「ここだ……じゃあ後は」
案内されたのは特に変わった所も無い、あいそもこいそも無い普通の小屋だった。
外観から予想するに。部屋が一つと風呂場程度しか無さそうだった。
周りには似たような家屋がもう何件か存在している。しかし居住性など皆無のたたずまい。
要するに、そういう事をする為だけの場所なのだ、ここは。
男はと言うと、併設された小さな掘っ立て小屋にそそくさと入っていってしまった。
それと入れ替わるように、遊女が出迎えてくれた。
人相書き通りとまでは行かないが、落胆するほどの差は無かったので少しばかり安心した。
遊女に下手な事をしでかさないように、監視と威圧を放ち続ける役は絶対に必要だが。
かと言って、傍でずっとまじまじと見るわけにも行かない。春という商品の性質上、雰囲気は絶対に必要だった。
むさい男が視界に入るようでは、楽しめる物も楽しめなくなる。かと言って、監視と威圧は客にも与え続けなければならない。
その折衷案が、あの真横の掘っ立て小屋なのだろう。
しかし掘っ立て小屋には、はたから見る分には何の変哲も無い。
真横に立っているわけだから、声で不測の事態を知らせることができるだろうから。見えなくても問題はないのだろうか。
だが、そういう事をしている音やら声が筒抜けと言うのも、それはそれで気にならないわけではなかったが。
「あなたがお客さんね。じゃあ、中に入りましょう。もうお湯も沸いてるから」
だが、頭の隅っこで考えていた懸念など。遊女に絡みつくような仕草で腕を組まれて。
そうして、淫靡な匂いが鼻腔を付いた事で。あっという間に、何処かへ吹っ飛んでしまった。
「先に、お風呂ですか?」
「あら、貴方。女慣れはしてそうだけど、こういう所は始めてみたいな反応ね」
少し意外な人間が来たなと言う反応を見せたが。そこは会話術と言う奴なのか。決して悪い風には思わせ無いような声色を巧みに駆使していた。
声と言い、体の使い方と言い。遊女が色々と、演じているなと言うのは分かる。
だが、このケレン味の強い感じは。不思議と嫌だとは思わなかった。
そういう物だと分かりきっているから、なのだろうか。火遊びとは言え、所詮は遊びだと分かっているから、あまり鼻に付かずに済んでいた。
「ええ、まぁ。なので気の利いた事は何も出来ないと思いますが……」
至らない点を心配した言葉を使うが。遊女はそんなこと何処吹く風と言った具合に、○○の体のあちらこちらを触ってくる。
衣服の隙間から、肌身をすっとなぞったりするのは勿論の事。
衣服の上からだったとは言え、下半身への接触もしきりに行っていた。
どうやらあの色眼鏡の言う通りらしい。確かに、半端な遊女は扱っていないようだ。
春を買うにしては安かったかもしれないが、普段の金銭感覚で言えばそれなりの額ははたいたのだから。
これぐらいは、やって貰わなければ困る。
あの色眼鏡、腹の底では何を考えているかは分からない奴だが。少しだけ評価を見直していた。
これぐらいの程度の春を供給してくれるなら、次もアイツから買ってやっても良い位にまでは、軟化した考えになっていた。
「ええ、そうなのよ。建前はここまで歩いて疲れてるだろうし、汗なんかも流す為。まぁ衛生的に、ってのが本音なんだけど」
そう言えば、何となく遠回りをさせられている気がしたが。あれは風呂の入る口実を作る為だったらしい。
ケラケラと笑いながら、まぁ貴方ならここまで言ってしまっても笑い話として受け取ってくれそうだから。と身も蓋もないことを喋ってくれた。
しかし、衛生観念が高いのは立派だった。常設の場所を持たぬだろうから、これと言った設備も無い物と覚悟していたが、案外そうでもなさそうだった。
「久しぶりに、話の分かる御仁ね。でも外で喋ってばかりじゃあ、話もそこまで進まないわ」
そう言って、撫でさする程度だった身体接触もここに来て本領を発揮しだした。
服のボタンを一つ二つと外して行きつつ、小屋の方向へと誘導して行っていた。
「貰う物は、ちゃんと貰ってるから。お客さんも出すだけ出さなきゃ損よ」
○○の顔にも、愉悦の表情が浮かび上がる。
○○は言われるがままに風呂へと入った。
