彼には、○○と言う人物には。少し悪い事をしているかな。
幾ばくかの罪悪感を抱きながら、木こりは足早に帰路へとついていた。
まだ食料は十分あるし、節制すれば里の中心部には当分の間降りずに済むし。
つい先日、連中のうちの誰かが薪を買いに来たばかりだった。つまりは当分の間は、会ったとしても○○ぐらい。
それならば大丈夫だ。里の人間と関わらずに済むなら一人など、全く苦とは思わない。

むしろ、注意すべきは○○とそして上白沢慧音からの好意だろう。
あの二人に限って、何か企みを腹に仕込んでいるわけは無いが。その好意に乗っかってしまった後どうなるか分からなかった。
主に、周りの連中の行動が全く読めなかった。何かあってからでは遅い、上白沢慧音を。
あの優しい慧音先生を守る為にも、自分は孤独を貫くべきだ。

脳裏の奥に、かつての師である上白沢慧音。彼女の笑顔がちらちらと、頭の中を跳ね回る。
それがもう一度見たくて、でも自分は見るべきではなくて。そのせいで涙も浮かぶ。
自分は孤独を貫くべきだと言う、固い決意とは裏腹に。木こりの彼は涙腺を濡らしながら、帰路へとついていた。


変化は徐々に訪れていた。今思い返せば分かるが、残念ながら当時の彼には全く気づけなかった。
最初は、かつての友人たちが、徐々に慧音先生との関わりを少なくして。最終的には、全く何も無い所にまで持っていってしまった。
それは寺子屋に在籍中から、徐々にだった。ただ一つ、確かだったのは。
寺子屋を卒業した後、多少の前後差はあれど。一気に波を引くような、関係の断絶が合った。
もしかしたらこの多少の前後差さえも。上白沢慧音から怪しまれないようにする為の、演技だったのかもしれない。
奴等なら、やりかねない。

気付けば、寺子屋を卒業した後も、慧音先生と親しげに喋っていたのは。もう自分だけだった。


当時の彼はその理由を、慧音先生の見目麗しさにあると思っていた。皆恥ずかしがっているのだと、そう考えていた。特に男子は。
その考えは彼自身でさえ、今振り返ればお気楽に過ぎる考えだと。そう断じるような理由付けで満足して、それ以上は何も考えなかった。

思い起こせば。先生が気にかけてくれているから等と、再び来るように誘っても。誰も彼もが歯切れの悪い生返事の時点で。
甚だしきは、慧音先生との付き合いを減らすように、遠まわしに言ってくる友人だった者までいた。
今更どうこうする事もできないが。今思えばその時点で、何か少しくらいは気付くべきだった。
そしてある日。木こりの彼は妙に改まった態度の家族から、話があると呼ばれた。結局、その時まで気づく事は出来なかったのだ。


最初は自分の親が、兄や姉が、祖父母が。自分の家族達が何を言っているのか、全く分からなかった。いや、分かりたくなかった。
上白沢慧音を。あの、優しい慧音先生を化物扱いしろなど。
そんな考え、理解できるはずが無かった。

しかし残念な事に、理解できないでいたのは彼だけだった。
徐々に、彼の周りにいた友人だった者達まで。彼に対して直接的な言葉を用いて、考えを改めるように説いてきた。
よくよく見てみれば、最終的には自分以外の全員が。彼に対して考えを改めるように、圧力をかけてきていた。

正直な所、あの時よく気が狂わずにいたものだと、今では思っている。いっそ自分で自分を褒めてやりたいくらいだった。
その気が狂いそうな感覚に打ち勝って、冷静な頭と心を取り戻した彼が最初に抱いた感情は。
汚らわしい。その一言以外には存在しなかった。


この汚らわしいと言う感情。
それが木こりの彼が、あの話があると呼ばれた夜を境に、周りの大人たち全員に対して感じた、正直な感想だった。
しかし、それ以上に彼の心を打ち砕いてしまったのは。仲良くしていた友人たちが、その大人たちの考えに多少所か、完全な同調を示していた事だ。

