「…………」
“蓬莱山輝夜様”と出来る限り丁寧に輝夜と思わしき女性の名前を呼んだが。
呼ばれた方の輝夜はかなり困ったような顔を浮かべるだけだった。
「あの……」
このような顔をされてしまったら、焦ってしまう。
「何か、失礼を?」慌てて立ち上がり、何か失礼が無かったかを聞く。中空を掴んでいる手が、彼の孫の焦りをより強く表現しているようだった。

しかし、この孫が表情が焦れば焦るほどに。輝夜の苦虫を噛んだような表情はより濃い物となってしまう。
この孫は、輝夜がそんな顔をする理由に対して、まるで心当たりを付ける事が出来なくて。焦りと慌ての感情をより強くしてしまうだけだった。


「……ごめんなさいね、余計な気を使わせてしまって。物凄くよく、似てるものだから」
「……祖父に、ですか?」
よく似ていると言われて、合点を回す事が出来たのはそれだけだった。この日記を全部読んだ上でなのに、彼の孫は丁寧すぎる態度を改めなかった。

「それ全部読んだんでしょ?彼が残した日記帳……私も、こんなもの残してるなんて初めて知ったけど」
輝夜の表情は、何かを嘆願するような物だった。
「中に何が書いてあるかは、大よそ判断が付くわ。多分、私に対する記述もそこそこ多かったはず。だから、止めて欲しいの。その馬鹿丁寧な当たり方を」
「…………」
そうは言われたが、急にやれと言われても今までとは手合いが違い過ぎて。そう簡単には馴染めない。
「多少不格好でも良いのよ。少なくともさっきよりはマシになるはずだから……あとその無駄に畏まった形の正座も崩して」
言われるまで彼の孫は、自分の作っている姿勢に気付いていなかった。どうやら身も心も含めて、全ての習慣が染まり切っているようだ。
哀れねと。輝夜の口元は一切動いていなかったが、何となくそういわれた気がした。


彼の孫からすれば、無理ばかりを押し付けられている格好だった。しかし、丁寧な応対を見せれば見せるほど、輝夜の意に沿わないと言うのは解った。
幸いにも、機嫌が悪くなると言った様子は無かったが。それよりも厄介そうな、哀しそうな表情だった。
胸が締まるような思いだった。厄介そうと思った事も含めて、妙な罪悪感を味わっていた。
いわゆる力のある者と相対して、このような気持ちになるのは初めての事だった。

彼の孫は、輝夜から言われるがままに正座の形を崩した。
意識せずに作っていた姿勢だったから、それを崩した今まで気づかなかったが。かなり息苦しい思いをしていたようだ。呼吸が明らかに楽になった。

「やーっと生気のある顔が戻ったわね」
「……」
呼吸が楽になったのは良かったが、だからと言って輝夜に対する当たり方まで楽になった訳では無かった。
「……その」
「…………うん、何かしら?」
相変わらず輝夜に対する当たり方に関しては、どのように接すればいいのか測りかねていた。
測りかねている物だから、何か声をかけようにも良い当てが思いつかない。
しかし、だからと言って。何も声を出さないのはそれはそれで、憚られる物がある。

「……えっと」
「だから……何かしら?」
無言も不味いと思って無理に声をかけてみたが。むしろ状況は悪くなっていた。皮肉な事だが、これならば無言のままの方が良かったかもしれない。
「……」しかし、それならば最初から無言であるべきだろう。突っついた後の無言は、余りにも居心地が悪かった。

「……貴方のお祖父さんと、仲良くなる前の事を思い出したわ」
「……祖父とは、仲がよろしかったのですか?」
丁寧な物言いはやっぱり不味かったらしく、輝夜の眉根が少し動いた。
あの日記を読んだのだから、分からないでもないが。生き方や習慣をそう簡単には変えれなかった。

「ええ、割とね」
「そうですか……生前はお世話になりました……蓬らい―
「やめろ」
丁寧に名前を呼ぼうとしたら、止められてしまった。しかもかなり強い調子、少しばかりだったが怒気すらも孕んでいる様子だった。

少しばかりとは言え怒気に当てられてしまい、しかもその怒気の発生源が自分よりもはるかに上の存在。
そんな状況に置かれてしまえば、蛇に睨まれた蛙のようになるのは至極当然の話だろう。
「……ああ、ごめんなさい。そういうつもりじゃなかったのよ……もっと、もっと砕けた関係が欲しいのよ」
縮こまる彼の孫を間近に見てしまい、輝夜は勢いだけで強く出てしまった事を後悔した。
その姿を見ると、また、妙な罪悪感が襲ってきて胸が締まった。里では……人間相手では味わった事のない感覚だった。
この種の感覚を、人間相手では感じた事が無いと言うのも妙な話かもしれないが。


「では……輝夜さん。で、よろし……良いですか?」
「……そうね。そっちの方が、ずっと普通の付き合い方よ」
輝夜さんと呼び名を変えて、そして宜しいでは無く良いですか言い換えてみたが。どうやら当たりを引き当てる事が出来たらしい。
輝夜の表情が、一気に和らいだ。


