〇〇がちょっとした能力もちですが、あくまでも舞台装置としてのモノです。
桜吹雪が舞う。はらはら、はらはらと。
夢幻の月明りを反射し、美しくも、蠱惑的に輝く桜の花びら。
それは、まさしくこの世にあらざる人外の美しさ。
ひとひらごとに巻き起こるのは災禍、死、苦痛、そして千切れんばかりの愛情と、絶望。
その銘は、西行妖。哀れなある少女と、名を語られることのない男の墓標である。
「それでね、●●ったら~、意外と積極的なのよ、特に夜は──」
幽々子、その話を聞くのはもう23回目になりますわ。そう喉元まで出かけた言葉を八雲紫は必死に抑え込んだ。
眼前で上品に正座をし、机の上に置いてある桜団子を幾つもほお張りながらも、しっかりとした発音で惚気を自慢する親友の顔は、死者だというのに生き生きとしている。
一応、彼女は亡霊とはいえ、かなり高位の存在であり、その体そのものも触れば、少し人肌程度よりは冷たい程度で、生身の人間と同じ弾力や伸縮性がある。
故に彼女はモノを食べることが出来るし、掴むことも、そして……殺すことも出来る。
はぁ、と紫は内心ため息を吐いた。昔にも、同じようなことがあったような気がする。
以前起こした西行妖にまつわる異変──俗に春雪異変と呼ばれる変異によって現世と冥界の境界線は揺らぎ、こういってはなんだが、生と死の距離は縮まったのだ。
そんな状況の中、幽々子は一人の男を紫に紹介した。あろうことか、生身の、生きている人間を、私の恋人だと言って。
あの春雪異変を影から色々と仕込み“絶対に失敗する”様に念には念を入れた彼女をしても、これだけは予想できなかった。
……いや、ただ、単純に考えたくなかっただけかもしれない。
「ねぇ、紫? 聞いてるのぉ?」
不意に庭先に存在する枯れ果てた一本の大木、西行妖に視線を移した紫に、不満げな幽々子の声が浴びせられる。
ぷくぅっと幼子が拗ねるように、頬を膨らませる彼女の姿はとてもではないが冥界の支配者にはみえない。
彼女の周囲をいつも漂う幾つかの小さな霊魂たちが、主の意思を反映でもしているのか、前後左右に不機嫌そうに踊った。
「はいはい、聞いてますわ。……確か、●●はかなり奥手に見せかけての、肉食、って所でしたっけ?」
考え事に少々没頭しながらも親友の言葉をしっかりと聞いてあげる。
これも、1000年以上の付き合いがあるからこそ、出来ること。
そんな紫に対して、肉食という言葉に食いついた幽々子は、再度、どれほど〇〇という男が素晴らしいのかを語り始める。
幽々子の話をしっかりと聞き取り、相槌を返しつつ、懐から取り出した畳んだ扇を口元にあて、紫は回顧する。
その意識は、庭先の西行妖へと向けて、その根本へ。もう、永遠に、二度と会う事がないだろう彼女へと。
この世でも数少ない、自らよりも格が上の妖怪。正に死の権化とも評されるソレ。
一たび目覚めてしまえば、数万、数十万の命を奪い取る妖怪桜。この桜が散らす吹雪は、余りにも美しすぎた。
あの光景を、彼女は生涯忘れることはないだろう。
その日は、何の変哲もない少し曇った日だった。
「はじめまして、私の名前は八雲紫と申しますわ」
彼と出会ったのは、“幽々子”と知り合ってしばらくしてからだったか。
黒髪に黒目、背格好は当時の男性としては平均的なモノだった。
ただ、纏う雰囲気だけは今もはっきりと覚えている。
まだ幽々子が人間で、白玉楼ではなく、西行寺でもない。ただの隔離された西行寺が管理する田舎の屋敷に住んでいたころの話だ。
妖怪退治を専門とする寺の娘と妖怪。そしてその幼馴染兼ね、付き人とでも言ったところの〇〇。
自分たちの関係は、今思いだしても本当に不可思議極まりないモノだったとつくづく思う。
とても、暖かい、春の陽気の如き気質。
あの当時の荒んだ時代でも、決して輝きを失わずに生きようと前を向いていた。