その事で随分と喧嘩もした。その度に友人だった人間が、説得を諦めて。1人また1人と去っていったが。
あのような輩は、こちらから願い下げだった。なのでむしろ笑って見送ってやれるぐらいのここりもちで居たが。
しかし、派手な喧嘩をする度に心配してくれる、慧音先生の姿は。考えを変えようとしない彼の事を白眼視する視線よりも。
ずっとずっと、他の何かよりも大きく、彼の心を傷める物だった。

しかし、彼は何も言わなかった。上白沢慧音から何度問われようが、喧嘩の本当の理由を話さなかった。
いや、話せなかったというべきだろうか。彼女が真相を知った時の反応を考えると、やはりまだ元服したての人間の肝では、どうしても怖気づいてしまったのだ。

もし真実を知ってしまった上白沢慧音が、一体どのような反応を見せるのか。
悲しむだろうか、それとも怒り狂うだろうか。あるいは世を儚んで自決でもしてしまわないだろうか。
そんな種々の妄想が頭を駆け巡り。結局、何も言う事ができなかったのだ。


そうやって、彼が頑なにだんまりを決め込む物だから。彼の周りの人間は、かつて仲良くしていたはずの友人達は勿論、果てには家族でさえ。
かなり悪く言っていたと言うのが、慧音のたどたどしい口ぶりと表情で分かった。
しかし、肝心の本人からの言が何一つ取れていない事と、擁護する人間がただの1人もいなかったことから。
慧音の中では半信半疑であった事は確実だった。

この期に及んでも、まだ自分に対する評価を決定付けない事には、とても。
本当に、涙が出るほど感激したのをよく覚えている。最も、その涙も無言で流していたのだが。
木こりの彼の周りは、彼を非難する敵しかいないし。彼自身は慧音から何を言われても何も喋らない。
慧音の中で、この事に対する結論は結局導き出される事も無く。長い時間だけが過ぎてしまった。
それでも、あの時の事は上白沢慧音の中で一つのしこりとして。今だに心中に残っているのだろう。
だから、まだ彼の事を気にかけてくれているのだ。
慧音のそんな姿勢を、そして思考を。ここ最近、外から新しくやってきた、あの○○と言う人物も影響を受けているのだろう。

○○と言う人物には、さしたる懸念は無い。あの上白沢慧音が認めて、共に教師として活動出来ているのだ。悪い人間ではないだろう。
あいつらに毒される心配も必要無いだろう。第一、あいつ等がよそ者をそう簡単に輪に入れるとは思えない。
故に、その心配は考える必要も無かった。

唯一気がかりな事は、二人が自分に接触を果たそうとしている事ぐらいか。
それはとても嬉しい事ではあるが、だからと言ってこの好意に乗っかってしまったら。二人にどのような迷惑が掛かるか。
かと言って、こちらでの生活が長い慧音はともかく。まだ不慣れな○○の身の回りの事を、里の人間どもに気にかけさせたくなかった。
表面上は、上手く繕えているようだが。その内部に充満した悪意に。
例え間接的ではあっても、例え当の本人である○○が気づく事は無くとも、晒したくはないというのが本音だった。
まかり間違って、その悪意に汚染されてしまったら……それはとてつもなく悲しい事になる。
この里における、上白沢慧音の唯一の理解者が。いなくなってしまうと言う事だから。

だが、二人の事を考えれば。余り接触や関係を持つべきではない、可能な限り少なくするべきだろう。
自分は爪弾き者であり、要注意人物なのだ。そんなのが周りをうろつけば、例え腹に何も無くても、奴等は疑心にさいなまれるだろう。
その疑心と言う火の粉を被る姿は、絶対に見たくなかった。
つまりは完全な二律背反だった、今の状況は。

