夢を見ていた。夢の中でいたが、これは夢だと分かる状態だった。
それは別にどうでも良い。問題は、夢の内容だった。
夢で見ている場所は、あの寄合所だった。もはや、出来得る限り思い出したくなんてない場所だ。今のように就寝中には特にと言うべきだろう。
正直な話、寝ている時ぐらいはゆっくりしたかった。こんな夢の内容では、休まる体も休まらない。
案の定と言うか、当然の事かもしれないが。夢で見ているあの場所は、ただ単にただっ広い場所を見るだけと言う風にはなら無かった。
あの場所には、自分以外にも大勢の人間がいた。皆しきりに何かを言い合っているが、自分の事ばかりを言っているので誰の耳にもどんな内容の言葉が飛んでいるかよく分からなかった。
よりにもよって、一番嫌な場所の、一番悪い状況を夢に見てしまっている。そして残念な事に、夢と分かっているのだが彼は体の自由が利かなかった。
出来ればえいやと言って、起きてしまいたかったが。それも叶わなかった。自分はその光景を見ながら、ただただ鼻で笑っている。
別に見たかないのに。
幸いな事に、夢の中であるからなのか言い争いの言葉は全く判別できなかった。
普段からろくすっぽ聞いていなかったおかげかもしれない。
「お茶のお代わりです」
なのだが、この言葉だけは妙に鮮やかに聞こえてきてくれた。
夢の中だと言うのに、その言葉だけは何の薄膜も通さずに彼の耳に、そして脳裏に直接投げつけられていた。
それはある種の妖力や魔力の類だったのかもしれない。
穿った見方をすれば、この夢自体がその種の力によって見せられている物だったのかもしれない。
とにかく、夢の中の彼はこの言葉を黙殺する事が出来なかった。
黙殺できるはずが無いのだ。ただの人間である彼が。
薄眼を開けて笑っている、上白沢慧音の呼びかけを無視する事など。
「ぎゃあああああ!!!」
恐らく、彼が夢の中で薄眼を開けて笑っている上白沢慧音の顔を見たのは、ほんの数瞬。
数字に直せば、一秒あるかないかぐらいの。そんなとても小さい間の出来事でしかなかったはず。
通常ならばそんな、有るか無いかも曖昧な夢の中での出来事など。何か見えていたとしても、すぐに忘れてしまうのが常であるのだが。
「最悪だ……何でこんな夢を…………」
彼には最早、それを忘れ得るだけの抵抗力は残されていなかった。
今朝方に帰ってきてからずっと、彼にあったのは何も出来ない事に対する脱力感と絶望感だった。
ずっと頭にあったのは上白沢慧音の事。そしてそれを何としてでも食い止めてくれると無理に張り切って、保証してくれた輝夜の姿。
それらが何度も繰り返し脳裏に反響していた。それのせいで精神的に憔悴していた所に、これである。
「そうだ……起こしちまってないかな」
最早彼には、再び眠りに付こうと言う気力も勇気も無かった。完全に目が覚めてしまっていたし、眼を閉じればあの下に見た笑顔がまた見えそうだったから。
今彼に出来るのは、子供たちを起こしてしまっていないか心配したり。子供たちを起こさないように気を付ける事ぐらいしか出来ない。
今頃は輝夜がやってくれていることろ比べれば、余りにもな落差である。
「…………」
幸い、子供たちの眠りは深かったようで。先の彼の悲鳴にも関わらず、まだ眠ってくれていた。
不謹慎だが、少し残念に思ってしまった。
もし起きてくれていたら、寝かしつける作業で少し時間を潰す事が出来たはずだから。
「……井戸に行くか」
子供たちは、まぁ可愛いが。熟睡しきって、動きに乏しい子供たちの姿ではそう長く暇を潰せる物では無かった。
丁度嫌な夢を見た後で、寝汗がひどく、喉の渇きもあったので。彼は井戸に行く事にした。
