「当代様……ご隠居様のご容態ですが」
「言わなくても分かります」
畏まる医者の言葉を制するように。彼は冷たく、そして素っ気無く返すだけであった。
彼からすれば、半ば見捨てられた形なのだ。冷たくもなろう。

彼の目の前には、目を閉じて伏せきったままの彼の祖父がいた。
最早何を喋りかけても一切の反応は無かった。ただ時折、良い夢でも見ているのか。
口の端をピクリと動かして、ほころんだ様な表情を作ったり。喉の奥を鳴らすようにして、笑い声のような音がしたり。
最初の方こそ、お手玉とかチャンバラと言ったような言葉が。家族である彼の耳にならギリギリ判別する事が出来ていたが

その、まだ何とか生きていると言う証でさえ。徐々に小さくなっていくのが実情だった。
今では口を動かして、何か音を発していても。家族である彼の耳でさえ、それを言葉として認識することは出来なかった。
医者でない彼の目から見ても明らかだった。祖父がもう長くないと言う事は。
ついに、来るべき時が来たと言うわけだった。

「ご足労駆けてしまい、申し訳ありません。お医者様もお疲れでしょう、少しお休みになられればどうです?」
「何かあればこちらから向います。一応、隣の部屋に布団などを用意はしていますが……それとも一度帰られますか?」
「当代様……ありがたきお心遣い、有難うございます。ご隠居様のお傍を離れるのも不味いので……ここはお言葉に」
彼にとって、この医者がどちらの選択を取ろうが別にどうでも良かった。
ただ、視界から外したかっただけだ。視界からいなくなってくれれば、今晩は逗留しようが一度家に帰ろうが。
ある調べ物の邪魔になりさえしなければ。それで良かったのだ。


恭(うやうや)しく、そして仰々しく。医者は部屋から出て行った。
早く出て行けよ。その言葉が何度も喉の奥までやってきていた。
ようやく、医者が部屋から立ち去ってくれた。ふすまがキチンと閉まる音を確認してから、彼は立ち上がったのだが。
入れ替わるように、今度は女中がお伺いを立てに来た。

「……何だ?」
「このような時に、申し訳ありません当代様」
「前置きは良い」これでもかと言う、抜群の間で行動を邪魔されて。彼の言葉には少し棘があった。
「はい……お夕飯の事ですが、ご隠居様の分はいかが致しましょう。それから……二つ分の陰膳は」
女中の言葉で、そろそろ夕飯の支度時だということを思い出した。
祖父がいよいよ鬼籍に名を書かれるという緊張感と、ある調べたい事で頭が一杯ですっかり忘れていた。
「祖父の分は無くても良い……でも陰膳は作ってくれ。多分自分の分が無いことより、そっちを祖父は怒るだろうから」


ここでの暮らし……家族との関係に大きな不満は無かった。
と言っても、一人っ子な上に父が早世したせいで。血を分けた家族の主たる記憶は、祖父しか無いのだが。
実のは母は勿論いたが。母と祖父の関係は何故か悪かった。彼はいわゆるお祖父ちゃんっ子で、その性で彼と母の仲にも何だか薄ら寒いものが漂っていた。
不満を上げれば、それが上がるが。彼の目には母が一方的に祖父を毛嫌いしているようで、余り好きにはなれなかった。
その母も、父ほどで早くはないが……もう鬼籍だった。
その二つの理由で、母が占めるはずだった記憶の場所も、祖父で埋まっていた。

だから、彼にとって血を分けた家族と言うと。祖父の事を指していた。
婚姻もして、子供も設けたが。人生の基礎が育まれる時期に一緒にいた祖父の存在は大きかった。

その祖父の事で、二人の仲に亀裂が走るような事は無かったが。
時折、よく分からない行動や強いこだわりがある事は、彼の大きな疑問点だった。

その際たるものが、二つの陰膳だった。
不在の人間の無事を祈願して作る陰膳。中身こそ作らなかったが、お膳だけは必ず鎮座させていた。
誰の為に作っているのか。これを聞いても、祖父は泣き出してしまうだけだった。
結局、いつの頃からか。彼は祖父の口から陰膳が誰の為なのかを、聞きだすのは諦めた。



医者も、女中も立ち去り。ようやく彼は、目当ての物を手に取る為に立ち上がることが出来た。
その目当ての物が入っている、部屋に備え付けられた大きな本棚。
その一番上段。日よけ埃避けの戸までついた、厳重な装丁をした中に置かれた何冊もの本を取り出そうとしたが。


祖父はある頃から、日記をしたためる様になった。使い切った帳面は、勿論ちゃんと保管していたが。
ただ、ある時期の日記帳だけ。この本棚の一番上段に、やたらと厳重に保管していたのだ。彼にはそれが気になってしょうがなかった。
そして、彼はそのある時期の日記帳を取り出したのだが。
日記帳に紛れて、ある二つの物体が落ちてきた。

「これは……お手玉と、棒切れ?」
お手玉はともかく、棒切れの方は分からなかった。
ただ、偶然紛れ込んだようなものでは無さそう、それだけは確かだった。
ここまで厳重に保管している場所なのだ。意図的に、このお手玉と棒切れも、ある時期の日記帳と同じ重みを持っていると考えるべきだった。


何度か祖父に、あの厳重に保管している日記帳。あの中に何が書かれているかについて、聞いた事がある。
しかしその度に、祖父は陰膳の意味を聞いた時と同ように。酷く悲しそうな顔をするばかりか。
酷い時には、嗚咽を漏らして人目もはばからずに泣き出してしまう程だった。
そういうことが度々合った物だから。ついに彼は、祖父がいまわの際にたつまで。この話を蒸し返すことは無くなった。

