彼が永遠亭から出て、帰路へつこうとしている姿に対して、見送りと言う物は無かった。
しかし彼の足取りは、別に重くもなんとも無かった。むしろ軽やかですらあった。
「結局、あの小部屋で寝てただけだったな……」
それはそれで、楽で構わなかった。しかも、永遠亭の方から件の化物とよそ者を、2人とも一気に押し止めてくれたのは有り難かった。
このまま帰って来なければ。それが最も有り難い展開なのだが、流石にそう上手い具合には話は転んでくれはしないだろう。
それでも今日一日ぐらいは、悩みの種と言う物が綺麗に無くなってくれているのだ。まずはそれを喜びたかった。

と言うような、心理的な重荷の少なさを差っ引いても。彼には無視できない痛み等があった。
「ふぁ……しかし寝たのが布団じゃなかったからな。やっぱりどうにも寝足り無い感は強いな」
腕や首周りを回しながら、自分の手で揉みしだいてみるが。気休め程度にもならなかった。
歩いていると、更に眠気も増してきた。座布団程度で一晩明かすのは、やはり厳しかった。痛みの原因も多分これだろう。

「ああ……布団が……いや、寝る前にまずは風呂だな」
ぶつくさと呟きながら、暖かい布団と沸かしたての湯船に思いを馳せていた。
今日の仕事は休んでも差し障りは無いはずだ……流石に今日一日くらいは休ませて欲しかった。
と言うか、虎穴に唯一残ったのだから。それぐらいは許されて良いはずだ。



大きなあくびを何度も上げながら。彼は里への帰路の道を歩いていた。
もうこのあくびで何度目か、数えるのも億劫になった頃。ようやく、彼の視界に里の出入り口である、正門が見えた。

正門には何人かの人間が溜まっていた。明らかに、普段必要な門番以上の数が、そこには存在して。皆一様に、ソワソワとしていた。
「おお!おおお!!帰ってきたぞ!」
その中の誰かが、彼の帰参を見て大きな声を。これまた嬉しそうに上げた。この声を聞いて、何故だか彼は、自分のこめかみがピクリと動いたのが分かった。
そして、最初に上げられたその声に誘発されるように。他のソワソワとしていた者達も、嬉しそうに大きな声を上げてくれた。
その嬉しそうな様子に。また彼のこめかみは、ピクリと。先ほどよりも大きく動いた。
こめかみの動きに比例するように、彼の心の中にはどす黒いモヤが広がっていくのが分かった。


「おっとう!おっとぉ!!」
こめかみの動きと心中に広がっていく黒いもや。この二つに対して、どうにも悪い気分が拭えないで居たが。
「おっとう!慧音先生、大丈夫なの!?それと○○先生は!?」
見知った2人分の声が、彼の心中に清涼感を取り戻してくれた。

大きな声を、棒立ちのままで上げ続けている大人達。
そんな奴等の間をかき分けながら、彼の2人の子供たちは正門の敷居を躊躇なく踏み越えて。彼の元まで走り寄ってくれた。
駆け寄りながら、飛び出す言葉は。例の化物とよそ者の安否と言うのが気にはなるが。
こうやって駆け寄ってくれたと言う事実に。彼の表情も、自然と綻んだが。
「大丈夫だ。あの……○○だったか、あいつは今日は上白沢慧音と一緒に、永遠亭に残ったよ」
やはり。あの化物とよそ者の事になると、どうしても。歪みこそしなかったが、素の顔にまで戻ってしまう。
心の底から、どうでも良いのだ。
早く、この子達も。分別がつくような年齢になって欲しいなと。ただただ、そう思うばかりであった。



しかし、子供たちといくつかやり取りを交わす間も。他の人間は敷居の向こう側でしきりに、そしてわざとらしく喜ぶだけだった。
一番初めに声をあげた者もそうだったのだが。誘発されて声を上げてくれた者達も、彼に駆け寄ってくれるような事は。
ほんとに全く、どいつもこいつもその素振りすら見せようとしなかった。また、彼のこめかみがピクリと動いたのが分かった。

そして、彼のこめかみを最も酷く動かしたのは。敷居の向こう側にいる、妻の姿を見た時だった。
早くこっちに来いと、鬼気迫る表情で手招きをしているその姿だった。多分、子供たちが飛び出した後からずっと、そうやっているのだろう。
そんな妻は、乳飲み子を抱いてはいなかった。隣近所にでも預けたのだろうか。
乳飲み子を抱いているならまだ分かる、歩み寄って来ないのも。何度か抱いた事はあるが、存外歩きにくい物だ。
しかし、今はまるで何も持っていない。完全な手ぶらではないか。何か言いたい事があるなら、自分からこっちにくるのが一番早い。
それ以外にも……今の彼の心中は、どうにも自分から動いてやりたくないと。そう思っていた。