だからこそ、彼女は彼に惹かれた。さながら磁石の対極同士がひきつけあうように。
初対面の挨拶をしたら、彼は何と返したか。
「はじめまして、〇〇といいます」
屈託なく彼は笑ってそう言葉を紡いだ。
つられて自分も笑うと、彼の隣にいた幽々子はとても嬉しそうに自分と〇〇の手をとって「これで、私達はみんながみんな、仲良しです」と、弾むように小鳥の様な様な声で囀る。
小さな小さな手。少年と、少女の手。妖怪の自分が少しでも力を込めてしまえば直ぐにでも折れてしまうほどの華奢な細腕。
だが、当時の自分は両者に挟まれて、とても心地よいと感じていた。認めよう、この妖怪、八雲紫は、間違いなくあそこから安らぎを得ていた。
彼は、彼女の最も近くにいた少年だった。彼は人の身で唯一幽々子の死に耐えることができる稀有な存在。
今だからこそ「~~程度の能力」と便宜上判りやすく型に嵌めることが出来るが、当時はそんなことをしなかった。
あえていうならば、当時のまだ力を扱いきれていなかった幽々子が「死霊を操り、死を引き寄せる能力」だとするならば彼は「死を吸収し、中和する力」とでも言ったところか。
もちろん、両方とも人の身には重すぎる力だ。特に当時の彼女の力は無差別極まりなかった。並の僧では近づくだけで卒倒し、そのまま絶命……等という事も珍しくはない。
そして、その死に惹かれて無数の亡霊、怨霊、死霊が集まることによって、彼女は死の百鬼夜行、その中心となってしまう。
〇〇の力は、かの厄神に非常に似通っている。器としての格こそ及ばないものの、その性質の本質は紛れもなくあの厄神と同じだ。
だが、彼は人だ。厄神の器と人である〇〇の器……その大きさの違いは決定的ともいえた。
〇〇は、西行寺が拾った捨て子だった。親は亡く、何処で生まれたのかさえ分からない。
ただ彼は、たった一つの力だけを持っていた。まるでご都合主義の如く。さながら、幽々子という存在と出会うために、遣わされたように。
西行寺は、当然〇〇に眼を付けた。今まではただ厄介な、近づくだけで死を撒き散らす娘を制御できるかもしれないと期待して。
物心ついたときから、〇〇は常に幽々子の傍にあった。能力的にも、精神的にも、彼女に装着された枷として〇〇は非常に優秀だと思われている。
一つだけ問題があった。それは、〇〇の力は当然、無限ではないということ。幽々子の死は無限だが、彼の器には限界がある。
彼が幽々子の放つ【死】を飲み込み、無害なモノへと返せば返す程、彼の全身には蒼い桜を模したような痣が広がっていくこと。
呪い、多くの人間は、彼を拾った寺の者たちでさえそれは死の呪いだと蔑み、嘲笑った。
所詮、当時は彼も幽々子も、全て道具としてしか見られていなかった。全て、西行妖という極大の怪物を飼い馴らすための道具としか。
幽々子の父は、西行妖の根元でその命を絶ち、あの大樹を妖怪桜へと変貌させ、更に徳の高い法師でもあった父の後を追うように大勢の人間が桜にその魂を捧げる。
そうして蓄えられた膨大な死の力は、もはや天変地異さえ起こしかねない領域へと至る。
親子の因果というのは、人が思っているよりも遥かに深いモノ。ならば、西行妖と彼女がほんの少しばかり繋がってしまっていても、別に不思議がることではあるまい。
それほどの存在と、幽々子は縁をもち、その力の片鱗を振うことが出来た。そしてそれを御する〇〇……まるで一本の刀の刀身と鞘の様な関係だと八雲紫は評した。
〇〇は、本当に変わった人間だった。
当時の情勢を考えれば、妖怪と遭遇した人間が取る行動など、排斥を試みるか、逃走だけだったというのに、彼は妖怪、八雲紫にさえ平然と接した。
本人は知り合いに半分人間で半分幽霊がいるし、話さえ通じればなんとでもなる等と世迷言を述べていたが、実際の所、自分でさえ最初は何か裏があるのではないかと勘繰ったものだ。
