを思いつけた時には、もう遅かった。今後戻りするのは時間の無駄でしかない。



誰か、適当な、とにかく一番初めにあった人間に助けを求めよう。
そう考えていたのだが。奇妙な事に、行けども行けども慧音を背負った○○は、誰かに会うという場面に出くわすことが出来なかった。
背中には、二人分の衣服越しでも慧音の持っている、異常な熱さを感じ取ることが出来ていた。
その熱の存在が、○○を更に焦らせてしまう。

「誰かー!お願いです、誰か来て下さい!誰かいらっしゃいませんかぁ!?」
全てが後手後手に回っているような印象だった。会えないなら、気づいて貰えるように最初から大声を張り上げればよかったのだ。
何故最初に気付けない。

「おーい!何で誰もいないんだよぉー!?」
不意に後ろから。子供特有の高い声が耳に入ってきた。その声は、涙声と言うおまけのせいで、悲壮感が色濃く漂っていた。

「えっ?」
ちらりと、背の方向に目線をやると。何人かの子供たちが、○○を追っかけてきたようだった。
それも2~3人と言う数字ではない。かなりの数だった。もしかしたら、生徒全員が追いかけてきたのではないか。

○○に追いついてきた子以外にも。後ろからまだやってくる子が何人も見受けられた。
今集まっている子供たちを見ても。来ていない子を探すほうが、難しかった。
これは、本当に全員ついて来てしまったかもしれない。

「ああ……」
待っていろと言いそびれたのを、事の他後悔するしかなかった。
「お前達、教室で待っていな―
「やだ!!」
そうだろうな。力いっぱい否定されるのも無理は無い。立場が逆なら、多分自分も追いかけている。

子供たちに戻れと言っている○○が、内に孕んでいる矛盾のせいか。それとも力いっぱい否定されたせいか。
とにかく、○○はそれ以上は子供たちに何も言えなくなってしまった。


「おい!どうしたぁ!?まだ授業中だろ!?」
しかし、こんなにも騒いでいるお陰だろうか。気付いてくれる人がいた。声からして男性だろう。
そして、助かる事にこちらの様子を見に近づいて来てくれた。


「っ!??おまえ……見ない顔……○○か!?後ろに背負っているのは…………」
その近づいてきてくれた人は、○○の知らない人ではあったが。どうやら○○は有名人らしい、すぐに気付いてくれた。

その人は、背負っている慧音の様子に絶句して、何も喋れずにいた。
当たり前の反応だろう。○○だって、最初は嘔吐するぐらいに精神的に動揺してしまったんだから。

「おい!竹林の医者の所に連れて行けよ!早く!!」
○○も、見に来た男も。お互い何も言い出せずに、十秒ぐらいの時間が経った。
それに業を煮やした子供たちの誰かが。普段ならば、絶対に注意していたであろう、汚い口調で男を急かした。

「えっ……あ、ああ。そうだな!とにかく、まずは皆に知らせねぇと!今は寄り合い所に殆どいるんだ!!」
寄り合い所という言葉を聞いて、○○は何か合点が行った。
これだけ人がいれば、決め事も多くなって当然だろう。それを話し会うには、定期的に集まるしかない。
○○が知らないだけで、今日も定例会のような物が催されていたのだ。
全てを知る由も無い○○は、そう好意的に解釈し。
そして、蚊帳の外にい続けた自分の身を。事の他強く、恥じ入った。



多分、里の者達からすれば。そうやって、恥じ入られる方が迷惑なのに。
蚊帳の外に居続けたほうが、喜ばれるのに。
人が良いのも、里の者達からすれば……果たして、どう思われるか。

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最終更新:2013年07月10日 05:50