「ねぇ慧音。次の満月はどうしましょうか?」
前回の満月から数日後、輝夜はまた寺子屋にやってきた。
ここまで来るのに門は素通りする事が出来るし、誰憚る事無く往来を歩く事も可能だが。
いかんせん輝夜が通った後に、何かがざわめくのだ。
ひそひそ声で、何がしかを喋りあっている。○○と違って、輝夜は古くからこの幻想郷にいるから。陰口を叩くのにも、隠れるつもりが無いらしい。
隠れないで叩く陰口と言うのも、言葉的に何かおかしな矛盾を感じるが。気分のいいものでは無い事は確かだ。
だから、ある意味隔絶された空間であるこの寺子屋では。輝夜は少しばかり機嫌がよくなるのだった。
さっきまでいた場所が、クソみたいだから。その反動で、とても良い笑顔をしていた。
「……なあ、お姫様。ここに来たら、妙に機嫌がよくなったな。来てすぐは機嫌が悪そうな顔をしていたのに」
庭先で行われているサッカーなる球技に興じる○○や、子供達や、件の二人。
慧音はずっとその様子を微笑を携えて見ていたのだが。輝夜の方を向くときは、少しばかり小憎らしい顔だった。
「そう見える?何でかしらね」
輝夜は慧音の質問をはぐらかしたが、慧音には鼻で笑われてしまった。
「分かっているくせに。往来を歩いてきたのなら、奴らの態度は全部見てきたはずだ。私の気持ち、分かるだろう?」
輝夜の顔が少し渋くなった。こんな事を言われてしまったら、はぐらかす事は出来ない。
「例外なら、今私たちの目の前に二人分あるはずよ」
はぐらかす事は出来ない。それならば、真っ向からぶつかってやった。
「慧音、貴女は自分の事を教育者と思ってるなら。あの二人のような人間を増やそうとは思わないの?」
「……思ったさ。ずっと、思っていたさ」
輝夜からの詰問に慧音の言葉が震えて、目尻には涙が溢れてきた。
「ずっと思っていたが……何も無くて」
「合ったじゃない!今まさに、二人分があるじゃない!」
「だから……ね?荒っぽい事だけは止めて」
「…………」
慧音からの返事は無かった。何十年もの間に凝り固まってしまった慧音の心が、この程度で解れてくれるとも思っていない。
でも、だからと言って。成果が中々見えないからと言って、何もしないでいられるほど輝夜は諦めの良い性格では無い。
「返事はすぐでなくても構わないわ……だから、もうちょっとだけ。私達を見てくれない?」
「……」
相変わらず、慧音は頷きもしなければ返事も返してくれない。
でも、それでも良かった。少なくとも今の慧音は、こちらの目を見て話を聞いてくれている。
今はそれで十分なはずだ。輝夜はそう思っていた。
「行きましょう、そろそろ終わりそうよ。ほら手ぬぐい貸すから、向こうに行く前にその涙を吹きなさい」
慧音は輝夜から差し出され手ぬぐいを、奪い取るなどではなく静かに受け取った。
そうだ。確実に前に進んでいる。その証拠は、慧音の一挙一動を見れば、自ずとわかる事が出来る。
初めに子供達を二つの組に分けたはずなのだが、途中からどちら側に所属しているか分からなくなる子が多くなってしまったようで。
結局、どっちが勝ったのか分からなくなってしまったらしい。そのせいか、ゴールを守るはずのキーパーと言う役も途中からいなくなっていた。
ただただ球を奪い合ったり、近場の者が集まって即席で組んだり、たまにゴールに放り込んだり。
試合とは到底呼べない展開だったが、それでも当人たちはそれなりに楽しそうだったようだ。
「……点数、誰か数えてる?」
そう言って周りに問いかける○○自身、顔が半分笑っていた。
「誰も数えてないんじゃないか?○○だって、途中から数えるのを諦めたように感じるぞ?」
慧音からの指摘に、○○だけでなく皆が少しばかりバツの悪そうな苦笑を浮かべていた。
その様子を輝夜は少し離れた所で微笑ましそうに見ていた。
「後は妹紅だけかなぁ……」
徐々にではあるが、慧音の様子は改善の道を辿っている。
無論これで終わりでは無い。輝夜は一度関わってしまった以上、年単位で慧音の周りを見るつもりでいた。
ここまでやって、途中で放り出す方が気分が悪い。難題だとは思っていたが、面倒だとは一切思っていなかった。
点数も数えていないしそもそも試合の時間自体、何分にするか正確に決めていなかった。
成り行きで始まったのだから、終わり方も成り行きだった。
皆それなりに駆けずり回って、それなりに疲れた頃が終わり時だった。
球やゴールを隅っこに寄せて片づけていると、彼の子供が彼に向かって駆けてきた。
多少力自慢のある子は、ゴールの片づけも手伝ってくれるのだが。彼の子供は残念ながら、並程度だった。
そんな彼の子供たちが、普段は重い物の片づけを余りやらないのに。今日に限っては、わざわざやってきた。