いや、そんな彼だったからこそ、彼女は無尽蔵の愛情を彼に向けたのだろう。
幽々子の彼に向ける念の深さは凄まじいものがあったのも確かだ。
出歩く時は常に一緒。そればかりか唄を読む時も、食事の時も、湯あみ、睡眠時、ほぼ全ての時間を彼女は彼と共に過ごしていた。
〇〇は付き人ではあったが、その立場が逆転しているのではないかと思われるほどに、彼女は彼を甲斐甲斐しく世話を焼いていたものだ。
夜もそうだ。
湯あみの代わりに体をお湯で濡れそぼった布で拭こうとする彼を、幽々子は半ば拘束するように押さえつけて、布を奪い取り、自分で彼の体を拭いてしまう。
───また、桜が広がっています……。
彼の衣服を少しだけ肌蹴させて、露出させた左腕から、左肩、背中にまで達しようとしている不気味で、おぞましい色彩の桜を幽々子は、指で優しくなぞる。
〇〇はそのくすぐったさに軽く身じろぎして、困った様な表情で幽々子を見たが、彼女はそんなこと知らないと言わんばかりに彼に、指を這わせる。
男らしい、引き締まり筋肉のついた腕、女性である幽々子のとは違う頑強な構造をした肩、贅肉のない、細くしなやかな胴体……その全てを幽々子は愛撫でもするように、優しく優しく、指で〇〇を味わう。
遊ばれていると判断した〇〇も、当然ただでは済ませるわけがない。むすっとした顔を取り繕いながら、彼は幽々子のうなじと、腰に手をまわし、そのまま胡坐をかいた自分の足の上に引き倒す。
仰向けで〇〇の膝を足を枕代わりに寝っ転がされた幽々子の姿は、さながら飼い主にじゃれ付く子猫。大きな目をぱちぱちさせながら、彼女は自分が今どんな格好をして、彼の上から逃れようとするが。
穏やかに、有無を言わせない力強さをもった手が、彼女の頭の上に乗せられた。
「え……? こ、こんな所で………」
頬を紅葉させた彼女が抗議の声を上げる前に彼は残念ですが、とつぶやいた。まだ、貴方が思っているようなことをするつもりはないと。
桜色の長髪が、指の間をすり抜けていく。ぐっと身を乗り出して、鏡台から黒い櫛を掴み、さわさわと彼女の頭を弄る。
うっとりした瞳で、幽々子は男を見上げた。脱力した全身、涙交じりの眼、赤みを帯びた頬、吐き出されるのはぞっとするほどの艶を孕んだ吐息。
少しだけ乱れた白い着物の隙間から見えるのは、豊かな胸元。
だが男は揺れない。視線で懇願されても彼は平然とした様子で耐えることが出来る。
彼は、真実幽々子の事を知り尽くしている。どうすれば気を逸らせるのかさえ。
綺麗だ、と男が彼女の髪を褒めると、幽々子の顔に喜びが浮かんだ。
「っ……ぁ………ぅく」
櫛を以て男は慎重に幽々子の髪をすき、次に5本の指で彼女の頭を揉み解すように撫でた。幼いころから幽々子の傍にいた彼だからこそ、彼女を安心させ、極楽へと導く場所が何処なのか判る。
一挙手一動作ごとに彼女は、小さく身じろいでしまう。自由な足がもぞもぞと動き回り、太ももは内またに引締められ、腰が何かを求めるように蠢き、足袋に包まれた足の指がきゅっと握りしめられた。
ふっと、彼女の体から唐突に、紫がかった美しい光が蝶の形となって1つ、飛び出る。気分の高揚によって制御から外れた力が無意識に産み出す死の蝶。
これ一つで何十という人間を殺傷する死の呪い。蝶は生きている実在のそれと同じようにふわふわと飛び……伸ばされた彼の左腕によって容易く握りつぶされた。
霧散した光が、彼の体の中に吸い込まれ、左腕から左肩まで侵食する痣が、薄く発光した。
目の前でのその光景を見た幽々子の眼が見開かれた。また、やってしまったと。
眼から涙がこぼれ出る。
また、一つの死を彼に与えてしまったと。殺したくないのに、傍にいてほしいのに、間違いなく一歩ずつ彼を死へと近づけているのは自分。
彼と離れてしまえば一番いいのだが、そんなことは出来るわけがない。西行寺が許さないだろうし、何より、離れたくないと叫ぶ自身がいる。
