指定されたのは翌日の夜。
渡された紙片に記されていた行先は人里の大通り奥。
一際明るい洋灯が看板を照らしているそのカフェは古くからある建物を洋風に改装したものと見えて外界の大正期を思わせた。
日が落ちているにも関わらず店内には多くの客と活気がある。
 女給は二階の窓際の席へ俺を案内した。
 多くの客で賑わっていても酒屋とは違い人々は声を落として談笑している。
この様な互いに会話を漏らすまいとする暗黙の了解があるために喫茶店という場所は寛いだ商談やささやかな密談に使用される。
 この店にも外界と同様の掟がある事が俺に僅かな懐かしさを覚えさせた。
 椅子に腰掛けて窓の外を見ると、人里の明かりが暖かく見える。そしてその先には光の届かない山々や原野が黒々と広がっていた。
 黒い景色を見飽きた頃、待ち人の声は唐突に俺の背を打った。
「あらあらまぁまぁ。懐かしいですね。お久しぶりです。このお店、最近では外来人の方も来られるんですね」
古岩が清流の雫で濡れたような。即ち上質な墨の香りがした。
阿求の着物の匂いだ。
 振り返ると静謐で閑雅な香りを纏って稗田阿求はそこにいた。手にはその髪色と同じく深い紫色の袱紗包みを持っている。
「阿求、体調が悪いのか。顔色も酷い」
 阿求はにんまりと笑みを湛えていたがその顔色は土気色になり目の下には深い隈が彫り込んだように幾重も刻まれていた。
その血の気の失せた顔と黒々とした隈はまるで死人のそれであった。
「いいえぇ。体調は頗る良好ですよ。何しろ今日は貴方とお話し出来るのですから」
 それでも、その顔は確かに笑う形に歪んでいる。滲み出る苦悩の痕跡さえ無ければ溌剌として見える程の笑みの不調和は痛ましくさえあった。
俺の驚きを気に掛ける事も無く阿求は向かいの席に腰かけた。
「ところで御一人なのですね。外来人の御友人は? 他にもええと、何でしたか? そうそう――貴方の事を蔑む事無く見てくれるこの里の者たち……と御一緒ではないのですか? 
お困りのようですね色々と。話してくださいませんか? 微力ながらお力添え出来ると思いますが」
 俺は阿求の嫌味に答えなかった。
「ところで注文は済ませましたか? このお店は紅茶とケーキがとっても美味しいんです。是非御賞味下さいな。私の御勧めは――」
「俺は結構だ」
 阿求は実に残念そうに苦笑すると傍らに立った女給に注文は後回しにする旨を伝えた。その常と変らぬ柔らかな物腰、何も知らなければ思いやりに満ちて聞こえる言葉の影に俺は花に埋もれた針のような鋭さを感じた。
あの日、座敷を出る時に向けられた阿求の怒りは全く静まっていない、どころかこの数日で淀み、凝り、滾って更に強まっている。
「それで今日は何の用だ? 」
「……今日は」
 阿求はその不自然な痛ましい笑みを面に張り付けたままだった。が視線だけが一瞬ちらりと膝の上に抱えた袱紗包みに落ちた。
「……今日は、貴方はもう私の事を嫌な女だと思っていらっしゃるでしょうから、どうせなら存分に嫌われてやろうと思って。それで来たのですよ」
 く、く、く。
 まるで愉快な冗談を聞いた時のように阿求は俯いて忍び笑いを漏らした。しかし俺には精一杯笑いを堪えて肩を震わせる阿求の姿が今にも消えそうに儚い造形物に見えた。
「そうそう実は貴方を稗田家で飼おうと思います」
 ふぅと息を整えて一層笑みを深めた阿求はまるでなんでもない事のように言った。
「断る」
「断れません」
 俺の即答に即答で返した時、既に阿求の面から深く張り付いたような笑みは消えていた。その代わりたおやかな微笑がその頬を僅かに持ち上げた。
「まだ、お分かりでないようですね。今の貴方への圧力など私を無視しないで欲しいという単なるお誘いのような物ですよ。今後、貴方がどうなるか教えて差し上げます。
ああ、でもその前に……大事な話ですのでお人払いを……失礼、大変申し訳ありませんが席を外して下さい」
 俺は最初俺たちの席の傍に立った女給に言ったのだと思った。
 しかしそうではなかった。
大声では無かったにも関わらず阿求が言葉を終えた瞬間、ぴたり、と店内の喧騒が止んだ。
ざわめきが途絶えた瞬間の静寂は耳に痛い程であった。
ガタ。ガタガタ。
ガタガタガタ。
 椅子を引いて席を立つ音が聞こえる。全ての席から。

満席に近かった店内から客たちはまるで潮が引くように次々と退出していった。
人々に恐慌の色は無く、穏やかな落ち着いた様子で密やかな声で談笑を続ける事さえしながら、しかしまるで何かの機械のように規則正しく一列になって失せて行く。
 何も言う事無く。こちらを見る事すら無く。
 俺は去っていく人々の背を信じ難い気持ちで見送った。
幻想郷で数多の超常の異能を見てきた。だが今人々は異能に操られて席を立ったのではない。それが今まで見たどんな妖怪の異能より俺の心胆を寒からしめた。
「さて、このまま貴方が意地を張り続ければどうなるのかというお話ですね」
最後の客が出ていくのを見ながら阿求が口を開いた。
「まず、貴方は数日のうちに事故に遭われます。酷い怪我をなさるかもしれません。御独りで働くのも生き抜くのも良い事ですが健康な御体があっての事です。
