てゐと呼ばれる女の子が吹っ飛ばされる姿を見て。銀髪のおさげが印象的な女医は、何かを諦めたような、合点が行ったような。
そんな顔で、部屋の端でぐてんと転がっているてゐの前まで寄って行って。持っていた解熱剤を回収した。
そして、迷いもせずに○○に向き直り。
「貴方がやった方が、苦労しなくて済みそうだわ」そう言って○○に解熱剤を手渡してきた。
結局、解熱剤は○○の手で飲ませる事になった。
実際、手渡された時に言われたように。全く苦労せずに、○○は慧音に薬を飲ませることが出来た。
それ所か、○○と一緒にいる慧音の状態は。驚くほどに安定していた。相変わらず、喃語(なんご)が主体の言葉ではあったが。
いくらなんでも、それを差し引く事などは出来ないが。それでも、一応薬は飲ませたし、安静にさせることは出来ていた。
今はそれで満足しておく事にした。
「そのまま寝かせて。話がしたいの」
落ち着いてきた慧音は、暴れた事による疲れが一気にやってきたのか。目元が下がってきて、眠たげな顔を浮かべるようになった。
「え……ああ、はい」
「そう言えば、名前をまだ教えていなかったわね。八意永琳よ」
「分かりました……八意さん」
ああ、そう言えば名前を聞くのをずっと忘れていたな。と言う思考よりも。
慧音が見せる様子の、余りの違いに。圧倒される方で、頭の中が一杯だった。
先ほどまでの、あの狂ったような暴れ方は何だったのか。
余りにも、酷い落差だった。気圧され気疲れしない方が、どうかしているだろう。
赤子をあやすような心持で。慧音が安心できるように、○○は慧音のそばに居続けた。
○○が傍にいることで、こちらの想像以上に慧音は安心してくれているのか。
慧音の眼が、どんどん瞼によって隠されていく。
そして、瞼から隙間が一切なくなり。慧音の息も、静かで規則的な寝息に変わった折に、○○の背中に今までの疲れがドッと押し寄せてきた。
しかし、その疲れの大半は。押し車を使ってここまで運んだ事よりも。慧音が眠るまでの間の方が、疲れの度合いは大きかった。
今のこれだって看病と言うよりは、赤ん坊のお守り。そう言ったほうが的確な表現ではないのだろうか。
「寝たわね……山は越えたかしら」
「あの……」
「待って、ここじゃあ少し塩梅が悪いわ……回復を促す為に、ゆっくり眠らせてやりたいし」
「いえ、そうじゃなくて」
そうじゃない。と、○○から話の腰を折るような否定の文言が出た事で。柄にもなく、永琳の心拍数が一気に跳ね上がった。
まさか。内面に渦巻く、どす黒い何かに。○○は気付いてしまったのだろうか。
だとすれば、非常に不味い。上白沢慧音に対する精神衛生上、非常によろしくない事だけは確かだろう。
先に見せた、上白沢慧音の状況を鑑みれば……残酷な話かもしれないが、○○と言う人物には何も知ってほしくはなかった。
だから、もし気付きかけているのだとすれば。
どのようにして、体よくこの場を切り抜けるか。その事を目まぐるしく考えていた物だから、すっかりと言葉数も無くなってしまった。
「あの……八意さん?もしかして、慧音先生は予想以上に悪いのですが?鈴仙さんからは大丈夫と言われたのですが」
しかし、結論から言ってしまえば。永琳の頭で目まぐるしく回っていた悪い予感とその対処法は。杞憂でしかなかった。
「え……?」
「さっきから、ずっと黙ってて……その、不安で。お願いですから何か喋ってくださいよ」
我に返って、よくよく○○の様子を観察してみると。どうやら、彼はまったく別のことで。ただただ、慧音の安否で心配していたようだ。
「ああ……その事なら大丈夫よ。貴方の帰りが大丈夫か考えていただけだから。で、違うって何が?」
「その……これなんですが」
何とか誤魔化せたようだ。○○は先ほどまでの永琳の出した沈黙には、もう考えを及ばせていない。
その証拠として、○○の方から話の展開を変えてきた。これは、願ったり叶ったりの変化だった。このまま乗ってしまうことにした。