ごめんなさい、そう呟こうとした彼女の口を彼は塞ぐ。彼女が言霊を紡げば紡ぐほど、自分を追い込んでいくのが判るからこそ、こうしてちょっとばかり強引な手段で止めるのが有効だと知っている。
冷たい彼女の体の中に、猛烈な熱が送り込まれる。決して不愉快ではない熱、魂の奥底から人を温める陽気。
少女が、死の姫とも称されるちっぽけな小娘が、男に懇願の言葉を放った。
男は、先ほどとは違って頷くと、彼女の衣服に手をかける……。
囲炉裏に照らされた室内の中、影が二つ、交わり、熱を交換し合う。
境界の賢者だけが、それを見ていた。
男が笛を吹き、桜色の死が見事に2つの扇子を駆使して舞う。周り、周り、空を仰ぎ、満月の光を仰々しく浴びる。
真っ赤な布の上に腰かけた西行寺の僧たちが、楽器を叩き、祝詞を紡ぐ。
引き寄せられた無数の霊魂たちが、供養の唄に惹かれ、昇天する。天に開いた一つの真っ黒な“穴”ほたてへと通じる入口へと光の塊は次々と消えていく。
これは鎮魂の儀式だ。幾ら男が死を無害化するとはいっても、無尽に死霊を引き寄せてしまえば、もうどうしようもならなくなってしまう。
だからこそ、定期的に満月の夜にこうして溜った霊たちを浄化しなくてはならない。でなければ、百鬼夜行が産まれるから。
幽々子は厳粛に、つつましく舞った。悲しくも、美しい舞を。光を撒き散らし、見るモノの心を惹きつけてやまない蠱惑的な姿。
男は笛を吹いた。即興ともいえる曲を。幽々子の動きを理解し、心を知り、今、どんな音色を求めているか知り尽くした彼は心のままに。
妖怪という立場上、西行寺のものに幽々子との付き合いを知られるわけにはいなかった自分は影からそれを眺めるしかなかった。
小声で聞こえるのは、僧たちの心の声。
人の心、とりわけ悪意に敏感である妖怪という種族の紫にはそれが聞こえてしまう。
───あれが死の姫か。なんとおぞましい。
───化け物め、さっさと死んでしまえ。死を振りまく異形の者め。
───あの男も同じだ。気味が悪い。死を食らい、死に溺れる愚者が。
その中には一言も、幽々子と男を労うものはなかった。
僧たちには、異形の力をもつものは全て化け物にしか見えなかったのだ。その気持ちは判らなくもない。
確かに、恐ろしい力だ。従順な態度を取ってこそいるが、その力をこちらにいつ向けられるか判ったものではないのだから。
恐ろしい存在に直面した人間の取る行動は、それを神と崇めるか、もしくは異形と排除するか、はたまた利用するかのどれかでしかない……と当時の彼女は思っていた。
前者は、諏訪の神。真ん中は妖怪全般、そして後者は西行寺のモノが当てはまる。4つ目の選択肢を選んだものなど、彼しかいなかった。
ただ、一人、僧たちを守る様に立っていた白髪の男……。
傍らに白いもやのような塊を控えさせた男だけがその声を聞いて怒りをあらわにしていたが……幽々子と〇〇はそれに気づいていたらしく目線だけで窘めた。
その時男の眼に映ったのは、忠誠と、敬意と、それと何だったのだろう。彼が〇〇に何を抱いていたかは、もう判らない。
男は小さく頭を下げ、了承の意を表す。彼にとっての主はこの二人だけなのだから。
それぞれの人物がそれぞれの思惑を交差させる中、〇〇と幽々子だけは、この瞬間を心から楽しんでいた。
心を重ね、音楽として紡ぐ。舞いを誇り、笛をかき鳴らす。一心同体の深度で行われる行為は、神さえもため息を吐くだろう芸術。
蝶々が飛び、白亜の人魂が嘆き、叫び、そして感涙し現と幻の境界を越えて帰っていく。
当時の日本には数えきれない量の理不尽と死が溢れていて、こんな供養を何万回行ったとしても意味がないと八雲紫は判っていた。
だが、そんなちっぽけな理屈など吹っ飛ばしてしまうほどに、一組の男と女の舞踏は美しく、妖怪である彼女でさえ見入ってしまうほどに。
蝶が、儀式の完遂を伝え無数に飛び立つ。
