果たして本当に、慧音は病を抱えているのだろうか。
慧音の全身には、何人もの。この永遠亭で働いているであろう、兎耳を揺らした子達が必死にまとわりついているのに。
1人でも、動きを制限するには十分な重荷となるはずなのに。
それだけに留まらず、今は八意永琳も。真正面に立ち塞がって、慧音の両腕を必死で掴み、歩みを止めようとしているのに。
一歩、また一歩と。慧音は、○○との距離を確実に縮めてきていた。

最早、慧音の眼前に立ちはだかっている永琳でも。この動きを止める事は叶わなかった。
出来る事と言えば、せめてその歩みを遅滞させる事ぐらいだった。
しかし、○○を見て確認してしまい。極度の興奮状態に陥った慧音は、永琳の必死の踏ん張りを嘲笑うかのように。
慧音の体に篭る力は。傍から見ているだけの○○の目にも分かる位に。明らかに、増して行っていた。
力が増す前ですら、余り抑えることが出来ていなかったのに。
最早、必死に押し止めようとする永琳たちの姿は。かなり前衛的な芸術作品のような存在感ぐらいしかなかった。

「○○!○○つッ!!」
渾身の力を振り絞っても。遅滞させる事すら間々ならなくなった永琳には、強い焦燥感が漂い始める。
狂乱状態に陥った慧音の目線は。眼前に立ちはだかっているはずの永琳など、まるで視界に捉えていない。
ただただ、自分の背中の先にいる、○○だけを見ている。そういう目線の動きしかしていなかった。

「○○!!」
本当に、どうすれば良いのか。最悪でも、 てゐが鎮静剤を持ってきてくれるまで。それまでの間を耐えれば良いだけの話なのに。
時間にしてみれば。それは大した量では無いのに。
いや、大した量では無いから問題なのかもしれない。多分、てゐがどんなに手こずったとしても。
注射器に鎮静剤を入れて、ここまで戻ってくるまでの時間は。十分も……いや、もうそれなりに経ったはずだから、あと五分もあれば間に合うはずだ。
たった五分やそこらなのだから。○○には申し訳ないが、その少しの間だけ。

そう言う、非常に申し訳ない。諦めの感情に支配されつつ、チラリと○○の顔を見た。
チラリと、永琳は○○の表情を覗いたが。○○は、様子を見た永琳の様子には全く気付いていなかった。
ただただ、呆然として。あんぐりと口まで開けて、棒立ちになっていた。何を考えているかはわからなかった。
と言うよりは、想像の全く外側の出来事過ぎて。感情と言うものが完全に吹っ飛んでしまったかのような顔だった。
まあ、無理も無いだろう。そんな苦笑交じりで、永琳は慧音の方向に向き直った。
向き直った永琳の顔は。苦笑から一気に、悲しさで歪んだ顔に変った。

思考回路と言うものが、一時的に吹っ飛んだ○○とは打って変わって。
慧音の表情は、本当に醜かった。情欲、独占欲、愛欲、その他諸々。煩悩の塊だった、そうとしか言いようがない。
こうやって、真正面で立ち塞がっているせいで。その醜い表情の、針の穴程度の特徴までもが。嫌でも見えてくる。
こんな上白沢慧音の顔など、見たくはない。
それなりに見知った友人である上白沢慧音の、これほど馬鹿まるだしの猿みたいな顔など。これ以上、見たくはなかった……が。
見たくはなかったが。今すぐ、目を伏せてしまいたいと言う感情も、勿論嘘では無いのだが。
それ以上に。数少ない、人間の理解者となりえるであろう○○に。
この、醜さの頂点ともいえる上白沢慧音の表情を。見せたくはなかった、絶対に。



「うああああ!!!」
友人の為にも。その友人の数少ない理解者となりえる人物の為にも。この醜い表情を知っているのは、自分一人で十分だ。
そう思ったとほぼ同時に。永琳は、慧音の体を思いっきり、真横に投げ飛ばしていた。
存外、何とかなるものであった。そうだ、冷静に考えてみれば、真正面から相対す必要など何処にもないのだ。
今の上白沢慧音は、○○しか見えていない。○○の元に向かうための行動しかとらない。
○○までの最短距離を突き進むことしか考えていない。
そう、真っ直ぐ突き進むことしかできない、猪のように。
力の方向が、完全に一方向だけを向いているのならば。永琳の技量ならば、いくらでも受け流せる。