「どうかした……って、ああ。なるほどね」
○○は永琳に自身の腕を見せてきた。その腕には、慧音の腕ががっしりと掴まれていた。説明はそれで十分だった、それ以上の言葉はもう必要なかった。
「どうしましょう、これ……」
慧音は、今間違いなく眠っている。なのに慧音はガッシリと○○の腕を握り締めている。
先ほどの、おきているときならばいざ知らず。今は寝ているはずなのに、その力のこもり具合はおきているときと遜色なかった。
○○が困惑の色を隠せないのも、無理はないだろう。
「どうしましょうか、これ……無理にやれば、外せるとは―
「いや、外すのは良くないわ」
慧音が抱える、○○への執着心の強さが現れている。○○の腕を掴む慧音の姿、永琳の目にはそう映った。
その執着心に対して、何か水を差すような真似は。永琳自身、そんな事は怖くてとても出来るはずがなかった。
「そうですか?でも、話はここじゃ駄目みたいな事、さっき言ってませんでしたか?」
「ええ……まぁ、別に。そこまで急ぐ話でも無いわ。単に、彼女が寝る邪魔になると思っただけだから」
実際、永琳がしようとしていた話自体は、そこまで中身がある物ではなかった。
単に、二三日入院して。退院した後も、何日かは家で安静にしていた方がいい。
ついでに、今日はもう遅いからここに泊まって行け。そのぐらいの話しかする気がなかった。
それ以上は、今の○○には刺激が強すぎるし。上白沢慧音の口以外から、知るのは良くない。そう判断しての事だった。
「外せるかな……」
「駄目よ。無理をする必要は無いわ」
○○は慎重に、ゆっくりと慧音が掴む手を外そうとしようとしたが。永琳はそれを強めの口調で制止した。
思いもしていない、永琳からの叱責されるような口調の強さに。○○は思わずビクッと肩を震わせた。
「ああ……ごめんなさいね。驚かせてしまって……でも考えてみて」
「解熱剤で、熱を下げているとは言え。まだ上白沢慧音の病状は治ってなんかいないわ」
「先ほどの、あの狂乱っぷりが。病のせいではあると思うけど、全部熱による物かしら?」
「それ以前に。解熱剤でも完全に平熱に下げるわけじゃないの」
「多少なりとも、いつもよりは高い状態がまだ続いているわ」
まくし立てるように。永琳は心にも思っていない。絶対に事実ではないと断言できる予想を○○に浴びせた。
慧音が暴れた原因。それが高熱である事は……それが引き金と考えても間違いないだろう。
しかし、引き金どまりだ。直接的な原因では無いと断言できた。
それは里の内実を。永琳は深く知っているから。
そして何より。
暴れる慧音が、里人に対する恨み辛み。これを毒のように激しく厳しい、平素の慧音ならば絶対に使わないような汚い言葉で。
とにかく、暴れながらでもまくし立てていたのだ。
高熱はあくまでも、普段溜めていた物が噴出す。ただのきっかけでしかない。
しかし、背筋が凍るような恨み言は。案外長くは続かなかった。
自分が教鞭を振るっている子供たちへの。お前達は裏切らないでくれ、と言うような悲痛な叫びに代わったかと思えば。
すぐにまた。今度は○○と言う人物が何処にいるのか。それに対して狼狽するような言葉に変わった。
○○の所在を確かめるような言葉尻に変わった後は。叫ぶ内容が変化する事はもうなかった。
そこに、永琳は慧音の執着心を見た。
また何かの拍子に、叫ぶ内容が変化する前に。永琳は○○をつれてくるように鈴仙に命じた。
実際、○○の姿を見た途端。慧音の暴れっぷりは一気に小さくなった。
最早、慧音の心の安定に○○は欠かせない存在となっていることの何よりの証だった。
そして、○○は何も知らないのだと言う。確信も同時に、永遠亭の主要な面子の心に刻まれた。
残念ながら。今の人里に、慧音が愛してやまない教え子のような。心の優しい大人は、はっきり言って存在しない。
