「で、よぉ……これから、お前らはどうしたいんだ?」
出来れば、もう何も話したくはなかった、何も考えたくはなかった。子供と、あんなのでも自分の妻以外とは、誰とも会いたくはなかった。
でも残念ながら、そうは行かなかった。仮に今ここで、投げ出してしまったら。本当に、こいつらがどこまでやらかすか。まるで想像がつかなかった。
下手をすれば、ここにいる全員で殺し合いを始めかねないし。最悪、その矛先が自分に向く可能性もある。
それに気付いてしまうと、怖くて仕方がなかった。
心臓はバクバク震えているし、口内は舌の切っ先に至るまで、余す所なくブルブル震えている。
一番いい座布団を使って、楽な姿勢でいるはずなのに。めまいを感じて、そのまま倒れこんでしまいそうだった。
先ほどまでは、死人が出ては不味いと言う。そういう使命感と、勢いだけでどうにか乗り切ったが。
こうやって、一度座って。何だかんだで楽な状態になると、緊張の糸と言うのは容易く切れてしまった。
“何か喋れよ”どうしたいのかと、質問をしたのに。こいつらはまた、お得意のだんまり戦法を使ってきた。
両隣や、真正面の人間とも目を合わせたくないらしく。よく観察していると、目線があっちを向いたり、こっちを向いたり。
下ばかり向いていたり、微動だにせずにあさっての方向を向いていると。それをなじられるとでも思っているのか。
まるで、云々と唸りながら考えているような振りをする者までいた。
誰かが、そんな真似事までするものだから。
ああ、そうだ。俺も、私も。この手を使おうか、などと考えでもしたのか。
性質の悪い流行病みたいに。誰かがやった、欺瞞の為の行動は。あっという間に、燃え広がった。
イライラして仕方がなかった。しかしそれでも、喋らずに済んで鼻から深い深呼吸を密かに繰り返して。
バクバクと鳴る心臓の暴れっぷりや、痙攣する口内の動きを鎮めるための時間。
これがたっぷりと用意出来たのは、本当に皮肉な出来事としか言いようがなかった。
奴等が何も喋らないことに心の底からイライラしつつも、奴等が何も喋ろうとしない事に心の底から安堵する。
全く交わる事の無い、矛盾した感情。水と油、犬と猿。そんな表現が陳腐に思えるほどに、強烈なまでに相反しあう二つの感情だった。
当たり前の事だが。彼の心中には、余裕などまるで無かった。
微動だにしないのは、強烈なめまいのせいで。少しでも動けば、倒れこんでしまいかねない危うい安定感だったから。
行儀悪く、あぐらの上に頬杖を付いているのだって。少しでも重心を安定させたいからに他ならなかった。
目つきが、余りにも鋭いのは。ボロを出せば、今度はこっちが殺されかねないと言う。恐怖から来る物だったから。
なので、たまに視線をあっちこっちに巡らせて逃げ回る誰かと不意に目が合っても。
引きつった愛想笑いに対して。何も返すことが出来ずに、鋭い目つきのままだった。
実の所、これが一番不味かった。
これもある意味、当たり前の結果だが。彼以外の人間は。彼の余裕の無さなど、まるで気づいてはくれなかった。
特に、尋常ではない目つきの悪さ。これを、彼以外の者達は彼の怒りだと捉えていた。
しかしその怒りを鎮める役目を、自分がやりたいなどとは絶対に言わなかった。
先ほど彼に茶を用意したり、上座を作ったり、茶菓子を添えたりする役目を……媚を売りたくて買って出た者達が。
彼が少し、だんまりをしただけで。彼の機嫌を損ねたと早合点されて、危うくまた凄惨な私刑が始まりかねない所まで行ってしまった。
あの時は。ただ単に、彼が考え事をしていたと、方便を付いてくれたから。どうにか、きな臭い空気は鳴りを潜めたが。
