幻想郷では人妖問わず朝が早い。
    この里での生活には外界よりも遥かに時間がゆっくり流れているような濃密さがある。それは神々と共にある古く幽遠な移ろいで外界の時刻では測れない定かならぬ時流のようだ。
    俺には自分がいつ頃この幻想郷にやって来たのかすら判然としなくなった。
    三日を過ごせば世に取り残される竜宮の寓話を思い起させる、そんな異郷でも朝の慌しさというのは変わらないものだ。
    この時期になれば稗田家でも朝霧が晴れる前には朝餉を終えているのが普通である。
    「寄り道なさってはいけませんよ。帰り道はお足元にご注意下さい」
     玄関先でくいくいと俺の着物の襟元を正すため一生懸命に背伸びをしている阿求の姿は小さな子供が飯事をしている姿そのままで愛らしいが傍らに控えた使用人達に指示する声音には年齢に合わぬ威厳がある。
    「カネさん。旦那様のお荷物に傘をご用意して。雨が降るかもしれません。ああ。このお着物では汗を掻きますね。ヤエさん。衣装箪笥の上から二段目の奥に旦那様の新しい手拭いがありますからお願いします。緋色なら良く栄えるでしょう」
    女中たちは丁寧に畏まると足早に奥へ戻った。
    数十人以上にもなる使用人たちの名前を覚えるだけで一苦労した身でこうもテキパキとした人使いを見せ付けられると誰がこの家の真の主なのか思い知らされる。使用人たちの方でも老若男女の別なく阿求に心からの忠節を持っているのが良く分る。
    皆、先祖から稗田家に仕えてきた者たちばかりという事だから当然であるのか。
    「あの……あなた。屈んで下さい」
    寝癖でも残っていたかと腰を屈めるときゅっと阿求が首筋に抱きついてきた。俺と阿求では上り框の上下に別れてなお背丈が違うから阿求は足が攣りそうな程背伸びをしている。   
    それがいじらしく思えたので俺は必要以上に腰を曲げた。
    「どうした阿求」
    「最近お帰りが遅いですよ……」
     俺にしか向けない阿求の拗ねた声音である。
    「すまん。この所忙しくてな」
     そう言うとさらに阿求の細腕に力が篭った。さすがに少しばかり息苦しい。
    「お忙しいのは分かっています。分かっていますが、それでも今日は早くお帰り下さい。もっと……もっと一緒にいて下さい」
    「可愛い事を言う。これは仕事などしている場合ではないな」
    「あなた。私は真剣にお話しているのです」
     むぅと阿求の頬が膨れた。幼い頃から九代目の御阿礼として稗田家を継いだ阿求はその重責故か家人に対してこんな子供染みた顔は決して見せない。
    別に使用人たちに冷たいわけではなかったがやはりどこか一線を置いて接しているように見える。人目が有る時は決して凛とした佇まいを崩さなかった。
    こんな顔を見せるのはほとんどが二人きりの時だけだ。
    「まさか甘えるために女中たちにわざわざ用事を言いつけた訳ではあるまいな」
     猫がそうするように小さな阿求の額がぐりぐりと俺の胸に押し付けられた。
    「ええ。そうです。そのまさかですよ。本当は一日中こうしていたいんです。夕食も出来たてを食べて頂きたいしお風呂も一緒に入りたいのです。ですから早く帰ってきて下さい」
    味噌汁が冷める前に帰る事を約束するとようやく阿求は離れてくれた。
     阿求が俺から離れた途端に廊下の影から二人の女中がニコニコと含みのある笑いを向けながら戻ってきた。
     心得たものだ。

    たいした荷ではないが俺には年老いた使用人が一人付き添う。
    稗田家の使用人は単なる奉公だけでなく阿礼乙女の警護も兼ねるために老いていても腕が立つそうだ。もっとも妖怪の賢者の庇護を受ける上に人里有数の名家である稗田家の家人が狙われた事などない。
    故に老爺の真の役目は俺の荷物持ちでも警護でもなく監視である。
    俺をこの里から逃がさぬための。


    荷を携えて数歩前を行くこの老爺の俺の仕事場への同道こそは未だ消えぬ阿求の病的な執着の表れである。
    「旦那様」
    しわ枯れた、しかし全く乱れの無い声で老爺が前を向いたまま俺を呼んだ。まるで背中に向けた俺の視線に気付いたように。
    「毎朝の事では御座いますがこんな爺が道連れでは足腰が重くなりましょうな」
     年長者特有のゆるりとした口火の切り方である。慇懃でいながら軽妙で嫌味なところの無い口調には人に使われる立場でありながら気品を感じる。
    「爺様の方こそ毎朝のように御役目ご苦労。お疲れならばもう少しゆったり歩いても構わないが」
    「お若い夫婦に足腰の心配をされようとは。旦那様の方こそ毎晩のお疲れが残っておいでならお申し付けくだされ。この爺が旦那様を担いで参りましょう」
     やれやれ。年寄りに口では敵わない。
    が、敵わぬなりに話しておきたい事はある。稗田家内部のあれこれについて。人里の政について。
    「阿求の方を心配してやれ。俺は多少仕事が面倒になる程度だ」
    「旦那様」
     老爺の声に厳めしさが混じる。長話の前兆だった。
    どうやら虎の尾を踏んだようだ。
