頭から壁に突っ込んだ妹紅は、首をおかしな方向に曲げて泡まで吹いていた。
そんな無様な格好を晒す妹紅には気にもかけずに。裸で泣き続ける輝夜の下に馳せ参じた。
本当に、ただの偶然だった、永琳が妹紅の家にやってきたのは。
昨晩行われた輝夜と妹紅の死闘。
最初は、永琳も輝夜も。永遠亭襲撃の犯人は藤原妹紅だと思い込んでいた。
しかし、その事を話題に上げると。妹紅の口数は一気に少なくなり、歯切れの悪い物となった。
しまいには、その事に対する何を聞いても、奇声交じりの掛け声を上げて襲い掛かるだけで。
こちらの質問には全く答えてくれなくなった。
元々、輝夜と妹紅の会話が上手く行く方が珍しいのだが。今回は何だか事情が違っていた。
何かおかしい。
二人とも、すぐにそう思った。なので永琳だけを念のため永遠亭に戻らせた。
そうしたら、案の定だった。屋敷の一部を破壊までした鈴仙には、永琳がこてんぱんにのしてやったし。
輝夜の命で、しばらくは逆さ吊りのまま何日も過ごす事になりそうだった。
片方だけでも十分なのに。二人掛かりで仕置きを受け、心身ともに衰弱している今の鈴仙は、気にする必要はほぼない。
それよりもずっと、妹紅の方が気になる。アレには心身の衰弱や疲労など、合ってないような物だから。
昨晩は、当然の事ながら輝夜も早目に切り上げて帰ってきた。多分妹紅はその事で鬱憤を溜めているはずだ。
まだ昨日の今日と言う時間しか立っていないし、輝夜絡みでは妹紅の行動力は。普段のそれを遥かに凌駕する。
輝夜と死闘を演じる為だけに生きていると言っても過言ではなかった。
何かするにしても、何かを企むにしても。こちらの予想以上に早く。
休みを取る間もなく、何かを仕掛けてくるかはずだ。
なので予防の意味も兼ねて、永琳は帰り際に妹紅の家に立ち寄った。
何か不穏な事態があれば、即絞める。何も無ければそれでよし……しかし、覗き見た光景は不穏どころではない。
ここ最近では、三本の指に入ってしまう程度の緊急事態だった。
裸で泣く輝夜、それを見て酒をかっくらいながらどやす妹紅。その光景だけで怒りと、青ざめた感情が爆発した。
進行方向にある妹紅を吹っ飛ばし、喋らなくなったら。今度は輝夜の身を案じる感情だけが、心を支配した。
「姫様、姫様!」
永琳の声が聞こえた輝夜はパッと顔を上げた。その顔に伝う、涙の後と泣き腫らした目。
それだけではなく、両の足や、果ては尻の方からも。かなりの量の出欠が見て取れた。
今の輝夜の姿は、痛々しいの一言であった。
なのに「永琳……」輝夜は自分の姿を見て、ニッコリと微笑んでくれた。
その笑顔を見ていると、永琳の心は更にかきむしられる事となった。
もし自分が不在の間に、妹紅が来ても。輝夜は、妹紅との死闘には慣れているから。
そんな甘ったるい、希望的観測で輝夜を一人にしてしまった事を悔いるばかりであった
希望的観測で動いたが為に。自分は、輝夜を。
我が主に対して。宿敵相手に、このような恥辱を晒す羽目に落とし込んでしまった。
「永琳、有難う。来てくれて」
なのに、輝夜は自分に対して笑顔を振りまいて。あろう事か感謝の言葉まで述べてくれる。
悔しさと不甲斐なさと情けなさで、永琳の顔は歪み、涙が自然にあふれ出てきた。
「永琳……?」
「……すぐに、止血と応急処置を施します。その後すぐに永遠亭に戻りましょう。すぐに処置すれば傷跡は消せます」
それら種々の自責の念は……今だけは、必死になって無視していた。
そんな物に構っていては。輝夜の身が、特に傷の残り具合に関しての部分で、手遅れになってしまうから。
「うん、お願いね。永琳」
心の奥深くまで突き刺さりそうな、その笑顔をまともに見れなかった。
