バネが弾けるような瞬発力で、寝床にいたはずの慧音は○○を押し倒してしまった。
慧音の目尻からは相変わらずボロボロと大粒の涙が溢れだしていた。丁度今の体勢は慧音が上に乗っているから。
必然的に下側にいる○○は、慧音が零している大粒の涙を一身に浴びてしまう格好となった。

押し倒されただけでも○○の心臓は大きく高鳴ってしまって、まともな判断能力が著しく減衰しているのに。
そこに加えて、慧音から溢れ出る大粒の涙が○○の顔にボロボロと落ちているのだ。

「慧音……先生……何で」
「お前が優しすぎるんだ!!お前の優しさは、私と子供達だけの為にあればいいんだ!!」
「何を言ってるんですか一体!全く訳が分かりません!!」
気の利いた言葉など言えなくて当然だし。おまけにここまで独善的で独占欲の塊のような感情をぶつけられては。
○○が声を荒げるのも無理は無いであろう。


○○は大きく動揺してしまって、気の利いた言葉はおろかまともな会話すら試みる事が出来なくなってしまっていた。
そして動揺しているだけでは無い、恐怖も感じていた。
押し倒されて、訳の分からない感情の爆発をモロに浴びさせられて。これだけでも一般的には十分な、恐怖の対象なのに。

「○○……絶対に無理なのだ。いくら考えてみてもお前の幸せは、私と一緒でなければ無理なんだ」
いつもの上白沢慧音らしくない、独り善がりな考えを吐露されるのだ。○○の顔も自然と苦い物に変わっていく。
「○○……私の幸せはお前と、後は子供たちがいればそれで大丈夫だから。一緒に行こう」
慧音がちょっと酷すぎるぐらいの自分勝手な考えを吐露してくる。
慧音の泣き顔は痛々しいし、それでも○○に語りかけようとする姿はその痛々しさを肥大させるには十分な働きをしていたが。
口から出てくる独善的な言葉に、それらを陳腐な物にしてしまうぐらいの破壊力があった。

その言葉が持っている破壊力のせいで。痛々しくて同情の念を禁じえないはずだった、泣き顔と語りかける姿も。
いつの間にか○○の中では、独善的な言葉と同様に不気味な物へとすり替わっていた。

気づけば○○の顔は慧音を心配していた時の狼狽っぷりからは多少回復していた。
ただそれは慧音にとっては全く良くなかった。慧音の口から飛び出す言葉の酷さに気付いて、○○の方が少し醒めてしまっただけなのだから。

渋くも無ければ苦くも無い、表情の奥に多少の困惑があるくらいで。
今の○○の表情は、真顔に近かった。今の慧音には○○から真顔で見られるこの視線が、酷く冷たい物に感じ取れてしまった。

「○○……どうして何も喋ってくれないのだ?」
冷たいと思える○○の視線と感情に怯えながら慧音は○○に問いかける。
その怯えは冷たそうな視線に対してだけではなく、○○が自分の前からいなくなってしまうのではと言う部分にも及んだ。
だから慧音は押し倒した時に掴んだ○○の肩を、更に強く握りしめるようにしたのだが。
「痛いです……その、放してくれませんか…………」慧音には初めて見せるような、少しイラついた顔だった。
慧音が○○を思う気持ちは間違いなく本物だった。
ただしその漢書は、酷く特殊な環境である幻想郷のその中でも、特に輪をかけて酷い人里の空気。
その空気のせいで、慧音の感情は不気味なまでにねじ曲がってしまった。真相を知っている輝夜ですら酷いと形容するのだ。
ずっと真相を隠されてきた○○にとっては、慧音が○○への気持ちを吐露すれば吐露するほど。
得も言われぬ様な不快感に襲われてしまうのであった。



「…………痛いので、手を離してくれませんか?」
○○はたっぷりの間を取って、出来るだけ感情を出さないように冷たく慧音に呟く。
そんな冷たい態度を最愛の○○から投げかけられてしまったら。慧音だって平静でいる事は出来なかった。
慧音の顔は醜く歪み、○○の肩を握るその力もまた一段高くなってしまった。さっきの時点でも、痛いから手を離してくれと言ったぐらいなのだから。
これ以上強く握られれば、服の上からでも慧音の爪が剃刀のように○○の肌に食い込んできた。

比較的痛みに鈍感でいられる肩で、しかも服越しにとは言え。痛い物は痛いのだ、少なくとも不快感を露わにしてしまうぐらいには。

「ヒッ……」
自分を慕ってくれる○○のその露骨な顔に、慧音は思わずのけ反った。確かに○○は慧音を慕っている、その考えは間違ってはいないのだが。
慧音が思う、○○が自分を慕ってくれていると言う考えは。思いっきり苛烈で過剰なのだ。およそ一般的な範疇を遥かに逸脱している。

慧音がのけ反ってくれたお陰で、○○は起き上がる事が出来そうだった。
むっくりと起き上がろうとする○○を見て、そして○○から離れてしまった今の自分の状況に気付いて。
○○が何処かに行ってしまうのではないかと思い、異常なまでの恐怖の感情が込みあがってきた。