お手洗いに行く事もままならない足腰では生活は困窮なさるでしょう。ですが御安心下さい。私と貴方の仲ですから、すぐにでも助けて差し上げますよ。ずっと私が御世話しますから御心配無く」
 二人きりになった店内に淡々とした阿求の脅迫が響いた。
「或いは、貴方は不幸にも盗みや傷害の疑いで人里の自警団に捕縛されるでしょう。もちろん私は冤罪だと信じていますよ。しかし法は法ですから貴方は過酷な取り調べを受ける事になるでしょう。もちろん心配は要りません。
どんな法にも抜け道はあります。権力を持つ者にとっては特に。これも簡単にお救いする事が出来るでしょう。ですが凶悪犯かもしれない貴方を匿うのですから人目を避けて私の部屋から出すことは出来なくなりますね」
 その顔からはいつの間にか微笑すらも消え全く表情というものが喪失していた。こんな所は変わらない。阿求はいつも人前では能面を被る。いつも二人きりになった時だけその本性が顔を見せる。良くも悪くも。
「またある時は、貴方は神隠しに遭って消えてしまうでしょう。幻想郷の、それも人里の中の人間を神隠しにするような凶悪な妖怪の噂など聞きませんか?  これから作るのですよ。御安心下さい。もちろん貴方は死にませんよ。
ただ誰も貴方を見つけられないだけなのです。きっとどこかの御屋敷で貴方の良く知る少女と幸せに暮らしている事でしょう」
 表情という能面を失うと阿求の顔には、よりはっきりと心労が現れ僅かな生気すら消えて痛ましさを一層増した。一月と余命が無いと言われても俺は信じたかもしれぬ。
「これらは全て本当にやってしまおうかと思った事。一度は真剣に数日以内にも実行してしまおうか悩んだ事です。こうしなかったのは偏に私が貴方を傷つけたくないからです。その気になればいつでも出来たのですよ。
ただまぁ私にも忍耐の限界というものがあります。貴方がいつでも手の届くところに居ながら手を拱いているなんて気が狂いそうです。貴方がまだ私の所へ来て下さらないなら明日にでもそうなるでしょう」
 生気の消えた目が俺を見据えた。死の匂いを纏う今の阿求の視線には捕食対象を見る蛇のような冷たい威圧がある。
だが阿求は今の脅迫の実行を欲していない。だから俺に話したのだ。
「いいや。それは嘘だ。お前には出来はしない」
「へぇ? 何故でしょうか? 」
「そんな事をされて俺が大人しくお前に飼われていると思うのか。毎日のように暴れるぞ。お前はそんな関係を望んではいない」
「いいえ。貴方はすぐに私に跪いて、頼むから一緒にいさせて欲しいと懇願するようになりますよ。自発的にね」
その意味を判じかねて俺は沈黙した。
「まだ単なる脅しだと思っていらっしゃいますね」
 無表情だった阿求の瞳に駄々を捏ねる幼子を見るような苛立ちが宿った。
「分からせてあげますよ。無知なるものに知恵を授ける事で名を成したのが稗田家です。貴方はもう私の掌の中。私が居なければ生きていけないのです。
許しませんよ。一人で生きようだなんて我儘は。私がその気になれば貴方にもう自由なんてないのです。ほら良く見えますよ、窓の外」
――御覧なさい。
火だ。
阿求が指さした先は人里の外。遥か遠くの夜空にじっとりと昏い紅が、闇色の衣に染み付く血のように燃えていた。
人工の輝きが無い夜を照らす燎原の火は霞む程彼方にあってなお、その炎熱を肌に伝えんばかりであった。
煙の上がる方角には覚えがあった。ここ最近はずっとあそこが仕事場だったのだ。
毎日のように。原野を切り拓き、巨木を切り、石を除き、切り株を掘り起こして、地を均し、そしてあの土に鍬をいれた。妖怪に喰われる危険を冒しながら、仲間たちと共に。

「単なる野焼きではありませんよ。妖怪を祓うためです。もちろんあの土地の地主とも周辺の知恵ある妖怪たちとも穏便に話は付いています」
 俺の刻苦の結晶を舐める阿求の火の群れは感動的で美しくさえあった。
「土地の所有者は金を払えばすぐにでもと売ってくれましたし、妖怪たちにとっても人里に近過ぎる荒野一つどうでも良かったようです。獣同然の下級妖怪を少し人里から遠のかせる為だと言えばすぐに承服の通達があったという事ですよ。
ああ、火の始末についても御心配なく。野焼きに慣れた人手を使いましたから。それに夜からはまた雨だそうですよ。傘はお持ちになりましたか? 」
 その遠い火の災を眺める衰弱した阿求は炎の紅よりなお美しく。
「何を驚いているのです。稗田家をただの土地と家名だけを頼りにした地方豪族とでも思いましたか。言った筈ですよ。我らは知恵を授ける者。遥かな古より巫覡に武人に、妖と戦う知識を授けその術を伝え編み上げてきた家ですよ」
 その声の超然とした響きも神に等しい荘厳さで耳を打つ。
「特別な力など無くても人はずっと妖と共にあったのです。博麗の巫女のような強力な力が無くとも妖に対処するための千の儀式、万の術式がこの頭の中に入っています。あれら程度の卑小な妖ごとき祓い滅する事など稗田家にとっては造作も有りません」
 俺の人生に掛けられた火でさえなければ美しい少女と二人、向かい合い眺める静寂の景色の中には調和すら存在した。