何時もの死を齎す蝶ではなく、真実一つ一つが人魂である蝶々達は自由に、全ての苦楽から解放されて飛び交う。
強く、美しく、そして悲しい舞い。あの踊りはあと、何回繰り返されるのだろうか、願わくば、永遠に見ていたい。
天に穿たれた穴が完全に塞がり、全てが終わるまで、彼と彼女の蜜月は続く。
幽々子との話がひと段落つき、彼女がまた男……●●に出会うために白玉楼を抜け出すと紫はぶらぶらと庭先を歩いて時間を潰していた。
今の時間は夜……そろそろ天の真ん中に月が登ろうとしている時間帯。幽々子はこの時間になると決まって●●という男と逢瀬をするために屋敷を抜け出す。
はぁ、と紫はまたため息を吐いた。亡霊が夜中に恋人に会いにいくなど、まるでどこかの昔ばなしみたいではないか。
おはぐろでも付けていかない辺り、近代的かもしれない。
よく整地された庭の大地は、固すぎもせず、柔らかすぎもしない適度な土の固さを靴越しに伝えてくる。
しっかりと妖夢は仕事を果たしているようだ。白玉楼の家事から、庭師としての務めまで、彼女は完全にこなしているのを見て取れた。
まぁ、武術指南としての仕事は幽々子が逃げてしまったりするため、出来てはいないようだが……。
余り食べ過ぎると太りますよと、でも忠告すればダイエットの一環としてやるかもしれない。
暫く歩を進めると、彼女は西行妖の前で足を止めた。巨大な大樹。
今はもう、枯れ果てて何も感じない、何も発しない、ただの眠りについた残骸。
「紫様?」
背後から掛けられた声に彼女は驚かなかった。何故ならば、ここに彼女がいるのは当然の事だから。
足音もなく、背後から小さな気配が隣にやってくる。半身半霊の、希釈な気配の持ち主が。
銀色の髪に、まだあどけない顔をした少女。腰に差した二振りの刀は、彼女の身長と比べて大きい。
「何を……見ていたのですか?」
「花見ればそのいはれとはなけれども、心のうちぞ苦しかりける、ということです」
唐突に訳の分からない言葉を発した紫に少女は頭を傾げる。え? と間抜けな言葉を発してしまうほどに。
いつもこういう風にそこの見えない態度を取る紫だということを知ってはいるのだが……どうにも少女にはその様子が少し違うように見えた。
「勉強が足りてませんわね?」
ふふっと、紫は少女……妖夢に胡散臭い笑顔を向け、何時ものように、傲岸に、不遜に、語り掛けた。
その日は、とても暖かく、快晴で、多種多量の桜や花々が世の春を謳歌している季節の真っただ中だった。
紫と幽々子、そして〇〇という奇妙な三つどもえの輪が出来てどれほどの年月が経過したかは判らない。
10年だったかもしれないし、1年だったかもしれない。はたまた、数か月も経っていないという場合もありうる。
楽しい日々だった。共に酒を飲み。
唄を書き上げ、曲を作り上げる。たわいもない話をしたり、都からもってきた多種の酒や馳走に舌鼓をうったり……。
あげればキリがない程に、自分たちは貴重な時間を楽しんだ。
少年だった〇〇と、少女だった幽々子が、青年と美女に片足を踏み込む程度の時間は流れたはずだ。
月日が経過すればするほど、かつての幽々子の力は増大し、西行妖との親和性を深めていく。
そして彼に掛かる負担が真綿で首を締め上げるように増大する。彼の刺青は、もはや背中全域を侵食し、足腰、首元、右肩にまで及んでいた。
不気味に青白く発光する奇妙な痣は、まるで脈動するように点滅を繰り返し、奇妙な息遣いさえ幻視できる。
不吉を象徴する蒼い隈取りを体に刻みながらも、彼はそれでも幽々子の事を気にかけた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
男の体を濡れた布で拭きながら、何度も何度も幽々子は絞り出す様に声を出した。
懇願し、懇願し、濡れそぼった声は深すぎる悲嘆の色を混ぜ込んで。