    「そもそも稗田の血族の歴史を紐解けば古の朝廷の御世から巫として神代の知識と業をもって現世を平らかとした家柄。御阿礼の始祖にして今は氏神となり当家をお守りくださる稗田阿礼様はその見識と学才、求聞持の異能を持って時の朝廷の史書編纂をお助けし名を遺されたので御座います。
    阿礼様が御自身の没後も後代の稗田の一族に学識を究めさせんと志を立て知識と異能を血族に伝える転生の法を編み出し、その遺志を継いだ代々の御阿礼の子がそれぞれの生涯を費やし研鑽を積み上げようやく今に至るのです。
    もちろん御阿礼の子が居らぬ間も稗田家の家人は皆、始祖より続く知恵の灯を消さぬため、御阿礼の子が遺す書を守り書を編み人々に伝えてきた。
    御阿礼の子でなくとも皆これを助けこれを支える事を役目としておるのです。御阿礼の子にあらざる稗田は薄命なる御阿礼の子が残せぬ血族を本家分家、兄弟姉妹の別無く存続させ御家を栄えさせ家名を高め、その書を興し世に広める事、即ち御阿礼の子の助けとなるべくのあらゆる努力、筆働きの研鑽を怠る事罷り成りませぬ」
     稗田家の発祥。
     転生と言われる知識、異能、役目の継承。
     御阿礼でない稗田の在り方。
     そんな事は阿求と出会ったばかりの頃に知り尽くしている。阿求本人からも詳細な説明を受けたし、この爺様から聞いたのも何度目か分からない。
    「それで結局何が言いたいのだ爺様」
    「稗田家の婿ともあろうお方が筆働きを面倒くさい等とお吐きなさるなっ」
     うるせーじじぃ。とは口の中だけで呟いておいた。
    一度聞こえるように言ってみたところ老爺の小言は三倍程に長引き俺は仕事に遅れたのだ。
    このように本来なら最後の一言で済むはずの俺の至らぬ点について年の功たっぷりの説教を耳にタコが出来そうなほど御教授頂ける時もある。
     とはいえ公私の区別無く頂けるお小言が実際に有難い助言となる事も多いからあまり無碍には出来ない。なにより惚気話と取られかねぬ夫婦間の愚痴を聞いてくれる貴重な聞き役である。
     老爺の説教を流しつつ歩む道中、俺よりずっと早くから野良仕事に精を出している農夫や仕事場へ急ぐ職人が頭を下げ、あるいは陽気に挨拶して通り過ぎてゆく。
     その度に老爺は説教を中断し、さり気無く俺と彼らの間に入り自分も何食わぬ顔で挨拶する。毎朝のように顔を合わせる隣人に対して過剰な警戒を怠っていないだけではない。
    俺と他人の過度な接触を防いでいるのだ。
    恐れているのは何者かの手引きによるこの里からの脱走や異性同性を問わない不必要な親愛。
    稗田家の使用人は皆このような調子である。
    俺が家庭を捨てて何処かへ去るのではないかという阿求の恐れから敷かれた布陣は夫婦となって長い時間が経った今でも緩む気配が無い。使用人たちも同様に岩のような忠節で一日たりとも阿求の言い付けを怠ることが無い。
    これさえなければもっと愉快な道行なのだが。
    「さ、話し込んだと思えばもう着きましたな。如何です旦那様。年寄りの長話も役に立つ時は御座いましょうが。ははは」
     村役場の入り口で笑いながら老爺は俺に荷を差し出した。


     その日老爺は荷を受け取る俺の手を上からがしりと力強く握った。
    「阿求様の事は多くの使用人がお産まれになる前から存じております。憚りながらこの爺をはじめ皆、阿求様を実の孫や娘のように思っております。ほんの子供だと思っておったあの方が今や婿様を迎えておられるとは。
    使用人一同、旦那様には深く感謝しております。阿求様は本当に幸せそうに笑うようになられた。よもや阿礼乙女の孤独を癒し女としての幸せを齎す殿方が現れようとは」
     老いた目に熱い涙を浮かべんばかりにして矍鑠たる老爺は最後に深く頭を下げた。
    「何卒。何卒、阿求様を宜しくお願い申し上げます」
     受け取った荷は何故かずしりと重く感じられる。

    役場勤めというのも面倒なものだ。
    ここにも阿求の監視の目はある。同僚の中にも稗田家の息が掛かった者は多い。というより人里に稗田家の影響が無い者などいないだろう。
    外来人の若造であるこの俺が村政の中核に近い地位を与えられているのは俺が稗田家の婿だからという理由に他ならない。
    俺が職場で誰と親しいのか。何をしているのか。何を考え何をやろうとしているのか。全て阿求に筒抜けである。
    息苦しいという感覚が麻痺し始めると、まぁこれで阿求が安心するなら構わないかという気がしてくるが、誰にもばれない様にサボっていた日、家に帰ると阿求に叱られたのには閉口した。
    という訳で真面目に仕事をこなさねばならなない。
    大雨が続いたせいで崩れた農業用水路の補修。
    傷みの激しい橋の普請工事。
    食中り、熱中症、伝染病の流行阻止のための永遠亭及び各医家との連携。
    それらに掛かる費用の計上。人手の確保。
    目を通さねばならない案件は多い。
    何件かの仕事を片付けると既に昼飯時となっていた。
    昼食のために役場の外に出ていく同僚たちを見送りつつ俺も昼飯の準備を始めることにした。