「○○……」
離れた距離をもう一度縮めたくて。そして先程のように露骨な顔で「痛い」と言われたくないと言う部分はギリギリの線で覚えていたから。
出来るだけゆっくりと、手にも力を入れずに花を愛でるように優しく近付こうとした。
その様子を見て、○○も腕が伸びた。自分が伸ばす手を触れてくれるのだと思って、慧音は顔を綻ばせるが。

「……すいません、ちょっと離れて」
その綻んだ顔は○○からの素っ気ない言葉で、一瞬のうちに霧散してしまった。
おまけに○○の伸ばした手は、慧音が○○に向かって伸ばしている手を素通りして。
慧音の肩の方に触れたのだった。もちろんただ触れるだけでは無くて少し押すような力具合、これ以上近付かないでと言う、はっきりとした意思表示だった。

ただ、慧音の事を力付くで否定してしまう事に、○○は一抹の罪悪感は抱いていた。
肩を押す時だって、もっと強くやる事も出来た。妙な間や“すいません”等と言う前置き無しで、はっきりと来るなと言い切る事も可能だった。
でも○○はそれをやらなかった、と言うよりやれなかった。
その事実は○○は慧音の事を、もう心の底から嫌悪したり否定する事が出来ないと言う確証にも他ならなかった。
今だって○○は、断腸の思いで慧音の事を拒絶したのだ。


しかし慧音にとっては、○○から力付くで否定されてしまった事の方がよっぽど重要だった。
○○から否定、拒絶されてしまったと言う事実は慧音の心中に深刻な問題を孕ませてしまう出来事なのだ。
少なくとも、傍から見ても慧音の様子がおかしくなるぐらいには。

眼を見開いて、小刻みに震えて、口元も金魚のようにパクパクと開け閉めしていて。伸ばした手も相変わらずそのままだった。
異様な光景とはっきりと断じる事が出来た。その光景に、思わず○○もギョッとして後ずさる。
ただでさえ○○と離れたくない今の慧音が、後ずさっていく○○を平静な状態で見ていられるはずが無い。

「うわあああ!!!」
またバネが弾ける様な凄まじい勢いで、おまけに今度は泣き叫びながらだから異様さは先ほどの一度目よりも際立っていた。
「ひぃ……!」
別に慧音への思いが冷めたわけでも無く、軽くでも拒絶することに罪悪感を抱いていた○○ですら。
泣き叫びながら迫ってくる慧音の姿には、本能にまで訴えかけるぐらいの恐怖の感情が呼び起された。

軽く悲鳴を上げながら突進してくる慧音を避けると。慧音は勢い余って、出入り口であるふすまに頭から突っ込んで行った。
「ひいいー!!!」
慧音が頭からふすまに突っ込んで行ったあと、誰かの悲鳴が遠ざかって行った。多分さっきのイナバだ、近くにいたらしい。

だが慧音はそんな悲鳴は歯牙にもかけずに○○の方を振り向き、○○も慧音に見られて気にする余裕が無くなった。

「逃げないでくれ!!」
そうは言うが、こんな姿の人物に追いすがられたら大体の人間は逃げる。○○もその例に漏れる事無く、慧音のいる廊下では無く縁側に出ようとした。

「来るなぁ!」
それは○○の心の底からの叫びだった。
「うわあああ!!!」
酷い言葉を、酷い態度と共に投げつけられて、慧音の激情と混乱はより一層の混迷へと深まってしまった。


必死に追いすがろうとする慧音と、必死に逃げようとする○○。
○○が逃げれば逃げるほど、慧音は○○から遠ざかりたくないと強く思い。必死で追いすがろうとする。
しかし、必死すぎる今の慧音の姿は狂気じみていると言うよりは、狂気そのもの。○○もそんなのに追いすがられたくなくて、泣き叫びながら縁側に出ようとするが。
しかし残念ながら、追いすがろうとする慧音の勢いの方が逃げようとする○○の勢いよりも上だった。
縁側に出ようとする○○は、哀れにも向かってくる慧音を避ける事が出来なくて。二人とも障子事ぶち破って、砂利の敷き詰められた庭に二人仲良く落ちてしまった。

「離せ!離して!」
「○○!何故だ、何故逃げようとするんだ!?」
組み付こうとしてくる慧音を、○○はその束縛から解かれようと懸命になって暴れるが。
こういう真っ向からの力比べになってしまうと、体力的な部分では普通の人間である○○は慧音には全く敵わなかった。


慧音が妖怪なのは、半分程度とは言え。常人の力加減で比べてしまうと、半分も違うと言う結論になってしまう。
「○○!私は、お前の事を!なのに、何で!?」
慧音が○○の事を思う気持ちは、相当に歪んでいるとは言え本当の気持ちだった。しかし。
「痛い!痛い痛い痛い!!離して!離せぇ!!」
今の狂乱状態にある慧音は、力の加減も上手く行っていなかった。組み付かれた○○の四肢からはミシミシと言う、嫌な音が鳴っていた
何かが軋むような音が増すにつれて、○○の口から飛び出る言葉は荒々しくそして涙交じりの声になっていった。