それを誤魔化す為に。必死になって、傷の処置だけに没頭するしかなかった。
手持ちの医薬品で止血と、急場の処置を施した。
後の処置。特に傷口を縫ったり、傷跡の処置等に関しては永遠亭に戻ってからでなければ満足行く治療は難しかった。
脱ぎ散らかした衣服をいざ手に取ろうとした際、輝夜の動きがピタリと止まった。
そうかと思えば、腕や、体やらについた赤い斑点。つまりは血しぶきの掛かった場所をしきりに気にしていた
その事で何かを思い出したのか。体についた、最早どちらの物かわからない血の飛沫を探しては。
手近にあった布巾でゴシゴシと。皮膚が赤くなる事も構わずに力一杯こすり付けていた。
「姫様。気になるのでしたら、帰ってすぐに風呂を沸かします」
自傷行為は、医者として見過ごす事はできなかった。それが輝夜であるならば、尚更だ。
輝夜の自傷じみた行為を無理矢理止めはしたが。輝夜はまだ拭き足りないと思っているらしく、抵抗するような動きを見せる。
「駄目。永遠亭に、血の臭いを持ち込みたくないの……これ以上、○○に見せたくないし、感じさせたくないの。蓬莱人の業を」
「昨日までは……そんな事、気にもならなかったのに」
ああ、そうか。さめざめと泣き出す輝夜を見て、何故今日この日に限って、輝夜は妹紅に対してああもやられっぱなしだったのか。
全て合点が行った。○○の事を気にしていたから、それならば納得がいく。
この種の不安は、ある日突然来る。
例えついこの間まで、死闘帰りで眠い体を○○に預けたりしていても。
昨日までは大丈夫だったからこそ。その落差から、気になってしまった時の精神的な圧迫感は強くなる。
「嫌われたらどうしよう……私、○○の目の前で」
この種の心配事は、気にしだすと止まらなくなるのが常だ。
根本的な治療方法はない。投薬も一時しのぎにしたかならない。
気にしている事柄が宣も無い事だと思い続けて、気にならなくなるまで待つ。
根治の為の薬は、そういう日にち薬程度しかない。
しかしながら。輝夜の今感じる不安感、永琳にも理解できてしまった。
いや、今までは努めて考えないようにしていただけだった。考え始めたら、今輝夜が覚える不安感と全く代わらない物を内包してしまうから。
そして今この瞬間。出来る限り避けていた物に、遂に永琳も出会ってしまった。
だからと言って。いつまでもこんな所でうだうだとやっている訳には行かなかった。
妹紅と仲のいい、上白沢なんぞが来たら。場を切り抜けるのに要らぬ労力を使ってしまわなければならなくなる。
「姫様。最低でもここからは出て行きましょう」
臭いが気になると言うので、輝夜の着ていた服は置き薬を入れていた箱に突っ込んで。
代わりに、妹紅の服から適当な物を拝借して行った。
帰路に着いている最中も、輝夜は不安感に心中を揺さぶられっぱなしで。歩みこそ、永琳が手を引いているから止まる事はないが。
うつむき加減に全く言葉を発さず、グズグズと涙を流していた。
永遠亭に近づくにつれて輝夜が流す涙の量は増え、歩行の速度もどんどん落ちていく。
今の憔悴した輝夜が相手ならば、多少無理に引っ張って行く事も十分可能だったが。
それは想像するだけで痛々しい場面だった。
なので、くいっと。軽く引っ張る程度で輝夜の足を促す程度しか出来なかった。
強く引っ張って、連れまわすような真似はもってのほかだった。
「……仕方ありませんね」
何とか、騙し騙しの塩梅で、普段の倍以上の時間をかけながら永遠亭の近くまでやってきたが。
ようやく永遠亭の姿が目に出来る頃合になると、遂に輝夜の足は完全に止まってしまった。
何度か今までよりは強めに、それでも随分優しい力加減で手を引っ張って促してはいたが。