それに、木こりの彼自身も、自分のすねにある大きな傷に、無頓着ではいられなかった。
それが、二人との接触を過度に避けようとする、大きな原因の一つにもなっていた。
彼は今の今まで、そしてこれから。この里の暗部に関して、何も伝えようとしないし、その気も起こそうとしてこなかった。
結局は自分も、奴等と同等の存在。同じ穴のムジナだと考えていた。だから、とてつもなく、後ろめたかった。



悶々とした夜を過ごした。その悶々は夜が明けても収まらず、寺子屋の敷居をくぐってもまだ続いていた。
あの木こりとの会話の全てにおいて、捕らえ所が無かった。その捕らえ所の無さが、○○の悶々をここまで持続させていた。

こちらが一歩、歩み寄れば。向こうはその何倍もの量の歩数と歩幅で後ずさりをされてしまう。
そういう感覚を、昨日木こりとの会話で味わったのだ。
しかしながら、明確な拒否の感情は感じ取れなかった。それが捕らえ所の無いと言う評価につながり、悶々を生み出す土壌になっていた。

心の中にもやを抱えている事は、慧音からはすぐに看過されてしまった。
「そうか……」慧音は○○の表情を一目見ただけで、色々と察したようだった。
○○が浮かない顔でいる原因が、木こりの彼に逃げられてしまった事であるのを。○○が一言も発さぬ内に、察してくれた。

「まぁ、ゆっくりやろう。さぁ顔を元に戻せ、そんな顔子供たちには見せられないだろう」
それは慧音の言うとおりだった。慧音も○○も、今このときは教育者になるべきだった。
教育者というのがどういう生き方をして、どういう行動をすればいいのか。勿論この二人にだって、完璧には答えられないだろう。
しかしながら、沈んだ表情のままで教壇に立つことが。しかも、子供たちとは余り関係の無い事柄で沈みっぱなしの気持ちを引きずることが。
子供たちの教育に良い事とは、考えなかった。

「……はい、そうですね。確かにその通りです、慧音先生」
多少、空元気の様相だったが。○○は思ったよりもすんなり、笑顔を再び作ることが出来ていた。
それは多分、慧音が存外に○○の心中を素早く察してくれたからに他ならないのだろう。
慧音が素早く察してくれたお陰で、○○は昨日の悲しい記憶をわざわざ説明せずに済んだ。
昨日の悲しい記憶を、より強固に思い出さずに済んだとも言える。言葉にしてしまうと、どうしても思い起こすより強烈に刻まれてしまう。
実際、○○は笑顔を作りながら少しホッとしていた。喋らずに済んだのは、予想以上に○○の心の助けになってくれていた。

「良い笑顔だ。やはり○○は、そういう顔をしている時の方が輝いているな」
○○が見せる物よりもはるかに眩しく、朗らかで、優しい顔の慧音を見ていると。
自然と、胸が高鳴ってくるのを、○○は感じていた。
「何、上手く行くさ。悪い感触はなかったのだろう?」
「ええ……それは、そうだと思います」
そう、多分恥ずかしいだけだろう。悪童や変人と言うのも、彼の考え過ぎのはずだ。
でなければ、本当の悪童や変人ならば。昨日のようなまともな会話、出来るはずはないだろう。
相変わらず、もやは心のどこかで燻っているが。今は考えるべき時では無いはずだ。
そう楽観的に考えて、この問題は一時棚上げにした。
最も、真相を知らない者には絶対に分からないので。棚上げにしたままの方が、ある意味幸せに暮らせるのだが。



「はぁ!?何で俺が!?」
この日ほど、宅職である身分を恨めしいとは思わなかった。
外に出ずに、自宅で作業をしている物だから。細々とした雑事に駆り出されたりするのは、そう珍しくなかった。
ただその種の雑事は、何だかんだですぐに終わらせる事が可能な物が多かったので。
多少思う所はあったが、外に出ずに済む煩わしさに比べれば、と。半ば諦めと納得が入り混じった感情で済ましていたが。
今回に限っては、決して細々とした物ではなかった。
虎児のいない虎穴に飛び込む。そんな真似としか言いようが無い行為を、妻に強いられていた。

