「ひいい!?」
輝夜が頭を下げていると、不意に誰かの怯える様な声が聞こえてきた。
「あら、イナバね……火の始末はもう良いの?」
輝夜が頭を上げると煤けた格好のイナバが一人。腰を抜かしている様子が目に映った。
煤けた様子から察するに、妹紅との死闘後起こった火事の始末を付けに駆り出されたうちの一人だろう。

「は、はい……何とか。それで経過を姫様にご報告に上がったのですが……」
報告はしてくれるが、イナバは相変わらずどぎまぎとしながら。その視線の方向もあっちこっちに飛んでいて落ち着きが無かった。
「てゐと鈴仙は?」
「はい……火の始末がちゃんと出来たか、最後の確認を」
「そう……どっちもまだなのね」
出来れば二人の内のどちらかには、帰ってきてほしかった。少なくとも、このイナバよりは冷静に対処できるはずだったから。


今まで気づかなかったが、輝夜と慧音の周りでは大量の鮮血が飛び散っていた。
特に、輝夜の周りは酷かった。慧音に必要以上の傷を加えたくなくて、掴みかかるだけで頭突きはほぼされるがままだったのが効いたようだ。
あの執拗な頭突きのお陰で、鼻っ柱は圧し折られて相当な量の血が流れ出てしまった。
妹紅との死闘と言う荒事に慣れている輝夜でさえ、気づいてみれば辟易とするような惨状なのだ。
てゐや鈴仙でもこの光景は、言葉を失わせてしまうであろう。
ましてや妹紅の姿を見ただけでびくついてしまう程度である、一般のイナバでは。この光景に平静を失ってしまうのも無理は無いであろう。

能力を使えば慧音も自分も無傷で終われたのだろうけど。それは外傷の話であって、慧音の心の傷はまた深い物になるであろう。
おまけに、永琳が不味い判断をしてしまったのを知ってしまった以上。能力で無理くりに何とかする選択は完全に無くなってしまった。
永遠亭の主である輝夜がそれをやってしまったら、いよいよ慧音は永遠亭の全てを信じなくなってしまう。
少なくとも慧音と輝夜の二人で済んでいる間は、どれだけ傷を負おうが輝夜は耐える腹積もりでいた。


「まぁ火の方はもう良さそう見たいね。ご苦労様。火の始末をつけてすぐで悪いんだけど、ここの掃除頼めるかしら?」
「ひゃ、ひゃい!!」
輝夜ほどの者に用を頼まれれば断る事はおろか、不満を垂れる事も常日頃からふてぶてしいてゐぐらいしか出来ないであろう。
ましてや、今の輝夜は血まみれの姿だった。そんな明らかに異様な姿でいながら、平静で対応されると言うのは。
見る物の思考に激しい矛盾が生まれて、その矛盾を生み出している張本人に対して恐怖に近い感情を抱く。
これならば、右腕を抱えながらしかめっ面を顔に映し出す慧音の方が。まだ理解できる姿だった。
永琳を除けば、この光景を見ても冷静に対処できる者は。てゐか鈴仙ぐらいだろう。
しかし残念ながら、今の永遠亭にはてゐと鈴仙そのどちらも駆り出されていないし。唯一残った永琳も、不味い判断をしてしまったが為に平静では無くなっていた。


「慧音、ここの掃除はあのイナバに任せるから……その腕を固定しに行きましょう。動かすと治る物も治らなくなるわ」
輝夜が声をかけると、慧音は相変わらず顔を背けてしまうが。立ち上がる事はしてくれた。
目線を合わしてくれないので、こちらから合わせに行ったが。
「……ッ!」
無言で凄まれるだけだった。やはり腕が痛むのか、凄む表情に右腕が折れたかもしれないと言う、苦痛の感情が幾ばくか振りまかれていたので。凄む表情に嫌な拍がついていた。

「……こっちよ。大丈夫、永琳みたいに薬の調合は出来ないけど、腕の固定ぐらいなら出来るから」
妹紅と遊んでいると、否が応でも応急処置のやり方を体で覚えちゃうから。と言おうとしたが、妹紅の事はあまり話題に出さない方が良い気がした。
間違いなく妹紅は慧音の味方だから、例えそれが今の慧音が考えるやり方であっても妹紅は諸手を挙げて賛同するであろうから。
出来れば……可能な限り会わせたくも無かった。


相変わらず、輝夜が感じる鼻っ柱の違和感は酷かった。しかしそれよりも、慧音の腕の処置の方が優先事項だった。
鼻っ柱からの出血は、鼻の穴に脱脂綿を突っ込んで無理やり止めた。輝夜は今の姿を想像して、貴族っぽくないと妹紅を笑う事が出来ないなと自嘲した。

「ありがとう……付いてきてくれて」
「……勘違いするなッ!○○にこんな姿を見せれないから……それだけだ!」
「それでも構わないわ……少なくとも、私が処置する事は認めてくれているから」
「薬は飲まんぞ……!体を拭くのと包帯だけだ!」
「ええ……今はそれで構わないわ」