「もちろん普段はその力を振り翳して無闇に妖を祓う事などしませんよ。互いに畏れ敬うからこそ人も妖もこの幻想郷で永らえているのです。
しかしあの土地にしばらく妖怪が寄り付かないようにする儀式を行う為には最初に妖気の染み付いた土や植物を浄化しなければならなくて止むを得ず焼く事になりました。滞りなく儀式を行えるかどうか、今日は私が直接あの土地を見て回って来たのです。
それで畑の中も丁寧に回っている間に……可哀想な事ですが」
 阿求の目は窓の外から俺に戻った。笑っている。
「貴方が手塩に掛けたであろう作物も火を放つ前に私が全て踏み潰してしまいまして」
 今度は能面の笑みでは無い。心から楽しそうに。
「あら嫌ですね。こんなに足が汚れてしまっていたなんて。恥ずかしいです……。替えの足袋を持って来ていて良かった。ねぇ、不躾ですが」
 ぱさり、と軽い音を立てて俺の前に真白い一揃いの足袋が軽く投げて寄越された。
「履き替えさせてください。そこに跪いて」
 動かない俺に阿求は続けた。
「言う必要も無いかと思っていましたが。貴方のお仲間が働いている時に火を掛ける事も出来ました。全員の身辺調査も済ませましたがどこからも文句は出なかったでしょう。
もちろん幻想郷にそんな惨い事があっては私も心苦しいのでしなかったのですよ。意味が分かりますか? 」
 俺はその言葉に動かされて立ち上がった。
 席を立って阿求の前に跪いた。
どうでも良かったはずだ。
人里にも、妖怪にも、幻想郷の管理者たちにも、そして稗田家にも。
あの荒れ地が田畑になろうが、野良妖怪の縄張りであろうが、焼け野原になろうが。
だが阿求にとってはそうではない。
あの土地が俺の糧であったから。俺の汗の染み込んだ努力の結晶であったから。貧しさにも孤独にも折れる事無くこの異郷で一人生き抜いた証であったから。
 誰にも頼ることなく生きたという俺の誇りなどその気になれば野の草を踏み潰す様に壊してしまえる。それを俺に示す為だけに阿求はあの土地を焼いたのだ。
 手に取った阿求の小さな足を露わにするとそれは雪のように白く手の中で溶けてしまいそうだった。
「まぁ、御親切にありがとうございます。賢明ですよ。これであの土地で働いていた貴方のお仲間たちには幾許か補償金が出るでしょう。
地主の都合に左右される日雇い人とはいえ急に職を失っては大変ですもの。ねぇ、貴方もそう思いませんか? 」
 その声には隠しきれない暗い愉悦が滲み出ていた。
「お返事ぐらいして下さいよ。悲しくなるじゃないですか」
 答えなかった俺の肩を不意に身を乗り出して阿求が掴んだ。その細腕からは想像も出来ない強い力で蝋のように白く儚い指が衣服を素通りに俺の肉に食い込んだ。
「返事をしなさい……! これから、私が貴方に問い掛けたら……! 必ず! 」
 瞬時に先程までの余裕が掻き消え、身を乗り出した阿求は憎しみさえ感じさせる表情で俺を間近で睨みつけた。

俺が口の中でああ、と短く返事をすると再び椅子に背を預け満足げに微笑む。
「ふふふ。ああ、いいですねぇ。これは。貴方を私の自由に出来るなんて。……さて、これからの事を考えましょう。今度こそ私たち二人でね。これからは毎日私の御役目の手伝いをして下さい。
不幸にも今の人里で貴方を雇う人はいないでしょうから。ああ気にしないで下さい。私たちのような特別な間柄の男女にとって窮状を救うのは当然でしょう」
「俺に何をさせたいのだ」
「私とお話して下さい。それだけです。……ああ、それから午睡の際には膝枕をお願いします。それと御食事を私と一緒にとって下さい。私いつも一人で食べているので」
 生気の無い阿求の頬が紅潮して蕩けそうな笑みが浮かんだ。
「ああ……くふふっ。これからの生活がとっても楽しみです。ふふふ、そんなお仕事は嫌なのですね、分かりますよ、お顔を見れば。貴方はとってもお強い方ですもの。貴方を孤立させようと人里に手を回した時に良く分かりましたよ。
想像以上に多くの人や場所に根回しをしなければなりませんでしたから。如何に貴方がこの里に受け入れられ生き抜こうとしたかの証明ですね。謝りはしませんよ。むしろ非常に腹立たしかったです。私の関わりの無い多くの場所に貴方の居場所がある事が。
でもそんな貴方が今日からは私の屋敷で飼い殺しです。それはそれは悔しいでしょうね」
 俺が履き替えさせた真白い足袋をゆっくり眺め履物に足を戻した阿求は跪いた俺から再び窓の外へ視線を移す。
「私には生まれた時から御役目がありました。自分でも良く務める事が出来ていたと思います。御阿礼の子としての役職は滞りなく稗田家の富も権力も濫用せず。それらに驕ることなく役目に励み人々を蔑ろにする事無く。
でもそれは、貴方を知らなかったからなのでしょう」
 阿求は夜空に立ち上る黒煙の先を見るより更に先、星を見るように遠い目をしていた。あの星々が光を発した頃より続く先祖からの生き方に思いを馳せるかのように。
「良いじゃないですか。たった一つぐらい我儘を言って無理矢理に手に入れたって。短い一生に一度、初恋を叶える時ぐらい傲慢になっても許される筈ですよ。幻想郷の和を乱すわけでもないですし。私はずっと良い子だったのですから。ねぇ、そう思いませんか? 」