    さすがに同僚たちから愛妻弁当をからかわれる事は無くなった。初めの頃はやたらと手の込んだ愛情たっぷりな弁当を周囲のからかいに耐えながら突くのが常であったから随分助かっている。
    思えば初めて渡された時から過剰な程真心の篭った弁当であった。
    そこまで考えてふと阿求から初めて弁当を渡された時のことを思い出した。あれはまだ俺たちが夫婦になる以前。
    親しくなって間もない頃――。

    「お忙しいところをお呼び立てして申し訳ありません」
    「いいや構わない。どうせこの夕立で仕事も明日に流れた」
    「そ、そうですか……。あ、あはは。そう言えばこんな風に強引にお呼びするのは初めてですね、はは……緊張するものですね」
    「それは光栄だな。それで話というのは」
    「え。えぇと。その」
    俺は僅かに首を傾げて見せた。
    「急を要するとの事だったが」
    「はい。大事なお話ですよ。その。えぇと」
     雨脚が強まるばかりの陰鬱な葉月の昼下がり。俺の家の前に立った稗田家の使いは雨具から滴る雨粒を拭うこともせず稗田阿求様より火急の御用に付き至急当家までの御同道を願う由、丁寧だが有無を言わせぬ調子で申し述べた。
     今までも阿求に呼ばれてこんな風に語らった事は何度かあったがこれ程急な誘いは初めてである。
    何事かと思ったが俺を自室に通した阿求はただもじもじするばかりで一向に話を切り出さない。
    「……今日はいい日和でしたね」
    「そうか? 未明から雨だったと思うが」
    「……つっ、つまりそう、こういう日こそ書に親しむに最適なのです。晴天には晴天の曇天には曇天の過ごし方というものがあります」
    「成程。晴耕雨読というやつだな」
    「そうまさにそれです本日はその件でお呼びしましたっ」


    まるで今思いついたというように早口で捲し立てた阿求は何かに追い立てられているかのように忙しなく自分の文机の上を漁り始めた。
     阿求の几帳面さを表したように美しく整頓されていた卓上の本や巻物、和紙の束が嵐にあったように散乱していく。
     やがて阿求の何やら切羽詰った表情が明るくなった。目当ての物を見つけたようだ。すぐさま阿求は一冊の本を俺に差し出した。
    「ええっとこの本はですね……。きゃあっ! 」
     阿求が何事かを切り出そうとした途端ドサドサと音を立てて机の上から積まれていた本が床に雪崩落ちた。それほど大きな音ではなかったが阿求は轟雷を聞いたかのように飛び上がった。
     何だか妙に緊張しているなと思って軽く笑って見せたが当の阿求はばつが悪そうに視線を彷徨わせるばかりである。
    「…………これはですね……。私の御先祖様の一人が書き残された物で、その……。た、大変に。非常に興味深い文献で……良ければですが、ご覧になりますか。是非とも貴方の感想をお聞かせ願いたいのです。
    そ、それに妖怪に関して深く考察が成されていまして、貴方の幻想郷での生活にもきっと一助になるものと……」
     呼んでおいて良ければも何も無いものだ、と苦笑した。
    「外来人はどうも和綴じの本に慣れなくてな。多少時間が掛かるぞ」
    「どっどうぞ幾らでも! 構いません! 私はずっと待っています! 」
    「そうか。では拝読しよう」
     古の文献の書評を求める事が差し迫った用だとは思えなかったが阿求程の教養人の筆働きを余人が推し量ることなど出来まい。
    俺のような外来人の目にこの文献がどう映るかを知ることが何らかの形で阿求の仕事に必要である可能性もある。
     俺が渡された本に目を落とすと阿求は阿求で文机の前に座り別の本を開いた。しかし書見の視界の端で阿求がちらちらとこちらの様子を伺っているのが見て取れる。
    阿求が開いた書物はいつまで経っても同じ頁で一向に捲られる気配がない。
    阿求が何やら他に言いたい事がある事は察せられたが意図するところは依然読めぬ。
    それとなく探りを入れようと文中に見慣れぬ語彙や妖怪についての記述を見つける度に阿求に話しかけ注釈を頼んだ。
    阿求は終始上擦った声で返答するのでまだ緊張しているのが手に取るように分かったが説明を求めた箇所については優秀な教師のように的確に答える。
    「――つまり以上の事から古くから人と妖怪は対立関係にありながらも文化の一部分においては相互に影響を与え合い密接な繋がりを持っていたという事が伺えます」
    「妖怪の詠んだ和歌。鬼との対局の棋譜。各地に残る異類婚姻譚。いずれもその証左か」
    「矢張り今の外の世界にもそんな伝承が残っていますか。外界にあっては伝承上の存在でしかない妖怪や神々を実際に目の当りにされてさぞ驚かれたでしょう」
     その内、阿求の緊張が薄れたらしく徐々に口数が増え始めた。
    質疑応答から始まった対話が文学や学問、歴史や宗教の話題に波及する。外来人との価値観の相違から生じる摩擦か時折それらの問答が議論へと発展する事すらあった。