方便と気づけるほどの余裕がないこの者達は、彼からの質問に対して。いつまで経っても誰も答えないこの状況に。
ついに、怒り出したと。全員が、勘違いをしてしまっていた。
無論、ここで何か彼の気に入りそうな言葉を吐いて、良い子ちゃんの振りをして媚を売り。
気に入られて、その後の人生を楽にしようと。そう思う輩もいないわけでは無かったが。
彼の目つきの悪さを見るに。不幸にも目が合ってしまって、愛想笑いをしても。何も返さない彼の様子に震えてしまい。
もしも気に入ってもらえずに、不興を買ってしまったら。
次に、あのチンピラと同じような私刑を受けるのは、自分だ。
そういう危機感を勝手に感じ取ってしまい。一か八かの賭けに出るよりも、こうやって誰とも目を合わさずに嵐を去るのを待つ方に傾いていた。
一時間くらい、無駄な時間が流れたか。
何度も深呼吸をした甲斐があったのか、それともただ単に時間が経ったお陰か。
とにかく、彼の体の不調は。大分、鳴りを潜めてくれた。
「……はぁ」こうやって、溜息交じりに。ちょっと楽な姿勢を取るために、座り位置を直す事も可能なぐらいには、回復した。
しかし。彼以外の恐慌状態と疑心暗鬼は、酷くなる一方だった。
さっき彼が付いた溜息だって、同じ姿勢で無理やり居続けたから。ちょっと、体がだるくて何となしに漏れたに過ぎないのに。
そうは思ってくれないのが。今のこいつ等だった。
さっきの溜息を、待ちに待ったのに誰も何も喋ってくれないから。
痺れを切らすように、苛立たしい気分の象徴として。そういう溜息を付いた。
大なり小なり、違いはあれど。大方ではこういう想像しかしてくれなかった。
彼の溜息が、何かの合図かのように。この者達は、笑えるぐらいに狼狽してくれた。
この様子を見て、彼自身が最も驚いたが。顔にも珍しく笑みが……それが嘲笑の笑みとは言え。
少なくとも先ほどよりかは、マシな表情だった。目糞鼻糞、その程度の違いしか存在していないが。
ある者は、バネ仕掛けの玩具みたいにブルブルと小刻みに震えるばかりだし。
またある者は、歯をガチガチと鳴らして。空いた口の隙間から、何か泡のような物が漏れ出している。
そして、極めつけは。
「臭い!何だ、これは!?」この静寂を誰かが破ったが、それは勇敢だからではない。
それは、ただの生理的な嫌悪感から。反射的に動いているにしか過ぎなかった。
「うわ……うわぁ!!こいつ、漏らしやがった!!」
極めつけの、大珍事。それは、大の大人がやらかす、失禁であった。
これには、彼もあんぐりと口を開けるしかなかった。
本当に、こいつらは何に怯えているのだろうか。ただの、子煩悩な一職人に。何を恐れる必要があるのだろうか。
「なぁ……お前さん、何でそんなに俺のことを怖がるんだ?」
思わず口を付いた言葉だったが。それは責めたり、怒っているのではなく。
純粋に、何でこいつらは自分を、殊の外怖がるのか。
それが、ただただ、疑問でしかないのだったのだ…………が。
「そうだ!失礼だぞ!!ここは、今では御前にも等しい場所だというのに!!」
「お前は!失礼とは思わないのか!!無為にこの方を恐れているなどと!!」
彼は、本当に。ただ自分の疑問を氷解させたかっただけなのに。周りの者が、また人死にを出しそうな熱を帯びてくる。
彼の事を異常なまでに恐れだしたのは、失禁と言う大失態を晒した者だけではなかった。
失禁をした者は、ただ単に。この異様な空間が出来上がるちょっと前に、少し水を飲み過ぎていただけだったのだ。
だから、ここに来て。ついに膀胱の限界と、恐怖の限界が。関を超えてしまい。
