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むわっとする血の”におい”、彼にとっては非常に不快な臭いだった。しかも、彼の鼻に襲い掛かるこの臭いは、血だけではなかった。
失禁や、吐しゃ物や。そういった汚物の臭いも血と混じっているのが感じ取れた
彼は、この不快な臭いに対して。口元と鼻筋を押さえて、吐き気を必死にこらえて。
広間の中央に打ち捨てられて、虫の息で晒される三人の姿を。努めて、視界から外していた。
しかし、臭いの方はそうは行かなかった。
鼻の中に襲い掛かってくる、強烈な異臭が。これが現実の物だと言う事が、彼に対して突き付けられていた。


しかも、なお悪い事に。臭いに苦悶の表情を浮かべる彼とは打って変わって。
彼以外の里人と言えば。皆一様に、何かを誇っている。
わははと、口を大きく開けて。すえた臭いを腹一杯に吸い込む所か。わざとこの、彼にとっては不快極まりない臭いを嗅ぐ者までいる。

まるで理解が出来なかったし、理解が追いつくことも未来永劫無いであろう。彼は、再び絶句するしかなかった。
信じられない事だったが。彼にとっては“臭い”と感じるこの“におい”が。
彼以外の、私刑に参加した者たちからすれば。それは、高揚感を奮い立たせる“匂い”に変っているのだった。
同じ物を嗅いでいるはずなのに。彼は臭いと感じ、彼以外はそうとは感じていない。
この“におい”を何かの勲章のような。そんな履き違えた感情が、彼以外の人間の心中を支配していた。
これならば、まだ永遠亭で。一人で硬い椅子の上を座布団で誤魔化しつつ。
無理にでも、寝て過ごしていたほうがまだいくらかマシだったのではないか。
会話の相手も、それが敵意とはいえ、理解できる物しか持っていない。

だが、今の彼には。理解不能なものしか見えていなかった。
永遠亭の連中や教師のまねごとをする化け物が。人の形をした何かなら、今のこいつらは人の振りをした何かにしか思えなかった。
たった一晩。目を離していた隙に、一体何があったのか。
彼は、自分の価値観が根底から覆されるのを感じていた。


「こいつら、どうしましょうか?」
臭いと、余りにも大きすぎる衝撃とで。彼は立ってこそいるが、何も考えられない状態にまで追いやられてしまっていたから。
誰かが、喋りかけるまで。意識が現実の世界に帰ってこれなかったし。
帰ってきた後も、頭が再び動き出すまで、少しばかり時間を食ってしまった。

「やっぱり……始末するべきですよね?」
なので、意見や止める間も無く。こいつらは、また行き過ぎようとした。
“ですよね?”などと、疑問形で聞いているくせに。全てを言い終わる前に、部屋の隅に置いてある獲物を手に取ろうとしていた。
あれでやったのか。確かに、素手と蹴りだけでは付かなさそうな傷がいくつも見受けられる。
入っていきなり、虫の息のチンピラを見た物だから。辺りに注意が向かなかった。
いや、今はそれはさしたる問題ではない。今は必要でない思考を、頭を振って打ち消す。

「待て!待てと言っているだろうが!!」部屋の隅に無造作に置かれている獲物に群がる者たちに。必死で彼は声を浴びせた。
一度の忠告で止まってくれたのは有難かったが。それは決して、彼の言葉の意味を理解してくれたからではない。
むしろ、何を言っているのか分からない。そういう反応をされた方がマシだったかもしれない。

少しばかり。彼が何故に「待て」と言ってきたのか。その言葉の意味を、しばらく彼以外の面々は考えていた。
「ああ!ああ、そうですな!これは失礼を……」
誰かが、何か思い当る所があったのか。過剰なくらいの平身低頭さで謝罪の念を言葉に込めるとともに。
彼に対して、獲物を渡してきた。

「違う!そう言う意味じゃない!!」
どうやら、自分も参加させろ止めは自分に刺させろと。そういう風に受け取ってしまったようだ。
見れば、群がろうとしている者も。信じられない勢いで、後ずさっていた。
「死人は駄目だ!人死には出しちゃならん!!それぐらい、分かってくれ!!」
彼以外は、人一人所か、三人も殺めようとしているのに。全くそれに対する戸惑いや躊躇がない。
むしろ、楽しんでいる節すらある。

「お前ら!一体どうしたいんだ!?全く分からんぞ!?」
「それは……貴方様の手伝いはおろか、見捨てて逃げるような真似をしたこいつらを……」
確かに、逃げて一人っきりにされた事は。確かに少しばかり腹に据えかねたが。
ハナっから、運ぶ時だけの手数としか考えてい無かった部分もあったから。少し寝れば、忘れる程度の癇の虫でしかなかった。