    「――それでは外界からいらした貴方にとって神仏への信仰というものはどのようなものなのですか」
    「俺は宗教家ではないが信じるという行為の要は実在するかどうかの確証が無い点だと考えている。実際に神が目の前にいて信仰に対する利益が確約されているならばそれは巨大な力に帰属しているだけではないのか」
    「それこそ神々など実際には存在しないという外界の常識を前提にした考えです。貴方は外界の基準だけで万物全てを推し量ろうとしていらっしゃいます。
    この幻想郷で実際に神仏を目の当りにしてなお外界の尺度のみでこの里の人々の宗教観を軽視なさるのは不毛な上に滑稽な事です。私が言いたいのは――」
     丁度議論が熱を帯び始めた時、唐突に阿求は我に返った。
    「あ……。こんな話、詰まらないですよね……」
    「……いや、とんでもない」
     立て板に水を流すような弁説の最中、阿求に満ち溢れていた自信は急に空気を抜いたように萎んでいったが俺は内心で脱帽していた。
    あらゆる学問に通じている事は既に分かっていたがこれこそまさに賢者と呼ばれるに相応しい。
    議論とは言っても実質は俺に対する講義のようなもので俺は終始圧倒されていただけだ。
    これまでにも何度かこういう阿求を見た事があるが相変わらず先程までの大人しく控え目な少女と同一人物とは信じ難い。

    老いた賢人を思わせる超然とした平静さの中に時折垣間見せる膨大な知の片鱗とそれに対する自負。そしてその平静を全く乱す事の無いまま舌鋒鋭く矛盾を断ち切る冷徹。流石は御阿礼の子といったところか。
    思えば出会ったばかりの頃は余計に口を開きもせずこちらの誤謬を最短でばさりと切って捨て置くばかり。それでも誤りを指摘してくれるだけマシな方でどうでも良い相手には如才無く丁寧な上面でさっさと話を切り上げ関わろうともしない。
    終始そんな態度で近寄り難く人形のような肌色と秋水の如く澄んだ瞳も相俟って人間味が薄いように感じるほどであった。
    ほとんど反論出来ない程に言い負かされた俺が気を悪くしたのでないか、とちらちらこちらの様子を伺っている今の阿求など初めて会った頃に比べれば想像も付かない。
    こんな微笑ましい姿が見られるとは随分親しくなったものだ。
    「……ごめんなさい。さぞ煩わしかったでしょう。私ったら、こんな話をする為にお呼びした訳ではないのに」
    「そうか。俺はてっきりこの書物の感想が必要なのかと。ではここからが本題という訳だな」
    「……はい。ええ……ええっと。…………これで御阿礼の子の御役目がどんなものか。分かって頂けたと思いますが」
    「成程。それを俺に伝えるための書物だったという訳か」
    「そうだったのです」
    「確かにその点この書物は好例だな。実に分かりやすく興味深かった」
    「そうですか。良かった」
    「うむ。で、本題というのは」
    何故かそこでしんと無言が部屋を支配した。
    かと思えば阿求が奇妙な間を置いて喋り始める。まるで今、話題を考えているようだ。
    「…………こっ、このように現在の幻想郷について書き記すのが私の役目です。そこで昨今増加した外来人について貴方に詳しくお聞きしたいのです。何しろそれが私の御役目ですから」 
    「ほう。何でも聞いてくれ」
     阿求は最初の問を発する前にまた随分と間を置いた。
    何かを思いつめているかのようにじっと自分の膝頭の辺りを見詰めている。
    こちらから声を掛けた方が良いのかと思ったが今にも頭から湯気を上げそうな熱心さで考え込む阿求の姿は鬼気迫るものがあり話しかける事が躊躇われた。
    やがて更にたっぷりと間を置いてようやく阿求がぽつりと口を開いた。
    「……あの。ご趣味は……? 」
    「はは。何だか見合いのようだな」
    「み、みあ…………。あ、あはははは。な、何を訊いているのでしょうかね私ったら。し、失礼しました。今のは無しです。え、えぇとそれでは。……それでは人里の生活で……生活について。い、いえ外界における……」
     幾つかしどろもどろに言葉を重ねた結果、阿求は再び黙り込んでしまった。なんだか少し泣きそうに見えた。
    「阿求。ゆっくりで構わないぞ。俺はいつまでも待っている」
    「……はい。……ありがとうございます」
     じんわりと阿求の頬に赤みが差した。未だに俯いていたがどことなく肩の力が抜けたような気がする。
    「いけませんね。こんな事では」
     顔を上げた阿求がじっと俺の顔を見た。真っ直ぐなその瞳に赤みの差した頬に書物について語っていた時同様の理知の光が戻っていた。
     阿求は一度大きく深呼吸をすると決然とした表情になる。
    「今日、お呼びしたのは書物の感想をお訊きするためではありません。外来人についてお訊きするためでもありません。私は貴方の。貴方のお話が聞きたいのです。
    私の事は今日まで貴方に何度もお話してきましたが私は貴方の事をまだまだ知らないままなのです。もっともっと貴方の事を知りたいのです。だから貴方の言葉で、この里を幻想郷をどう思うか。何を感じたのか。
