突然食らわされた平手打ちの痛みにこそ驚いたが。慧音が平手打ちを打ったことに対しては、別に不思議でもなんでもなかった。
それだけの事を永琳はしでかしてしまったのだ、この痛みは甘んじて受け入れるしか無かった。

「弁明など聞くつもりは無い……!」
しかしこれは余りにも虫の良い話なのかもしれないが。弁明くらいは聞いて欲しかった。
弁明すら聞いてくれない慧音の頑なな態度に、永琳は明らかに悲しそうな表情を見せた。
「虫が良すぎるとは思わないのか……!?」
永琳の悲しそうな表情を見るやそう言い捨ててもう一発、鋭い平手打ちを永琳の頬にまた放った。

永琳は慧音の言葉に何も返す事が出来なかった。至極まっとうな正論である以前に、永琳は慧音に一服盛ってしまった事を非常に悔いていた。
その罪悪感が足枷となり永琳は、慧音が何度も振りかぶってくる平手に対して全く何の抵抗も繰り出す事が出来なかった。

何度も何度も慧音からの平手打ちを永琳は食らっている物だから。永琳の頬はあっという間に赤くはれ上がってしまった。
勿論、腫れ上がるほどに感じる痛みも。腫れ上がる前と比べれば、ずっとずっと鮮烈で鋭い物に変わっている。
ボロボロと永琳の目尻からは大粒の涙が零れ落ちる。もちろんこの涙の意味は、頬を張られる痛みによるものだけでは無い。
ただ痛いだけならば、輝夜から妹紅との戯れに誘われて応じた時の方が遥かに凌駕している。
いわゆる心の痛み、こちらの方がずっとずっと永琳にとっては深刻な物だった。

実際の痛み以上に永琳を蝕んでくる心の痛み。これのせいで永琳はみっともなく大粒の涙をボロボロ零しているし。
それと相まって、慧音に対して許しを乞うように大きな声で泣き叫びたかったのだが……
今隣室に○○がいる以上は、声をあげて泣く事は出来なかった……今の慧音を何の前触れも無しに見せる訳には行かなかった。

「ッ!ッァ!!」
勿論、○○に見られたくないと言う思いは慧音も同じだった……その思いだけは、こうやって決定的な溝が出来上がってしまった慧音と永琳の間でも。
皮肉な事にそれだけは今でもこの二人は共有する事が出来ているのだ。
その証拠に、慧音は何度も何度も永琳の頬を平手で張るが。その口からは荒い息が少々漏れるだけで、何の言葉も発する事は無かった。
その為今この部屋に響く音の中に、声と言う物は全く存在しなかった。
ただ慧音が永琳の頬を張った際に出てくる、鮮烈な音だけであった。
それだけならば安普請の平屋ならばともかく、それなり以上の趣向が存在する永遠亭ぐらいの家屋ならば、建材だってそれなり以上だ。
だからこの頬を張られると言った音だって、壁一枚でも隔ててしまえば全く聞こえなくなってしまう。


「ひっぐ……う、うう……」
しかし何事にも限界と言う物は存在する。特に耐えてばかりの永琳の場合は、その限界と言うのは案外早く来てしまった。
永琳は懸命に、歯や歯茎に舌と言った口内の物が傷つくのも厭わずに、ありったけの力でくいしばって耐えているが。
「ひっ……ぐ、うう……」
鬼のような顔で自らの頬を張ってくる慧音の顔を見ながら。痛みに耐え、蝕まれる心の痛みに耐え、込みあがってくる嗚咽に耐えているが。
耐えているはずの嗚咽が徐々に大きくなってくるのは。永琳自身も出来る限り何とかしようとはしていたが、これはもうどうしようもない事柄だった。

相変わらず大粒の涙はボロボロと……徐々にその勢いを増してすらいるぐらいだった。
涙の量からわかるように、心の痛みは最早永琳が耐えられる程度を超え始めていた。
そんな状態なのだから、耐えているはずの嗚咽が漏れてきて。徐々にその嗚咽の声が大きくなるのも止む無しなのだが。
「ぐぇっぁ…………!!」
そんな事、今の慧音が納得してくれるわけが無かった。
徐々に大きくなる嗚咽に限界を感じた慧音は、また一歩苛烈なやり方に打って出た。
「ひ……ぐる、しい…………」
慧音は永琳の首を思いっきり掴んで。嗚咽どころか、息すら満足に出来なくしてしまった。


「構わないだろう八意永琳。お前は蓬莱人、不老不死なんだろう?もし私が力の加減を失敗しても、大した事は無いはずだ」
そう言って、寝台にゆっくりと、出来るだけ音を立てずに押し倒しながらも。永琳の首を掴む慧音の手は、首を絞める力を増して行った。

「あ……が……やめ、おねが……い」
「いえ、八意永琳……!あの時、何故お前は私に毒を盛った!」
手を解いてくれと足りない息の中でも必死にもがきながら懇願するが、慧音はそんな永琳の苦しそうな言葉など全く聞いてくれなかった。