祖父をここまで狼狽させる理由が。そうさせてしまうだけの何かが、過去にあった。
それは明白だったし。それ以外にも、祖父の行動に合点の行かない部分が多々あった。
陰膳と言い、このお手玉と棒切れと言い。
その答えを求めるように、日記帳の一番古い物。つまりは始まりのときから……読み進めることにした。





「なぁ……ネズ吉さんよ。その案はとても素晴らしい物だとは思うんだけどよぉ」
1人の青年が教卓に立って、落語のような語り口で何ぞ喋りを続けていた。
「猫の首に、鈴を付ける。本当に良い案だ、あの憎たらしい猫野郎が近づいてきたのが分かるんだからな」
その語り口を、一言一句聞き漏らすまいと。教卓の前には、沢山の子供たちが目を輝かせて、食い入るように聞き入っていた。
「でもよ……誰が付けにいくんだい?猫の首に鈴を付けるなんて、危険な真似をさ」
「ネズ朗の指摘に、ネズ吉だけではなく。ネズ吉の話に沸き立った他のネズミ達も、急にしんとだまりこくってしまった」
喋りを続けているのは、教卓の前に立つ青年だけではなかった。
教卓から少し離れた。丁度、出入り口の辺りら辺で。青年の話し言葉に補足をつける様に、朗読を続ける一人の女性がいた。

「お、俺は嫌だぜ!あの猫野郎は、俺たちネズミが大好物なんだからよ」
「一匹のネズミが、堰を切ったように、勢いよく喋りだした。それに影響されて、他のネズミ達も」
「オイラだって!オイラは、アイツに食い殺されかけたんだ。絶対嫌だからな」
青年と女性の朗読劇。これはある寺子屋で行われている、国語の授業だった。
国語を、文字の扱い方を身につける上において、物語を読むのは非常に良い教材だった。

しかし、この寺子屋で教鞭を振るう女性。上白沢慧音には、一つ上手く行かない事柄があった。
それは。
「僕だって!私も嫌よ!んじゃあ誰がやるんだよ!!猫の首に鈴を付けるのをさぁ!」
朗読に関しては、自身があった。
しかし、今こうやって、会話分を担当する青年。そう、○○のように感情豊かに会話分を表現するのは、どうにも上手く行かなかった。


「ネズ朗の指摘が元で、皆ある重要な事実を気づかされた。猫の首に鈴を付けに行く者が、とんでもない危険に見舞われると言うことを」
「結局、この日も。猫をどうにかする為の会議は、いつも通り。何も決まらず終わりましたとさ」
慧音が自分の分担である、朗読文章を全て読み終えて、この日のお話は終了した。
しかし、お話が終了してもしばらく。○○は紛糾するネズミ達の会議の様子を、全身を使って。
体一杯で表現して、聴衆である子供たちを大いに沸かせていた。

「本当に、○○の演技は面白いなぁ。物語の授業を、子供たちがあそこまで食い入るように見てくれるなんて」
「いや、かみしら……慧音先生。先生の朗読が上手いから、子供たちも場面の想像がやりやすくて、そっちの方が大きいですよ」
「朗読が上手くないと、演者が何をやっているのか。そこが訳が分からなくなりますから」
窓から見える子供たちの帰宅姿を目にしながら、慧音と○○は先ほどの演技の感想を言い合う。
慧音は○○の演技を褒めるが、○○はそれよりも慧音の的確で淀みの無い朗読に助けられたと思っていた。
慧音の朗読無しで。いわゆる一人芝居で、先ほど演じた猫の首に鈴を付ける話を。
これを意味が分かるように演じきる自身が無かったから。
特に、一匹のネズミが猫の首に鈴を付けに行く危険性を指摘した後。その後の会議の紛糾っぷり。
これを1人で表現しきる自身が、○○には無かったから。
子供たちが食い入るように、自分の演技を見てくれたのは。慧音のお陰であると、○○は考えていた。

「だがな……恥ずかしい話だが。私にあそこまで感情のこもったネズミ達の演技は多分出来ない」
「いえ、かみし……慧音先生。そう卑下しないで下さい、僕なんて落ち着きが無いから。一定の調子での朗読が下手糞で」
「落ち着きがないようには見えないんだがなぁ。あの演技だって、集中力がないと」
またこの展開かぁ。○○は、慧音との謙遜合戦を続けながら話題の変え時を探っていた。



「所で、か……慧音先生」
早くこれにも慣れないとな。待っていても、謙遜合戦がいつまで続くか分からないから。○○は自分で話題を変えに行ったが。
その際、上白沢慧音の名前を呼ぼうとして、○○は思わず姓である上白沢を呼びそうになったが。
以前、この事に対して慧音の方から。
「私は○○と、名で読んでいるんだ。だから、私の事も慧音と呼んでくれないか?」
こう真顔で。まっすぐと、瞳の奥を覗き込まれるように言われた物だから。
それに対して嫌だと、異を唱えることなど出来なかった。唱える方がどうかしているとすら思っていた。

「うん、何だ?○○」
しかし、まだ完全には慣れていなかった。
上白沢先生と呼ぶのが、もう癖として体に染み付いてしまったようで。
何度も何度も、上白沢を途中まで口に出して。慌てて慧音と言い直す。そんな光景が何度も見られた。

何せ、慧音は。○○から上白沢と呼ばれると、一瞬頬の端が寂しそうな表情を作る物だから。
彼女のような、別嬪を悲しませたくなくて。ここ最近は、必死でその癖を抑えていて。
○○は変な疲れ方をするばかりであった。

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最終更新:2014年03月18日 10:20