 俺が何かを答えるより早く阿求はぽつりと呟いた。
「……絶対に一人になんてさせてあげませんから」
 その最後の一言こそは阿求にとってほとんど無意識の内に吐露した心情に違いなかった。
その言葉を聞いた途端に俺は立ち上がっていた。
「阿求」
「誰か立って良いと言いましたか」
「俺を自由にしてくれる訳には行かないのか。俺はこれまで通り自分の意志でお前に会い話をしたい。誰にも強制される事無く」
「おやおや、怖くなってしまいましたか? 耳触りの良い事を並べても駄目ですよ。その場凌ぎだってちゃんと分かるのですから」
「確かにお前の言うとおりこの里で生きる限り俺はお前の掌の中にいるに等しいのかもしれない。だがお前に逆らう方法が一つ有る。阿求、俺は」
 阿求は俺の顔をじっと見詰めて動かなかった。
「この里を出て妖怪と共に生きようかと思う」
長い、永い無音があった。張り詰めた空気はまるでどんな言葉でも差し挟む余地を許さないかのように冷たくなった。
「人の世に住み難ければ人でなしの世に引き越そうという訳ですか」
 沈黙を破ったのは阿求であった。
「愚かしいですね。人の世が住み難ければ人でなしの世は更に住み難いのが道理というものです。妖怪たちの都合の良い甘言に惑わされているのが分からないのですか? 率直に言って心底呆れました」
 下らない話を聞いたというように阿求は溜息を吐いて首を振った。その人形のような指がこつこつと卓を叩いた。
「全く……良く知りもしないでどうしてそんな重大な決断が出来るのか不思議です。妖怪と暮らす事がどれほど危険か考えたのですか? 」
誰にも分からないだろう。
表情にも仕草にも声音にも僅かな波すら立たない。御阿礼の子として知恵の体現者として言葉を続ける阿求は何処から見ても凪の水面のように平静である。
だが俺には分かった。誰にも分からなくても俺には。
阿求がどれほど動揺しているか。その心の軋みが。
己の心の軋みのようにはっきりと。
「博麗神社から帰還する儀式に何故多額の金子が必要なのか分かりますか。いえ、霊夢さんが懐に入れている訳では無いですよ。それならもっと裕福でしょう。もちろん一時的に大結界を歪める儀式の支度やその道具に必要な経費も有りますが。
しかし大部分は貴方たち外来人からの搾取を目的に人里と幻想郷の賢者たちの間で取り決められた密約のせいなのですよ」

御阿礼の子は流れるように言葉を紡いでいたが決して無感情では無くなっていた。阿求と話続けた俺には分かる。言葉の端々に微かな微かな震えがある。
「この帰還の為のお金を賄おうと貴方たちは外来人にしか出来ないしやろうとしない仕事で必死に働き幻想郷に貢献する。それこそが目的なのです。またその厳しさが貴方たちに帰還を諦めさせ余所者の外来人から本当の幻想郷の人間になる道を選ばせる事にもなる。
どうしても帰還を諦めないのであれば今までの貢献全ての対価を幻想郷に還元して帰らせる。どう転んでも幻想郷に得なのですよ。全て貴方たちから体良く搾取する事が目的です。妖怪たちも人里も全て承知の上での取り決めなのです。
そんな人たちが本当に信用出来ますか。ですからよく考え直して……思い出してみてください」
 話す内に冷淡な声音は消えていた。代わりに何かを祈っているような隠しきれない哀しみの響きが現れる。
「この数日。多くの人妖と出会い話したでしょう。彼らは何と言っていましたか? 心配して親身になっていたでしょう。心から怒っていた人もいたでしょう。この里の為に。幻想郷の為に。稗田家の為に。そしてこの私の為に。
ですがその中にたった一人でも………………貴方の為を思っていた人はいたでしょうか」
――辛い役目を背負った子じゃ。恋ぐらい自由にさせてやりたい。
――御阿礼様に謝ったのかよ。
――頼まれたんだ。お前を説得して欲しいと。
――幸せになって欲しいに決まっているでしょうが。女の子なんですよ。
「お分かりですか? ここはここに住まう者たちにとって確かに楽園ですが、貴方たち外来人にとっては違います。誰も貴方たちの事まで気に掛けていません。……何処にも、楽園なんてありはしないんです……! 」
 最早、阿求は取り繕う事を止めていた。極まった哀切が阿求に躊躇ない言葉を話させている。
「誰も! 貴方の事を本当に思ってはいないんです! ただ一人この私を除いて! 」
 震えは一層大きくなりついには叫びになっていた。
「それで」
 駆け引きの要素など全て捨てて何もかもを曝け出したような阿求の叫びに俺はただ問い返した。どうすれば子供の機嫌を取れるか分からぬ親のように。
「それで、俺にどうしろというのだ。阿求」
「や……」
 じわりと阿求の瞳が潤んだ。
「……やめてください、よう……」
涙が。
「人里の外に……妖怪の所になんて、行かないでくださいよぅ」
 流れた涙をそのままに拭う事もせず、崩れ去った御阿礼の子としての威厳も気に掛ける事無く阿求は俺に懇願した。
