「怖気づいたの?」
「……そうだな、正直怖い。膝が笑っている」
永遠亭に付くまでに、輝夜が考えている事。端的に言えば、木こりが寺子屋の出の授業を。
特に、○○が子供たちの体力に振り回されて辛いと言っている。運動の時間を手伝う事。これを多少強引にでもねじ込みたい。
理由は、慧音の大人への心証を多少でもよくしたいから。例外中の例外かもしれないが、稀にマシなのもいると分からせたかった。
ついでに、やってきた彼に対してもいっその事だから参加しろと言ったら。彼の方は二つ返事で了承してくれた。
木こりの方は不純な動機だと言って、彼の事を少しばかり嘲笑っていたが。子供の為にここまで動き回れるだけでも、それなりにはマシな人間の筈だろう。
これらを一通り話した後、永遠亭に到着して。真っ直ぐ慧音と○○のいる部屋に向かっていたのだが。
二人がいるはずの部屋が近づくにつれて、彼の足取りが極端に重くなっていた。
最早倒れないように立っているのがやっとらしくて、本人の弁の通り膝が二つとも大笑いしていた。
「……少しは根性を見せろ。何があっても里よりはマシな筈なんだから」
対して木こりの方は、何年もたった一人で生活を営んでいただけの事はあるらしく。表情こそ余裕が少なそうだったが、まだまだ矍鑠(かくしゃく)としていた。
「気付け薬代わりにおちょこ一杯だけ、そこの姫様にねだったらどうだ?」
「ああ……酒の力と言うのも良いかもしれないな」
「分かったわ、じゃあ持ってくるから。ちょっと待ってて」
酒瓶の在り処に向かって歩を進めようとする輝夜に対して、木こりと彼の二人ともが冗談だからと言って少し焦っていた。
冗談を真に受けてしまうあたり、どうやら輝夜も案外余裕と言う物が失われているのかもしれない。
二人に止められて、初めてそれを自覚した。
流石に酒は飲まなかったが。笑う膝を止めなければ、後々面倒くさいのは確かだった。
なので彼は。木こりから渡された水筒を一気に飲み干したり、背中を思いっきり叩かれたりしながら部屋に向かった。
酒以外の気付けで、何とか歩を進めていたが。案外時間がかかったので、素直に酒を飲ませた方が良かったのではと思わなくも無かった。
「すまない、時間をかけてしまって……大分治ったよ」
「水筒の中身全部飲みやがって……多少でも治ってなきゃ承知せん所だったぞ」
木こりは殊勝な態度の彼に対して、ちょっとこれは……と言うような悪態をついているが。木こりからすれば、そうでもしないと恐怖を紛らわせないのだろう。
それが彼も分かっているからなのか、特段文句を言う事は無かった。
ついに部屋の前まで来たが、彼は膝を自分でバンバンと叩いて。木こりは何故だか脇腹を強く押さえて。どちらも黙りこくっているだけだった。
「ああそうか……確かに、戸を叩くのは私がやるべきよね」何をやっているんだろうと、しばらく見ていたが。やっと気づく事が出来た。
確かに、それなりに信頼して貰えていると言う後ろ盾があるとはいえ。部外者の二人がこの扉を開ける勇気は中々出てこない。
馬鹿正直に酒を持ってこようとした時も、随分酷かったのかもしれないが。部外者が感じる特有の心細さ。
これを察する事が出来なかった当たり、いつもの輝夜らしくは無い。やはり先の酒の一件と言い、やはり意外なほどに輝夜も余裕が無くなっていた。
ただ、ここが自宅であるはずの輝夜でさえ。やはり慧音の事を考えてしまうと、少しばかり戸を叩く手に躊躇と言う物が垣間見えた。
「行くわよ?」
わざわざ振り向いて言葉をかけて、覚悟を決める為の時間をわざとらしく作ったのだが。
二人に向かって言葉をかけながら、どちらかと言うとこの間が自分の為にあるような気がしてならなかった。