「別に私は、お前の首の骨を折ってしまっても構わないんだぞ……お前は蓬莱人なのだからな」
「い、う……いう……から……手を……は、な……」
首の骨を折られると言う致命傷の前に、呼吸困難によって息の根が止まりそうだった。
「駄目だ先に言え。放すとしたらその後だ」
しかし慧音は息がか細くなって、いよいよ息の根が止まりそうな永琳の嘆願など簡単に一蹴した。
何故なら、八意永琳は蓬莱人だから。蓬莱人は不老不死だから。不老不死なのだから、今の慧音ならば躊躇なく仕留めてしまうだろう。
仕方が無く永琳は覚悟を決めた……二つの意味で。


「木こり……が、○○と……会い、たが……った」
「まさか…………会わせたのか?」
また少し首を絞める力が強くなった。とうとう、一分の隙も無く気道が締め上げられてしまったらしい。
声を上げる事も出来なかった。仕方なく永琳は首を縦に振って、木こりと○○を会わせた事を伝えた。
首を縦に一回だけ振ってすぐに、永琳は自分の首の骨が折れる音を耳にした。




息の根が止まってしばらくすればリザレクションが来る。そうすれば、頬を張られて赤く腫れ上がったこの顔も、綺麗に治るし。
嗚咽を必死にかみ殺した際に口内に出来た、出血を伴うような諸々の傷もすべて。そう全てが全快してくれる。
少なくとも身体や体力的な意味では、リザレクションによって万全の状態に戻れる。
しかし永琳は、このリザレクションが生理的に余り好きではなかった。輝夜もリザレクションを連発するのは妹紅との死闘だけだった。

いつもならばリザレクション後は全快となった体の調子と反比例するように、呆けた心の整理をつけるために。
小一時間ほどグッタリトして過ごすのだが…………

今回ばかりは全く違った情景が永琳を襲った。
今回のリザレクション後に、回復した意識と同時に襲ってきたのは、さっきと同じでまた慧音に自分の首を絞められる苦しさだった。
「何を話した……一体○○と一緒に、何を話させた……!」
「ッ……ぁ………ぁ……やめ、て……!」
さっきとは違って、首の骨が耐えれる限界を知ったからか。慧音が込める力は、首の骨が軋む音程度にまでは力を抑える事が出来ていた。
こんな経験則、慧音には覚えて欲しくは無かったのだが。

「正直に言え……言わなければ、また首の骨を折るぞ」
慧音から首の骨すら折れんとばかりに、強烈に絞められると言うこんな状況だと言うのに。永琳は一切暴れる事が無かった。
ただただ、首を絞めるのを止めてと懇願するだけであった。

こういう修羅場には種々の事情が絡むものだから一概には言えないとしても。こんな殊勝な態度を見せられても、慧音の様子に変化は何もなかった。
普通ならば多少なりとも首を絞める手の力に影響を及ぼしそうなものなのだが。
人の首を全力で絞めるなどと言う行為、普通ならばここまで徹する事が出来る物なのだろうか……

永琳が蓬莱人であり、蓬莱人の特性を知っている慧音とは言え。無かったことに出来るとは言え、一度は殺めてしまった事に対して。
数瞬でも動かなくなった人体を見たと言うのに……今の慧音はそれらの事に対して、何にも感じ入る事が無かったのである。


ああ、そうか。慧音はもう、いわゆる普通では無くなってしまったのだと。
よりにもよってな人物にリザレクションまで追い込まれて、その後もまだなお首を絞められ続け。
息も絶え絶えで、酸素の補給もままならない状態でも。その事だけははっきりと、永琳の頭の中に導き出された回答であった。
そして慧音が普通では無くなってしまった、最後の一押しは……
どう考えても、永琳が面倒事を嫌がって飲ませてしまった。あの睡眠薬のせいだろう。

色々な事を考え続けていると、また永琳の目尻からはボロボロと大粒の涙がこぼれた。
折角リザレクションして腫れた顔も治ったのに、これではまた泣き腫らす事になりそうだった。

「腹が立つ……私を貶めておいて……何故にお前はそんなに…………ッ!!」
多分隣室に○○がいなければ、慧音は思いっきり永琳に対して罵声を浴びせていたであろう。
しかし大音量で怒鳴り散らしてしまうと、隣室の○○に気付かれてしまう……だが、慧音はこの感情をどうにかして発露したかった。怒鳴り散らす以外の方法で。
怒鳴り散らす以外の方法で……となると、すぐに導き出される答えは一つしかなかった。
慧音は渾身の力を込めて、永琳の顔を殴り始めた。


「ッ!ッ!!ッァ!!」
多少荒く息が漏れるぐらいで、掛け声と言う物は全く出せなかったから。渾身の力とは言ってもそれなりに威力は減衰していたが。
罪悪感の塊に押しつぶされている今の永琳では、この降り注ぐ拳を掴んで身を守る事はおろか。
避けてしまう事すら出来ないでいた。
その為に永琳は、慧音から降り注がれる全ての拳に対して。真正面からぶつかる以外の選択肢を取る事が出来なかった。