かかり湯をして、湯船に入っていると。薄い戸を隔てた向こう側に、遊女が立つ気配が感じ取れた。
「待っててね、今行くから」
胸が躍る気持ちと、初めての緊張感を同居させながら。いずれはこの気持ちにも慣れと言う物が、この心臓の高鳴りを少なくするのだろうか。
通い続ければ、いつかはそうなるだろう。そうなった時の事を考えると、少しばかり寂しさを感じる。
だが、そんな情緒的な気分も。薄い戸の向こう側から聞こえてくる、脱衣の際に衣服が肌とすれる音にかき消されてしまった。
衣服のすれる音が一つ聞こえてくる度に、○○の胸の高鳴りは大きくなっていくが。
「あら……風かしら?」
不意に、何の前触れも無しに簡素な小屋を何かが叩きつける音が鳴り響きだした。
今日の天気は、外を歩いていた時もそうだったが、荒天になるような怪しい雲は一つも見られなかった。
この風も、突然の突風にしては長く続きすぎている。
いぶかしんでいると、雷でも落ちたかのような轟音が辺りに鳴り響いた。
轟音は、外から。丁度、男がそそくさとは入っていった小さな小屋のあたりから鳴ったように思えた。
「あんの、色眼鏡ぇ!!俺達をはめやがったなぁ!!!」
状況を確認しようと、格子窓から外を覗くと。先ほどの、自分を案内してくれた男がわき目も振らずに走り去るのが見えた。
走り去りながら、酷く誰かを罵るような口調で。誰かを罵倒する言葉も一緒に聞こえてきた。
横切る男の顔は、ほんの一瞬しか見えなかったが。その目は酷く血走っていて、明らかな敵意。
その敵意の最大級とも言えるであろう、殺意のような物を確かにまとっていた。
幸い、通り過ぎた男は外を覗く○○には気付かなかったので。その目が○○に向く事は無かった。
そして、格子窓の外を男が辿った軌跡をなぞる様に、光った何かが通った事で。
もう未来永劫、○○は男の顔に映し出されていた。あの恐ろしい形相を見ずに済んだのであるが。
そこまでは、頭が回らなかった。
「まさか……あんたが普段付き合ってる女って―――
何かに気付いた遊女の声は暴風雨が地面を打ちつけるような音と、暴風雨のような物で天井が一気にはがれる轟音でかき消されてしまった。
彼女たちがここまで派手に暴れたのには理由はただ一つ。
ここまで大きな音を出せば、色々な声をかき消す事が出来るからに他ならなかった。
遊女の声が聞こえなくなったのを区切りに。先ほどまで響いていた音の数々は、不気味な程に鳴りを潜めていた。
何が起こったのか。そして、あの男と遊女はどうなったのか……それを確認する為に○○は風呂と部屋を繋ぐ薄い戸を開け放ったが。
戸の向こう側には、何も無かった。ただ殺風景な地面があるだけで、男の入っていた小屋も、風呂の向こう側の部屋も。
そして、それらがあったと言う痕跡すら。全てが消えてなくなっていた……あの男と遊女も含めた、全てが。
そして、遊女と案内役の男と、建物の代わりに。
輝夜、永琳、鈴仙、てゐ。この四人が立っていた。
○○の姿を見て、四人ともが何故か安堵のため息のようなものを一つ、大きく付いていた。
不味い事が起こった。輝夜たちが何故ここにいるかは分からなかったが。それだけは、はっきりと分かった。
鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、言葉を出せずに。しかも先ほどまで風呂に入っていて今は全裸なので。
○○は全く動けずにいた。
その静寂を最初に破ったのは、輝夜が歩みを進める音だった。最も、服を着ていたとしても、一番最初に動けたのは輝夜だろうが。
「こんの、馬鹿あああ!!」
そして十分近づいた所で、開口一番で罵った後。勢いのある平手打ちが、○○の頬を襲った。
勢いよくはたかれた物だから。○○は姿勢を崩して、ばたんと地面に倒れこんでしまうが。
倒れていくまでの○○の表情は非常に、もう天にも昇るような面持ちであった。
「もう、私の負けでいい!平手打ちの一発や二発で、買わずに済むなら。いくらでもやってやるわ!」
夢にまで見た、輝夜からの折檻。そして、これからも続けてやると言う宣言。
○○は痛みに身悶えしながら、最早諦めていた言葉をぶつけてくれる輝夜の声を聞きながら。
