「待て、寝直すな」
一種の現実逃避として、○○は再び瞼を閉じて眠りの世界に……四度寝に突入しようとしたが。
潜り込もうとする布団をはがされて、眠りの世界から無理やり引きずり出されたのだが。
「どうせその様子じゃ、今日一日まともに食べていないのだろう?」
多少なりとも、体の調子と気力が戻ってきているらしく。三度寝を目撃されたり、布団を引っぺがされた恥ずかしさや、慧音に三度寝を見られた恥ずかしさ。
それら何ぞよりも、寝ぼけた姿を茶化される方が何倍も嬉しかった。少なくとも、冗談を言える気力は戻ってきているのだから。
「……いや、それも私のせいか」布団を引っぺがそうとする慧音の手が急に衰える。
それと同時に、先程まで明るさを取り戻していた慧音の語勢も、つられる形で一緒にしぼんでしまった。
どうやら“また”らしい。
昨日今日のあれやこれやで、躁鬱の気でも患ってしまったのか。
意識していなければ先ほどのように、冗談や茶目っ気交じりに○○と相対する事が出来ていたが。
どうやら、件の大騒動を一瞬でも思い出してしまうと……こうなってしまうようになったらしい。
豹変した慧音にギョッとしながら、顔だけを向けて様子を確認すると。
ちょっと前に起き上がってきた時と同じで、体の震えが本当に酷かった。
その上、先ほどと違ってより近い場所で慧音の恐慌を見る事になってしまったから。粟立つ肌やめまぐるしく動く瞳。そう言えば、呼吸の様子もおかしい。
それらの細かい動きの一部始終を観察できていた。これを見ていると、○○の方も上記の症状に苛まれそうだった。
「慧音先生!」
肌が粟立ち、息をするのにもいくらかの困難があったのは○○も慧音と同様だったのだが。
ここで自分が倒れたら、誰が慧音を落ち着かせる事が出来るのだろうか。
間の悪い事に、八意先生はいないし。何より、峠を越えた感があっただけにあの人も多少の油断がある。
多分、すぐには来れない。今この事態に対応できるのは、○○だけであった。
「ヒッ!?」
被っていた布団を跳ね飛ばして、説得の為に○○は詰め寄るが。
「いや……違う……その、すまない少し驚いただけだ……お前の事を嫌っているとかそういう意味じゃない!」
「……ええ、ええ。まぁ……急に詰め寄った私も悪かったです……今のは」
○○が布団を跳ね飛ばして、慧音の名前を叫んだ瞬間。○○以上の瞬発力で、慧音は後ずさってしまった。
「さっきと同じですからね……考えが足りなかったです」
そう、先程と全く同じだ。話をする為に近寄っても、」慧音の方が間違いや失敗を異常に恐れてしまい。
そのせいで、過敏な反応を取ってしまい。その過敏な反応のせいで、皮肉にも○○を傷つけてしまう。
この慧音の大袈裟な動きが、昨日からの高熱による前後不覚や暴走。
それを、平静になった今頃になって、やっと思い返す事が出来たから。慧音は自らを殊の外恥じてしまって。
そして、再び間違いを犯しそうで怖いから。そう言った種々の思いから、慧音は時折こういった動きを見せる。
○○だって、慧音のこの動きが自分を嫌ったりしている訳では無く。頭ではそういう事なのだろうと思えるし、何より今のが初めてじゃなかったから……
最も、色々と察する事が出来て。しかも二回目であると言う事実を鑑みても。
「その……お気になさらずに……」
それでもやっぱり、傷つく事には変わりなかった。多少強がって、気になんてしてませんからねと言う風な笑顔を作っては見せるが。
そうやって慧音の事を慮って、どんなに頑張ってみても。誤魔化しようがないくらいに、固い笑顔しか作り出せなかった。
その固い笑顔を見て、やっぱりと言うべきか。
只でさえ酷かった慧音の狼狽は更に酷くなった。酷くなる前からして、さっきの一回目よりも遥かに……なのにである。
多分、数を重ねるごとに。二人の間に流れる寒風と言うか、溝のような物。そして慧音が見せてしまう狼狽。
これはどんどん酷くなっていくばかりであろう。
それは分かっている。分かっているからこそ、○○はどうにかしようと、抗する手段を模索しているのだが。
「いや……その……すまない、○○……だから、私の事を嫌わないでくれ……」
その抗する手段なのだが、何も思いつかないのだ、いくら考えても。本当に残念な事だが、これが現実だった。
慧音はワナワナと全身を震わせながら。その手を、○○に縋り付くように近付けこそはするのだが。
そう、近づけさせる事は出来るのだが。ある程度まで近寄った所で、ピタリと。見えない壁にでも阻まれるかのように、前に向かうと言う動きがすっかり止まってしまうのだ。
見えない壁に阻まれた後は、ただただ震えるだけ。
一寸たりともその場を動かずに、ワナワナと小刻みに震える慧音のその姿は。本当に、酷い物だった。
○○が一番よく知っている、いつもの理知的な姿。そんな物、何処にも無かった。
慧音自身も、自分が酷く醜い姿を晒しているのは分かっていた。
その姿のせいで嫌われてしまわないか……ただでさえ、昨日の事があるのに。
それらの事を考えると、慧音の中に根を張った不安感はまた成長を続けて。慧音の心をキリキリと蝕んで。