病み上がりで本調子では無い上に、力を増す効果のある掛け声を出す事も出来ないからとは言え。
殴りつけられる永琳自身が、まるで進んで殴られに行くように全くの無抵抗なのだから。
その端麗な顔に出血や青あざと言った、見ているだけでこちらの痛覚が刺激されるような痛々しい姿があっという間に作り出されて行った。


出来るだけ食いしばって傷が少なくなるようにしていたはずなのに、口内には血の味が大量に広がっていて。最早どこが出血の源なのか分からなかった。
殴られた衝撃で頬の肉だけでなく、舌や歯茎も痛いような気がする。出血源は行内全体と言った方が良いかもしれない。
口の端からは、口内から溢れた血が流れ落ちて寝台の布団を汚してしまう。

「くそ、お前のせいだぞ……お前のせいでこんなにも汚してしまった。○○に気付かれたらどうする……」
慧音は自分の拳にこびり付いた血を傍らの寝台やタオルなどではなく、永琳の服になすりつけるようにして拭っていた。
「いや……これは流石に気付くな。お前のせいで汚し過ぎてしまったよ」
拳の血を永琳の服で拭いながら、辺りを見回している慧音は忌々しく毒づいた。
永琳が口から血を吐くぐらいの強さで殴ったのだから当然なのだが。辺りのかなり広範囲に及ぶ所にまで血しぶきが飛び散っていた。

「部屋なら……変えるから……元々、1人用の個室に無理やり寝台を二つだから……落ち着いたら、変えるつもりだったから……もう用意してある」
殴られ続けて痛くて苦しくて、体力の消耗も激しいのだが。皮肉な事に首を絞められているときよりは苦しくなかった。

「ああそうしてくれ。だがその前にまだ聞かなければならない事があるのは……」
「……ええ、忘れていないわ」
慧音からの尋問に比べれば、口内や顔の痛みの方が遥かに耐えれる程度の苦痛だった。
「さて……あの木こりは○○に何を吹き込もうとしたんだ?」
「……子供達相手の運動の時間。○○さんが子供の体力に振り回されて大変だと、そう言ったら自分に手伝わせてくれと」
だが罪悪感に侵されてしまった永琳は、淡々と事情を説明する事しか出来なかった。
慧音の方は淡々と聞けるような状態ではないのだが。

慧音と○○と子供達、これ以外の部外者が入り込む余地を作られた。
粟立つ肌と背筋がおののく感触を覚えながら。
殴りつかれて多少冷めた表情になっていた慧音の顔が、また憤怒の表情に変わった。
「何故止めなかった……止めれたはずだ……!」
「……」
永琳は言いたくなかった、止めなかった理由を言ってしまう事を。
「言えッ……!」
藤原妹紅は貴方たちの首に絡みつく荒縄よ……真綿ですらないわ等と。
今の慧音に言える物か……言ってしまえばただでさえ終わりかけている事態が本当に終わってしまう。
「…………ごめんなさい」
その言葉を紡いですぐに、今までで一番強烈な一撃が永琳の顔に吸い込まれた。



「くそ……」
慧音の拳には今までで一番気持ち悪い、粘度の強い血が拳にへばりついていた。多分血だけでなく体液やら何やらが色々混ざっているのだろう。
「気持ちの悪い……」
顔の骨が一部ひしゃげたような感覚、それ以外にも視界がずれたような感覚を永琳は感じていた。顔の骨が一部崩れたのかもしれない。
気持ちが悪いと言う慧音の言葉も拳に付いた血の事を言っているのか、それとも違うのか。
「着替えなら棚の上から二段目に……一段目にはタオルもあるから、それで血を吹いて。新しい部屋はここを左に曲がった突き当り」
顔の骨に損傷があるのは確実だろうけど、どうやら声を発するにはそこまでの支障は無かった。変な部分で永琳は安心した。

「ああ、どちらも勝手に使わせてもらう……着替える前に汚れる仕事は終いにしておかないとな」
棚に手を伸ばしかけた手だったが、慧音は何かを思い出した。
そして伸びていた手を棚では無く、再び永琳の首筋をしっかりと掴んだ。
「その怪我……○○に見せる訳には行かない。リザレクションして死に治せ」
まさか……蓬莱人相手とはいえ。あの慧音が最早殺める事に対して何の躊躇も無いとは。
「ええ、お願い。一気にやって」
とても悲しかったが、なぜか永琳は微笑みを浮かべてしまった。諦めた訳では無いはずなのに。
だからこの微笑みは、またこんな顔を浮かべながら談笑が出来ますようにと言う。願掛けにしておいた。
だがそんな願掛けの存在、慧音は気づかないし気付いたとしても怒るだけだろう。
丁度今のように……永琳の微笑みに癇の虫を刺激されてしまい歪んだ顔を浮かべている。そんな顔を浮かべるだろうなと。

そんなことを考えていたら……また自分の首の骨が折れる音が聞こえた。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2014年03月18日 10:40