    御阿礼の御役目など関係無く、ただ私に個人的に貴方のお話を聞かせてください。本日はそれでお呼びしました」
     理由の分からない緊張がとき解れた阿求の声音は普段の超然とした響きを取り戻していた。更にその言葉の底に熱い決意のようなものが潜んでいるように思われる。
    「俺で良ければいくらでも話そう」
    だから俺は思い出せる限り幻想郷で感じた事を答えたのだ。阿求の望むままに。
    ――朝霧裂く陽光、鮮烈なる事。
    ――天狗が威風、鼻よりも堂々たる事。
    ――山河に満つる精気、澄み渡りし事。
    ――星月夜彩る弾幕美しき事。
    ――昔日の面影、懐かしき事。
    ――人と妖の共栄、感じ入ったる事。


    阿求は優秀な語り手であると同時に聞き手であった。
    その瞳を情熱すら感じる熱心さで輝かせて話を促すので俺は話そうと思った事のさらに奥、その裏までも曝け出していた。
    そうして話している内に新たに気付く事や感じる事が次々と溢れる。そうやって徐々に今までのぎこちなさが砕けていく。
    やがては他愛の無い雑談すら互いに時を忘れて語らった。
    「――食べ物も外界とは全然違うのですね。その点でもご苦労があるのでしょう? 」
    「確かに今の外界とは随分違うがまるで異国という訳でもない。海の向こうの食に馴染むよりは容易かろうな」
    「そういえば、その。昼食は仕事場で? 」
    「ああ。適当に握り飯でもこさえて持っていく」
    「で、では例えば誰かがお弁当を差し入れたとすれば食べますか? 」
    「そんな奇特な者がいれば有難いな」
    「そ、そうですか。……良かった」
    心地よい歓談は長く続いた。
    だが時を忘れるような語らいにも心地よさの途切れる瞬間は来る。
    それは話題が俺のような外来人の仕事に関する事柄に移った時に起こった。
    「――では貴方も山裾の開墾作業に? 」
    「ああ。最近は一番稼ぎになるのでな」
     当時、一部の富農が商売替えをするとかで新たな田畑を必要としており人里から離れた山裾の荒野を開墾する作業に外来人の人手を集めていた。
    付近に野獣の姿をした野良妖怪が徘徊しており里人は恐れて近寄らないのである。
    幻想郷の里人は妖怪に対する恐れが根深くこれに限らず妖怪に関わる仕事はよく外来人にお鉢が回ってくる。
    「でも。あの辺りは妖怪も多いですし」
    「ああ。この間など野良妖怪に尻を喰われそうになったぞ。ははは」
    「…………」
    不意に先程まで談笑していた阿求の顔に影が差して黙り込んだ。
    「いやしかし、言葉を持たない妖怪は俺なんぞ美味くないと言ってやっても分からないのだから苦労する――」
    「危険ですよね」
     冗談めかして続けようとした俺の話をぴしゃりと阿求が遮った。
     その声音が余りに固く初めて出会った頃より更に冷たかったので俺は言葉を飲み込んだ。
    「危険なお仕事ですそれは。即刻、今すぐに止めなさい」
     静かにこちらを見る阿求の目はいつも通り作り物のように美しかったが瞳の中にはあるべき温もりが篭っていない。まるで出来の悪い愚者を教導する絶対者のように阿求は続けた。
    「それは貴方のような外来人など喰われても構わないという算段の下で強引に進められている開発です。あの周辺に力の強い妖怪はいませんが格の低い妖怪は飢狼と同じです。
    幻想郷の掟も言葉による交渉も弾幕ごっこも理解出来ません。だからこそ非常に危険なのです。貴方は利用されているのですよ。僅かな金の為に危険を顧みない愚かな尖兵として」
     抑揚無く淡々と紡がれる阿求の声音に籠められているのは常人など遥かに超越した異能者としての威厳である。その底に凡愚に対する哀れみめいた物がある気がして俺はただじっと阿求の瞳を見つめ返していた。
    「ですからそんなお仕事は止めにして私と――。」
     俺が黙って返す視線に気が付いた途端に阿求の瞳に人間らしい熱がじわりと戻った。
    「……いえ。止めたほうが、いいと……思いますよ」
     気まずそうに阿求は視線を落とす。声は尻すぼみに小さくなった。
    先程までの和やかな雰囲気を壊してしまった事に気が付いたのだろう。
    「二度目、ですね、失礼を……。本当に失礼しました。知った風な口を……」
     まるで叱られた年相応の子供のように阿求の気勢が萎んでいく。そうして絞り出すようにぽつりぽつりと謝罪を重ねた。
    「私、私はいつも貴方とお話しするといつも通り話せなくなって……。
    普通に話そうとすると妙に落ち着かなくなってしまうし、冷静に思いを伝えようとすると言葉が過激になり過ぎてしまって……。少しの事で舞い上がったり落ち込んだりで……。
    あの、お気を悪くなされました、よね? いつもは誰にもこんな事は無いのですが……」
     表面上はいつも通りの阿求に戻ったが顔色が青褪めている。その小さな指先がぶるぶると震えていた。
    「……いや、気にしないでくれ。お前の言うとおり危険な仕事なのは本当だからな」
