そう言えば、こうやって里の奥のほうに入っていくのは。これが初めてだった。
偶然出合った男に導かれるがままに、高熱で倒れた慧音を背負う○○は里の通りを駆けていた。
後ろからは、○○を追い駆けて来た子供たちが。わらわらと長い列を作りながら、追随してきた。
「先生!次は右、右だよ!」
要所要所で、子供たちの誰かからの誘導の為の大声が響き渡る。
どうやら、子供たちは寄り合い所に使われている建物が何処にあるか。よく知っているらしい。
お陰で、迷わずに済んだのだが。
同時に、自分の無知さに頭が眩みそうだった。
前を走る男性は、○○を誘導する役目を完全に奪われてしまっていた。
何か言おうとしているのだろうか、たまに顔をこちらに向けても。子供たちの方が早く発言してしまっているのだ。
本当に、最初の最初に「今日は寄り合い所に皆集まっている」と言う言葉が一回だけ聞こえてきただけだった。
正直な話。前を走っている男に関しては、もうただ○○達の前を走っているだけ。
誘導ならば、子供たちの声だけで事足りる。最早何のための自分は走っているのか、男自身もそんな疑問が鎌首をもたげているのか。
時々、こちらをチラリと向く男の顔には、既に疲労の色が見えていた。
「先生、先生!あれだよ!あの突き当りの建物!!」
「お、俺は皆に知らせて来る!」
久しぶりに、男からの発言を聞いた。男はバタバタと、開け放った戸も閉めずに。
おまけに履いていた靴も、放り出して揃えていない。慧音が平静ならばきっと、全部ひっくるめて叱られたであろう、行儀の悪さだ。
「お前等!こんな所でがん首そろえてる場合じゃないぞ!冗談抜きに大変な事になったぞ!」
「上白沢慧音が倒れた!!」
建物の奥の方から、男の悲痛な声色を持った叫び声が聞こえてきた。
しかし、悲痛な叫び声が聞こえてきたっきりだった。
時間にすれば、多分1分ぐらいのはずだが。今の切羽詰った○○と子供たちにとっては、体感では何倍にも増幅された物に変わっていた。
「遅い!!」
まだかまだかと。○○は足踏みをしながら待っていたが。後ろで待っていた子供たちの中の誰かは、耐え切れなかったようだ。
「何やってんだよ!」
舌打ちなど通り越した、怒り心頭と言う表情と声で。男の子が履物すら脱がずに、廊下を踏み荒らしながら建物の奥へと消えて行った。
「先生!ここで待ってて、誰か連れてくる!!」
その次は女の子が……確か、この子とあの男の子は“きょうだい”だったはずだ。
授業中は、指して気にしていなかったが。なるほど、似ている。顔つきやらがどうのではなくて。性格が、である。
そう言えば、追いかけてきた子供たちの先頭に立っていたのも……この二人だったな。
いわゆる率先して動けて、場を動かせる性格と言う奴なのだろう。
だが、できれば。そう言う発見は、もっと平穏な時にしたかった。こんな状況では、何も喜べない、喜ぶ余裕が全く生まれなかった。
二人が駆け込んだのを皮切りに、他の子供たちもそれに影響されたかのように。一斉に、堰を切ったかのように、寄り合い所の中へ雪崩込んでいった。
「待て、お前達!ここで待っていなさい!」
流石にこれは不味い。そう思って、声こそ張り上げるが。今は慧音を背負っている為、残念ながら襟首を掴んだりして止めることは出来なかった。
仮に出来たとしても、片手で1人。最大でも2人しか止めれないだろうから、この勢いを止める事は不可能としか言いようが無いのだが。
わっと鉄砲水のような勢いを持った子供達が、○○の忠告などに気づくはずも無く。
二人に先導されるかのように、皆寄り合い所の中へとなだれ込んでしまった。
しかも、なだれ込んだ数に比べて。玄関に脱ぎ捨てられた靴の量は、案外少い物だった。
それが○○の憂鬱を更に大きな物にした。
子供たちが雪崩れ込んで、そこから随分遅れてからようやく。○○も玄関から先に足を踏み入れた。