当然、二人は大体の覚悟を決めていたので。首を縦に振るだけだった。
この二人の姿に背を押されて、ついに輝夜も意を決した。
「○○~慧音~いるぅ?二人に会いたいって人がいるのよ~」
笑ってこそいたが、内心ではビクビク物だった。今の慧音を説得しろなどと言う、身も心も危険にさらしかねない難題なのだから、無理は無いのだが。
「輝夜さんですか?」
部屋の中から○○の声が聞こえてきた。その言葉には裏と言う物が何もないから、○○の言葉は非常に安心できるものだった。
戸を叩いて、真っ先に聞こえてきたのが○○の声だったから。返事と一緒に聞こえてきた足音はきっと○○の物だと。
後ろにいる二人だけでは無い。輝夜ですら頭からそう思い込んでしまったのだ。
「何の用だ……?」なので急に視界に表れた慧音の姿は、三人にとってはかなり刺激の強い物でしかなかった。
前触れも無ければ、覚悟を決める時間も無かった。おまけに慧音が戸を開けたと言う事は、○○は慧音の後ろにいる。
この位置では○○は慧音の顔を、それこそ真横に立たない限りはうかがい知る事は出来ない。
無論、そこまでの距離があるわけではないので。数歩も大股で歩けば、○○は慧音の横に辿り着いてくれる。
が、それまでにかかるほんの十秒ほどで。たったそれだけでもう十分なのだ、ここにいる三人の肝を冷やすには。
「慧音、まだ床にいたままの方が良いよ。輝夜さんとの受け答えはやるから」
「……そうか?なら、そうしようか。でも、立ち話もなんだから上がっては貰おう」
慧音の方から上がっても良いと言うお許しは貰えたが、当たり前だが全く嬉しくなかった。
それよりも。慧音は○○の視界に自分の顔が入りそうになると、その表情をコロッと一変させる術に長けていた。
その技術の達者ぶりに、一つまた戦慄を覚えた。
視界慧音はどこで、そしていつの間に身に着けたのか。
……あるいはさっきなのだろうか?永琳をリザレクションにまで、二度も追い込んだ。あの時か。あの時にタガが外れた余波なのだろうか?
そうだとすれば、彼女の業がまた一段と、輝夜の想像以上に深くなったことの証でもあるのではないか。
そうでなくとも。ここまで出来る者の業が浅いとも思わないが。
余りにも深そうな慧音の業を垣間見て、立ちくらみのような症状までが出てきた。
咄嗟に髪をかき分ける振りをして、頭皮に自らの爪を食いこませて。痛みで平静のような物を戻していた。
「じゃあ、お邪魔するわね。貴方たちも入りなさいよ、何を突っ立ているの?」
輝夜ですら何とか平静を演じて、平静な風に喋る事が出来る程度なのだ。あとの二人が急に黙りこくってしまうのも、無理はないだろう。
二人とも、視線を慧音に向けるのが怖いからなのか。○○の方向ばかりを視界に収めているのが目線で分かった。
むしろその程度で済んでいる、重圧の末にぶっ倒れてしまわないだけこの二人は大したものなのかもしれない。
挨拶もそこそこで黙々と部屋に入っていくその姿は、きっと異様な物だっただろう。
ただ幸いな事に、黙りこくる三人の姿に○○は。
「何か大事なお話ですか?」そう言ってくれたのだった。
これがどんなに救いだったか。深刻そうな雰囲気は隠しきる事は出来なかったが、それでもなお相手に対する不信感と言う物を抱かないでくれていた。
しかしそんな○○の人の良さ。これに頼り切るのにも限界はあるだろうし、これ以上は少し危ないなとも輝夜は感じていた。
だから “慧音を連れ出そう” この結論に達するのには、そう長い時間を必要としなかった。
永琳のようにリザレクションにまで追い込まれるのを許しはしないが……拳を何発かぐらいなら。