○○に突き進むための力を、真横に受け流されてしまった慧音はと言うと。
ゴロゴロ、ゴロゴロと。ふすまを突き破って、畳張りの部屋を転がって行った。
そして今度は障子を突き破って、縁側に突き進もうかと言うところで。
「慧音ェ!!少しは、大人しくしなさい!!○○さんが見ているのよ!!」
収まりかけた転がる勢いを、止める物かと言わんばかりに。そして、永琳は自身の決意をもう一度奮い立たせるように。
先ほどの慧音にも負けないような大音量で、叫んで。慧音に掴みかかった。

まとわりついていた、鈴仙をはじめとした稲葉たちは。不幸にも、永琳の投げ飛ばしの勢いに、慧音の体にしがみ付くことができずに。
壁に激突したり、ふすまに頭から突っ込んで、キュウと言うような声を上げたり。廊下に叩き付けられたりした。

「鈴仙!!○○さんを何処か遠くに!!この場面を見せないで!!」
しかし、鈴仙には。他の因幡のように、キュウと泣いてグッタリとする暇は許されなかった。
鈴仙は、廊下をゴロゴロと転がり。全身をくまなく打ち付けて、立ち上がるのに随分な気力が必要だったが。
そこは、信頼し信奉する師匠の命である。

それに、それ以前に。鈴仙だって、永琳程ではないが。慧音が○○に対して、どう思っているか。
そして、○○が慧音に対してどんな感情を抱いているか。察せないはずがないし。
もっと、それ以上に。
上白沢慧音が。どれほど苦しい立場にいて、苦心して、身を切り裂かれるような精神的苦痛の中にいるか。知らないはずが無かった。

「はい!師匠!!」
口の中に、血の味が滴っていたが。そんな物は気にならなかった。
少なくとも、自分以外の大人が全て敵の環境で。何年も何年も、教師を続けてきた慧音の苦しみに比べれば。
口中の傷が染みるなど。何と慎ましく、可愛い物か。こんな物、半日もあれば気にならなくなる。


「○○さん!こっちです!!」
この場面を見せるな。そんな師の命を最大限全うするかのように。
「失礼します!行きますよ!!」
鈴仙は、○○に対して相槌や答えなど聞く間も与えずに。○○を肩に持ち上げた。
そして、脱兎の如く。大人一人分の重量が肩から全身に伸し掛かっているにも関わらず。
○○が、全力を出すよりもずっと早く。鈴仙は、永遠亭の廊下を走り抜けた。
だから。あっという間に慧音の叫びも、永琳の怒号もその両方が聞こえなくなってしまった。

余りにも早すぎる物だから。
途中で、注射器を持ったてゐがすれ違ったのだが。それを視認できたのは鈴仙とてゐだけで。
○○には、何も分からなかった。







「うわ……」寄合所の広間に入った彼は、絶句するしかなかった。
件のチンピラ三人が。壮絶な私刑を受けて、虫の息となっている姿だったからだ。
「これぐらい、当然でしょうや!だって、貴方様を見捨てて自分だけ帰ってきたんですからね!!」
しかし絶句して、引いてしまっているのは彼だけで。
他の者たちは、チンピラ三人を私刑にかけた事を。そして私刑に参加した事を、ことさら誇り続けていた。

本当は、このまま家に帰って。風呂を浴びた後、寝酒でもかっくらって、昼を過ぎてもまだ寝ていたかったのだが。
話がありますなどと。妙に丁寧で、敬ってきて、拝み倒すような仕草で懇願するものだから。
渋々、機嫌が悪い様子を隠す事無く。里の者たちについて行ったのだが。

血だまりに沈んで。か細く、笛のような息をして。かろうじで聞こえる言葉で、必死に、許しを乞うているその姿を見てしまっては。
先ほどまでの、不機嫌な気持ちは。里の者達に対する、やり過ぎだと言う感情にすり替わって。
眠気も吹っ飛んでしまった。

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最終更新:2013年09月14日 13:44