脱ぎ捨てられた靴を踏まないように。そしてなおかつ、せめて自分くらいはちゃんと靴を脱いで入ろうと思ったから。
それで結構な時間を消費してしまった。
奥の方からはもう既に、やいのやいのと言う。様々な人間の声が入り混じった、甲高い騒ぎ声が聞こえてきていた。
聞こえてくる音の甲高さから考えて、騒いでいるのは殆ど子供たちだろう。
「くそ……」
いくら非常時だからとは言え、余りにも事態を収拾できなさ過ぎだと考えるしかなかった。
それで○○は、騒ぎの中心地へと向うしかなかった。
2人分の重さを身にまとって、足音をドスドスと響かせながら
「おい、お前達……なんで」
「慧音先生が倒れたからだよ!おっとう早く!」
「おっとう!何やってるのよ、早く!早くして!!」
2人の、少年と少女が。1人の大人……父親に詰め寄っていた。
その父親とは、昨日○○とほんの少しだけ邂逅を果たしてしまった例の彼だった。
そして今、彼は彼の子供達に詰め寄られていたのだった。
それは、他の子持ちも同じようで。皆、自分の子供に詰め寄られて。必死に何かを伝えようとしていた。
偶然、親などが来ずに済んでいた子供達は。近所のおじさんやおばさんに、実子と一緒に詰め寄ったりしていた。
子持ちではない、件のチンピラ等の存在は。状況が飲み込めずただただ、呆気に取られているばかりであった。
ただ、状況が飲み込めていないのは、親達も同様であった。だから、こんなにも詰め寄られたりしているのだ。
「おっとうは、知ってるでしょ!?おいらを竹林の向こう側のお医者さんに連れて行ってくれたことがあるんだから」
「おっとう、早く!慧音先生がぁ!」
この時間帯は、昼食の時間のはず。仮に弁当を食べ終わっていたとしても、そこから先は昼休みに変わるだけで。
食べ終わった後も、銘々が思い思いに。遊んだり喋ったりなど、他愛も無い事をして過ごす。
彼だけでなく、今この寄り合い所にいる人間全員が、そうであると信じていた為。
突然の来訪者であるこの子供達に。おまけに、部屋に乗り込んで来た瞬間やいのやいのと。
まとまり無く発言する物だから。余程近くにいないと、誰が何を喋っているのかの判断はつかなかった。
「お前達!静かにしないかぁ!!それに、土足の者は今すぐ靴を脱いで玄関に置いて来い!」
子供達が、大人たちが集まる広間に雪崩れ込んでから、少しばかり遅れて。
○○の、子供達に対する。多分今までで一番大きな、叱責の声が響き渡った。
普段の○○ならば、注意や叱責をするにしても、もっと静かな声で淡々とやっていた。
子供達の頭にも。○○が大きな声を出すと言う発想は、ほぼ無かった。
「ほらぁ!おっとう!慧音先生がぁ!早く竹林のお医者さんに連れて行かないとぉ!」
「早く!ねぇ、早くしてってばぁ!」
しかし、滅多に出さないからこそ。いわゆる虎の子に近い意味を持つ、この大声も。
普段ならば、効果覿面であったのだろうが。今の○○は、背中にぐったりとした姿の慧音が背負われている。
それが、折角繰り出した虎の子の威力を。殆ど、無き物にまで目減りさせてしまっていた。
渾身の力で振り絞った大声も、今の子供達にはまるで効果が無かった。
ぐったりとする慧音の姿に、子供達の焦りと危機感はますます加熱するばかりであった。
「ああ、もう……どうしよう」
既に、○○の力だけではもうどうにもならなかった。
「おっとう、早く!こっちだよ、早く!!」
息子が、化物とよそ者の近くに走り寄って行く。
「早くして!あたし達だけじゃ分からないの!」
娘も、当然のように駆け寄って。件の厄介者たちの傍から、こちらをしきりに呼び寄せようとする。
腹の中で、悪い虫が騒ぐ。親である自分以上に懐いて、懇意にするような存在がいるからではない。嫉妬心の爆発とは、全く違うと断言できた。
親以上に、親しい人物ができるのは別にどうって事はない。自分だって、親以上に中の良い友人くらい、普通にいた。