ぐずりながら、一向に歩こうとしない輝夜の姿にとうとう永琳も諦めてしまった。
「おぶりましょう。姫様、私の背中へ」
永琳は、背負い込んでいた置き薬を入れていた大きな箱を地面に置いて。代わりに輝夜を背負い込む事にした。
薬箱は後で取りに来ればいい。箱の中にはまだそれなりに薬は残っていたが、瀬に腹は帰られない。
輝夜の方も。早く永遠亭に帰らなければ、と言う思考は持ち合わせているため。
背負われる事に対してはそこまでの抵抗は見せなかった。
それでもやはり、色々と不安で怖いのか。小さく震えながら、目を閉じて外の世界を見ないでいるばかりではあったが。
「はーなーせええ!!」
「い、や、です!!ここまでやって逃がしたら、姫様に、何をされるか!!」
「お給金も貰えなくなります!!」
永遠亭の門をくぐると、出迎えのイナバはやって来なかったが。代わりに騒がしい取っ組み合いの声が聞こえてきた。
声の方向に目をやると、てゐが多数のイナバ達に組み伏せられていた。
「ほら、姫様。てゐが何かやらかしたようですよ」
話題の矛先を変えれそうな、格好の話題の種を見つけて。永琳は少々わざとらしく、声色を上げて騒動の方向に輝夜の視線を促そうとした。
「……そう。○○はいない?見られていないよね?」
てゐが何かやらかして、間者として放っていたイナバ達が大立ち回りを演じたらしい。
いつもの輝夜なら、この大騒動を目にすれば、精一杯の笑顔を作ったであろう。
何せ、当初の目論見どおりに事が動いたのだ。嬉しくないはずがないであろう。
なのに、今の輝夜が気にしていることは。○○の視線であった。
「永琳、早くお風呂に連れて行って……○○に見つかる前に」
とにかく、死闘の残り香が気になっているようである。輝夜の心中にあるのは早くこの臭いを消し去りたい。ただそれだけであった。
「……分かりました。ちょっと!そこのイナバ達の誰でも良いから、風呂焚きを手伝って」
輝夜の意を汲んだ永琳は、すぐに風呂場に行く事に決めた。
今、○○とであっても、まともな会話などは出来ないであろう。下手をすれば○○の姿を見た途端逃げ出してしまうかもしれない。
それは不味い。実際に起こってしまえば、余りにも不味すぎる事態である。
なので、まずは輝夜の感じている不安感を出来る限り取り除く事に専念する事にした。
「げぇ!?」
「姫様と永琳様だー」
「姫様ー私達やりましたよ」
「お給金下さーい」
永琳の張りのある声を聞いて、てゐは顔を青くして。イナバ達は随分現金な反応を示した。
てゐを捕まえた、それ即ち輝夜の意向通りに事を運べた。つまりはお給金がっぽがっぽ。
そんな下心が隠れてすらいない笑顔と発言をしながら、何人かのイナバ達は永琳の下に駆けて来た。
ご褒美、と言うよりはお給金の事ばかりが頭を駆け巡っているのか。揃いも揃って、風呂焚きを手伝えと言う号令が聞こえてなかった。
「はいはい、風呂焚きにそんなに人数は必要無いから。ああ先頭にいる貴女、付いて来て風呂焚きを手伝いなさい」
「残りは、そのままてゐを捕らえておいてね」
しかし、イナバ達の扱いならば永琳にとっては最早慣れた物である。
風呂を炊くだけならば、そこまでの専門技術はいらない。適当に一番先頭にいたイナバの手を掴んで、風呂場まで連れて行った。
残されたイナバは、言いつけどおりてゐの所に戻って行った。
給金の為に、機嫌を損ねぬように、とでも思っているのか。妙に素早かった。
永琳に連れられるイナバは、最初こそ給金のことを考えてうきうきとしていたが。
意気消沈して、永琳に背負われる。今回の雇い主である輝夜の姿を見て、段々と不安になってきたようだった。主に給金の事で
体の方は全く心配していなかった。なぜかといえば、輝夜は蓬莱人だから。