「子供に……息子に弁当無しで昼を過ごせって言うの?」
息子が弁当を家に置き忘れたまま、寺子屋に行ってしまった。
だから、それを届けに行って来い。そう言って、妻は乳飲み子を抱きながら弁当を目の前に突き出してきていた。
「無けりゃ取りに戻ってくるだろ!!それ程の距離でも無いんだ!」
だが、そんな役目は真っ平ごめんだった。あんな場所に、誰が好き好んで行きたい。出来ればもう二度と、行きたくないと言うのに。

「あのお人よしなら、自分の弁当の中身を分けかねないよ?多分新しく来たよそ者も似たような真似をするかもね」
「あんた、化物が食ってる物を、息子が食わされるかもしれないってのにさ。それを放っておくつもりかい?」

言い分は、理解出来ない事もない。
「あの化物は、この里で自炊しているんだぞ。変な物は食っていない……」
―“はず”だ。その言葉を言えば、自分も心の底から安全とは思っていないと暴露するような物だった。
「歯切れが悪いよ。あんただって、やっぱり私と同じで気にしてるんじゃない」
しかし、言葉尻を濁してしまったのが不味かった。それを理由に、また反論する別の材料を与えてしまっただけだった。

確かに、妻の言うとおりだった。自分達は、あの化物の一挙一足の全てを知っているわけではない。
知っているのは、自宅の場所と寺子屋で行われている授業くらいの物で。
この里の外に出た際には何をしているか、誰と会っているのか、その交友関係はどのような物なのか。
また外泊する際には、一体何を食べてしのいでいるのか。そもそも、外泊などはあるのか?あったとしたら、それはどれくらいの頻度なのか。
本当に、何も知らなかった。知らないことが、余りにも多すぎた。


不味い所をつかれたな、そう思っていると。
「ほら、あんたが大声出すから……起きちゃったじゃないか」
妻が抱きかかえている乳飲み子が、涙声でぐずり始めた。ぐずり始めた乳飲み子を見て、妻は少しほくそ笑んでいた。
(しまった……嵌められた)
その笑みを見て、彼はやられたと思った。

考えてみれば。妻は始めから、出来るだけ感情を表に出さずに、出来るだけ落ち着いた声で喋っていた。
それに対して、旦那である彼はみっともなく、感情をあけすけなまでに晒して、大きな声を上げていた。そんな声を、寝ている乳飲み子の耳に入れてしまったら。
あの寺子屋に行くのが嫌で、嫌で、嫌で。
本当に生理的な部分に触るくらい嫌で。つい感情的になってしまったが。妻はそれを狙っていたのだった。

ここ最近の妻は、乳飲み子の世話と言う大義名分を盾にして。
旦那である彼に、めんどくささの頂点にまで達した因習を。全て執り行うように、圧力をかけていた。
そのお陰で、他の家は家族が持ち回りで出席する、あの無意味な集まり。
あの集まりに毎回、彼が出席させられていた。

そして今回は。息子に分けの分からない、人の体には危険かもしれない物を食べさせる気かと迫って。
彼に息子が忘れた弁当箱を届けさせようとしていた。
しかし、ただ目の前に突き出したのでは、彼は頑として動かないであろう。それは妻も同じだ。
だからそれを見越して、わざわざ寝ている乳飲み子を抱いてきたのだ。

「頼むよ。絶対に、届けておくれよ」
多分、妻は夫が声を荒げると読んでいた。その声にびっくりした乳飲み子が、涙声でぐずりだす所まで、読んでいた。
妻は巾着に包まれた弁当箱を床に置いて。ぐずり出した乳飲み子をあやすと言う大義名分を盾にしながら、奥に消えていった。