     客人と気まずい雰囲気になればだれでも良い気はしないだろうが阿求の動揺が度を越している気がしてならない。
     矢張り今日の阿求は様子がおかしい。最初から落ち着きが無く冷厳な物言いをしたかと思えばまるで何かに脅えているようになる。明らかに情緒不安定だ。
    内心では面喰っていたが、阿求の豹変を気にしていない事を伝えようと俺は努めて明るい声を出した。
    「はは。しかし幻想郷でも指折りの賢者殿にそこまで心配されるとは俺も果報者だな」


    阿求は俺の気遣いを察して動揺を押さえ込みぎこちなく笑う。
    「ふ、ふふ……。はい。心配です。貴方の事。心配で心配でたまりません」
     単なる客人に向ける配慮にしては重くはないか。
    「妖怪に対する恐れが薄いからこそ出来る仕事もあると思っていたが俺も今後は身の振り方を考えねばな」
    「あの……では……」
     明らかに無理矢理作った阿求の笑みが更に深くなった。
    「止めていただけますね……。今のお仕事は」
     俺は答えあぐねた。止めるつもりは無かったからだ。
    「……そうだな。この仕事を終えたら次からは安全な――」
    「私は」
     今度は震える声で。しかし阿求は再びはっきりと俺の言葉を遮った。
    「私は、今すぐに止めるべきだと……思います」
    妙な事になってしまった。
    「いや、忠告は本当に有難いが一度受けた仕事をいきなり抜けるというのも……」
    「危険を知った上で……そうまでしてそのお仕事に拘る理由は何ですか? お金……ですか?」
    「そう、だな。金は確かに欲しい」
     幻想郷に留まるにもいつか現世へ帰還するにも金は必要だ。
    「そうまでして……帰りたいのですか」
     俺はまた答えに詰まる。
    阿求の声は震えていてもその問には未だに容赦なく俺の核心に切り込む鋭さがある。先程輝いて見えた相手を追い詰める御阿礼の子の理知が再び俺を追い詰めた。
    「貴方は外に、心に……決めた方は――」
     更に阿求は何事かを小さな小さな声で問おうとして、止めた。
     そのまま長い無言が座敷を支配した。
     外では雨の音がする。
     この無言が続くほど雨音が積もるほど俺と阿求の間に何かが張り詰めていく気がして俺は意を決して暇を乞う事にした。
    「さて日も落ちた事だ。そろそろ――」
    「ま、待ってもう少しだけ……! 」
     わぁん。と阿求の声が木霊した。阿求自身自分の声に驚いていた。
     反響した大声の余韻が去るのを待って気まずそうに阿求は取り繕う笑みを浮かべた。
    「い、いいじゃありませんか。もう少し。あの……お話のお礼がしたいのです。そうだ夕食を御一緒しませんか」
    「いや、大変ありがたいが明日の仕事の支度がある。そろそろお暇しよう」
    「そ、そんな……。来たばかりじゃないですか。すぐに食事の支度が出来ますよ。そうだ。それまでお茶菓子をどうぞ」
    「参ったな。必ず今度埋め合わせよう。支度が滞れば仲間にも迷惑が掛かってしまうのだ」
    「お金。お金ですね。いいでしょう。明日のお仕事で得る貴方の日当は私がお支払いたしましょう。それなら明日の仕事には行かないですみますね」
    「稗田殿。そういう問題ではない。信頼を失えば次の仕事はもう無いかもしれんのだ」
    居住まいを正して姓を呼んだ。それを聞いた阿求は驚いたように目を見開きやがて不愉快そうにじわじわと眉を顰めた。
    「私はこれからずっと払い続けても構いませんよ。そうだ、そうしましょう。いっそこの屋敷に住んでは如何ですか」
    「何を言い出す。そんな事すぐに決められるものか」
    「ああ。そ、そうですね。確かに性急すぎますね。今のは忘れて下さい。……あの、でも、その。ゆっくりお話しが出来る環境が私たちのこれからに必要という事もあると思います」
     何か。阿求の言葉に何か違和感がある。
    「何故だ? 」
    「へっ? 」
    「何故俺のためにそこまで気を使ってくれるのだ? 」
     ほとんど反射的にその違和感の正体を知ろうとしていた。予感がある。俺と阿求の認識に何か途轍もなく大きな祖語が生じている予感が。
    「な、何故って、そんな……当然じゃないですか。だって貴方は今後について悩まれているのですよね? それなら話し合わないと……」
    「何を話し合うのだ? 」
    「つ、つまり私たち二人の事ですよ。ふふ、今日もお会いしてくれましたしお話だってして下さいました。それに笑って下さいましたよね。
    また沢山貴方の事を知れました。こんなにドキドキする素敵な時間は初めてで。私……私、私ね? すごく嬉しかったですよ? ふふ」


    阿求は落ち着きなく両手の指を絡め合わせて微笑んだ。
    「あ、いや。話が逸れましたね。私ったらもう今日はずっとこんな調子ですね。呆れてしまわれましたか? 確かにただ楽しくお喋りしたいなとは思っていたのですが。