「私だけが、貴方を想っているんです。純粋に貴方の事だけを。だから、他の人ではなく私と……私といて下さいよ……。もう、もう会えなくなるじゃないですか。貴方を見守ったり、お話したり、我儘をきいて貰ったり出来なくなるじゃないですか。
な、何でそんな事するのですか。そんなに私が嫌ですか……私の、手の届かない所に行かないでくださいよう」
 しゃくりあげるのを一生懸命に耐えて必死に言葉が乱れないように俺に言葉を紡ぐ阿求の姿は年齢よりも更に小さい幼子のようで、俺は胸を抉られるような心持がした。
「ここに。どうかここにいて下さい。……私が」
 そして涙声を必死に堪えながら阿求は俺に一生忘れられない事を言った。
「私が貴方の楽園になりますから」
 俺はしばらく呆然となった。様々な感情や外界や幻想郷での記憶が阿求の言葉に揺り動かされたように氾濫していた。
 ほとんど立ったまま意識を喪失していたに等しい。
「行かせませんから……! 絶対に、何処へも! 貴方を失うぐらいなら、今すぐに貴方を手に入れます」
気付いた時に最初に目に映ったのは阿求の涙だった。その瞬間、今の状況もこれまでの阿求とのいざこざも全て忘れて俺はただ阿求の涙を拭おうと手を伸ばしていた。
恐らくその時に俺の腹は決まっていたのだ。阿求の想いに答えるかどうか。
 しかし、その手は他ならぬ阿求の涙で濡れた手によって払われた。
「やめて下さい……優しい振りは。私の想いなんていらないのでしょう。この場を切り抜けようとしているだけなのでしょう。そうして何処かへ行ってしまうんでしょう」
「阿求。俺の手はもう蛇にしか見えないのか」
「だって、だって……今まで。……今までの事は全部私の勘違いだった。想いあっていると思っていたのに。私たちの関係は、愛していたのは、ずっと、ずっと私だけでした」
 俺が阿求に気付かせた認識の齟齬は阿求に深い傷を残していた。
「嫌、嫌、嫌です。貴方の方から手を伸ばさないで。どうせ、どうせ助かろうとしているだけなんですから。私の事が嫌いなら貴方はただそこにいて下さい。そうすれば私が、私が手を伸ばしますから……」

「阿求。俺は」
 阿求の手を握りたいと思った
何としても。
「こ、来ないで、来ないでください……! 」
 阿求はまるで歩み寄る俺を恐ろしい魔物であるかのような脅えた目で見ていた。阿求を安心させてやりたくて更に一歩を歩み寄った。
「ゆ――」
「紫様ぁっ! 」
 阿求が母に助けを求めるように叫んだ瞬間、俺の足元の地面が生き物の口の如く裂けた。
地に現れた空間の裂け目の先は真っ暗な暗黒であった。
下すべき所に下せなかった俺の足は宙を踏み抜きその暗渠に沈み込んだ。
八雲紫の仕業、と即断して俺は裂け目に手を掛け脱出しようと身を捩った。だが、裂け目はそれすら予期していたかのように一気に倍ほどまでに広がり俺の手を払い落とした。周囲から光が消えた。

「目が覚めたかしら。余り手荒な事はしないで貰いたいわね」
 深い闇の中で八雲紫の声がした。声だけで姿はない。
 目を開くと何もないただ真っ暗な空間に立っていた。
 深海の中にいるようだ。まるで幻覚のようなこの風景は八雲紫の支配する異空間の一つであろう。
「余計な事をしてくれた。あのまま阿求の手を取れたなら強引にでも俺を信じさせてめでたしめでたしであった所だ」
「今のあの子にそんな事をしたら貴方、腕を折られていましたわよ」
「折られても良かったのだ」
そう言えば代々の御阿礼の子には護身の為、柔や合気の心得も伝承されていると以前に聞いた事があった。
「あの子の心は貴方が思うよりずっと追い詰められているのよ。もう貴方が信用出来ずせっかく伸ばした手を取れない位に。悪い男だこと」
「お前はいつも幻想郷の要となる者を護っていたのだな」
「幻想郷の為に力を尽くしてくれたあの子もまた私の娘のようなものですわ。護るのは当然よ。ああ、これは誰にも言わないでね。ミステリアスな私のイメージが壊れますわ」
 姿は見えなくても紫が冗談めかして笑っているのが分かった。
「それに人と妖怪の新たな融和の時代を文書として形に残した意義。貴方になら理解出来るでしょう。私の理想とする幻想郷には不可欠の物ですわ。貴方にはその生贄になっていただきますわ」
「生贄? 」
「ええ。この空間であの子と暮らしておあげなさい。どうしても手に負えなければここに貴方を閉じ込めるよう頼まれていましたの」
 流石は阿求。用意周到で冷酷な程に徹底している。他に俺がどんな行動に出ても阿求は何らかの策を用意していたと思われる。
「別に恨んでくれて構いませんわ。でも私にだって情があるの。九代目としてのあの子の勲には報いてあげたい。悪いけれど貴方の意志など知った事じゃないわ。あの子の幸せの為にね」
「お前もか。八雲紫」
「あら? 笑っているのね」
「阿求の幸せを願うなら恐らくはすぐにここから出す事になるぞ」
「……大した自信だこと。まぁ良いわ生活に必要な物があれば言いなさい。送り届けてあげるから。後は若い二人で末永くお幸せに」
 八雲紫の気配が暗闇から消えた。
 同時に背中にぎゅうと柔らかな感触があった。そして優しく熱い声がした。
「やっと……やっと二人きりです……」
 墨の匂い。
「ああ。そうだな。二人きりだ。阿求」