その濁り方は、清濁併せ呑んでいると言った。ある種の成熟だとは、とてもじゃないが言えないほどに。悪意と言う物に満ちているから。
そんな存在に育てられれば。無垢さは成長と共に、簡単に穢れてしまう。
慧音はその様子を何度も見てきたはずだ。それでも、教鞭を振るい続けるのは。いわゆる、諦めの悪さなのだろうか。
しかし、悪い意味とは言え安定していた輪の中に。○○と言う、次の動きが予測不能な、乱数のような存在が紛れ込んでしまった。
皮肉な事に、その乱数がもたらした変化は。少なくとも、上白沢慧音にとってはとても好ましい変化であったのだ。
ただ、それ以外にとっては。特に、里の人間にとってはどうなのかと問われれば。
その内情など察するに余りあるだけに、慧音1人が幸せなのが却って痛々しかった。
最も、本当に痛々しい状況に陥っているのは。全く何も知らない○○なのかもしれないが。
どうにも持て余してしまうのだ。今永琳の目の前で、○○は慧音の事を本当に心配している。だからこそ余計に持て余すのだ。
真実を知りつつ、慧音の元に居続ける道など。蓬莱人が荼毘に付されるのと同様に、ありもしない事のような気がして。
「今は、ゆっくりさせるべきよ。出来るだけ……安静に……貴方にはしばらく不便をかけさせるかもしれないけど」
「まぁ……仕方ないですよね」
少し困ったような笑顔だったが。○○は反論はおろか、嫌な気と言う物を全く感じさせない返事で。このまましばらく、じっとしている事を選んでくれた。
その献身的な態度に。永琳の心の奥にある良心の塊に、針が一本刺さったのが分かった。
何処と言うわけでもないが、体の中がむず痒くもなってきた。これが良心の呵責……全く持って、嫌な感触だった。
「……少ししたら、何か茶でも。適当な茶菓子もつけて持ってくるわ」
居辛かった。だから、部屋を出た。それこそ、逃げるような気持ちで。
背を向けて、足早に部屋から逃げ去っても。キリキリと、腹の底が気持ち悪くなる感触は相変わらず鮮やかだった。
その感触は、身を潜めてくれないどころか。逃げてしまった事がまた、新たな針の材料となって。先ほど刺さった場所にもう一本突き刺さってくる。
当てもなく、ただただ遠くへと逃げる途上。辺りをうろつくイナバを見つけたので、茶と茶菓子の件はそのイナバに任せる事にした。
少し、安心した。これ以上、何かを隠しながら会話を続ける事は。永琳の心に多大な負担を強いる事だったから。
やる事が無くなって、宙ぶらりんな気持ちになってから。そこでようやく、○○以外の人物も、上白沢慧音を運んできた事を思い出した。
「そう言えば……アレはもう帰ったのかしら」
別に、話す事など無いから。いようがいまいが……と言うかむしろ、帰ってくれた方が。
下手にいる状態が続かれると、厄介な羽虫に居座られるような。そう言う鬱陶しい気分が続いてしまう。
しかも羽虫と違って、退治も容易ではない。
先ほどまで、○○達がいた待合室に、永琳は足を進めた。
部屋の扉は閉められているが、前に立っても中から物音などと言った。そう言う人の気配を感じる事は全くなかった。
本当に、中からは静かな空気が流れ出していた。
「……そりゃ、長居はしたくないわよね。こんな化物の巣窟」
永琳は自嘲気味に小さく笑いながら、部屋の戸をゆっくり開けていく。
だが。半分ほど開けた所で、待合の椅子を寝台代わりにして横になり。静かに寝息を立てている彼の姿が、視界に飛び込んでしまった。
「……ッ!!」
それを目にしてしまった瞬間。永琳の腹の中に住んでいる癇の虫が、一気に蠢いた。
全く予測していなかった、完全な不意打ちなだけに。癇の虫の蠢きは、永琳から冷静な思考をほんの一時とは言え奪い去る事に成功してしまった。
激情に駆られた永琳は、その勢いに抗う事無く。優しく、ゆっくり開けていた戸を。あらん限りの力で、思いっきり開け放った。
「うぉ!?」
