「あの……」
「鈴仙です」
何事かを質問しようと、手を引く彼女の名前を呼ぼうとした○○だが。
今になって考えてみれば、ここまでずっと名前を聞いていなかった。そのため、肝心な所で口の動きがつまずいてしまった。
それを、彼女も感じてくれたらしく。率先して名を教えてくれた。
引っ張りながらだったので、顔は半身ほどしか覗かせてくれなかったが。先ほどよりは、まだ柔らかい顔をしている。
先ほどの、○○を呼びに来た時の表情は、もう少しだけ柔らかい表情な気がした。
ただ、そんな気は。本当に、ほんの少しだけ感じた程度だったので。
次の瞬間には、もう忘れてしまっていた。
「鈴仙さんですね……あの、鈴仙さん。慧音先生の容態は……」
何より、慧音のことが心配だから。それ以外に向ける注意力が、今はほぼ無かったから。
「ええ、命に別状とか。そう言う事にはならないでしょう。何より師匠が見ていますから」
「そうですか……」医者から言われると、やはりかなりの安心感に繋がる言葉だった。少しだけ表情筋が和らいだ。
「ただ、慧音さんは高熱にうなされていて……しきりに○○さんの事を呼ぶので、落ち着かせるために」
「私に出来る事なら、何でもやります」
確かに、あれだけの熱を持ってしまっているのだ。ただの風邪気味等とは苦しみも訳が違うだろう。
しかし、その苦しみから朦朧としているはずの意識の中で。まさか自分の名前を呼んでくれるとは、正直思ってもいなかった。
教鞭を振るう相手である、子供たちの名前に混じってと言うのなら、まだ分かるのだが。
その事を考えると、こんな非常事態だというのに。また、本能的なものが○○の頭をよぎる。
○○の頭の中では、また慧音の事を、1人の女性として意識してしまっていた。
本当に、何故。よりにも寄って、こんな時に、そういう考えをめぐらせてしまうのか。
下世話な気がしてならない。
事故家のから、体に力が入り。自然と、歯にも力が篭る。そのせいで、奥歯がギシギシ鳴るのが分かった。
結局、自己嫌悪との戦いと。一刻も早く慧音の元に向いたいと言う気持ちが強く。それ以降は何も喋らなかった。
「師匠!○○さんを連れてきました!!」
しばらく走って、慧音が運び込まれた病室に連れて来られた。鈴仙は扉を乱暴に開けると、これまた乱暴に。
○○を投げるような勢いを持ってして、病室に入っていく事となった。
だが、それよりも。
病室に入る大分前から聞こえてきた。熱にうなされた慧音の叫び声。
その叫び声は、しきりに○○の事を呼んでいた。それに被さる様に、たぶん鈴仙が言っている師匠の声だろう。
それが「すぐに来ますから!今ウドンゲが呼びに行ってますから、落ち着いて!」
と言うような内容の声がかすかに判別できた。
「鈴仙。少し乱暴すぎるわ」
勢い余って、つんのめりそうになる○○の体を、女医らしき人物が片手で受け止めた。
多分この人が話に出ていた師匠なのだろう。
「慧音さん。○○さんが来ましたから、落ち着いてください」
○○の目の前に移った慧音の姿は、およそいつもの理知的な彼女の姿とは程遠かった。
手足をジタバタとさせて暴れていて。それを周りで鈴仙よりは背の低い、でもやっぱりウサギ耳を持った女の子達が必死で押さえて。
そのすぐ後ろで、先ほど慧音を運ぶ統率を取っていた、ニンジン形の小物を持った子が。
「ああ、もう……解熱剤どうやって飲ませるのさ、こんな状況で」
と毒づきながら、片手に錠剤の束を持って立ち尽くすしかない状況だった。
そんな、まさに今の今まで。慧音は何人もの手で押さえられなければならない力を、発揮しているにも関わらず。
手足をバタつかせて、ベッドから飛び上がろうとしていたのに。