見えない筈の心の傷。それを現すかのように、慧音が見せる狼狽の姿はより一層ひどくなる。
そう言った悪循環に、今の慧音は陥っていた。
確かに、今の慧音の姿は“酷い”としか形容する事が出来なかった。
だからと言って、○○は慧音に対する評価を下方に改める事は無かった。
慧音に対する評価が上がりこそすれ、下がるなどと言う事。そんなことは、絶対になかった。
それが○○の良い所なのだ……そう言う人間だからこそ、慧音は○○を気に入ったのだ。
だから、今のこの状態でも……○○は思案を続けていた。
「…………はぁー」
幾ばくかの間の後、○○は決心したように大きな溜息を付いた。
付いた○○の方に、深い意味は無かった。ただ次の一手を打つにあたって、少し感情の整理を下に過ぎなかった。
「あ……ああ…………」
「……不味った」
だが慧音は……今の酷い心中では、余計な深読みと裏読みがはかどって仕方が無かった。
○○は、昨日から見せる自分の姿に、とうとう幻滅したのではないか。慧音はそう考えてしまい、目尻から涙がボロボロと零れ落ちていた。
その姿を見て、○○はただでさえ渋い顔つきがより一層渋くなる。
今の弱り切った心の慧音が、どっちにも取れる事柄を目にしたら。間違いなく、悪い方に結論付けてしまう。
一回目の時に、気づくべきだろうと。二回目を見る今、自己嫌悪の感情が溢れ出る。
「ああ、もう!慧音先生!!」
顔は渋いままだったが、それを穏やかな物に繕う時間がもったいなかった。
○○は一呼吸程度の間も使わずに、慧音が中空に置き去りにしている、ワナワナと小刻みに震わせる手を。
それを一思いに、両手でしっかりと握りしめた。
「慧音先生、私の話を聞いてください!」
「え……あ…………はい」
そして慧音が驚いたりする前に。
何よりも、根拠も無く悪い想像を巡らせたりする前に、○○は慧音に向かって話を聞けと強く言い聞かせた。
押してダメなら引いてみろ……と言うよりは、いつも引き気味の○○が珍しく、思いっきり押したものだから。
その勢いに圧倒されたように、慧音は多少狼狽から回復してくれた。
小刻みに震えていた体も、随分マシになって。○○はようやく、少しだけ穏やかな顔を自然と浮かべる事が出来た。
「やっぱり……時間をかけずに来た方が良かったのか……」
「え……?」
「いや、こっちの話ですよ……慧音先生、少し話を聞いてください」
多分大丈夫だとは思うが、○○は慧音の手をギュッと握りしめて、話ができる体勢を固めていた。
「あ……」
ギュッと、力強く手を握りしめてくれる○○の姿を見て。慧音は少し、照れたような顔を見せた。
「慧音先生。確かに……まぁ、昨日は色々とありました」
非常に可愛らしかったし、もう少しこの照れた顔を見ていたかったが。今はそれ所では無い……とにかく、自分の思いを聞いて欲しかった。
「でも、私は気になんてしていませんから。それだけは、信じてください」
「あ……それは……本当か?」
「決まってるじゃないですか!本当の事です!」
恐る恐る確認する慧音に対して。その不安を打ち消したくて、出来る限りに○○は大きな声で答えた。
それと同時に、握りしめる手の力をまた少し強くした。
徐々に強くなる手の力に、慧音は安堵感のような物を感じていた。
「慧音先生……その……信じてくれますか?」
しかし、強くなる手の力とは裏腹に。○○の顔は、何処となく不安そうな面持ちを慧音に対して浮かべていた。
「いや……信じるさ!信じるとも……そうか……良かった、考え過ぎだったか」
その不安そうな顔を見て、今までの自分が酷い考え違いを起こしていたのを。ようやく、自覚する事が出来た。
「良かった……信じてもらえなかったら、どうしようかと……」
酷い考え違いを自覚できた慧音は、ようやく全身の震えが止まって顔色もだいぶ元の調子に戻った。
その姿を見て○○は、今まで感じた事のない疲れに襲われて、肩どころか全身の力がガクンと抜けるようだった。
ただしそれでも、すがるように両手で握った、慧音の手だけは放さなかった。
どんなに全身の力が抜けようが、それだけは放す気になれなかったのだ。折角良くなった事態が、これを放したらまた悪くなりそうで。
そして慧音も、○○と同様にこの手を離したくは無かった。
だから、脇に置かれたままだったもう片方の手で。上から蓋をするように、そっと被せた。
だが、慧音がこの手を放したくない理由は……○○のように事態がまた悪くなるかもしれないと言う不安感では無かった。
(守らなければ……何としてでも、絶対に……今の子供たちが私の知っている大人になり切る前に……○○も一緒に……助けなければ)
○○が、見た目の上では元に戻った慧音を見て抱いていたのは、穏やかな心とそこに植わる安堵の感情だったが。
(○○……一緒にいよう……今の子供たちが、子供を持ったなら、その子供達の教師もやろう……どこか、ここじゃない場所で)
安堵したように、穏やかな表情を浮かべる○○を見て抱く、慧音の感情は。
闘志と、酷いぐらいの独占欲だった。
最終更新:2014年03月18日 10:38