後頭部への衝撃でふら付きながらも、輝夜の思考は鮮明だった。
この程度、妹紅との死闘に比べればどうってことは無い。妹紅ならば今の一撃で、自分をリザレクションするまで追い詰めれたはずだ。
だから輝夜は次に動くべきことを冷静に考える事が出来ていた。
殴り飛ばした慧音の方は、ふら付きながらも自分を見ようとする輝夜の姿に。
渾身の力を込めて殴り飛ばしたはずなのに、輝夜がまだ存外に冷静である事を知って少し慌てていた。
力が足りなかったのか、それとも当たり所が良くなかったのか。色々考える事はあるが、一発目を耐えた輝夜に対して慧音が出来る事と言えば。
今すぐ二発目の拳骨を飛ばす事だった。
「甘いッ!」
しかし渾身の勢いで振りかぶったはずの慧音の拳は、輝夜の手によって簡単に受け止められてしまった。
輝夜が感じた通りだった。こういう荒事に関しては、慧音はどこまで頑張ろうとも妹紅ほどではない。
あるいはこの手の事に関しては、妹紅と比べてしまう輝夜に喧嘩を売ったのがそもそもの間違いなのかもしれない。
慣れていないだけなのか、それとも最初からこの手の事に向いていないのか。
出来れば、向いていない方であって欲しい。慧音を押し倒しながら、輝夜はそう考えていた。
「速さも遅いし力も弱ければ、その拳骨が通る道もバレバレよ上白沢慧音!貴女に妹紅のような荒事は似合わないわ!」
「誰のせいで荒事をしなければならなくなったと思っているんだ!!」
「ちょっとは冷静になれぇ!!」
被害妄想の塊となった慧音に対して声を荒げながら掴みかかるが。それ以上の事、ましてや殴るなどは出来ようはずも無かった。
輝夜や永琳のような奥の手が慧音には無い以前に、そもそも彼女に傷をつけると言う行為が生理的な意味で輝夜の嫌悪感を煽っているからだ。
輝夜が掴む以上の事をしてこないのを好機と思ったのか。慧音は執拗に輝夜の顔に向かって頭突きを飛ばしてくる。
両腕を掴んでいるから殴る事は出来ないが。重みのある頭部が武器になっているから、威力は十二分に存在していた。
頭突きが当たる度、輝夜は鼻っ柱に熱い物を感じて、熱さが増すのと一緒に慧音の顔にも赤い色をした物が広がっていく。
心配になって防御や回避を疎かにしてでも確認したが、慧音の顔面に傷を負った様子は無い。だから慧音の顔に滴る物は、自分の返り血だけだ。
良かったと思ったら、また頭突きが輝夜の鼻っ柱にめり込んだ。めり込み方や場所が不味かったのか、鼻っ柱に感じる熱さが尋常では無かった。
この熱さは不味いなと思ったら案の定だったらしく、輝夜の鼻っ柱からは血が垂れるなどでは済まなくて。溢れ出るように止め処なく流れ出てきた。
流石にこれだけの血が流れ出れば、輝夜の頭も少しはふら付く。
ふら付いた頭では、激昂した慧音を掴んだままでいる事も難しかった。
「どけ!」
慧音の口から発せられたとは思えないような、荒々しいだみ声と共に慧音は輝夜の腹を思いっきり蹴り飛ばした。
腹を蹴り飛ばされた輝夜は「うぐぇ……!」と言うような呻き声と、喉の奥から少量だが唾液交じりの嫌な物を吐き出した。
蹴り飛ばされた衝撃で輝夜は慧音を手放してしまい、後ろ側へと跳ね飛ばされた。
その隙を慧音が見逃すはずは無かった。
尻餅を付いた輝夜に、慧音は猛然と走り寄るが。
「ごめんっ!」
やはりその動きは、妹紅との死闘を長く続けてきた輝夜にとっては。例え血を流し過ぎて多少動かない頭でも、迎え撃てる範囲の脅威だった。
ごめんと、一言謝りながら。輝夜は猛然と向かってくる慧音の足に対して、的確に蹴りを決める事が出来た。
走っている最中に足を蹴り飛ばされた慧音は、そのまま体勢を崩して。受け身も取れずに倒れ込んでしまった。
「うう……」
右腕を自分の体の下敷きにしながら呻き声を上げる慧音を見て、輝夜は必要以上の罪悪感に襲われてしまった。
頭では分かっているのだ……あの状況ではこうする以外に方法が無い事ぐらい。
ああしなければ、慧音は間違いなく輝夜に覆いかぶさっていた。