「良いんだよ!ハナっから、残ってくれるなんて期待してなかったんだから!!」
「それよりもだ。一気に三人も人死にが出てみろ!あの世話好きでお節介な化け物にばれたらどうする!」
彼のこの言葉に。彼以外は、ハッとしたような表情を浮かべた。
「死体を隠すのは……お前らなら出来るだろうな!でもだ、こいつらは年柄年中、問題児なんだぞ!」
「問題を全く起こさなくなったら!あの化け物にばれかねんぞ!!」
自分でも、もうちょっと上手い言い訳があるだろうと。そう思わないでもなかったが。
者達は、ハッとした表情から。唸るような表情、そして青ざめるような表情に。コロコロと移り変わっていた。

「確かに……それは、思い浮かびませんでした」
思慮の浅さを詫びるように。深々とした礼をしてきた。
彼の足元には、何人かの人間がすがりつくように。有難うございます、有難うございますと。泣きながら礼を言っていた。
「お前も頭を下げろ!」
中の一人が、虫の息のチンピラから一人掴んで、頭を畳にこすりつけさせて。土下座の体勢を無理矢理作った。
思い出した。確か、こいつらは。あのチンピラ共の親や兄弟と言った親族だ。

一人が、虫の息のチンピラに無理に土下座の体勢を作らせたものだから。他の二人の親族も、その行動に続いた。
「もう良い。もう良いから……気になどしとらんから……頼むから、こいつらを早く治療してやれ」
膝をついて、頭を下げる者達と同じ目線になって、何度も何度も。徐々に、泣きそうな表情に変わりながら。
彼は懇願するように、チンピラに対する乱暴な扱いを止めるように言い聞かせたが。
余程の深い感謝と、申し訳なさを感じているのだろう。何度頼んでも、頭を下げるのをやめてくれなかった。

「良いから!早く、そいつらを治療が出来る所にまで連れて行け!!」
何度、その乱暴な扱いを止めるように懇願しても。聞いていないかのように、同じ行動しか取らない物だから。
ついに、彼は激昂してしまった。


激昂して、大声を上げた彼の姿に。周りに集っていた者達は、恐れおののいた。
特に酷く恐れた表情と姿を晒したのは。勿論、件のチンピラの親族であった。
「ヒイイィ!!」と、甲高い悲鳴を上げて。飛び退いたかと思えば、また頭を擦り付けて。
「お許しください、お許しください」と、何度も何度も。許しを請うと言う行動しか見せなかった。

「だからッ!もうそれは良いと言っているだろうがぁ!俺の言葉が分からんのか!!」
「早く、そいつらを!何処かに連れて行って治療しろと言っているんだ!!」
「死んだら貴様らのせいだぞ!!」最後のこの言葉が、余程効いたようだ。

別に、最後の言葉に。言った彼にとっては、深い意味などなかった。ただ、周りはそうとは捉えなかった。
最後の言葉で、チンピラの親族は、三人のチンピラが死んだら今度は自分たちが責めを追うと思い込んでしまい。
「急げ!急げええ!!」と、蜘蛛の子を散らしたように。三人を担いで、外に走り去っていった。
最後の方は、もう言葉になどなっていなくて。文字で形容することの難しい、雄叫びじみた悲鳴だった。




そのまま、彼は者達の手によって半ば強制的に。他の年寄連中や、まとめ役をやっている者達を押しのけて、一番の上座に座っていた。
席に座った後も、者達は異常なほどに気を使い。茶を出して来たり、茶菓子をどっさりと付けてきたり。
何も言わなくても、完成されて行く異常なまでの歓待の姿に。
彼はただただ、頭を抱えるしかなかった。

勿論、彼に対して異常なまでに気を使うようになったこの者達が。
彼が頭を抱える姿に、ざわつかない筈がなかった。
曰く「入れた茶の、湯加減はお気に召しましたでしょうか」
曰く「茶菓子がお口に合わないものでしたでしょうか」
曰く「それとも、何か不手際や足りないものがあったでしょうか」
などなどなど……彼に対する気遣いは、留まる所を知らなかった。



彼は口を開けないでいるのだったが。段々と、この者達は懲りもせずに。またきな臭い空気を作りだし始めた。
茶を入れた人間や、茶菓子を用意した人間、上座を用意した人間。
彼の接待を買って出た人間達を、殊の外なじり始めた。
黙っていたら、また。彼の機嫌を取るために、誰かを殺そうとしかねない。
仕方なく、彼は口を開くしかなかった。

「待て……」
ただ一言、そう言っただけなのに。者達は、極度の緊張感を持った表情と姿勢になった。
本当に、彼に対して、異常なまでの気遣いだった。
この様子に、彼は大きな溜息を付きたかった。
でも、押し殺した。

「別に……何かのせいで不機嫌になってるんじゃない。ちょっと、考え事をしていただけだ。これからの事で」
誰かが、頭を下げた。お殿様に対してやるように。それに誘発されて、他の者達も。仰々しく、頭を下げだした。
壮観な光景だった。気味が悪かった。また、大きな溜息を付きたくなった。

でも、押し殺した。彼の心中を、またおかしな方向に捉えかねないから。

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最終更新:2013年09月14日 13:47