「やっと……やっと……」
 俺の背中を抱きすくめて顔を埋めたままの阿求は俺の言葉を聞いているのかも分からなかった。
「阿求、振り返ってもいいか」
 阿求は黙って更に俺の体を強く抱き締めた。
「顔を見たい。振り返るぞ」
「………………駄目です」
「どうして駄目なのだ」 
「ふっ……く、く……ふ」
 背中に密着した幼い体はぶるぶると震えた。阿求の押し殺した泣き声はまるで笑っているように聞こえた。
「……今、酷い顔をしているからです。見せたくありません」

「もう俺に嫌われてもいいのだろう」
「……貴方がぁっ。いけないんですよ。私を、無視するから。妖怪と生きるなんて言うから……人里の中ならまだ自由にしてあげられたのに……。もう、こんな所に閉じ込めるしか……」
 腰に回された細腕に触れると固く強張った手は少しずつ解けて行った。驚かせないようにゆっくり体を動かして振り返る。阿求は慌てて今度は俺の胸に顔を埋めた。
「顔を見せてくれ」
 絹で出来たような髪から見える真っ赤になった耳を両の掌で包み込んでゆっくりと顔を上げさせた。
「見せたくないって……言ったのに……」
 阿求の目は泣き腫れて、その頬にはみっともない程の量の涙が流れていた。その上、鼻水まで垂れている。
成程これは乙女としては見せたくなかったろうな、と少しばかり可笑しくなった。涙を拭いてやりたくなってその頬に触れるとまるで傷口のように熱かった。
阿求もまた痛みを感じたように俺から飛び退いた。
「すまない、驚かせたか」
 がくがくと震えながら阿求は笑おうとして、失敗した。
「ふっ。ひ、ひひ。やめて下さい。また勘違いさせる気ですか。また私を虐める気ですね。そんなに私を騙してここから出たいのですか。そうやって内心で私を笑うんでしょう。
どうせ、どうせ自由にしたらすぐ逃げるくせに、私の望み通りにはならないくせに」
「お前の望みとは」
「貴方に……大好きな貴方に、私の全てを、捧げて受け入れてもらいたい……短い人生にたった一度、自分の全てを、身も心も魂も。自分が望んだ愛しい人に。
そうして、それを貴方にも喜んで貰えたら、それだけで私はっ……」
再び込み上げた嗚咽を押さえ込もうと阿求はしゃくり上げながら話し続けた。
「でも、でも……わっ、私はねぇ。もっ、もう分かったのです。私を曝け出したら貴方は私を気持ち悪がるんですよ。そう、そうですよね。普通に考えれば貴方が私の事なんて見てくれる訳がない。
そんな訳がないのに。私は愚かにも思い上がってあんな勘違いをしてしまったんです。ずっとずっと貴方に私の事を知って貰いたくて貴方の事も知りたくて堪らなくなって、それで、それで……何でも話し合える仲になりたくて。
でも全部勘違いだったと分かると途端に、こ、怖くなって……あの日、いえあの日も……ごめん、なさい。つ、詰まらなかったでしょう? 退屈でしたよね? ご、ごめ……。わ、わたし、あんなの。は、初めてでっ……。
普通の男女が、何をするのかっ。お、思い付かなくて。何を話せば良いのか全然分からなくて……。も、もう、嫌です……。やっと機会が巡ってきたと思ったのに。どうして私はこんなに……っ」
 阿求は何度も目を拭ったが涙は後から後から溢れて止まらなかった。
「き、嫌いになりました……よね? ご、ごめんなさい。あんなつもりじゃ……あんなはずではなかったんです。がっかりしましたよね。も、もっと楽しく話せたらいいな。と思って他にも話したい事いっぱいあっ……あったのに……でも無茶だったんですっ。止めておけばよかったぁ。
こ、こんな異常な女、き、気持ち悪いっ。なまッ白い骸みたいな体で一日中ジメジメしてて。あ、貴方にすっ好かれる訳がないっ。いやっ、無かったっ! 」
 俺は黙って聞いていた。
 阿求は今こそ全てを俺に聞かせる事を望んでいるに違いなかった。
 涙に塗れた阿求の顔を己を蔑む自嘲の笑みが歪ませた。
「私は……ふふ。もう糠喜びは嫌なのぉ……。嫌われるに決まってるんですよ。自分でもこんな嫌な女死ねばいいと思いますもの。でも、でも良いですよ。自分を偽る偽物の幸せよりずっといい。
あははっ。どうせ気持ち悪がられるって最初から分かっていた方がまだマシですよ。ふふひっ。教えてあげますよ。わ、私はねぇ、変なんです。物狂いですよきっと。御先祖様は何故私を九代目に選んだのか不思議ですよ。くふふ」
 ひぃひぃと阿求はみっともなく引き攣った笑い声を漏らし続けた。涙はぼろぼろと地に落ちる。赤子のような哀しみの嗚咽と狂気を孕んだ悲痛な笑顔は、今にも壊れそうに痛ましい。

「た、例えば私、貴方の後を付け回して生活の様子を記録するのが趣味なんです。し、知らなかったでしょう? 忙しい毎日で最高の息抜きになるんですよこれが。あは……ははっ。
最初は……最初は違ったのに……貴方がいつ起きていつ眠るか知るだけで……私も同じ時間に起きて眠りたかっただけだったのに……。それが、それが今では貴方が捨てたゴミまで集めないと気が済まなくて。こ、今度見せてあげましょうか。