「……明るいな。いや、当然の話なのだがな」
外に出た彼は、真夜中だと言うのに特に不自由する事無く井戸に行く事が出来た。
別に彼は夜目が効く方では無い。見知った道ではあるが、それでも限界はある。
なのに、今日と言う日は真夜中であっても。特に不自由する事無く往来を歩く事が出来ていた。
「くそ……嫌な光だ」
そう、今日は満月だから。しかも雲一つない快晴。否応なく、月の光は大地に降り注いでいた。
見上げれば心中のざわつきを誘発する、煌々と光る満月が見える。だから彼は伏し目がちに歩くしかなかった。
しかし伏し目がちに歩いていても、爛々と降り注がれる月の光から逃げる事は出来ない。ただ直視しないで済むだけであった。
伏し目がちでいても、月の光を感じ、満月の気配を感じ取れてしまう。ここまで感じる事が出来れば、考えずにはいられない。
今頃、蓬莱山輝夜は何をやっているのだろうか。
満月の夜であるから、間違いなく動いてくる慧音を止める為に。全身全霊、命を賭してでも止めると誓ってくれた。
その事を疑う余地は無い。疑う材料は微塵も存在はしないが……勝てる可能性については、今の空と違って暗雲が目立っていた。
二対一で、どちらも手練れで、しかも片方は満月の力で強くなっている。
輝夜の力を疑う訳では無いが、分は余りにも悪い。それは自分でもわかっているらしく、輝夜曰く勝てなくても負けなければ良いと言っていた。
やられてもやられても、それでもなおやられ続けても。要するに一晩の間足止めを続ければ良い。
輝夜の言うとおり、勝つ必要などないのだ。強いて言えば、一晩粘ればその時点で輝夜の勝ちだ。
しかし、だ。理屈は一度聞かされれば分かるが、だからと言って納得できるかと問われれば。それは全く違うとしか言えなかった。
鬱屈とした気分は歩いていても紛れる訳は無し。そもそも今これと言った不自由なく歩けているのは皮肉にも月明かりのお陰。
輝夜を悩まし、苦戦させているはずの満月で。彼は往来の不自由が無くなっていたのだ。
本当に、皮肉な話だった。そこに気付けないほど、彼だって鈍感では無い。
井戸に辿り着き、冷たい水をガブガブと何杯も飲んだが。胸につかえる感情のしこりは一向に小さくならず。全身に張り付く嫌な汗も相変わらずだったし。何故だかわからないが頭も痛い。
何かの気晴らしになるかと、顔も洗ってみたが。よく考えたら拭くものを持っていないから、余計に不快度が上がっただけであった。
「ああ……もう」思わず彼は溜息を吐く。頭はまだ痛い、それ所か耳まで痛くなってきた気がする。
最も、そんな事を気に出来るぐらいなら。余程幸せな事なのだろうけど。
「あ?」
ジャリっと言う、地面を踏みしめる音が聞こえた。こんな深夜に、自分以外の人間が。起きているならともかく、ましてや出歩いているのだ。
自分を棚に上げる様な物だったが、こんな時間に出歩く人間相手には、警戒心が籠った声になってしまったが。
「なんだ……やっぱり起こしちまったか」
この月明かりだから、近づいてきた人間が誰であるか。その判別は容易だった。
「ちょっと、目が覚めてしかも喉が渇いただけだ。家に戻ろう」
しかし、例え満月の月明かりがあったとしても。その光は、日の光とは比べるまでも無く弱い。
残念ながら、彼には二人の子供の表情に中々気づく事が出来なかった。
「……」
「ッ!?」
子供たちが彼の真横を、何の反応も無しに通り過ぎられて。真横を通り過ぎた際に見えた、全く表情の無い子供たちの顔を見て。
彼はようやく事態の異常さに、何かとんでもない事が起こってしまった事に、輝夜が負けてしまった事に、気付く事が出来た。