気にしないで、と男が声を掛けても幽々子は頭を弱弱しく振った。
震える手の先、爪が男の肌に食い込み握りしめられる。それでも〇〇は微動だにせず、幽々子の頭を撫でやる。
真っ赤な液がにじみ出ても、男の刺青は更に煌々と輝くだけ。肌をむこうと消えることはない。
紫は、何もできずにただ立ちすくんでそれを見ていた。
〇〇は何も変わったことなどないといった様子で平然としていたが……紫の妖怪としての眼は、彼の内部で渦巻くどうしようもない死の渦を捉えてしまう。
もはや浄化しきれない程にたまってしまった死は、内側、魂から彼を蝕んでいる。このままでは、小さな西行妖になってしまうのではないかと思うほどの呪いの塊。
男が髪を撫でようと、幽々子は泣き止まない。どうすればいいのかと困った様な目を向けられて紫はうつむいた。
どうしようもないのだ。だからといって今の彼女から〇〇を引き離す事など出来はしない。そんなことをすれば、幽々子の力は拡散してしまう。
だが、近くにあれば、いずれ呪いが彼を殺す。そもそも、いまさら引き離そうともう遅い。末期の病にかかったように、後に待つのは緩やかな終わりだけ。
何故、西行寺はこんなことをしているのだろうか。少しだけ、そこに考えを至らせた紫は…………。
ここで、誰かが近づいてくるのを紫は感じた。大勢、しかもかなり強い法力の持ち主が。
音もなくスキマに身を滑らせ、気配を押し殺しつつ状況を静観していると、暫くして屋敷の門が開かれ、大勢の僧たちが入ってきた。
何人もの僧が左右に分かれ、一つの道を創り、中央を堂々と老婆が杖をついて歩く。
ぼさぼさの白髪をし、冷え切った眼光が特徴的な老婆だった。枯れ果てた外見とは裏腹に、膨大な法力を感じさせる女。
老婆は幽々子の前まで歩いていくと、正座し出迎える幽々子と〇〇の前にゆっくりと座り込む。
「今回、私がここに来た理由は判っていますね?」
無機質な、そう、肉食昆虫の様な眼が〇〇を射抜く。その中にある呪いさえも含めて。
がらがらの声なのに、はっきりと聞き取れる声。冷たく、鋭利で、暖かさというものが感じられない声音。
一つの組織の重役として、責任を背負い、魑魅魍魎が跋扈する世を生きてきた彼女はもはや人間性など捨てているのかもしれない。
仕方ない、と〇〇は理解し受け入れ、幽々子は嫌だと漏らす。これから、何が起こるか分かったから。
離さないで、いや、いや、いや──腕に抱き付き、縋り付く幽々子を〇〇はやんわりと、引きはがした。
今まで幽々子が経験したことの無い程に、強い腕力に、彼女はあらがうことは出来ない。
はじめて〇〇に拒絶され、呆然とし、動けない。嘘だ、嘘だ、こんなこと───。
畳の上に倒れたこんだ彼女を〇〇が視線を向けようとした瞬間、それを遮る様に老婆の声が室内に響く。
「〇〇を連れていきなさい」
後ろの僧たちに、命令を飛ばすと、何人かの男が〇〇の手を掴み、肌蹴ていた衣服を着せるとそのまま引きずる様に連れ去ってしまう。
人ではなく、家畜や、少しばかり貴重な道具を扱うような仕草が、この場にいる彼らの心境を雄弁に表しているのが見て取れる。
〇〇は、最後の最後まで一回も振り返らず、淡々とした様子で歩く。あ、っと、伸ばされた彼女の腕を掴んだのは、〇〇ではなく、老婆だった。
ぎらぎらと輝く眼で覗きこまれて幽々子は声を失った。
老人とは思えない程に強い握力で握りしめられた腕に痣が残る程に締め上げられ、幽々子は苦痛の息を漏らすが、老婆はそんなことを気にも留めない。
彼女に大量の霊力が内包されたお札を握りこませ、一時的に彼女から死の力を奪うと、続ける。
「〇〇の治療を行います。“アレ”はあのままお前と共にあれば遠からず死に至りますが、もしかしたら、助かる道があるかもしれない」
ふっと、幽々子が息を吐き、体を震わせた。今のは、聞き間違いか? 〇〇が、助かる?