そして、嫌われていた訳ではなかったと言う確かな証拠を見つけることが出来て。
絶頂の余り、意識を失ってしまった。
そして、四人は寸での所で。○○を奪還することが出来た。
幸いにも、まだ始まってはいなかったが……この汚らわしい記憶が存在する事を永琳が耐えられなかったらしく。
永遠亭に帰ってもまだ夢の中にいた○○に対し。
投薬と、強力な暗示によって。その日の記憶を、あやふやな物にしてしまった。
「えー、それじゃあ姫。てゐと鈴仙が作った、これからの○○との付き合い方に関する文章を読むウサ」
「例え姫様であろうと、この文章の中身。覆させませんからね」
数日後。輝夜の部屋にて、改まった面持ちの鈴仙とてゐが、何事かを輝夜に申し渡そうとしていた。
それを受け取る側の輝夜は、沈痛な面持ちで。
「これ、必要?もう私の負けで良いから……その文章もちゃんと読むから」
「駄目ですよ、姫。こういう事は改まった場で宣下して心に刻んでおかないと」
嫌々てゐと鈴仙の話を聞こうとしている輝夜に対して。どういうわけだか永琳は、輝夜の肩を持たなかった。
しかし、その顔に真剣さは余り無かった。
理由は、恐らく。○○を座布団代わりに、尻に敷いているからであろう。
敷かれている○○はと言うと。これまたはじけんばかりの、まぶしい笑顔であった。
「まぁ……姫様が、と言うか。私も早く○○さんと遊びたいんで、ここは要点だけ言っておきますね」
「穴を隙無く埋める為に、言葉の端々にいたる表現まで気を使ってしまったウサ」
「その結果が……その分厚い辞書みたいな量な訳ね……」
げんなりとした表情で、輝夜は鈴仙とてゐが持ってきた紙の束に目をやった。
その分厚さは、一流の鈍器としても使用可能であろう。それぐらいの重みも、見ただけで分かるぐらいの雰囲気であった。
本来輝夜がこういう様子を作ったら、永琳から何らかの合いの手が一言二言入りそうなものだったが。
ここは鈴仙とてゐに任せると言う建前の下、○○の頭をグリグリしたりするの欲望の解消に忙しくて。
輝夜の事は、殆ど構っていなかった。
ちなみに、この○○座布団。誰が使うかと言う話は、残酷にも輝夜の前で決めた。
「ちょっと!私は除け者!?」
と言う抗議の声を上げながら自分も混ざろうとするも「「当たり前です!!」」と鈴仙とてゐから同時に叱責されてしまった。
結局、厳正で公平なじゃんけん勝負の結果。○○座布団は永琳が使えることになった。
この結果に、鈴仙とてゐは本気で悔しがり。勝負に参加すら出来なかった輝夜は、意気消沈していた。
未遂で終わったとは言え。○○が、あわや自分達以外の者と肌を合わせようとした。
その窮地を作ったのは、輝夜がヘタレ状態で○○と会おうとしなかったから。
少なくとも、鈴仙とてゐは今回の危機の原因を輝夜のヘタレ根性にあると見ていた。
その為、輝夜の前で○○の被虐思考を満足させると言う。生殺し的な処置を加える事にしたのだ。
その効果は絶大なようで。輝夜はしきりに、○○の方ばかり見ていた。
「ほら、ヘタレ姫。さっさと前を向くウサ、これ渡したら姫も混ぜてやるから」
「えー、じゃあ。一番言いたい事だけ言いますね、全部読んだら長いので」
早くしろと、野次を飛ばしてやりたかったが。野次を飛ばせばまた長引くので、輝夜はぐっと堪えていた。
「じゃあ、発表するよ。耳かっぽじって、神妙に聞け、ヘタレ姫」
「姫様……これからは。○○さんの被虐嗜好を満足させる事を」
「「絶対に、妨害するな!!」」
「分かったわよぉ……今回は私も悪乗りが過ぎたって反省してるからぁ……」
「ついでにヘタレ化も反省してほしい物ウサ」
それも反省してるからぁ……滅多に見ることの出来ない、蚊の鳴くような声で小さくなる輝夜がそこにはあった。
「ねぇ……早く私も混ぜてよぉ。この辞書のような鈍器のような物体もちゃんと受け取ったから」
最終的には、勿論輝夜も仲間に入れるのに変わりは無かったが。
それでも、やはり。まだ少しは輝夜を焦らしてやりたいと言う、悪戯心が鈴仙とてゐにはあった。
春は買わせない 了
最終更新:2014年03月18日 11:12