衆目の前で、失禁と言う大失態を。不幸な巡り合わせで、掴んでしまったに過ぎなかった。
それ以外は。失禁をした者も、幸いにもしなかった者も。全く変わりはなかった。
「待て!待て!待てと言っているだろうが!!聞こえんのかぁ!!馬鹿共がぁ!!」
失禁をした者の周りを、他の者が一気に取り囲んで来た。
このままでは、また無意味な私刑が始まり、きっと死人が出る。やっとの思いで、あのチンピラ達に治療を受けさせに行ったのに。
これでは全てが水の泡になってしまう。
取り囲む者達の間を、彼は乱暴に掻き分けて。失禁と言う大失態を演じた者の前に立ち塞がり、盾となった。
「お前ら!何で、そんなに、人を殺したがるんだ!!恥を知れぇ!!」
先ほどの、余裕が無くて鋭い目つきしか出来なかった顔付ではない。
今の彼の表情は。明らかに激昂して、怒り狂っている表情だ。
物凄い剣幕だった。きっと、彼の人生の中でも。今の表情は、文句無しに頂点を飾れる程の怒気が込められていた。
失禁をした者の周りに詰め寄った者達は。彼のこの、余りの剣幕と怒気に。身を震わせる以外の行動が出来なかった。
そしてまた。
「申し訳ありません」
「どうか、お許しを」
「何卒、慈悲を」
そう言う、意地などすべて捨て去って。卑屈なまでに、頭を地に擦り付けて、許しを乞う。者達の姿があった。
許しと慈悲を乞う声の合間に紛れて。
「有難うございます」と、失禁をした者の声が混じっていた。
たった一晩。里の外で、夜を明かしただけで。彼はすっかり、普通の人間扱いされなくなってしまった。
卑屈に、慈悲と許しを乞い。そこに紛れて、助けた者からの。やっぱり卑屈な、感謝の言葉。
彼はこの無駄に仰々しすぎて、軽い言葉を受けながら。里に帰ってきてから、今までの事を。強い焦燥感と一緒に、思い返していた。
そこで、出た結論は。
「もう良い……お前らとじゃ、話もろくにできん」
一緒の目線に立って、話してくれる相手は。多分もういない。
唯一、裏切って欲しくなかったのは。妻と子供達だったが。
子供たちはともかく、こいつらと同じ大人である妻が。果たして、正気を保っているかどうか。
「あの……どちらに!?」
跪いて、頭を地面に擦り付けるこいつらを。もう、視界に入れたくなくて。部屋から出ようとしたが。
やっぱり、泣きそうな声で呼び止められてしまった。
まるで、見捨てないで下さいと言わんばかりの、表情と声で。
「心配するな……戻ってくるよ……お前たち以外の、当てを頼るんだ」
不思議な事に。彼の脳裏によぎった、人物とは。
あの、上白沢慧音の理解者を自称して。里との交流を自ら断ち切った。あの木こりだった。
焦燥感は、留まる所を知らない。でも、歩みを止めることはしなかった。
出来る限り早く、ここから出たかったから。
その一点が強烈過ぎて。彼の足取りは、しっかりと地面を踏みしめる事が出来ていた。
「は……ははは…………嘘だろぉ」
履物をはいて、寄合所の外に出ると。一体いつから、ここに立ち続けているのか。
寄合所の周りには、大勢の里人が。不気味なまでに、整然とした面持ちでいた。
そして、彼の姿を見ると。皆が一斉に、膝をついて頭を低くした。
もう、疑う余地はない。こいつらは、彼が出てくるのを待っていたのだった。
そして、地面に膝を付く人々の中に。
彼の妻がいた。
彼は悟った。もう、普通の人間としての暮らしは、出来ない。
昨日まで、化け物と呼んで忌み嫌っていた。上白沢慧音のような。
上辺だけ、敬われる生活しか出来ない。
彼の脳裏に、木こりの姿が。また一層、強くなった。
最終更新:2013年09月14日 13:49