「くそう……」
とにかく、はめられた物は仕方が無い。妻には腹が立つが、息子が心配なのは事実だ。
苛立ちながらも、ここはぐっと堪えて。とにかく、息子の安全の為にさっさと弁当を届けることにした。
弁当を置いたら、即帰る。そう心の中で何度も呟きながら。

そう思いながら、寺子屋の中まで入ったは良いが。寺子屋の敷居をまたいだ途端、彼は立ち尽くすしかなかった。
分からないのだ、息子がこの寺子屋の中の、どの部屋で授業を受けているのか。
彼がこの寺子屋で勉学を学んだのは、もう大分昔の事だったから。
寺子屋の間取りや、何処ら辺でいつも授業を、昼食である弁当を食べていたのか。その記憶がすっかりと色あせていた。

「不味い……本当に、思い出せないぞ」
思い出せないのなら、少し歩き回って見てくれば良いのに。実際、そのほうが早いのは確かだ。
しかし、因習に付き従い、凝り固まった思考を持ってしまった彼にはその発想は出てこなかった。
ただただ、恐怖で足が一歩も動かせずに。膝が笑いすぎて砕けてしまうのを抑えているので、精一杯だった。


そのまま呆然と立ち尽くしたまま、幾ばくかの時間が過ぎた。
その幾ばくかの時間があれば、寺子屋の全部の部屋を見て回れるくらいのことは十分に可能だったはずなのに。
ただただ、膝を震わしながら、立ち尽くすだけであった。

「弁当を忘れるって……今日の昼何を食べるつもりだったんだ?」
「うーん……慧音先生と、○○先生の分を分けてもらう?」
「いや、それは駄目だ……さすがに先生達も、ちゃんと食べないとこの後が持たない。だから取りに帰ろうな、一緒に行くから」
奥の方から、見知らぬ男の声が聞こえてきた。その声の主……恐らくも何も、○○と言う男が、自分の息子と話をしていた。

助かったと思った。これで中まで入っていかずに済んだ、ここで弁当箱を渡せばすぐに帰る事が出来る。
「おい!持ってきて、やったぞぉ」
恐怖と喜びと焦りで。文章が妙な所で切れて、声も変な上ずり方をするのが自分でも分かった。
しかし、気付けただけで。それを矯正できるだけの余裕は出てこなかった

「あ、おっとう!!」
最初に駆け寄ってきたのは息子だったが。その息子は、弁当箱を父親の手から奪い去ると、すぐに奥に消えて行ってしまった。
それと入れ替わるように、先ほどの見知らぬ声の主。○○が、角から姿を現した。
「おい!廊下は走るなって、危ないっていつも言ってるだろう!」
結果、彼はこの○○と。よそ者と二人っきりの空間に、置いてけぼりにされてしまった。

「えっと……お父様、ですか?始めまして、○○と申します」
廊下を走る息子に叱責を飛ばした後、○○が自分の方に向き直ってきた。
「ええ……始めまして。いつも、息子がお世話になっています」
出てきたのが上白沢慧音ではなく、よそ者の○○であったのは彼にとって幸運だった。
よそ者である○○は、彼にとってはある種の見下しの対象だった。
最もそのすぐ傍に、上白沢慧音と言う化け物がいるために。あからさまな悪意は表には絶対に出せなかったが。
ただの人間、しかもよそ者。そういう人間と喋る分には、ちらつく化物の影にさえ気をつければ、まだ平常心に近い心中でいることが出来た。

「どうも、わざわざ届けてもらって。有難うございます」
「いえ、お気になさらずに」
お気になさらずに。よく使われるありふれた言い回しだったが、裏には大量の悪意がこびり付いていた。
そのままこちらの事など気にせずに。さっさと結界を超えて帰るか、野垂れ死ね。
立ち居振る舞いこそは柔和で、笑顔を絶やさずにいたが。
その裏にこびり付いている大量の悪意と、めんどくさいさっさと帰りたいと言う思いが。昨日のきこりと違って、滑らかに言葉を紡ぐことを拒否していた。