折々に、親には内緒で何ぞやったりもした。大怪我とか、周りに大きな迷惑じゃない限りは。秘密の一つや二つ。持っていて当然だろう。
特に、あれぐらいの時分なら。時分を鑑みても、経験がある。
むしろ微笑ましい物ではないか……相手があの二人で無ければ。
この虫は、明らかに嫉妬心とは違う。
そうは分かっていても、どう言葉を当てはめたらいいのか。それが全く思いつかなかった。
ただただ、嫌な感じがするのだ。
息子と娘が、あの化物とよそ者のそばについて離れない。
その光景を見ていると、本当に。胃の奥がムカムカして来て。無性に……腹が立って立って仕方が無いのだ。
自然と、顔が歪んでいく。子供たちの前なので、多少は意識するが。それでも、不穏な変化を感じるには十分歪んでいた。
本当に、よりにもよって、子供たちが懐いた相手が何でこいつらなのか。
彼の中で沸き立つ、見当違いの非難は留まる所を知らなかった。
「おっとう!変な顔してないでさぁ!!」
「もう良いよ!思い出しながら行くから!」
歪む父の顔を、娘は変な顔と切って捨てて一瞥にもせず。中々歩み寄ってこない父に痺れを切らして地団駄を踏む。
息子は、地団駄を踏む所すら通り越して。遂には、父に頼らないとまで言い出した。
「行こうよ、○○先生!慧音先生を連れてかないと、時間が無いよ!」
そして、グイグイと。よそ者の服の端を引っ張って、外に出ようと強く促してくる。
○○の方は、この惨状をそのままにして出て行けるはずも無く。
また、子供たちが正確には知らないと言っているから。その提案に乗る気もせず。
さりとて、早く竹林の奥にいるお医者さんの所には行きたい。
「いや、ちょっと待て。お前、場所は知らないんだろう?」
「大丈夫思い出すから!だから、早く!」
「でも、これをこのままってのも……お前達!少し静かにしろぉ!話が出来ないんだ!」
だからせめて、誰か大人の人と話せる空気を作ろうと。懸命に声を張り上げるが。
本当に、誰も聞いちゃいなかった。
皆、自分の親矢近所のおじさんおばさんに。精一杯、力の限りの声で懇願しているから。聞こえようが無かったのだ。
大人達は、多少聞こえてはいたが……敢えて、無視を決め込んでいた。
目の前の子供達の相手と言う。大義名分と言って良いかどうかは、疑問符のつく案件に夢中の不利をして。
そうこうしている間に、彼の息子の体は。もう半分ほど壁に隠れてしまっていた。
娘も、地団駄を踏むのをやめて。息子に同調するように、化物を背負うよそ者を押して、出口に向わせようとしていた。
よくよく見れば、今この場で。外に出ようとしている子供は、彼の息子と娘の2人だけだった。
他は皆、大声でやいのやいのと喚いていた。
遂に、息子の体が完全に隠れて。よそ者を引っ張る腕しか見えなくなった。
このままでは、娘の体も。壁に隠れてしまうのにそう長い時間は掛からないはずだ。
「……おい、これ。うちの息子と娘、不味いんじゃ」
そう小さく呟いて周りの、時分と同じ大人達に目をやるが。
どいつもこいつも、見事に目線を外されてしまった。厄介ごとには係わり合いになりたくないのだ、いつもと同じように。
少し、立ちくらみを覚えた。
これはもう駄目だ……誰も頼る事もできないと言う事実を目の前にして・
だから、これはもう。誰かを頼ろうと言うのが間違っているのだ。
震える膝で必死に踏ん張りながら、息子と娘を取り戻す方法を必死に考える。
これはもう、どうする事も出来ないのではないか。
「お前等ああ!!!少し黙りやがれぇ!!」
そう、自分が動かない限りは。どうする事も出来ない。
彼の出した声は。それは、○○が出した大声などとは比べようも無かった。
大声などと言う表現では、決して収まりきらない。それは怒声と言ってしまった方が、しっくりと来る表現だった。
「―俺が行く!俺が前に立って案内してやる!」
「その代わり!少しは協力しろよな!!」