    私たちのこれからについてもちゃんとお話ししておかないといけないなと思ってお呼びしたのも本当ですよ」
     初めて。
     そこで俺は初めて、阿求との間にある断崖のような認識の相違に気が付いた。
     夜道を僅かな明かりで照らし出すとすぐ隣に崖があった事に気が付くように唐突に。
     そしてその断崖に阿求は未だ気付いていない事も初めて知った。
    「阿求」
    「とにかくこうやって貴方が会いに来て下さるだけで私は――はい? 」
     阿求は怪訝な顔でこちらを見た。
    気付かせなくてはならぬ。この亀裂を。
    「俺たちのこれから、とはどういう意味だ? 」
     阿求はこちらを怪訝な表情で見詰めたまま固まった。俺の言葉の意味が理解できないようだった。
    「私たちの、将来……という意味、ですよ? 」
     表情を動かさないままに阿求はぎこちなくそのまま問を返す。
     俺はそれ以上何も言わなかった。何を言っても阿求を深く傷つけるに違いなかった。
     阿求は糸の切れた人形のようにぽかんとしていた。
    だが阿求が俺と話がかみ合わない理由に思い至るにはそれ以上の多言を要しなかった。
    「嘘」
     急に耳に届き始めた雨音に混じって阿求がぽつりと漏らした。
    「え……。えっ? だって……私たちの関係、というのは。その……と、特別な……? 」
     幻想郷と外界の観念は様々な所で食い違う。悲しい程に深く大きく。
     貞操観念にも違いがあって当然である。
    人里でも指折りの名家の、更に言えば阿礼乙女としての宿命を背負い異能者として人里から畏敬の目を向けられて来た深窓の令嬢が俺と親しくしているのはどういう意味か。
     外界の基準で考える俺にとって、ただ茶飲み話の誘い程度でしかなかった日々が阿求にはどんな重い意味を持っていたのか。
     俺はようやく今日の阿求が落ち着かない理由を知った。
     俺にとってただとある一日だった今日は、阿求にとってようやく決心して想い人の胸中を確かめようとした日であったのだ。
    「あの、私……私、何か……勘違い、を? 」
    「いいや。勘違いをしていたのはどうやら俺の方だ」
    「そ、そんな、だって。異性とこんなに私的に、親しくお話しするというのは、その……。で、でもなんとも思わずに私の御誘いをお受けして頂いていたわけではないでしょう? き、嫌いではない、ですよね? 」
    「無論だ」
    「でしたらっ」
    ぱあっと阿求の笑みが輝いた。俺もそのまま笑っていて欲しい。だがそうは出来ないのだ。
    「だが待ってくれ。俺は今日という日の意味も知らなかった。ゆっくり考えさせてくれ」
     そう言って立ち上がった。
    「まま、まってぇ! 待って! 待って下さい! 行かないで! そんな……私、は。貴方が、貴方も同じ気持ちでいて下さったと」
     縋り付くような阿求の声に嗚咽が混じった。
    「俺はそれを己に問うた事すら無かったのだ。時間をくれ」
     その返事を突き放されたと感じたのか阿求の力が抜けて行った。
    「あ……わ、私……ご、ごめ……なさ……」
     理由の無い謝罪と共にぽたりと畳に水滴が落ちる。
    阿求が俯くとその絹糸のような前髪が目を隠して深い深い影が出来る。その表情を伺えない。


    「ふふっ」
     日本人形のような真白い面を影に浸したまま不意にその口元だけが歪に歪んだ。
    「ふ、ふふ。滑稽なのは私の方でしたね。一人で勝手に勘違いして、舞い上がって」
     ゆっくり阿求が顔を上げる。そこにあるのは心を抉るような自嘲だけではない。瞳には暗い炎が爛々と輝いていた。
    「でも、でも駄目です。この場で今日お返事を下さい。だって私はずっとずっと悩んでいたんですよ。悩んで悩んで他の事なんてどうでも良くて。毎日毎日片時も貴方が私から離れなくて。
    それがやっと報われたと思ったのに。もう、もうこれ以上耐えられません」
     その声に絡み付くような恨みを感じる。
    人知れぬ石清水に映る水鏡のような阿求の心の底にこれ程の激情が滾っていた事に俺は驚きを隠せなかった。
    「誓ってこの件を捨て置いて逃げはしない」
    「では何故離れたがるのですかっ! 」
     びりびりと襖が震えた。
     阿求が叫ぶのを初めて聞いた。
    「いい加減な返事などしたくないからだ。俺がする返事で恐らくは俺の死に場所が決まる」
    「ああ。そうですよね。それに。ふふ。今日は御都合が悪いのでしたか? 大切なお仕事もありますものね? 」
     はっきりと嫌味だと分かる口調で阿求は言った。
    「無論俺は俺の用事を済ませなければならないな」
     俺たちではなく俺の。
    「お仕事で貴方のお返事が遅れるなら猶更帰したくありませんね」
     顰められた眉の下、宝石のような瞳がこちらを睨んでいる。
    「元々。元々私は気に入らなかったのです。あの外来人たちの危険な仕事を貴方もしているという事が。そんな事をしなければならない理由はお金なのでしょう?