「早く!子供たち連れてこっちに来な!!何かに襲われるかもしれないだろ!!」
何度も手招きをしていたが、その全てを無視していたが。ついに、妻の方が痺れを切らした。
鬼気迫る表情は、遂に青ざめた物にまで変っていた。そんな顔で、必死に、こちら側に。
敷居をまたいで、里に戻るように。あらん限りの声で叫びだした。

そんな彼の妻の声を聞いてようやく。やんや、やんやと無駄に喜んでくれていた他の物も、ようやく態度が変わった。
「ああ、そうだ!確かにそうだ!!」
「おい、あんたら!早くこっちに来るんだ!!」
言葉こそは、彼と彼に駆け寄った2人の子供たちの身を案じていたが。動きに関しては、妻と全く変わるところは無かった。
皆一歩も動かず、棒立ちのまま。無駄に大きな動作で手招きをするだけだった。



いくらかの間、彼はじっと。必死に手招きをする、妻とその他大勢の姿を見ていた。
二人の子も、流石に妙な空気を感じたのだろう。くいくいと、彼の服のすそを引っ張って、行こうよと促してくる。
流石に、それに対してだんまりを決め込む事はできなかった。
「戻ろうか、ずっと黙って立ち尽くしているのも……何だしな」

そうなのだ、直に来て手でも服のすそでも。とにかく、体や衣服の一部を引っ張るのが、ただ手招きするよりもずっと早いのに。
奴等はただの一人も。「ここは危ないから早くこっちに来い」と言うような台詞こそは吐いてくれるが。
安全な場所であるこっち側に、引っ張っていったり案内してくれる人間は。ただの1人も居なかった。
実の妻でさえ、棒立ちになって手招きすると言う。奴等と同じ行動しかしなかったのだ。

敷居を踏み越えて「よく戻って来られた」などと無駄な歓待を受けるが。彼にとっては、薄ら寒い物でしかなかった。
そんな虚礼を一身に浴びながら思うのは。あの世捨て人となった、木こりの事だった。
あの木こりが、何故他の里人との交流を全て断って。たった一人で暮らしているのか。
その理由が、なんとなく分かった気もした。






慧音の容態が安定しているし、掴んでいた腕も放してくれたので。
○○は昨晩は入っていなかった風呂に入ってさっぱりとすることが出来た。
おまけに、着替えまで用意してくれた。肌触りでも分かる、上等な物だった。
八意永琳は「返さなくても良いから。気にしないで」と言ってくれたが、手ぬぐい程度ならともかく。これは流石に、そうは行かないだろう。

風呂から上がった後、昨日も方々で見たウサギ耳を揺らす子。てゐという子に背格好はにて居るが、多分違う子に呼び止められた。
「お食事の用意が出来ていますので」そう言われた。風呂上りの着替えもそうだが、何から何まで本当に有り難く、申し訳なかった
後をついて行くと。食堂らしき場所まで案内された。
そこには、二人分の食事が用意されていた。

「あら、○○さん。お湯加減は丁度良かった?」
食堂に入った○○に、八意先生がニッコリと微笑みかけてくれた。どうやら、彼女が用意してくれたようだ。
不思議な事に、八意永琳が○○に逗留を勧める時に比べたら。その笑顔も、随分柔らかい物のように○○の印象には残った。

「ええ。わざわざ1人分の為に沸かしてくださって、有難うございます。それに、食事まで」
「良いのよ、別に」そう言いながら、吸い物を器に盛り付けていた。

「実は、私もまだ朝食がまだなのよ。二人分用意しといて言うのもなんだけど、相席よろしいかしら?」
「ええ、勿論」
そんな事を言われたが。無論、断るような理由は何処にもないし。
慧音の容態や自分がどれくらい傍にいてやれば良いかについて、少し聞いておきたい事もあるし。
○○は、相席を快く了承した。




「ねぇ、○○さん。上白沢慧音の事だけど」
用意されたお膳をいくらか食べ進め、腹具合も落ち着いた所で。八意永琳は、話を深いところに進めてきた。
「はい、何でしょうか?」
聞き手に回る○○の身も、自然と固くなる。