これぐらいなら、例え食らう事を許してしまったとしても。必要経費としてはそう悪くは無いだろう。
「慧音、ちょっと向こうに行かない?女の子同士でお話ししましょうよ?」
慧音に威圧されて、委縮しっぱなしの二人を助けるように輝夜が慧音に働きかけた。
慧音の視線が、完全に輝夜の方を向いてくれて。横の二人からふぅっと、緊張感のような物が解けたのが気配だけでも感じ取れた。
「大丈夫よぉ……別に三人だけをここに残した所で、何かがある訳じゃ無しに…………何なら、私の首を賭けても良いわ」
「……大きく出たな、お姫様」
「まぁ、私も永琳と同じで薬飲んでるし」
微妙な間が辺りに流れていた。
輝夜も慧音も笑っていた。しかし慧音の目の奥は全く笑っていなかったし、輝夜も背筋には嫌な汗がべっとりと張り付いていた。
○○はキョトンとしていて、後の二人は察してしまったが為に唾すら飲み込めなくなってしまっていた。
「…………真に受けるぞ?その言葉」
「良いわよ、別に……何なら、貴方たちも賭けてくれない?その首を」
ふっと。輝夜は慧音から目線を外して、二人の方を向いた。それは逃げたわけでは無かった、太い釘を刺しに行っただけなのだ。
道すがらに話を聞けたお陰で、それなりに信じてやる事は出来たが。それでも、はっきりと自覚させておくことに越した事は無かった。
今の自分達三人が、一蓮托生であることを。力関係で言えば、輝夜の方が比べる事も嫌になるほど、遥かに上である事を。
結果だけを言えば。輝夜は二人から、二つ返事で快い返事を無理にでも言わせる事に成功した。
すなわち。何かもしものことがあったら、この二人の事を手にかけて良いと。慧音に許しを与えたのと同義だった。
最も輝夜の許しが無かろうと、何かあれば手にかけたであろうが。
「○○、すぐに戻る」
「じゃ、あたしたちお花摘みに行ってくるわね」
それでも、何かあった時の行動が同じとは言え。実力者からの言質により生殺与奪を握れた慧音の腰は、随分軽くなった。
何も知らない○○は、輝夜の言ったお花を摘みに行くとの言葉に少し噴出していた。
暗喩とは言え、下ネタを使うとは思ってもいなかったから。
しかし、先ほどまでの妙な間に対しての○○の中での違和感は、これで多分かき消されたはずだ。
「本当に花を摘みに行くのか?」
部屋を出て少し経つと、もう慧音の雰囲気に演技と言う物は存在していなかった。
「まさか、ただの冗談よ。変な間を作っちゃったから、場を和ませるためのちょっとした洒落よ。ほんとに花を摘みたいなら、丁度この方向にあるから付き合うけど」
剣呑な空気でありながらも、二人は歩みを止める事は無かった。
お互いこう思っていたからだ。怒鳴る事はしたくないが、何が起こるか分からない。もし怒鳴ってしまっても、聞こえない所までは離れたい。
本当に皮肉としか言いようが無かった。こんな状況の方が、お互いの考える事と言うのは簡単に一致してしまうから。
花を摘みたいのか?と言う輝夜の問いかけに、永琳は何も返答をしてはくれなかった。
ただ無性に後ろの方を気にしているだけだった。恐らく、先ほどまでいた部屋との距離を測っているのだろう。
この後は間違いなく、両方とも喧嘩腰になるだろうから。確かに距離は稼いで置く事に越した事は無かった。
輝夜はしばらく慧音の方を見ながら歩みを進めていたが。
わざとらしいくらいに斜め後ろを見据える慧音に、自分とは目を合わせたくないのだと察して。溜息交じりに視線を正面に戻した。
慧音が行動を起こしたのは、このすぐ後だった。距離にして二~三歩程度だった。
ゴンッと言う鈍い音が。拳骨で殴られたようなそう言う嫌な音が、輝夜の後頭部に響き渡った。
最終更新:2014年03月18日 10:42