だけど、そのためには自分から離れないといけない? なぜ? 決まっている、私が〇〇に呪いを与えているからだ。
一緒にいたい。だが近くにいればいずれ殺す。離れたくない、だが殺したくない。矛盾同士が擦れあい、火花を吹き散らす。
もう、何をどうすればいいのかさえ分からなくなりかけてる彼女を老婆は見た。
幽々子の葛藤を全て見て、噛み砕き、その上で老婆は言葉を紡ぐ。
「〇〇を確実に治せるかもしれない方法が一つだけある」
「それは……?」
───やめろ!、と紫はスキマの中で声もなく叫びをあげた。その先に続くだろう言葉は、余りに無慈悲が過ぎる。
「呪いというのは、術者はともかく、その力の根源が消えれば効力を失うはず……」
それは死の呪いも変わらない。老婆は子供に言い聞かせるように言った。
そして、一泊あけてから、老婆は淡々と言い放った。
「お前が西行妖を封じ、死の力を抑え込めば、〇〇は助かるだろう」
人柱になれ──老婆はそういっているのだ。
幽々子の眼が、大きく見開かれた。そして、紫は、もうどうしようもないことを理解し、眼を細めるしかなかった。
がりがりがりがりがりがりがり。
幽々子と紫だけが存在する屋敷の中に何かを掻き毟る音が響く。
美しいと〇〇に言われた頭髪を幽々子は掻き毟っていた。
がりがり、がりがりと、かつてそこにあった温もりを思い出したいが、思い出せない。
〇〇からもたらされる安堵は〇〇にしか出せない。友であり、大妖怪である紫でさえ、幽々子の最愛の人間、彼女の半身ともいえる男にはなれない。
奇妙なまでに光輝く少女の眼が妖怪を見た。眼の下に深く刻まれたクマが、痛ましい。
〇〇と引き離されて早数日、体調を万全に整えさないと一週の猶予をもらったが、彼女は日に日にやつれ果てていく。
その手に握りしめた一時的なモノである封印のお札は、既にどす黒く濁りきっている。
「紫……〇〇が、何処にいるのか知りませんか?」
「……ごめんなさい」
紫の境界の力を以ても〇〇の行方は判らない。強大な霊力と法力で隠されているからだ。
扇子で口元を隠す紫の表情が判らない幽々子は、あ、そうですかと簡潔に返す。
がりがりがりがりがり、絶え間なく続いた音が、唐突に止まった。
〇〇が手入れしてくれていた指、爪がボロボロになってしまった箇所を紫はそっと掌で握りしめて、妖力を使い治癒。
「どうして、ですか? どうして、私はこんな風に産まれてしまったのでしょう」
「……でも、そういう風に産まれなければ〇〇とは会えなかった。世界とは、ままならず、予想はいつも裏切られるものですわ」
幽々子は一瞬の沈黙の後、頭に手をやって何かを考え込むような仕草を見せる。漏れ出る吐息は荒く、眼光は飢えた獣の如く輝きを放つ。
「あのお方の言っていたことは本当でしょうか? 〇〇を助ける方法は、本当にそれしか?」
「筋道は通ってます。確かに、力の根源が消えれば呪いが消えるというのはあり得る話ではあるわ」
だが、と紫は胸の中でつづけた。本当にそうなのか、と。
確かに頷ける話で、理解のいく因果関係ではあるが、その逆もありえるのでは。
いや、そもそも今、〇〇は生きているのかどうかさえ──。
だが、これを幽々子にいう勇気は、紫にはなかったのだ。
その上、西行妖を封ずるというのは、紫にとっても悪い話ではない。何故ならば、あれが完全に咲いてしまえば殺されるのは人間だけではないからだ。
西行妖の前では、人も妖怪も、全てが等しく死を賜る。そこにはほんの少ししか例外はない。例えば、遥か彼方の地を治める天と地の二柱の神などが。
逆を言えば、そこまで力をもつ神々でしか対応できない。これがいかに恐ろしい事か。
目の前で紙を取り出し、自分の死後、〇〇にあてた遺書と、恋文を書き始めた幽々子を紫はただ黙って見つめていた。
休むことなく回転を続けることが出来る頭脳は、これでいい、これが一番妥当な落としどころなのだと、判断を下していたが、感情は別である。
止められない事は既に判っている。何故ならば彼女は、〇〇の為にあの大樹の所に行くのだから。
世界の為、皆の為等と言ったそんなつまらない、ありふれた、西行寺が彼女を利用する方便の為に行くというのならば力づくでも止めただろうが……〇〇の為という彼女の心境は痛い程に判ってしまう。