「食べながらで良いわよ、そこまで重い話じゃないから」
とは言ってくれたので。生き死にがどうこうと言う話ではないのだろう。それでも、緊張感が平時に比べれば深まる事に変わりは無い。
緊張感を少しは和らげようと思い、暖かい茶に手を伸ばす。

「貴方、上白沢慧音の事は好きなの?」
口に含んでいた茶の量が、まだ少量で本当に助かった。

「うえっほ!うええ!!」
しかし、助かったと言う言葉の意味は。机やお膳の上にぶちまけずに済んだと言う、その程度の意味しかなかった。
少量とは言え、器官の妙な部分に茶を流し込んでしまった。むせるし苦しい。
ゲホゲホとむせ返る、みっともない姿を何分か晒す事となってしまった。

「ああ、ごめんなさいね。少し、切り出し方が悪かったわ」
そう言って、八意先生は○○の背中を叩いて。息の通りを良くしてくれるが……そもそも何故この瞬間にそれを切り出したのかは全く分からなかった。

「あの……いきなり何なんですか?」
呼吸が少し落ち着いて、開口一番に問うた事柄は勿論。何故にいきなり慧音の事をどう思うかなどと聞いた事だった。
慧音の事をどう思うとか、そう言う隣人や同僚の事をどう思うかと言った。少し線を引いた質問ではなく。
何故にいきなり、慧音に対する好意を聞いてきたのか。○○には甚だ疑問だったからだ。

そりゃ確かに、○○の心中で慧音の事は。
ただの隣人や同僚以上の感情を持っている相手である事は確かではあったが。
今のこれは、いくらなんでも唐突に過ぎる。



「あはは……ごめんなさいね驚かせちゃって」
八意永琳は少し困ったような笑顔を見せるが……多分、この人は懲りていない。
「まぁ、何ていうか……私も、上白沢慧音とは。別に初対面とかじゃないからね」
「私は、ここで人間相手に。かなりの医療を提供しているし。彼女も、里でほぼ唯一の教師だから」
「それなりに、面識はあるし。お茶とかも時々一緒にやって……色々と話したりもしているからね」
八意永琳が、慧音先生と多少以上の面識がある事は分かったが。
その事を話す八意永琳の姿は。何か、憂いを帯びた表情だった。
そしてその憂いの感情は、○○に対しても注がれていた。

「だから、ね。寺子屋に彼女の助手が出来たって聞いた時から。貴方がどう言う人間かは気になっていたの」
「昨日、熱にうなされている時も。彼女はね○○。貴方の事ばかり叫んでたから」
「でも、やっぱり彼女が気に入って、手元に置きたがるだけのことはあるわ。昨日今日と見てて、はっきりと思ったわ」
相変わらず。八意永琳の表情に浮かんだ、憂いの感情は消える事はなかった。むしろ話が進む度に濃くなっていっている。

○○は黙って、八意永琳の表情を見ていた。
話の中身を精査するに。彼女は慧音とは、それなりの仲と言うのは、想像に難くなかった。
良く見知った友人と、毎日顔を合わせる人間の人となりが気になる。その気持ちは、別に不思議でも何でもないだろう。

しかしだ。まるで消える事の無い憂いを帯びた表情。
この表情が、一体どういう意味を持っているのか。まるで判別がつかなかった。

友達に恋人が出来る可能性に対して。付き合いの長い自分と、茶を飲んだりする時間が減るのでは。
そういう、ある種の嫉妬や不安と言った。そう言う感情がこもった物とも、余り思えなかった。
それよりはもっと……何か、悲劇的な感情。そう言う悲しさを感じるぐらいの表情。
そう言う色をしていたのだった。八意永琳の浮かべる表情には。



先の物とはまた別の緊張感が、○○の背筋を駆け巡っていた。
暖かい茶でも飲んで、少し気持ちを落ち着けさせたかったが。
またいつ、○○の不意を撃つような言葉が出てこないとも限らず。先のむせ返る記憶が、鮮やかなだけに。茶を飲む手も躊躇せざるをえなかった。


「多分ね……いや、多分なんて言葉は必要が無いわね」
「○○、上白沢慧音は貴方の事が好きよ。間違いなく」
永琳からの、有無を言わさずに断定する言葉に。○○の心臓は、大きく高鳴った。
本当に、茶を飲まなくて良かった。この言葉は、先程以上に○○を動揺させるものだから。茶を飲んでいたら、噴出していただろう。

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最終更新:2013年09月14日 13:41