永遠亭に戻った頃には日が殆ど沈んで、空が紫色の様相を見せていた。
出た頃は、まだ随分高かったはずなのに。結局、今日と言う日は掃除だけで殆ど潰してしまった事になる。
後手後手に回っている所か、山積している問題に対して物凄く効率の悪い方法で対処しているような気もしてくる。
だが、頭を抱えて唸ったりするよりは。そうやって何も動かないよりはまだマシだと考える事にしている。
実際問題、体を動かしていた方が後ろ向き加減にもいくらかの歯止めがかかっていた。
今日の場合は、掃除で疲れたから。他の事に余り頭が回らないだけかもしれないが……

「まぁ……適度な疲労は、良質な睡眠の必須材料よね。良い感じに眠れば、良い感じだし」ポツリと輝夜が呟く。
何となく的を外しているようでも構わないから、輝夜は良かった探しがしたかった。
心の中で思うだけにせずに、わざわざ呟いたのは。そうやって自分の耳に無理矢理聞かせてやって、半ば思い込みでも良いからそう言う事にしたかったからだ。
その上思い込む内容が、例え抽象的に過ぎていようとも。

「姫さん?」
「ああ、気にしないで。独り言がちょっと漏れただけだから……イナバに風呂を用意させるわ、汗とゲロの臭いが混じったら悲惨よ」
輝夜に臭いの事を指摘されて、二人は少しばかり自分の体を嗅いだ……当然、顔は歪んだ。

「やっぱり、自分の臭いは自分じゃ気づかない物だからね。誰か―!風呂を炊ける子はいないのぉー!?」
輝夜が一声を発すると、何処からともなくピューっとした速さでイナバがやってきた。それも“うじゃうじゃ”と言う単語が似合うぐらいの数が。

うじゃうじゃとした数に当然二人は、寺子屋での掃除に見た阿鼻叫喚の図を思い出していた。
そして大丈夫かよ、と二人は思ったが。どうやら木こりや彼と違って輝夜はある程度慣れているらしい。
近場で、一番目の覚めていそうなイナバを見つけると。その手を引っ掴んで「貴女で良いわ。後は帰って良いわよ」と言って、手をヒラヒラとさせた。
用が済んだと分かったイナバ達は、またピューっとした速さで何処かへ行ってしまった。
その姿は何となく逃げたようにも見える。実際輝夜に手を掴まれたイナバは、凄く面倒くさそうな顔をしていたし。


「姫さん、俺らは後で良いよ。空いたら呼んでくれ」
風呂場に向かう途中で、彼が気を使って用意してくれた部屋に戻ろうとした。勿論木こりの方も異論は無かった。
「良いわよ、私が後で。私は隅でちょっと体を拭くだけで良いわ……慧音にちょっと顔を合わせてくるから」
輝夜が慧音の事を口に出すと、二人は明らかに体が強張って絶句していた。
当然だ、今の慧音に会うのは虎の尾所か鬼の顔面を殴りに行く。それぐらいの覚悟が必要なのだから。
輝夜に手を掴まれたイナバも、目を見開いている。

輝夜からの発言に、皆戦々恐々としていたのだったが。その割には、当の輝夜はあっけらかんとしていた。
「怖くないのか?」
「半ばヤケね」
彼が素直な疑問を口にすると、それに対しての輝夜の返答は最早暴投と言っても良かった。
その暴投っぷりに、二人はまた絶句した。

「……大丈夫なのか?」
「大丈夫よ、死にはしないわ…………だって私だから。死ぬ恐れの無い、私がやるしかないのよ」
そう言う輝夜の顔は、少しばかり愁いを帯びていた。


二人が風呂に入る世話をイナバに任せて、輝夜は脇の水場で簡単に体を拭いて臭いと汚れを簡単に拭き取った。
お湯を使っても良かったが。気持ちを奮い立たせるために、ここは敢えて水を使った。
体を吹いて、衣服を変えた後も。道すがらで何度も輝夜は自分の頬を両手でパンパンと叩いて、気持ちを萎えさせない様に努めていた。


「やっほー鈴仙、あらてゐもいるのね。後で妹紅の様子教えて。ごめんなさいね、二人とも……長時間、拘束しちゃっ……て」
このまま慧音を閉じ込めている部屋に直行して、扉をぶち破っても良かったのだが。まずは長時間拘束してしまった二人に労いの言葉をかけに来た。

「あ……姫様」
「うわー……出来れば見られたくなかった」輝夜の到来に、二人はとてもバツの悪そうな顔を浮かべた。
本当に、まずはこっちに寄って良かったかもしれない。二人は管やら漏斗やらを用意していた。
後は、ここに注ぎ込む流動食の到着を待つばかり。そう言う状況にまで、二人は事態を進行させていた。

「ちょっと待って。お願いだからちょっと待って」
最も、てゐに促されて渋々とは言え。場合によってはそこまで行っても良いとお墨付きを与えたのは、他ならぬ輝夜だった。
であるのだから、強い口調で止める事は出来ないが。それでも、何やらかんやらを用意する鈴仙の腕を握る輝夜の力は、鈴仙にとっては少し痛いぐらいだった。
「もう半日。あと半日で良いから、私に預けて。ちょっと慧音に会ってくるから、そこまで行くのは今はやめて。お願いだから」
握られている手が痛いなぁと、顔が歪む鈴仙の様子にも気づかず。輝夜は必至の面持ちで、最終手段を思いとどまるように嘆願してきた。
姫である輝夜がここまで必死になる姿は……正直な話、ちょっと真面目すぎるきらいがある鈴仙は勿論だったが。
少しばかりではなく不真面目さが際立つてゐですら、居た堪れなくなってしまい。直視する事が出来なかった。