輝夜からの処置を受ける慧音の顔からは、ボロボロと大粒の涙がこぼれ続けていた。
多分、慧音は悔しいのだ。敵と認識しているはずの人物から、怪我の治療を受ける事に対して涙を堪える事が出来ないほどに。

いつだったか、妹紅も確かこんな泣き方をしていた気がする。
何時の事だったかは詳細に思い出せなかったが、何があったかはよく覚えていた。
あの時は、お互い昂ぶっていて。上った朝日が沈んで、また昇って来ても、それでもまだ戦い続けていた記憶がある。
ようやく終わった後。戦った場所が妹紅の住まいに近かったせいもあって、妹紅の家は完全に跡形も無く焼失してしまっていた。

自分の住まいすらも焼き尽くした事に呆然とする妹紅を、輝夜はケラケラと笑いながら帰って行ったが。
自室で、永琳の作った食事を取っている際に。妹紅も間違いなく腹を空かしているはずだと気付いた。
おまけに、あの時はタケノコも旬じゃなかったから。掘り起こして、妹紅の能力で焼いて飢えを凌ぐ事も出来なかった。

そんな事を考えていたら居た堪れなくなって。妹紅にしばらくの間、食料を届けてやったのだった。
結果だけを言えば、受け取っては貰えた。詳細に言えば、受け取っては貰えたが非常に悔しそうだった。
仇敵に情けをかけられるのを恥じていて、悔しくて、とにかく情けなかったのだろう。
受け取ってはくれたが、その受け取り方は礼も無しで乱暴にひったくって行くだけだった。

何とか言いなさいよと、文句の一つも言おうかと思ったが。
背に腹は代えられないとは言え悔しさと情けなさと恥ずかしさで、ボロボロと泣きながらひったくっていく妹紅の姿に。
毒気を抜かれただけでなく、居た堪れなくなってしまって。何も言う事が出来なくなってしまった。

今の慧音が見せる、大粒の涙で顔を濡らすその姿に。あの時の妹紅の姿が、どうしてもダブってしまうのだ。
そして輝夜の顔もあの時と同じで、居た堪れない物になっていた。



「……じゃあ、部屋に戻りましょうか。○○に謝らないと」
「……あいつらは、まだいるのか?」
「いるでしょうね……すぐに信じろとは言わないわ」
一度先導されれば戻る道は分かったらしく、輝夜の信じてくれと言う言葉も聞き流しながら追い抜いた。
追い抜く際に無事な左半身の方で、わざとらしく体をぶつけて来られた。

処置の為の部屋に向かうのと違って、一刻も早く慧音は○○の元に戻りたいらしく。
帰り道にかかった時間は、行きの半分にも満たない勢いだった。
途中床やら壁やらに飛び散った鮮血を、輝夜の言いつけどおりに必死で拭いて回っているイナバに出会った。
火の始末がついて、イナバ達もぽつぽつ戻って来てるらしく。拭いて回っているのは一人では無かった。

掃除の人出が増えている事は良いのだが、慧音の姿を見た途端イナバ達は。
「ひいー!!」
と、甲高い悲鳴を上げながら蜘蛛の子を散らすように逃げて行ってしまった。
慧音の後ろを歩いていたから輝夜は表情を見る事は出来なかったが。酷い表情なのだなと分かる事は出来た。

てゐや鈴仙と比べて、イナバにはどん臭いのが多い。
逃げていくイナバを見て、大丈夫だろうかと心配していたら。案の定1人足を絡ませてこけたのがいた。
そして、慧音の歩みが描く軌道が。遠回りだと言うのに、そのこけたイナバの方向に向かっていった。

輝夜は少しばかり迷ってしまった。
今の慧音がこのこけたイナバに何をするのか……普通に考えれば蹴り飛ばすか踏みつけるか。確かに、今の慧音ならやりかねない。
しかしもしも、手を差し伸べて抱き起す為だったら。その一粒程度の可能性に賭けてみたくて、輝夜は口をはさめないでいた。
ただ、輝夜のその期待は。あっさりと裏切られてしまった。


「慧音!止めなさい!!」
輝夜の言葉を無視して、慧音は足を持ち上げていた。
その持ち上がり方は明らかに、こけたイナバを思いっきり踏みつけに行く格好だった。

輝夜の怒声も受け付けずに、慧音の足は急激な下降を始めようとしていた。
「くっ……!」
慧音の足元には、確かにイナバがいた。しかし、慧音が踏みつけたのは固い床板だった。

「慧音……いくらなんでも酷過ぎるわ……ほら、早く逃げなさい」
「……誰のせいだと思っている」
先程まで慧音の後ろにいたはずの輝夜が、今はイナバを抱きかかえて慧音の前に転がっていた。
イナバは輝夜から逃げるように諭されて、泣きながら走り去っていった。
そう、輝夜は須臾(しゅゆ)を操る力を使ったのだった。