私の自慢の宝物ですよ。くひ、ひっ。それだけじゃないですよ。貴方、以前に衣類が良く無くなるって言っていましたよね。あれ全部私ですよ、私が盗ってたんです。未洗濯の物ばっかり。何度止めようと思っても止められないんですよ。もう今度こそ最後にしようと毎回毎回思うのに。
これでまた貴方の下着を身に着けて一日過ごす事が出来るって考えるとどうしても。そうやってたっぷり私の匂いを染み込ませてからお返ししたのですよ。貴方がお持ちの肌着には一通り私の匂い付けが済んでいるんです。くくっ。きっと今身に着けておられる物も。
貴方とお話ししている時に貴方から盗んだ下着を穿いていた時もあったんですよ。な、何故そんな事するのか不思議でしょう? ふふっ。実は私、貴方の汗の匂いが大好きで、えへへっ蒸し暑い日は道中汗を掻かれるから特にお会いするのが楽しみで仕方ありませんでしたよ。
その大好きな貴方の匂いの上から私の体臭を染み込ませると私たちが混じり合ったようでなんとも言えず幸せになるんですよ。あははははっ……」
 最早笑い泣きとも泣き笑いとも言えなかった。嗚咽と笑い声の境目が完全に無くなっていた。
「ほ、他にもねぇ、私と貴方を主人公にした恋愛小説まで自作して悦に入っていたんですよ。御先祖様から受け継いだ偉大な力を駆使してまでね。もうあの世で代々の御阿礼の子に合わす顔がありませんよ。ふははっおかしいでしょう。お話の中で私はね、も、もっと上手に貴方とお話し出来るんです。
大人の女性みたいに洗練されていて貴方を私に夢中にさせてしまうんですよ。何度も貴方を助けて差し上げるのです。もちろん最後は結婚して幸せに暮らすんですよ。そうして身も心も私の虜になった貴方に言ってあげるんです。あなたは私がいないと駄目なんですからって……お、おもしろいでしょう? 笑っちゃいますよねぇ? 本当は異性と手も繋いだ事も無いくせにぃっ! 」
 癇癪を起した子供のように阿求は地を踏みしめた。きつく握られた手には血が滲んでいる。
「……それに、それに、あの日だって神妙な顔してわざわざ雨の中、貴方を呼び出しておいて私はっ……貴方のお茶に唾を入れておいてっ……くふっ……ずっと興奮していたんですよっ。くふふふっ。貴方が真顔でそのお茶を飲んでいる間ずっと。後で貴方がお口を付けた所ぺろぺろしなきゃなんて考えてうずうずしていたんですよ。
傑作なのはあの後なんです。貴方と喧嘩した後、私は、私は、腹立たしくて情けなくて堪らなく惨めな気持ちなのに……泣きながら馬鹿みたいに貴方のお湯呑舐めてたんですよ。悲しくて悲しくてそれどころじゃないはずなのに貴方がどうしても頭から離れないんです。浅ましい、ですよね。吐き気がしますよねぇ!
 …………どうです。気持ち悪いでしょう。軽蔑したでしょう。これが私の汚いところですよっ! 汚くて醜くて厭らしくて見せたくなかったところですよ! ほら嫌いになったでしょう! 顔も見たくないでしょう! 何とか言って下さいよ! 」
 阿求の絶叫と共に静寂が訪れた。ただ阿求が俺を泣き腫らした目で睨みつけたまま肩で荒い息をしている音だけが聞こえる。阿求の暴走した告白には深い絶望が滲んでいた。
しかし俺の言う事は決まっていた。
「他には? 」
「へぁ? 」
「他には無いのか。お前の汚い、醜い、厭らしいところは」
「はあ? ……はい、いえ。ふ、ふふっ。あのですね……。こ、これだけは隠しておきたかったのですけど……」
 少しだけ怪訝な驚きの色がその瞳に宿ったがすぐに再び興奮の火が戻る。阿求は一層暗い笑みを浮かべて言った。
「ふ、ふふ、私……その、貴方と初めて会った日の夜にですね……初めて……は、初花が。……つま、つまり、始まって……運命を感じて……すごく興奮しました、よ? ふ、ふふ……」
 それを最後に阿求の体からまるで憑き物が落ちたように力が抜けて行った。
「あとは、あとは…………」
 全身から張り詰めた緊張が抜けるとそこには疲れ切って必死に言葉を探している少女だけが残る。まるで迷子になって心細げに辺りを見回す幼児に見えた。
「……愛しています。……それだけです」
 ぽつり、とそれだけ漏らして阿求はがくりと項垂れて膝を付いた。

「そんなに苦しんでいたならどうして相談しなかった」
「……相談? 相談ですって? 誰に、誰に相談すれば良いのですか? 紫様? 小鈴? 慧音先生ですか? 実は私好きな人への変態的な欲求が止まらないんですって言えば良かったのですか? もう……。もう、放っておいて下さい。自害します」
「違う。俺に相談しろ」
「貴方、に……」
 少しだけ阿求は俺を見上げてまた深く俯いた。
「ふ、ふふ。何言ってるんですか? 話を聞いていましたか? 貴方に気持ち悪いと思われるから今まで……」
「そんな事では嫌いになれないな」
 成程、本心を打ち明けるというのは勇気が要るものだ。阿求の躊躇は我が身の事になって良く分かった。
「お前が俺を孤立させたのも、俺から生きる道を奪ったのも、ここへ閉じ込めた事も。俺にお前といて欲しいからなのだろう。本当は俺に頼って欲しいけれど、そうはならないだろうと思ったから頼らざるを得なくなって欲しいのだな」
「そうですよ、でも……貴方は私の事なんて――」
「頼っていたよ」
「……え? 」。