ガァン!と言う戸が壁に当たる大きな音が、待合室に響き渡った。
その音に鼓膜を震わされた彼は、夢の世界から無理矢理。こっち側、つまりは現実の世界に引き戻されてしまった。
「意外だわ。もう逃げたと思ってた」
まだ眠りの世界に片足を突っ込んだような表情を浮かべる彼だったが。永琳の刺々しい表情と口調に晒されて。思わず身をシャンとさせた。
しかし、表情や体の震えなど。そういった怯えや恐れと言った様子は、全く見ることは出来なかった。
彼はそれ所か、真っ直ぐと。全く逸らすことなく、永琳と目を合わせて来ていた。無理矢理ではなく、ごくごく自然な動作で。
「やぁ……これはお恥ずかしい所を」
ヘッヘッへと言う笑い声が聞こえてきそうな語り口だった。
今までに無い対応のされ方だったが。かと言って、無駄に怖がられるのと比べても。こちらの方がマシだとはならなかった。
むしろ、慇懃無礼な態度にすら思えてくる。だから、場合によってはこちらの方がイラついて仕方が無かった。
「他は?後三人くらいいたでしょう?」
「帰りましたよ。薄情な物です」
「貴方は帰らないの?」
そう言いながら、部屋にある小窓の外に目をやる。日の光がもう大分紫色になっていた。
これでは、里に着く前に日が沈む。もう外に出す事はできない。思わず永琳の舌が鳴った。
勿論それは、彼にだって聞こえるくらいの大きさの舌打だったのだが。どう言う訳だが、彼の慇懃無礼な様子はそれでも変わらなかった。
「何で貴方だけ残ってしまったの?来てすぐなら間違いなく間に合ったのに」
「○○さんが心配でね……」
「取って食うような下等な存在とでも思ってるの!?」
多分、違うだろうなとは思っている。でも、どうにも馬鹿にされている気がしてならないのだ。
彼は「いえそんな。そういう意味ではございません……気を悪くしたのなら謝ります」
と言って深々と頭を下げてくるが。そのわざとらしさしかない、丁寧すぎる態度が。却って永琳の神経をさかなでる。
「いえね。ただ私は……明日の朝にでも○○さんが帰るときにですね、道を間違いやしないかと心配で」
「心配は要らないわ」
「はい?」
「○○が帰る時になったら……鈴仙かてゐを案内につけるわ。だから貴方は明日の朝に帰っても大丈夫よ」
「と言うより、帰れ」
もうこれ以上話たくなかった。乱暴に開け放った戸を、今度は乱暴に閉めて。永琳は部屋を後にした。
「ふぅ……案外何とかなる物だな」
乱暴に戸を閉められた事で、大きな音が部屋に鳴り響いて、耳がまだキーンと言っているが。
別にそれだけだった。心身ともに、さしたる別状もなし。
この程度で、子供たちの安全が確保できるならば。安い物だった。
「でもなぁ……俺1人では嫌だぞ流石に」
しかし、一回や二回程度ならば。彼1人でもまぁどうにか出来ない事はないのだろうが。
子供たちに降りかかる火の粉は、多分一回や二回ではすまないだろう。
今回はチンピラ三人を無理矢理連れてきたが。毎回あいつらが近くにいるとも限らない。
何かが起こるその度に、彼1人だけが駆けずり回るのでは。体力的にも精神的にも、限界と言う物はすぐに迎えてしまう。
「誰か……いねぇかなぁ…………あいつか?」
頭をかきむしりながら、いい当てが無いか考えをめぐらせる。チンピラ以外で、それもまぁまぁ協力してくれそうな人物。
思い当たらない事はなかったが……
「あの木こりかぁ……?」
見るのも会うのも喋るのも。全てが面倒くさい人物でしかなかったのは、不安の種だった。
「でも……あいつはあの化物に陶酔はしているはずだ……」
しかし……上手く立ち回れば。教師の真似事をしている化物相手に関しては……色々とおっ被せる事が出来るかもしれない。
「ふん……面倒だな。しかし、まぁ……」
子供たちの安全には、変えられないな。そう思いながらまた彼は横になって、寝直してしまった。
最終更新:2013年09月14日 13:38