馬乗りにされてしまえば、輝夜の方が間違いなく不利になる。下手をすればリザレクションにまで追い込まれてしまう、それぐらいに不利な体勢なのだ。
しかし、不利な状況を作らない為とはいえ。目の前で呻く慧音を見るのは余り精神衛生に良い物では無かった。
しばしの間、輝夜は鼻っ柱から溢れる血を手で押さえながら。やっちゃったよと言う面持ちでうつむいて居た。
「慧音、立てるの?その……聞いてくれるかどうかは分からないけど、一応謝っておくわ」
痛みが引いてきたのか、慧音はモゾモゾと動き出した。その様子に警戒しながらも、謝罪を交えつつも出来るだけ優しく語りかけていた。
「ふん……」
しかし慧音が素直に聞いてくれるはずは無かった。予想道理とは言え、悲しかった。
再び動き始めた慧音に、輝夜も立ち上がって警戒していた。
鼻っ柱に感じる違和感はまだ収まっていなかった。手を放すと、床に鮮血がダラダラと流れた。
止め処無く溢れていた先程よりはましだが、まだ押さえておく必要がある程には酷かった。
今飛び掛かられても逃げ回るしか出来ないな……
そう思って、多少腰を引かしていた輝夜だったが。慧音は地面に座り込むだけで、立ち上がる気配は無かった。
立ち上がる代わりに慧音は、下敷きにした右腕をもう片方の手で抱えながらしかめっ面で輝夜を睨んでいた。
右腕は微動だにしなかった。どうやら、動かせない程に痛いらしい。
「その右腕……折れたかもしれないわね。本当に……」
本当に、ごめんなさいと。
そうやって謝ろうとしたが謝られる気配を察したのか、輝夜の殊勝な態度と口調に対して精一杯の憤怒の表情をぶつけられてしまった。
その色濃い憤怒の感情に、輝夜は謝罪の言葉を紡ぎ切る事が出来なかった。
「……慧音、やっぱり貴女にはこういう荒事は向いていないわ。だから…………」
「だから、何なのだ?諦めろとでも言うのか!?」
「そんな事は言わないわ……でも、荒事でどうにかするのはやめてと言いたいの」
「はっ!?」輝夜の説得にも慧音は鼻で盛大に笑うだけだった。
「私も、あの里が掃き溜めの塊だって事ぐらいは知っているわ…………でも、例外中の例外も稀に存在するのよ。あの二人がそうなの」
信じてくれるかどうかの勝算はと聞かれても、全くないのが実情だった。
「信じろと言うのか!?お前の従者には毒を盛られたんだ!その従者の主人の言葉を、信じろと言うのか!?」
案の定慧音は信じてはくれなかったが。信じてくれない理由に、輝夜は愕然とした。
「毒……?永琳がそんな事をしたの?」
「そうだ……!私が動けないように、あいつは薬で私の意識を一時的に奪ったんだ!」
「多分睡眠薬かしら……それでも、不味すぎる判断をしちゃったわね永琳も。だから抵抗しなかったのだろうけど」
しかし合点は行った。永琳程の者が慧音の手によって何故リザレクションに、しかも二回も追い込まれたのか。今ので合点が行った。
同時に、慧音がここまで頑なな態度に硬化してしまった理由も理解できた。
「肩を持つ発言だけど、不味い判断だって事は永琳も分かっている筈よ」
「でも、永琳がやらかしてしまった事は紛れも無い事実ね。それに対しては永遠亭を代表して謝るわ」
「……勿論、その右腕の怪我も合わせて二つの意味で。慧音、貴女に対して頭を下げさせて」
頭を下げる際、当然鼻っ柱を押さえていた横に置いた。そのせいで、止まり切っていない血がボタボタと地面に落ちた。
この謝罪も、多分受け取って貰えないだろう。例えそうだとしても、こうするしか他なかった。
こうやって血を流しながらでも謝らないと、自分の気が収まらないのだ。
「……はんっ」
慧音が輝夜に対して今どう思っているのか。頭を上げなくてもよく分かる、そんな嘲笑い方だった。
良くは無いが、今はこれ以上の事は望めなかった。
それでも、いつかは分かって欲しい。流れる血がまた増えて揺れる頭に耐えながらも、輝夜は絶対に諦めなかった。
絶対に諦める物かと、そう固く誓った。
「花を……摘む……?」