「祖父の事が聞きたいのですが……どうですか?都合が良ければ朝食も頂かれては」
「……そうね。じゃあ、ご馳走になろうかしら」
祖父の事が聞きたいのは本心だった。輝夜は少し迷っていたが、割とすんなり首を縦に振った。
「……まぁ、読みましたから。それでも、色々と知りたいのです」
輝夜が迷った理由は、あの日記の中身を思い出せば大よその見当がつく。
祖父がではなく、祖父の周りが余りにもだから


その余りにもな周りは実の所、今も全く変わっていないと言うのはすぐに思い知らされた。
お膳は彼の孫と輝夜の分と、いつも作っている二つの陰膳だけだった。
ずぅっと、居間で待っていたのだったが。それらのお膳が増える事は無かった。
そもそも、これらのお膳が物凄い速さで置かれて。取り付く島も無い程の速さで女中が去って行ってしまった。

二人とも、置いてけぼりにされてしまった格好に、しばし呆然となってしまった。
美味しそうなお膳の中身が却って恨めしくすら思えてくる。もはや完全なやつあたりだが。

それよりも、輝夜は二つの陰膳の方に注意を引いた。マシになっていたら良いなと言う一抹の望みでしかなかったので。儚く散っても、そこまで気にせずにいる事が出来た。
事実を知ったばかりの彼の孫はどう思うかは分からないが。多分きっと、いずれは諦めて楽になれるのかもしれない。
実際問題、輝夜はとうの昔に諦めていた。二つの事柄で。


「ねぇ……この陰膳って毎日作ってるの?」
しかし、輝夜は陰膳を見た事で。片方はともかく、もう一方までも諦めていたことに関して。心がざわついてしまった。

「あの日記から考えれば……連れて行かれた二人の子供の無事を祈っているのでしょう」
ああ、やっぱり。輝夜は思わず天を見上げた。
「祖父は、自分の分に対する不手際よりも。陰膳に対する不手際の方を叱りましたから」
本当に、何てことだろう。彼は死ぬ寸前まで、待っていたのだった。
「祖父は……まだ、輝夜さんの言葉を信じて待っていたのでしょう……それがどんなに低い希望であったとしても」
本当に、本当に……彼の孫の説明してくれる口調からは、決して輝夜が諦めた事をなじったりする調子は感じられなかったが。
しかし、輝夜の耳に飛び込むその言葉たちは。輝夜の中の罪悪感を雨後の竹の子のように発生させて。
それらの勢いで、輝夜の胸は締め付けられるどころか張り裂けそうな程だった。


「ごめんなさい……」
この言葉も、彼の孫では無く、彼本人に言えよと言う言葉だった。
「……見つけれなかったことに、ですか?」
「…………ええ」
違う。本当は、十年ほど経った所で、半分以上諦めてしまった事を謝っていたのに。
でも、目の前にいる彼の孫は、それには気づかずに。
努力はしたが、結果的に見つけれなかったと言う。なるだけ輝夜の立場に立ったものの見方をしてくれた。
その見方を後押しするような返答をしてしまった事に。また輝夜は罪悪感に支配されて、涙が出てきた。
なまじ、この孫は祖父によく似ているせいもあって。輝夜は彼本人を騙している、そう言う錯覚に襲われてしまった。



それから程無くして、彼の祖父は遂に息を引き取った。
死者に対する種々の儀式が行われようとする最中。彼の孫は輝夜に対して、友人代表として出席を打診された。

無論、断っても輝夜には何ら不利益は無い。しかし、彼の孫には不利益がありそうだった。
別段、輝夜がいなくともその立場に。厄介事を何もかも引き受ける代わりに、豪華な暮らしを約束されると言う因果な立場に影響は無いだろうが。
彼の孫、本人の心中は心細くなるだろう。この孫は、祖父である彼と同様に、家族ですら家族ではないのだ。
祖父が鬼籍に入った今。唯一、事情を何も知らない子供だけが家族になるのかもしれないが。
チラリと見たその子供は、母親にがっしりと抱えられて。父親ですら割って入れない雰囲気を醸し出していた。

有力者が死んだとあって、天狗の射命丸などがやってきたりして。変わらぬお付き合い、もとい。今後も変わらぬようにネタの供給を頼みに来た。
やはり里の醜聞は妖怪の好物らしい。


しかし皮肉にも、そんな下衆な天狗を相手にしている方が。人間を相手にしている時よりも、この孫は生気のある目をしていた。
どうやら本気で、里の人間を嫌いになり始めているようだ。
「そうね……死出の旅路。一緒に見送ってあげましょうか」
それを見ると、居た堪れなくなり。この孫の傍にいようと決心した。
ただその決心が、この孫の首を真綿で絞めている。そんな感覚を覚えるのは、きっと気のせいでは無いのだろう。




幻想郷の笛吹き女  了 

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最終更新:2014年03月18日 11:05