「そう言えば、私を止める時はその力。全く使わなかったな……舐めているのか?」
「ほんとに酷いわね……そんな風にしか考えれない上に、無関係のイナバにまで手をかけようとして」
「使おうとしたのは足だ」
柄にも無い慧音の幼稚な揚げ足取りに、輝夜もさすがにイラついた。
「一番酷い時の妹紅にそっくりだわ……あいつも私を怒らせるためにイナバを傷つけようとしたし」
「そうか、それは良かった」

一番酷い時の妹紅に似ていると言われて、慧音は笑っていた。
それは相手を嘲る為の物と言うよりは、本当に心の底から嬉しそうに笑っていた。
千年単位で生きてきた輝夜でさえも、この笑顔には心底ゾッとするしかなかった。
「妹紅だけかもしれないな……私の理解者は」
「どうかしら……」
「……お前達よりはマシだ。お前達に、特に貴様に嫌われているのなら、期待していいはずだ」
妹紅に対する輝夜の憎まれ口に、慧音は明らかに機嫌が悪い反応を返した。
聞き流せばよかったと、後になって思うが。
妹紅絡みの事になると、輝夜は癇の虫が元気になってしまう。
これは最早、性と言っても良い所まで深い場所に到達してしまったので。頭では分かっていても、感情の方はそう上手く行かなかった。



「……」
「……○○の所に戻る。別に来なくていいぞ、1人で帰れるからな」
「付いていくに決まってるわよ。今の貴女、危なっかしくて目が離せない物……」
輝夜を無視して行こうとする慧音に、慌てて輝夜は起き上がった。
無関係なイナバにさえ手を上げようとしたのだ。○○が一緒にいるとは言え、あの二人が心配だった。


「私の不注意でこけた事にしてやる……合わせろ」
「ええ助かるわ……ほんと、怖い顔よ今の貴女。どうにかならないの?」
輝夜のぼやきを無視して、慧音は部屋の扉を開けた。

「慧音!?」
部屋に入るなり、包帯と三角巾で腕を吊る慧音の姿に。○○は声を張り上げて驚き、慌てた。
彼と木こりも、○○のように声を上げる事は無かったが。二人とも顔を青ざめさせていた。
この二人には、後で説明しなければならないだろう。

「すまない○○……病み上がりで少しはしゃぎ過ぎた」
殊勝な態度と表情だった。部屋の前で輝夜に見せた、あの怖い顔が嘘のように引いていた。
「ごめんなさい、○○。私が傍についていたのに……」
ただ、ここで波風を立てる必要性は無かった。今は慧音の言うとおりに合わせるしか無かった。

「輝夜さん……輝夜さんも、その鼻どうしたんですか?突っ込んでるのは脱脂綿ですか?血で真っ赤ですよ」
「ええ、倒れそうになる慧音の腕を掴もうとしたんだけど。掴めない所か、私も体勢を崩しちゃって、顔面からこけちゃったの」
輝夜の心配もしてくれる○○の姿に、慧音は明らかに面白くなさそうな顔をした。
ただそれは、○○が輝夜の方を向いているほんの一瞬だった。本当に今の慧音は、腹が立つほど本音と本心を○○に隠していた。


「ねぇ、貴方たち。今日はもうお暇しない?」
怪我をした慧音の姿を見て、彼と木こりも。輝夜と慧音の間で何かがあったのは、察しているはずだし。
それ以前に慧音がこんな怪我を負ってしまった以上、例え演技の上であっても和気藹々と話す事は出来なかった。
今日はもう仕舞いにするべきだった。

「じゃあ、お邪魔したわね・・…本当にごめんなさい」
「……あのっ!」
輝夜達が部屋を出ようとしたら、○○から声をかけて引き留められた。
「何かしら?」
「さっきの話……慧音に確かに伝えときますので。それから、寺子屋の掃除を都合が良ければで構わないので、手伝ってくれませんか?」

まさかの歩み寄りだった。
○○の人が良いのは分かり切っているから、輝夜に対してお大事にぐらいだと思ったら。存外に、良い言葉がもらえた。
あの話とは……件の運動の時間の手伝いに関する話だろう。
それだけに留まらずに、雑事の手伝いをお願いしてくるとは。

「掃除ですか?勿論、お手伝いしますよ!お前も来るよな!?」
「あ……ああ!」
無論木こりも彼も、二つ返事で引き受けた。


慧音の顔を見ると、笑顔が少し引きつっていた。今日はここらが限界だろう。
「じゃあ……また会いましょう」
そう言って輝夜は、多少強引に場を仕舞いにした。そうせざるを得なかったのが、口惜しかった。

しかし全く悲観的になる必要も無かった。
この三人がこれと言った問題なくやっているのを慧音も見れば……あるいは。そう言う希望を抱かずにはいられなかった。
やはり○○の人の良さは、弱点などでは無い。
突破口を開くための鍵なのだ……輝夜は、そう思いたかった。

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最終更新:2014年03月18日 10:43