子供たちが彼の真横を、何の反応も見せずに通り過ぎてから、一分ほど時間が経っただろうか。
その間、彼は全く動く事が出来なかった。
そもそも、ただの人間である自分に、何が出来るのか。そう言った思考と感情が心中にへばりついていたからだ。
そう、それは完全な諦めだった。
彼の思考回路が再び息を吹き返したのは、周りが騒々しくなってからだった。
「待て、待つんだ!親の声が聞こえてないのか!?」
「何処に行くの!?お願い、足を止めて!」
周りの家々から、子供たちが出てきた。その子供たちの年の程度は、丁度寺子屋に通うぐらいの年齢だった。
無反応無表情を貫き通しながら、ゾロゾロと列をなして、子供たちは何処かに向かっている。
当然、放心状態である彼には見向きもしない。追いすがったり、進路をじゃましたりしないのならば、変な所に生えた樹木程度の価値しかなかった。
彼と違って、他の親たちは状況がまだ呑みこめていないので。追いすがったり進路を邪魔したりしているが。
それらの者達は、皆一様に突き飛ばされたり、地面に叩き付けられたりしていた。どれもこれも、ただの子供が出す力では無かった。
その光景を見ていると、また頭痛が酷くなった。とてもじゃないが、他の者達のように子供達に追いすがる気力が湧かなかった。
列をなして何処かに向かう子供たちの姿を呆然として見ていると、耳の奥に笛の音が聞こえた。
「……ッ!?」
その音を聞くと、先程から感じていた頭痛と耳の痛み。この両方が、一気に酷くなった。
まあ正気は残っていたが、意識が飛びそうな感覚だった。
何とか意識を失う事には耐える事が出来たが、今度は体の自由が利かなかった。
懸命に抗うが、今度はどうしても、笛の音がする方向に行きたくて仕方が無かった。
成程、子供たちはこの笛の音を聞いたのか。
頭痛と耳鳴りに耐えながら、彼は笛の音がする方向に足を向けた。
操られているのか、それとも自発的な意思なのか。それは分からなかったが、足を止めようとはしなかった。
笛の音が大きくなる方向、その方向は寺子屋の方だった。
寺子屋に近づき、笛の音が大きくなるにつれて、頭痛と耳鳴りは酷くなる一方だったが。
幸いにも、正気を失わずには済んでいた。最も、上白沢慧音からすれば、彼なんかを操りたくは無いだろうけど。
彼女の目的は、子供たちにしか無いはずなのだから。
彼が寺子屋の方向に行くのを目ざとく見つけたのか、それとも子供たちを追いかけてきたからなのかは知らないが。
他の大人たちも、彼の後ろに付いて来ていた。
そして彼ほどではないが、皆頭痛と耳鳴りを訴えていた。だからノロノロと歩く彼に、非難の声は向かなかった。
頭痛と耳鳴りに耐えつつ、玉の様な大粒の油汗をダラダラと流しながら。彼はようやく寺子屋の前までたどり着く事が出来た。
寺子屋の前では、子供たちが綺麗に整列していた。そして寺子屋の屋根の上では月明かりに照らされた上白沢慧音がいた。
上白沢慧音は月の光に照らされながら、横笛を優雅に吹いていた。そして満月だからであろう、慧音の姿も角を生やした異形の物だった。
異形の姿となった慧音を見て、他の大人たちは悲鳴を上げ、化け物がいると口々に騒ぐが。彼はこの光景にはもう何とも思わなかった。
化け物と言う単語に反応したように、藤原妹紅が横合いから躍り出て。騒ぐ大人たちを次々と殴り飛ばし初めても。ざまぁみろぐらいにしか思わなかった。
それよりも、もっと。彼はただ一つの事柄を確信するだけだった。
蓬莱山輝夜が負けて、もうどうにもならないのだと言う事を。
最終更新:2014年03月18日 11:02