それも訳ありげな様子で、父親である彼の横に立って手伝いをしているのだ。
かもし出されている訳ありげな様子、その内容は当然彼はすぐに理解できた。
「たまには帰ってやれよ」
彼は不安感から、敢えてその訳ありげな様子に気づかないふりをしていたが。見て見ぬふりをしようとする彼に、木こりが待ったをかけた。
「……うん、まぁ」木こりの方ばかりを見ていると、少し顔つきが渋くなった。逃げ場にされたのが分かったのだろう。
「こっちじゃなくてさ、子供の方見てやれよ」何となく、木こりは強気の態度だった。
辺りを見回すと、○○は慧音が向こうに連れて行っていた。長くなりそうな雰囲気だった。成程、多分あれのせいだ。話をするには都合が良いが、今は悪いような。
仕方なく、彼は子供たちの方を見た。出来れば見たくは無かった。間違いなく、帰りたくなる。居心地が悪い筈なのに。
「今日、帰ってくる?」
予想通りの言葉だった。嬉しくて笑みがこぼれるが、その笑みはどことなくぎこちないのが自分でもわかった。
「……たまには帰ってやれよ」
後ろからは更に背中を押す声、前からは子供達からの視線。
「……」
「おっとう……」
最後には子供が自分を呼ぶ声。これは何よりの破壊力があった。
「そうだな。今日は帰れる」
確かに、子供達には咎や責は一切ない。上白沢慧音が意地を張っていた理由が、ようやく解った気がした。
子持ちの自分がこれに気付くのが今さらと言うのは、少しどころでは無く恥ずかしい話ではあるが。
「”今日は”子供達と帰る」
「ああ、“今日は”そうしろ」
ただ、お互い“今日は”と言う濁った言い回しをする辺りで。二人とも胃の辺りに無視できない痛みのような物が走っていた。
珍しく……と言うよりは、あれから初めて木こりと彼は別々の場所に帰って行った。
本来これがあるべき姿なのだが。木こりは彼の事がどうしても心配し、彼も本当に帰っても大丈夫なのかと不安でしょうがなかった。
不安感を募らせる彼は、不安以外の感情に気付く余裕が無かったが。
焦りを感じている木こりは、心配と言う感情の後に。変わる素振りの無い人里に対する鬱憤が溜まって行くのだった。
永遠亭で逗留したり、姫である輝夜にそこそこ信頼されたりしているのは、里の者も天狗の新聞でよく知っているようで。
避けられている節は感じつつも往来を堂々と歩けるし、食糧の買い出しにも不自由しない所か、酒やらをおまけとして押し付けられる経験までした。
押し付けられた酒やらは、供物のつもりなのだろうか。かなりの頻度で、おまけにしては高価な物を押し付けられる。
酒は嫌いな方では無いので、最初に思わず受け取ってしまったのが運の尽きだったのかもしれない。
今日は買い出しの予定は無かったのだが、帰り道にまた酒瓶を押し付けられた。
良い物なのかもしれないが、悪い気分で飲む酒などたとえ上物だろうと不味く感じた。
今日のこれも、帰り道に一口飲んだが。上手いとは思えなかった。
鬱憤を溜めながらいつものボロ小屋に帰ると。いつも新聞を寄越してくれる天狗、射命丸文がいた。
「お帰りなさいませ」射命丸の顔は、良い笑顔だった。天狗が笑って喜ぶと言う事は、他の者には禄でも無い事があったのだろう。
「今日は、連れい合いの方は久しぶりに自宅に帰られたようで」
天狗に隠し事は無理と言うのは、妖怪用の新聞を見せて貰っているからよく理解しているが。
私生活を覗き見られる当事者に、自分がなるというのはやはり気持ちの良い物では無かった。
「その事でね……ちょぉっと小耳にお入れしたい事が」
自分が明日の新聞に使うネタ元にされそうになっている。すぐに分かったが、射命丸の持って来た話が気になるのも事実。
「勿論、聞くだけで聞いて、今日はもう寝てしまっても一向に構わないので!」
「話してくれ」
「義憤に厚い貴方なら、きっとお怒りになられるようなお話です」
ほらやっぱり。天狗の喜ぶ話は、他の物には禄でも無い話だ。
「あの奥さん、ご主人が厄介事引き受けてから。ほぼ毎日、お供え的に寄越される物を貰ってるんですよ。自分は何もしてないのに」
そう思って、諦め交じりに話を聞いていたのだが。
「で、その奥さんときたら。貰った物をご主人が帰ってくるまで置いておかずに、食べちゃってるんですよ!」
「……その上、いざ帰ってきたら寄合所に逃げたのか!?あいつのお陰で贅沢できたのにか!?」
「そうなんですよ!しかも、良い物や美味い物は、子供達には分けずにご自分で全部腹に収めて処分してるんですよ!」
射命丸から聞かされる話は、木こりの怒りを燃やすには十分だった。ただでさえ鬱憤と言う燃料が溜まってただけに、その燃え方は尋常じゃなかった
「子供達には、厄介な事は見聞きしてほしくない何て言う。下手くそな建前使って、全部食べちゃってるんですよ!」