○○がどんなに暴れようとも、力の上では慧音の方が遥かに上なので○○を締め付ける力は一向に緩まない。
それ所か○○が暴れる程に、慧音は○○が逃げないようにする為により一層の力を込めてくる。その痛みに反応して、○○はまた暴れる。
つまりは、完全な悪循環に陥っていたのだ。


ジタバタ、ゴロゴロと。○○に対して乱暴に迫り組み付く慧音と、そこから離れようと暴れる○○は盛大に転げまわっていた。
転げまわっているのが土の上だとしても無傷では済まない筈なのに、今二人が転げまわっているのは砂利が敷き詰められた日本庭園だ。
砂利の白さが周りの景観と相まって、風情のある情景を描いているが。転げまわるのには全く向いていない。
細かい砂利が慧音と○○、二人の服は勿論。露出した腕や足などが無数にある砂利によって容赦なく切り裂かれて、血流を滴らせていた。
そのお陰で風情と趣のあるはずの庭園の一角は、二人が流す血飛沫で酷い有様だった。
肝が小さ目なイナバの連中が見たら、きっと甲高い声を上げて逃げ去っていくだろう。


四肢が軋むほど組み付かれているのも痛いし、砂利の上を転げて生傷が絶えない事でも沁みる痛さがあって。
二つの痛みで、とうとう○○の動きも鈍くなってきてしまった。○○の目尻には涙までも浮かんでいるが。
「ど、どうした○○?何で泣いているんだ、それに何で暴れるんだ?」
当の慧音は、そんな○○の涙を見ても多少狼狽えこそはするが。抵抗した末に涙を流している原因が自分にあるとは、全く思っていなかったようだ。
昨日今日の事で、まともな判断能力すら何処かに行ってしまったのだろうか。そう思うと、○○の目尻に浮かぶ涙も量を増していた。

「すまない、○○。その怪我を見るのは後だ」
ああ、怪我をどうにかしなければと言うのは理解しているんだなと。そこまでぶっ壊れている訳では無いのは救いだったが、全く嬉しくなかった。
「今は何処か遠くに……出来るだけ遠い場所に行かないと……大丈夫だ○○、私が付いている」
声も出さずに涙を流す○○を覗き見ながら、慧音は優しげに声をかける。その状況とは不釣り合いな優しげな声と顔に、○○の中の落胆がまた一つ大きくなった。

「何処にも行かせないわよ。少なくとも、頭が完全に冷えるまではね」これからどうなるのだろうかと途方に暮れていたら、輝夜の声が聞こえた。
○○の顔を覗き込みながら優しげに微笑んでいた慧音だが。輝夜の声が聞こえた途端、その表情を一気に強張らせて声のした方向に顔を向けるが。
「ぶっ!?」
慧音が輝夜の方向に顔を向けた途端、待ってましたとばかりに輝夜の足が慧音の顔にめり込んだ。


「くそっ!今すぐ○○から離れなさい慧音!あんた○○に何したか分かってるの!?」
輝夜の蹴りを受けても、組み付く慧音は一向に○○の体を離そうとしなかった。
輝夜は先の一発目の蹴りで慧音をすっ飛ばす算段を付けていたのか、一向に手を離そうとしない慧音を見て多少の焦りを見せていた。

「ああ……もう……てゐか鈴仙のどっちかがいれば……」
泣き言を言いながらも、輝夜は慧音を○○から引きはがそうと蹴りを入れ続けていた。どうやら今慧音の相手を出来そうなのは、輝夜一人だけらしい。

「姫様!」
「うわ……酷いね、これ」
二人分の声が、輝夜よりも後ろから聞こえてきた。
「帰ってきたぁ!」その声に、輝夜は思わず顔を綻ばせて後ろを振り向いた。
まさか彼と木こり、ただの人間である件の二人を使うわけにもいかないし。1人きりで始末を付けなければいけないのかと。
そんな諦めの感情が入り混じった、悲壮な覚悟を付けかけていただけに。今この状況で二人が帰ってきてくれたのは純粋に嬉しかった。
しかし、輝夜は嬉しさのあまり顔を綻ばせて後ろを向いてしまった。その隙を、慧音は逃さなかった。

「ぐぇ!」
蹴りを入れる頻度がほんの少し少なくなっただけだが、その隙に慧音は輝夜に掴みかかって押し倒してしまった。
「姫様!?」
「良い、こっちには構わないで!二人は○○を私の部屋に連れて行って!」
妹紅との死闘に慣れた輝夜は、掴みかかられて押し倒されても咄嗟に慧音の首根っこを掴み返す事が出来ていた。
○○の世話は二人に任せれば良い。

「先客がいるけど気にしないで!じゃ、頼んだわよ!」
首根っこを掴まれたのと輝夜の会話を聞いた慧音は、不味いと思ったのか輝夜から離れようとするが。
押し倒される以上にやられるほど、輝夜は甘くなかった。
「○○!○○ー!!」
輝夜に捕まってしまい、悲壮な叫びを上げる慧音だが。もうその頃には、てゐと鈴仙によって○○は遠くに運ばれてしまっていた。

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最終更新:2014年03月18日 10:45