師匠らしき人物が「○○さんが来ましたから」と言った途端、ピタリと動きを止めて。こちらに向って、ぎょろりと視線を動かした。
その目は、これも熱の影響なのか、それとも暴れまわったせいなのか。白目が赤々と、まるでウサギの目のように充血して、更には痛いのか涙まで浮かべていた。
そんな眼でも、慧音は○○を見つけると。
「○○……やっと来てくれたのかぁ……」
と、はち切れんばかりの笑顔で喜んでくれた。
「ほら、早く行きなさい。しばらくは一緒にいて上げてね。その方が落ち着くから」
慧音が落ち着いたのを見てか、師匠さんの声が少し和らいだ。
でも、慧音の元に○○を送り出す時は。ポンッと背中をそれなりの勢いで押して来たので、意外と乱暴だった。
でも、先ほどの叫び声を聞けば。余裕の無い状況だというのは、ありありと分かる。
声にも、疲労と安堵の色が見え隠れしていた。
○○が、倒れこむように慧音の脇に辿り着くと。慧音はベッドに体を預けたまま、○○を抱きかかえて来た。
そして、まるでお気に入りのおもちゃでも与えられたかのように。本当にキャッキャとした様子を見せてくる。
あまつさえ、赤子が喋る喃語(なんご)のような言葉を発しながら、喜びを爆発させ来るのだった。
そこには、熱で前後不覚になった痛々しさを感じるはずなのだが……何故だか同時に、奇怪さが○○の心中には相席していた。
この感じてしまう奇怪さは。普段とは違いすぎる慧音を目にした、困惑から来る物なのだろうか。
そんな事を、止め処なく考えていると。「はーい、解熱剤飲みましょうねー」
先ほどまで、錠剤を持って立ち尽くしていた子が。これまた赤子をあやすような優しい声を使って○○と慧音の間に割って入って来た。
そしてその手の動きは、勿論慧音の口に解熱剤を突っ込もうとして来る。
当然の行動だろう。まだ、○○に触れる慧音の肌は熱を持って熱いくらいだった。
熱から来る物なのか、うっすらと汗も見える。
これでは体力を奪われるばかりだ、解熱剤を飲ませて熱を冷まそうとしてくるその行動に、何らおかしい点は無かった。
薬を慧音の口に入れやすいように。○○は少し身を逸らして、作業しやすいように気遣ったのだが。
「やっ!!」今の慧音が、○○以外の存在を。○○と一緒にいる事を、例えほんの一時でも。
邪魔しようとしてくる存在を、許容できるはずが無かった。
「やー!!」
慧音のその声は、まるで幼児が発するような拒否の言葉だった。
「ぐぇっ!!」
「慧音先生!?」
「てゐ!?」
慧音は片手で○○をもう一度、無理に抱き寄せて。
空いたもう片方の手では、薬を飲ませようとした、どうやらてゐと呼ばれる人物の体を思いっきり突き飛ばした。
しかも、○○を抱き寄せる力も。そして、てゐを突き飛ばす力も。どちら共に、尋常ではなかった。
てゐと呼ばれた人物は。突き飛ばされてから、一直線に壁まで飛んで叩きつけられるし。
○○も、片腕だと言うのに、しかも見た目には線の細そうな細腕で。
息が少し苦しくなるような圧迫感を感じるくらいに、慧音の元に抱き寄せられていた。
「慧音、先生。落ち着いてください……」
「○○~」
しかし、今の慧音には周りと言う物が全く見えていなかった。
キャッキャト言う喃語(なんご)混じりに。○○と言う名前だけは、はっきりと聞こえたが。
それ以外の言葉は、赤子のそれと全く変わりなかった。
本当に、熱のせいだけなのだろうか。
余りにも変わってしまった慧音の姿に、そんな疑問が沸いてくるのは当然だったし。
先ほどまで感じていた奇怪さは。いつの間にか、恐ろしさに変わっていた。
一体何が、上白沢慧音をここまで変えてしまえるのかと。そんな、答えの出ない問いが脳裏に渦巻いていた。
最終更新:2013年09月14日 13:34