しかも、今日は帰り道に酒を一口ほど飲んで、今頃になってその酔いが回り始めていたから。
溜めていた鬱憤が流れ出す量が、シラフの時に比べて明らかに多かった。
「その上、独り言でご主人の事、大分罵っているんですよ!てめぇは何もしていないのにですよ!」
そしてついに木こりの中で、堪忍袋の緒が千切れてしまった。
「……はんっ」
「あやや?」
堪忍袋の緒が千切れて、怒りが一周回ってしまったらしく。木こりの表情は、妙に穏やかな物になった。
射命丸がその様子を訝しんだと思ったら。
「あやややや!人間さんがそんな飲み方しちゃ駄目ですよ!」
木こりは手に持っていた酒瓶を口に付けて、真っ逆さまにしてしまった。
彼の体に勢いよく入っていく酒は、さながら彼が溜めていた鬱憤が流れ出す様が実体化したものかもしれない。
「うぇえ!」
「ほぉら。酒瓶の中身、半分くらい飲めて無いじゃないですか」
射命丸はまだまだ天狗基準で考えているから、半分もこぼれたしまぁ大丈夫だろうと考えていたが。
人間基準で言えばたった半分でも、一気に煽ればどうにかなるには十分だ。
「ちょっと文句言ってくる……教えてくれて、ありがとう」
「あや?ああ、出陣前の一献って奴ですか!」
そう言って、手を振りながら見送る射命丸の顔は。酷いくらいに晴れ晴れとしたものだった。
きっと腹の底、明日の一面決まった!と言う風に喜んでいるのだろう。
「あの、ボケが!カスどもが!!あいつがどれだけ必死になっていると思っているんだ……それを見ながら!」
寄合所まで突き進む木こりを止めれる……いや、止めようとする人間はいなかった。
酩酊状態であると言うのも、理由の一つだが。それ以上に、この木こりは厄介者なのだ。
輪に入ろうとしない、暗黙の了解を飲みたがらない厄介者。極力、関わりたくないのだ。
「お前らあ!酔っ払いが酒瓶片手に息巻いてるんだぞ!何とか言ったらどうなんだ!?」
誰も関わろうとしない様子に、木こりの怒りはますます大きくなった。
「近所迷惑の酔っ払いだぞ!誰か止めろよ!」
文句があるなら来いと言うが。誰も目を合わさない所か、いつの間にか往来から誰もいなくなっていた。
「あいつら……馬鹿だろ」
シラフならば呆れていただろうけど。よって理性の箍(たが)が緩くなっている今は、怒り容易くが彼の心を支配してしまった。
結局、木こりが寄合所に向かうまでの道すがら、誰の妨害も受けなかったし誰にも合わなかった。
容易に、何の障害も無しに辿り着けることがある意味保障されたのだが。それは彼の中で燃える怒りの炎に油を注ぐだけだった。
いっそ誰かが「うるさい!」等と言って掴みかかった方が、この木こりは喜んだだろう。
「お前るああ!ろういう、領分で!ぼんやりしていやがるんだああ!!」
寄合所に辿り着いた木こりは、怒声と共に玄関口を蹴り壊して入った。もちろん靴は脱がずに、土足で上がり込む。
木こりの怒声に紛れて、奥の方で誰かの悲鳴が聞こえた。
「そっちか!今行くからな!!」
そう木こりが宣言すると、悲鳴は大きくなって数も増えた。
それと一緒に「貴様、逃げるのか!」「卑怯者め、1人で逃げるつもりか!」等と言う言い争いの声も聞こえてきた。
この期に及んで、まだ足の引っ張り合いらしい。
「どいつも、こいつも!何でなにもしたがらねぇんだ!!」
大広間に辿り着いた木こりは。雁首をそろえて何もしないをしている連中を見て、その怒りが最高潮に達した。
罵声で怒鳴り散らして、暴れて。木こりの大声は、連中全員の悲鳴に負けない音量だった。
酷く酔っているとは言え、たった一人で木こりなどと言う仕事をしていただけあって。この木こりは非常に力があった。
その上、今は酒瓶と言う凶器を振り回しながら暴れている。真正面からでは、勝ち目が無かった。
そう真正面からでなら、酷く酔っている今でも大概の人間には勝てただろう。
真正面からなら。
木こりの乱入で、何人かが縁側から逃げ出そうとした。寄合所と言うだけあって、風流そうな岩や樹木が鎮座する庭も備えていた。
縁側に逃げた物は、その岩に上って木に登って。塀を乗り越えようとした。
「逃げんじゃねぇ!!」
勿論その様子を見れば、木こりは追いかけるしかなかった。
「お前のせいだ!!」
だがこの時、木こりは無防備な背中を多数の人間に晒してしまった。
誰かが責任転嫁も甚だしい一言を浴びせながら、木こりの背中を蹴りとばしたのか突き飛ばしたのか。
とにかく木こりはよろめいて、地面に倒れてしまう体勢になった。
倒れながらも木こりの闘志は収まらず。何が俺のせいだ、と言う憤怒の表情のまま。
――風流そうな岩の、しかも尖った角に。頭を勢いよくぶつけた。
最終更新:2014年03月18日 10:57