「この異界で俺は誰よりもお前の事を頼っていたよ阿求。お前が俺たちの関係を勘違いしていたように。言わなければ伝わらない事は俺にもあった」
「私は、貴方に何もしていません……」
 阿求はふるふると力無く首を振った。
「俺と話をしてくれたじゃないか阿求。お前がそう思っていてくれたように、俺にとってもお前と話す日々が救いだった。
お前がこの里にいる事を知れたから俺はこの異界でも生きられた。お前のお蔭なんだ」
 矢張り少しばかり照れ臭い。俺も出来れば隠しておきたかった。だが何もかもを曝け出してくれた阿求に俺も少しは答えたいと思った。
「愛しい相手が一緒に生きざるを得ないからそうするよりも、自分の意志でそうしてくれたならそっちの方が素晴らしい事だと思わないか。お前がさっき言ってくれたように。
お前の身も心も魂も、その全てを日の当たる場所で俺にくれないか。俺はお前の全てを自分の意志で受け取りたいから。こんな暗い所ではなくあの里で俺だけのものになってくれ」
 阿求は座り込んだまま呆然と俺を見上げていた。
 己の弱さを曝け出すことは気恥ずかしい。気恥ずかしいが、しかし。それ以上に。
「お前は違うと言ったが俺には矢張りあの里が楽園に見える。皆がお前に優しい事が俺にとっても嬉しいからだ。それだけで俺には幻想郷が天上の楽土に映る」
そんな相手がいる事は幸せな事なのだ。
「つまり、そう。大事な者に住み良い場所は自分にとっても良い場所だと思わないか。仮に誰も俺の事を思っていないとしても」
 俺は座り込んだ阿求の前に跪いた。今度は自分の意志で。
「お前は俺の楽園になってくれるのだろう」
 俺と阿求の目の高さが近付いた。俺は大きく見開かれた阿求の瞳から涙が最早流れていない事を知った。
「お前が言い難い事は全部聞いた。それで阿求。本当は俺に何を言いたかったのだ。今度はそれを話してくれないか」
「もう……。もう全部話しましたよ……。一から十まで私の醜さは」
「違うよ、阿求。お前が本当に俺に言いたい事は他にあったのではないか。後ろ暗い事を打ち明けるばかりが素直さではないだろう。あー例えば。何というか。そうだな。もしも違っていれば俺の恥だが。なぁ阿求」
 紫色の袱紗包みは阿求の傍らに落ちていた。
「その荷の中身が何か俺に教えてくれないか」
 言われた阿求は恐る恐る俺を見た。
「お、おべんと……う、を……」
 阿求の瞳の中に小さな温もりが戻りつつあった。
「作って……来ました、良ければ食べて、ください……」
「それは嬉しいな。最近碌な物を口にしていないから。阿求、お前が良ければだが。これから毎日同じ物を食わせて貰う訳にはいかないか」

「私のお弁当なんて……きっと美味しくありません……」
「お前と一緒に食う物が美味くない訳がない。ましてやお前の心が籠った物が。一緒に食事をしながらまたあの日のように俺と話をしてくれないか。
今度はお前が俺に聞かせたいと思った事を。そうしてまた新しいお前を見せてくれ」
「私、私は、貴方と、上手く話せません。こっ、言葉がちゃんと出て来ないんです……。貴方を楽しませる事が出来ません」
「あの日、俺も恥ずかしくてはっきり楽しいと言えなかったんだよ。俺もお前と同じで照れていただけだ」
「わ、私は、何の話題も……。詰まらない事しか……知りません。こっ、怖いんです。ちゃんと、話せないかも知れないって思うと」
「あの日俺は時間を忘れる程に夢中だったよ。それに俺も怖かった。お前と話す時はいつも緊張し通しだったから」
「じ、自意識過剰だし、すぐに……すぐに貴方を言い負かそうとして、むきになってしまいます。きっと不愉快にしてしまいます」
「俺も不安だ。今まで気を悪くした事は無かったか」
「あ、貴方以外の人なんてどうでもいいぐらい興味が持てません……。きっと人付き合いで苦労します……それに嫉妬深くて重い女です……」
「俺にとってそれはむしろ嬉しい事だな」
「気持ち悪いし……へ、へ、変ですっ」
「俺も結構自信があるぞ」
「…………根暗だし、可愛くもありません」
「俺にはお前がこの世で最も愛らしく見えるけれど」
「……でも、もう、もう遅いですよ。私は貴方に酷い事を」
「一度喧嘩したぐらいで嫌いになる訳ないだろう」
「今だってっ、こんな見苦しい所を見せています……! 」
「いいや、阿求。お前の行き過ぎな程に一途な所が俺は大好きだよ。お前が今挙げた所は全部俺にとっては素敵な所だ」
 座り込んでいる阿求を助け起こしたくなって手を差し伸べた。阿求はじっと俺の手を見ていた。
「そうだ。阿求。あの店は美味しい洋菓子と紅茶があると教えてくれたね。もう一度俺を案内してくれないか。そこでまた歴史や学問の事を教えてくれ。
その日がとても楽しみだ、阿求。その日のお前も、きっと今日のように素敵だろう」
「明日……」
 小さな、小さな阿求の声が聞こえた。
「明日でもいいですか」
 頷くと阿求の目から大粒の涙が溢れ俺の手が強く握り返された。
 その瞬間、闇が裂け、辺りを眩い光が包み込んだ。
 光の中で阿求が笑ったのが確かに見えた。



※389の途中ですが分けます
最終更新:2014年07月08日 21:01