「こっちを見るな……俺もそこまで学は無いんだ」
花を摘むと言う隠語に対して、どうやら木こりはその意味を知らないようだった。助けを求めるように彼に目を合わせるが……
どうやら彼の方も、学の方では木こりとそう大した違いは無かったようだ。
見かねた○○が。
「ああ、お手洗いの事ですよ」
と、多少言葉を選びつつ答えるが。
「便所の事なのか……」
「何で花を摘むなんて言い方を……便所ならすぐに分かるだろ」
彼も木こりも○○が折角言葉を選んで、お手洗いと柔らかく言い換えたのに。物凄く露骨な表現にすぐさま変換してしまった。
「ああ……そうですね」
二人の見せた粗野な反応に、○○は思わず苦笑するしかなかった。
「お茶でも、入れましょうか。お話があるようですが、何もなしで話をするのも具合が悪いですし」
これ以上お手洗いの話などと言うあまり気持ちの良くない話題を、しかも男と続けたくなかったので。慌てて○○は話題を変えた。
二人のこの粗野な部分は一朝一夕ではもう直る事は無いが。しかし命の危機と言う事実は、二人の本能を確かに呼び覚ましていた。
「ああ、いや押しかけたのはこっちなんだ。手伝おう」彼が素早く立ち上がり、棚にあった急須と湯呑を手に取って。
「水は……この瓶の中身を使っていいのか?」そんな彼の姿を見るや、木こりは火の加減をしながら水の在り処を確認して湯を沸かす準備を始めた。
「ええ、どうぞ。何かすいません、あっという間に支度して貰っちゃって」
とにかく○○の不興を買いたくなかった。もっと言ってしまえば、本当に怖いのは輝夜と慧音の不興だった。
押しかけているのに、○○に茶の世話をさせているのを見つかったらと思うと。
背筋が一気に凍ったからだ。だから二人とも、流れるように動く事が出来た。
直接的な表現を避けていたとは言え。輝夜から、何かあったらその首を転がすと言われてしまったに等しいのだから。
お互いまともに話したのはつい先日程度の筈なのに、まるでもう何年か一緒に行動を共にしているようだった。
この流れるような動きに最も驚いたのは、他ならぬ当の二人の方であった。
沸き立つ湯を眺めながら。これが本能か……と思うばかりだった。
「このお茶、美味しい…………ああ、すいません。で、話と言うのは何なのでしょうか?」
茶の美味しさに○○は一瞬心を奪われたが、二人は入れたてでまだ熱々と言うこと以外は全く理解できていなかった。
○○から話を振られて機が来たと思い、彼の方が色めきながら口を開こうとしたが。
「げっほ……うぇっ……!」言葉を出す間際の間際で、緊張感に押し潰されてしまったらしく、見っともなく咽てしまっていた。
「俺から話す。慣れていないなら少し黙ってい、た方が良いと思うぞ」
“黙っていろ”と、荒っぽく言い捨てる口調を、寸での所で柔らかく言い換えた。
剣呑な空気は、○○の前では出来るだけ隠しておきたかった。
「……?」
言い換えた時もそうだったが、言い換えた後にだって妙な間が辺りを漂ったが。
「その、さっきと同じ話になってしまいますが。運動の時間をお手伝いしたいとはお伝えしましたね」
「ああ、その話ですか。もしかして隣の方も…………思い出した!そうだ、先日は慧音先生をここまで運ぶお手伝い有難うございました」
「ああ……いや、別に良いんだ。勝手にやった事だからな」
「それでも、貴方がいなかったら本当に大変な事になっていたかもしれませんでしたから」
彼は多少バツが悪そうに顔を斜め向こうにやったが。こうやって、真正面から思いっきり礼を言われれば。そう悪い気分は起こらない。
横にいる木こりは、彼がそんなに悪い風に思っていないのを見て少し笑った。
それは苦笑や嘲笑等では無く。理解者が増えたかもしれない、事態をマシにするための人出が増えそうだと言う、希望を見つけた事によって出た笑みだ。
「そうだな……こいつが動いていなかったら、冗談抜きに慧音先生は死んでいたかもしれない」
木こりがポツリと呟いた言葉を聞いて、斜め向こうを向いていた彼の顔が更に向こう側に言ってしまった。