     私に任せて頂ければ時間を気にせずお話出来ますよ。いくらお包みすればよろしいのですか? 」
    「阿求。この異界で泥に塗れながら軽んじられながら、それでも自分に出来る事を探して生きてきたのは俺たち外来人共通の誇りだ。そしてそんな俺たちを蔑む事無く見てくれるこの里の者は共通の宝だ。
    だからお前にもそんな風には言って欲しくない」
     話すほどに苛立ちが募るのは何故か。相手の言葉の僅かな真意まで汲み取り語る。先程まで容易に出来たそれが突然出来なくなったのは何故か。一言発する毎に溝が深まるのは何故なのか。
    「だから、だから結局は危険なお仕事をして生計を立てているという事でしょう。お金の問題です」
    「そうは言っていない」
     阿求の目は変わらず俺を睨んでいるがその口元に卑屈に歪んだ笑みが浮かぶ。
    「言っているじゃないですか。仕事だって。それとも……それとも私と一緒にいるのがお気に召しませんか? そ、そう。それはそうでしょうね。こんな根暗な女の相手はお嫌でしょうね」
    「……何を言っている」
    「そ、それでは。それではこれからは、えへへ。私と居てくれた時間に合わせてお給金をお支払します、よ……? ふふ」
    阿求が何を言ったか分からず暫し呆然とした。
    「ね? 良い考えだと思いませんか? 」
     俺の顔色を伺いながら媚びているような阿求の笑みを直視出来ず目を逸らした。
    そして俺は自分の胸に穴が空いたような傷が残った事を知った。それが悲しくて話し始めた時の楽しさは霞のように消え去り代わりに耐えがたい怒りが腹の中で熱く凝っていった。
     気付けば立ち上がっていた。
    「失礼する」


    「え………………。えっ……? あ、あの。わたし……あ、あれ? えと……」
     呆けたように俺を見上げる阿求は俺の言葉を理解するのに数瞬を要した。
    「あ、……う…………。ま、待って!違う違います! ごめんなさい!ちょっと待って下さい! お気を悪くされたなら謝ります。ですから……ね? 」
     自分が言った事を阿求が理解した時には俺の方でも止まらなかった。
    「……当方には稗田殿からの重ねてのお心遣いを無碍にした無礼がある。この度の不作法についてはまた後日場を改めて詫びさせていただく。今日のところはこれで失礼する」
     ただただ阿求の嫌らしさに溢れた笑みを意識したくなくて俺は機械的に言葉を繋げた。
    「ま、待って。待ちなさい! 」
     座敷を出ようとした俺の歩みを阿求の命令が止めた。
     振り返ると阿求は引き攣った嗤い顔で俺を見ていた。吹けば飛ぶような虚勢の中に暗い愉悦の火が見える。
    「わ、わたし……い、いえっ……稗田家、は……がっ、外来人の保護のために……。人里に対して毎年多額の援助を行っています……」
     こちらの様子を伺うたどたどしい口調には怯えがある。しかし同時に見下しながら媚びているような、あの奇妙で卑屈な笑みが阿求の花弁のような唇を歪めている。
    「あは、はは。わ、私がその気になれば……貴方は」
     それ以上阿求に惨めな思いをさせたくなくて俺は体ごと阿求に向き直った。今度は目を逸らす事無くずんずんと大股で阿求に歩み寄った。
    「ひっ。……わっ……」
     打たれる。と思ったのか阿求は小さな手で咄嗟に頭を抱えて縮こまった。
     それでまた悲しくなった。
    俺に殴られると思ったのか阿求。
    当然、指一本も触れる気はない。
    「阿求。今日は楽しかった。さようなら。またいつか」
     それだけ言って俺は座敷を出た。阿求は一人残された自室の中、目に涙を溜め石になったような無表情のまま畳をじっと見つめていた。
    「………………………また……いつか? 」
     俄かに激しくなった夕立の雨音に混じって阿求の声だけが廊下に出た俺を追い掛けて来た。
    「いいえ」
     その声は未だ震えている。だがもう怯えているのではない。喉を焼けつかせる怒りが阿求の声を震わせている。
    「貴方はすぐに戻っていらっしゃいます。必ず、必ずそうさせて差し上げますから」
最終更新:2013年10月22日 14:47