笑顔の出来だけならば、木こりよりも彼の方がずっと上手だった。しかし、○○にはどうしてもこの笑顔が受け付けれなかった。
それは直感から来る物で、確証等と言った証拠は何も無い。
それでも○○には、昨日木こりが見せた。慣れていないが故の、不器用なあの笑みのような顔。
こちらの方が、よっぽど上等な顔だと。○○の第六感は告げていた。

無論、それは根拠に乏しいどころか。根拠など何も無い類、ただの思いつきである。
それだけで、眼前の彼を唾棄するなど。およそ常識的な反応でないことぐらい、○○は知っている。
しかし、何か、背筋を気持ちの悪い何かが走るような、そんな気がしていた。


(……初対面だからか?)
しかし、○○は慧音と同じく。かなり人が良い性格をしていた。
本心が受け付けることを拒否している、この笑顔も。初対面ゆえの、初対面から来る歯痒さと独特の空気が作る物だと。
人が良い○○は、そう楽観的で、目の前の人も悪い人ではないという考え方に、すぐに向かって言った。

「では、私はこれで……」
○○が、相手からの次の言葉を待つか、それとも自分から切り出すか。
そう考えあぐねいていると、彼の方はさっさと帰ると言い出してしまった。
「あの……」
このままでは、昨日と木こりと同じように。また逃げられてしまう。そう危機感を持った○○は、意を決して彼を引き止めた。

「何か?」
「どうせなら、上がっていきませんか?慧音先生もいますし。普段の様子は、話でしか聞いていないでしょう?」
上がっていかないかと誘われて、上白沢慧音の名を聞いて。彼の顔が少しだけ、強張った。
露骨な強張り方ではないので、相変わらず笑顔は貼り付けたままでいれたが。
その○○からの言葉に対して、彼はすぐに返答を見せることが出来なかった。

(あの化物と会えだとぉ!?)
ふざけるな。そんな怒号が腹の中で蠢いていたが、言えるはずは無かった。言ってしまえば命がないかもしれない。
「いえ……それは、まぁ」
仕事があるので。そう言えば、相手とてそれ以上の深追いはしにくいはずなのに。
○○が何か言って来たら、そう言って体よく断るつもりだったのに。
上白沢慧音と言う名前を聞いて。すっかり、彼から平常心と言う物が崩れ去っていた。

「大丈夫ですよ、今はお昼休憩ですし」
人の良い○○は、歯切れの悪い彼の姿にも。迷惑ではないかと心配をしているという、やたらと楽観的で前向きな考え方をしていた。
それは、慧音と子供たちを除けば。あの木こりぐらいとしか話していなかった、○○だからこその発想であろう。

「最近は……と言うかここずっと。慧音先生と子供たちを除けば、木こりさんぐらいとしか話してませんから」
苦笑しながら自分の弱味と言うか、気にしている部分を吐露する○○だが。
「木こ……り?」木こりと言う言葉を聞いて、彼に張り付いていた笑顔がまた怪しくなった。


「おーい、○○。あの子のお父さんが届けてくれたそうじゃないか」
笑顔の質がまた一段落ちた彼にとっては。この声は完全な追い討ちだった。
弁当箱を持って帰ってきた生徒、それなのに中々帰ってこない○○。
聞けば、父親が弁当箱を持ってきてくれたという。ならば、少し話し込んで帰ってこないのだろうか。
そうであるならば、自分も何か挨拶をしておかねば。

ただただ、慧音はそう思っていただけなのに。○○も、ただ挨拶に来ただけだと思ったのに。
因習に支配された彼には、そういう発想は生まれてこなかった。
「わた、しは。仕、事が、ありますのでッ……!」
妙な抑揚と、変な切り方の言葉を持ってして。そんな口ぶりでは、仕事と言うよくある建前ですら怪しい物にしながら。
わき目も降らずに、彼は走り去ってしまった。

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最終更新:2014年03月18日 10:26