彼の息子も娘も、そして付き合いのある大人達も。彼がここまで怖い顔と声を出した場面など、始めてみた。
子供達も、恐怖で泣き出す所か。余りの威勢と怒声に、考えが追いついていなかった。
それは、大人達も同じだ。
「返事はどうしたぁ!?行ってやるつってるんだ!タダでやって貰えると思ってるのか!?」
「わ、分かった!何が欲しい、何をやれば、あんたが代わりに行ってくれるんだ!?」
里人の誰かが声を上げた。突然の怒声に、思考が止まってしまったが。再び動き出してすぐに、自分がやらなくて済む事に気づいた。
声を上げた里人は勿論だが、その周りで黙って見守る里人達も、皆懇願するような目だった。
どうか、どうかお願いですから。私たちを助けてください。
「何でもするな?」
もちろんです。何なりと、ご用命をお申し付けくださいませ。
里人が皆、コクコクと小さく頷きながら。そんな声無き声を、内に孕んでいた。
「荷車を持って来い。人一人分乗っけても、簡単には落ちない柵がついた奴だ」
「分かった!」
そう言って、1人が飛び出すと。逃げる好機を逃す物かと言わんばかりに、続いて十人以上の人間が駆け出そうとした。
「持ってくるだけならそんなにいらねえだろうが!2人もいりゃ十分だろうがぁ!!」
彼からの叱責により、結局逃げ出せたのは2、3人程度しかいなかった。
「んじゃ、あんたとこのよそ―
「おい!!」
誰かが口を開き、その言い掛けてしまった“よそ者”と言う単語。周りは青ざめるだけだったが、彼は違った。
怒声で制して、うやむやにするだけの冷静さを。彼はまだ持っていたのだ。
「俺1人とこの男だけじゃ人手が少ないだろ」
彼は勿論、言いよどむ事無く。“よそ者”を男と言い換えた。普段はずっと、よそ者と言っているのに、その癖につられなかった。
その妙な冷静さが、里人達に却って恐怖心を植え付けていた。
「ああ、お前とてめぇと貴様」
次に、彼が目を付けたのは。件の、自分を殴り飛ばして蹴りまで入れてきた。あのチンピラ達だった。
「今指差した三人は別だ。手伝え……逃げるなよ?」
指差された3人は、当然の事ながら顔が面白いくらい一気に青ざめた。
しかし、それとは逆に。指名されなかった3人以外の里人は、喜色に塗れた顔付きに変って行った。
「おい!何嫌そうな顔してるんだ!」
「これは名誉な事だぞ」
「守護者様をしっかりと送り届けるんだぞ!」
そんな美辞麗句、心にも思っていないくせに。ヘラヘラ、ヘラヘラと。
自分が厄介事をせずに済んだと分かるや否や、こいつ等は本当に酷い有様だった。
彼は、それを見ているとまた腹が立ってきた。
自分は悲壮な決意で、声を張り上げて、息子と娘を守ろうとしているのに。
なのにこいつらは……自分の事ばかり。
「うっせえ!ヘラヘラすんじゃねぇ!」
勿論、先ほどまでは。彼だって今しがた嫌悪感を覚えた、こいつらと同じ思考をしていたのだが。
同族嫌悪と言う奴なのか。とにかく、一歩先に進んでみて見ると……醜くて仕方が無かった。
「おい!今がどういう状況か分かってるのかぁ!?お前等、今の顔上白沢慧音に見せれるか?ああ!?」
今彼に機嫌を損ねられては、やると言った案内をやらないと言い出すかもしれない。
そして、冷静さを失いながら怒声を散らしているように見えながら。
先ほどの”よそ者”と同じく。“化物”と言う単語を言いよどむ事無く、見事なまでに避けれる相変わらずの冷静さ。
その両方で、里人は恐怖した。
その恐怖から。里人は皆、強張った表情で黙り込んでしまった。
件のチンピラは。間違いなく何かの順位が一気に下がってしまったが……
それと反比例するかのように、彼の順位が一気に上がったのだが…………
その上がり方は同時に、彼だけの話には留まらなかった。
ひいては、彼の一族全体が。普通の里人としての生き方を、許されなくなってしまった瞬間でもあった。
最終更新:2013年07月10日 05:52