「起きろおおお!!!」扉をぶち破るくらいの労力は、妹紅との死闘に比べれば雀の涙程度の労力の筈なのに。
何故だか今このときは、とてつもなくしんどかった。扉をぶち破るのはもちろん、一挙一動が全て重く感じられた。

我ながら、心の健康に悪い事ばかりしているなと輝夜は思っていた。
さっきまでは必死で最後の手段を取りかけている鈴仙とてゐに思いとどまるように嘆願して。今の瞬間は、慧音に舐められないように精一杯の虚勢を張っている。
その虚勢を張る事に対して、心の底では拒否反応が出ているのに。それでも虚勢を張る事はやめなかった。


しかし虚勢とは言え扉を思いっきり蹴り破って、大きな音を出したのは事実だったから。
三角座りで微動だにしようとしなかった慧音が、思わず身を跳ね上がらせてビクつかせる事には成功した。

「食べてない割には、生気にあふれる目つきじゃない。でもそろそろ限界っぽいわね。ほら、食べ物持って来たから食べなさい」
慧音はやってきた輝夜に対して、睨みつけるだけで。飛び掛かったり、罵声を浴びせたりすると言うような事は全くなかった。
要するに、今の慧音は疲れる事は余りしたくないのだ。食べてないし寝てもいないのだから、その体力は見た目以上に枯渇していた。

無駄に長く生きている輝夜は、見た目とは裏腹にその実憔悴した慧音の内情をすぐに察知する事が出来た。
「ほら、食べなさいよ。何も入ってないから安心なさい」
器に盛られたおにぎりは、無駄に大きなものが一個。どかんと乗っているだけだった。
輝夜はその一部をむしり取って、自分の口に運んで咀嚼して飲み込んだ。

大きなおにぎりを一個だけにしたのは、何も入っていないと言う証明を見せる手間を省く為だった。
今の慧音だったら、手ごろな大きさのおにぎりを何個か持って行っても。多分疑ってかかるだろう。
「お前が食べたもの以外には毒があるのだろう」と言う風に、噛みついてくると考えていた。
だから不格好でも構わないから、大きなおにぎりを一個だけ器に盛り付けた。これならこちらとしても、隠しようがない。


慧音は輝夜から差し出された大きなおにぎりに対して、視線が釘付けとなっていた。
やっぱりお腹が空いているのね。と輝夜は思ったが、思うだけで口にはしなかった。
ここで茶々を入れたら、また頑なになって結局食べないかもしれない。最悪、輝夜はこの状態のまま何時間でも過ごしてやる腹積もりでいた。


輝夜の思っていた最悪の予想通り、慧音は大きなおにぎりに対して視線を釘付けにしたまま。小一時間ほどが経過した。
外気に晒され続けたおにぎりは、その表面がかぴかぴに乾き始めていた。
しかし、慧音は全く動こうとしなかったが。その表情には変化が如実に表れていた。
明らかに、物欲しそうな眼をしていた。
しかしまだ輝夜は何も喋らなかった。ただ時折、無言のまま器に盛られたおにぎりをずいっと差し出しなおすだけだった。
喋りかけたら、また頑なになってしまいそうで。それが怖かったからだ。


更に時間は経過した。器と大きなおにぎりを含めれば、結構な重量があったので輝夜の伸ばしていた手はそろそろ痺れが来るころだった。
しかしまだ、それでもまだ輝夜は耐え忍んでいた。ただ慧音が自発的にこのおにぎりを受け取ってくれるのを待っていた。

そして、諸々の時間を含めれば三時間ほどが経ってしまっただろうか。
小窓から見える外は、もうとっくの昔に闇が広がる真夜中だった。
風の感じや虫の鳴き声の様子から考えて、夕餉の時間すらとっくに過ぎて、早い者ならもう就寝の準備をしているぐらいの時間だった。
そんな時間になってもまだ輝夜と慧音はおかしな対峙を続けたままだったのだが。

「…………クソッ」
慧音が小さく、悔しそうな呻きを上げたかと思ったら。ゆっくりと前に向かってきた。
その向い方は、誰かに対して攻撃を仕掛けると言った勢いのある物では全くなかった。
空腹も含めた諸々の疲れで、今の慧音は大立ち回りを演じる体力が無いと言うのもあるが。
それでも勢い衰える事の無かった眼つきですら、今この時は大人しくなっていた。

ゆっくりゆっくりと、慧音は輝夜に近づいてきた。
正直な話、輝夜はとても怖かった。土壇場で考えを変えた慧音が、眼でも付いてくるんじゃないかと考えてしまって、腰が引けそうだった。
しかしそんな内心での怯えなどおくびにも出さずに、輝夜は気丈な面持ちのままで器に盛られた、大きなおにぎりを差し出し続けた。


そして、腕のしびれや痛さにも耐え続けた甲斐があったのだろうか。
「…………貰うぞ」
慧音はようやく、輝夜から差し出されたおにぎりを受け取った。

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最終更新:2014年03月18日 10:51