しかし、感情の部分ではいくらリザレクションしても変わることはない、治るのは肉体的な部分だけ。
それはイナバにも容易に判断がついた。
「あの……お給金」
そしてついに、おずおずと給金の事を輝夜に聞いてしまった。
今聞くのは不味いかな、とは思っていたようで。かなり縮こまりながら口を開いていた。
実際問題、今聞くのは確かに不味かった。給金の事を聞くと、永琳の不機嫌な表情がイナバに突き刺さった。
「後で、ね……ちゃんと渡すから……」
ただ、輝夜のほうはそんな不機嫌な顔を作ったりと言うような対応をする。
そういう気力すら湧かないほどの気分の減退があった。
今の輝夜にとっては、最早不安感すら通り越していた。
確たる証拠は何もないのに、“嫌われたかもしれない”ではなく“嫌われた”と。理論を飛躍させてしまっていた。
イナバの気にしていた給金に関しては、言質らしき物を取る事はできたので。
これ以上は不味いなと、永琳の態度ではっきりと知る事の出来たイナバは。それ以降は随分大人しかった。
イナバの無邪気なお喋りも無く。かなり淀んだ空気が辺りを支配していた。
「お……!おお……!!」
お喋りもなく歩いていると。角から○○がやってきた。
但し、かなり奇怪ななりを見せていた。
やってくる○○の両手両足、さらには背中にまで。とにかくありとあらゆる所にイナバが張り付いていた。
頬には簡単な絆創膏が貼られていた。絆創膏の下の傷跡の事を考えると、永琳の心中がぞわっと騒いだ。
輝夜の意にそぐわない事をしているてゐと違って。○○は輝夜の思い人であるから、イナバ達にとっては物凄く扱いに困っていた。
かと言って、何もせずに辺りをうろつかせるのも得策ではないような気はするし。
だからと言って、庭先のてゐのように無理矢理羽交い絞めにするわけにもいかず。
その折衷案としてイナバ達がはじき出したのが、このように全身にまとわりつくことだった。
しかし物理的な意味で、まとわりつく数にも限界と言う物があった。
定員を超えてしまった分は、後ろからぞろぞろと付いて来て。さながら大名行列のようだった。
「○○さーん……向こうで大人しくしてて欲しいんですが……」
「私たちも、姫様が怖いんで……」
「いやほんと……お願いしますよ」
「○○!?」
○○の名を聞いて。意気消沈して、口も動かなくなり久しい輝夜から、久しぶりに大きな声が漏れた。
しかしそれは喜びの声ではなかった。焦りや驚きの声だった。
「輝夜、それに永琳先生」
「あっ……姫様に師匠だ」
「ねぇ、これ降りたほうが良くない?」
「皆、降りた方が良いって……何か不味そうな空気だよ」
不穏な空気を感じ取ったイナバ達が、ぽろぽろと○○の体から降りていった。
しかし、場の空気は相変わらず不穏なままだった。
輝夜の体がガクガクと揺れて、歯もガチガチと鳴り。涙目まで浮かべている。
そんな様相を見せる、永遠亭の主がいるのに。空気が良くなるはずもない。
今の輝夜は悪い方向にばかり想像が傾いている。ろくに確認もしていないのに、自分は○○に嫌われたと結論付けてしまっていた。
蓬莱人の業から来る死闘を、直にその目に焼き付けてしまった事が。
○○も地上人だということを忘れて、妹紅に下賎な地上人と言ってしまった事が。こちらは実際に聞かれていないのに。
何処かで○○の事を下に見ていたのではないかと言う疑心暗鬼が。
そういった悪い妄想で、輝夜は自分で自分を追い詰めてしまっていた。
「嫌あああ!!!」
そんな悪い妄想をはらんだまま、○○と対峙してしまう事に耐え切れず。
ついに、輝夜は泣き叫びながら永琳の背中から飛び降り。
逃げ出してしまった。
最終更新:2014年03月18日 11:10