苦い顔をしていたからだ。
結果的に、上白沢慧音の命を救った立役者の一人となった彼だが。
もしかしたら、腹の底では恨まれているのではないかと不安だったのだ。
あの時も、あの後も。目の前にある異常事態を乗り切るのがやっとで、考えないようにするのはそう難しくは無かったが。
ふっと、少しばかり静かになった時だった。
彼は、今の自分が里全体からどう思われているか。それを考えてしまうと、押しつぶされるような不安感に襲われたのだった。
上白沢慧音と○○をくっつけて、厄介事を少なくする大きな目的はあるが。
それでも、上白沢慧音がくたばってしまえば。間違いなく喜ぶはずだ……このうねりに巻き込まれる前なら、間違いなく彼自身も一緒になって。
妖怪がちょっとした熱で、そう簡単にくたばるとは思えないが。例えその可能性が小さくとも、芽を摘んでしまった自分を。
里の人間はどう思うか…………まぁ、十中八九良くは思ってくれないだろう。
残った一や二だって、擁護してくれる意見は多分無い。厄介な事を一人で背負ってくれたと、ほくそ笑むぐらいの物。
実際問題、こうなる前は彼だって上白沢慧音や隣にいる木こりに、真正面に座っている○○。
これらの悪口を言っていた事もあった。
誰かが言うから、それに同調するものが多いから、輪から追い出されないと言う消極的理由とは言え。
彼は、自分が全く罪が無いとは到底思えなかった。
そして彼は、自分のような人間が意外と多い事も分かっていた。
今この状況で土着の人間である彼が、自分が悪口の対象となってない等と。
そんなお気楽な考え方は、出来るはずが無かった。
里にいるときは、緊張感が多すぎて。
不意に不安を覚える事が出来る様な静かな時間など、殆ど存在していなかった。
しかしこの永遠亭では話が違った。上白沢慧音が近くにいる以上、多少の緊張感は常に孕んでいたが。
木こりの言うとおり、大概の事は里にいる時よりはマシだと思えてきていた。蓬莱山輝夜からは釘を刺されたが。
それでも、実力者から多少でも信を置かれている事実は彼の心の支えを幾らかは取り払っていた。
皮肉な事にその支えが無くなって、考えをめぐらす余裕が出てくると。この不安感は現れてくるのだった。
斜め向こうに顔を背ける彼の姿から、木こりはその心中をすぐに察する事が出来た。
伊達に何年もの間、この木こりは孤独の中で生きてきたわけでは無かった。
自分でも気づかなかったが、他人が感じる孤独感に敏感に反応できる体と精神が出来上がっていた。
「今さら、メンドクサイなんて言うなよ……」
初めは、邪険に思っていたが。勢いだけで、深く考えていなかっただけかもしれないが。
この禄でも無い状況の、その渦中に飛び込んできた彼を。木こりはもう邪険に思ったりする事は出来なかった。
「心配するな俺も手伝う」
「…………有難う」
彼の渋かった顔に、ようやく生気と言う物が戻った。
「手伝うですか?木こりさんが貴方に?」
「そうだ…………上白沢先生はお姫様と行っちゃって、話し損ねたが」
「この木こりが運動の手伝いをすると言う話は俺も聞いた……俺にも手伝わせてくれないか?」
木こりだけでは無く彼の方も、○○と慧音の二人だけで回している寺子屋の手伝いをさせてくれと言ってきた。
突然の提案だったが。
「本当ですか!?」
その提案は、何処までも人の良い○○を色めかせるのには十分な内容だった。
「……上白沢先生にも聞いておかないとな」
「ああそうだな……木こりよ、俺達から言うより○○さんの方から言った方が、上手く行かないかな?」
「じゃあ、私から伝えますね」
今こうやって、動いている事が。この二人にとっては、物事を良い状況に導くための。
やましい気持ちなど何一つない行動だと言うのは、はっきりと断言できるのに。
何も確信を言わない事に、二人ともが無視出来ない量の嫌悪感と罪悪感に苛まされていた。
喜ぶ○○の姿を見ると、その感情はより一層強くなっていた。
最終更新:2014年03月18日 10:43