〇〇は、紫にとっても、面白く、興味深く、そして親愛の情を抱かせるに足る人間だった。
服の裾に隠れた彼女の細い拳が、強く握りしめられ、血を滴らせる。
8分咲きまで至った西行妖は、もはや膨大な死という概念の塊としか形容できない異形の存在と化している。
周囲を何十、何百もの結界で封鎖されてなお、漏れ出た瘴気は、近隣の木々を枯れ果てさせ、動物たちを問答無用で死の深淵と引きずり込む。
そんな大木の前に、幽々子と老婆、そして老婆が従える数十人の高僧の姿がある。
大樹の根本にぽっかりと口を空けているのは、おぞましい“穴”だ。
真っ暗で、底など見えない、いや、そもそもの話、底など存在しないかもしれない“穴”が開いている。
白装束を着こんだ幽々子は、その穴を覗きこみ……何も感じない。
そこにあるのは死の国。常人ならば、視認しただけで視力をもっていかれるだろう名伏しがたい景色を見ても彼女の心は、微動だに動かなかった。
頭と心、魂を埋めるのはただひたすら、〇〇の事ばかり。本当の意味で彼女はこの“穴”を見ていない。
今の彼女は高まった妖の力と半ば同化し、かつてない程に死という概念に近づいている。故に、彼女はこの“穴”を見ても無事でいられる。
彼が、助かる、彼が助かる、彼が助かる、彼が助かる、〇〇は死なない。〇〇は助かる。〇〇は助かる。
絶対に、絶対に、彼は死なない。死なないで済む。殺さなくていい。死なない、死なない、死なせない、今まで命を奪ってきた自分が初めて命を生きながらえさせることが出来る。
一歩、足を踏み入れる。飛び込むように虚空に投げ出された足は、穴の底から差し出される手の形状をした、黒い泥の様なモノに触れ、そのままずぶずぶと体が沈み込んでいく。
腰当たりまで沈み込み……そこで止まった。幼子が手を伸ばすように無数の手が、全身に纏わりつくのをうざったく感じ、彼女は眼を閉じた。
魂に送り込まれ、直接感じるのは、無数の人々の痛み、苦痛、死への恐怖。様々な絶望、様々な柊。
彼は、今までこんなに痛いモノを引き受けてくれたのか。今まで私は、こんな苦痛を彼に与えていたのか。
みこさん あわいに おきつけば
しせいぎ うがって いみいのぎ
くもん ひらいて やすからず
外で、老婆達が、錫杖をかき鳴らし、祝詞を唱えているのが聞こえる。
同時に自分のからだから何かが引きはがされていくのを感じ、幽々子は自らの死を受け入れるべく、意識を飛ばそうとする、後は自らの死と、魂の軛によって西行妖の封印は完了する……はずだった。
無私になり、自らを捨てて、ただの絡繰りとなる。妖を封ずる絡繰りとなる、それが彼女には出来ない。
最後に残った生への執着が、それを邪魔するからだ。〇〇と一緒にありたいという無意識での願いが、彼女を死なせない。
産まれた時から、ただ西行妖を封ずる道具として育った彼女は、〇〇という男を知り、女になってしまった。
それが、その歪が、最後の最後になって計画を妨げる障害、枷だった。
叶う事なら、もう一度会いたかったという強すぎる執念が、昇華を妨げてしまう。
────仕方ない。哀れだが、忌子に役目を果たしてもらう。
耳朶を叩いた、老婆の声は、余りに唐突で、残酷で、理解が出来なかった。
ドンっという、鈍器で固い、ナニかを叩いたような音と共にナニかが、穴の中に落っこちてくる。
「──────────」
何だ、と目を開けて眼前の“ソレ”と眼があった幽々子は……固まった。
そして、幽々子は……眼を抉りたいと思った。だが、盲目になったとしても、この光景は、彼女が彼女である限り、永劫魂に焼き付いて彼女を苦しめることだろう。
“ソレ”から、蒼い刺青が消えていく。もう死んでしまった存在には必要のないモノだから。穴の開いた袋から水が零れ落ちるように、死が溢れだし、幽々子に纏わりつく。
全身に蒼い刺青が走っていく。駆け抜ける柊さえ、彼女は感じず、ただ声もなく絶叫していた。
左腕、背中、足、右腕、頭……そして、〇〇の死を映して焼き付けた瞳まで、一瞬で刺青が覆い尽くした。
それは完全なる墨染の桜 ──亡我──禍々しい時の始まりを、そして儀式の失敗を意味する。
呪怨霊樹が、咲き誇る。
完全なる墨染めの桜の開花、だ。何万もの桜吹雪と共に、黒死の蝶が、縦横無尽に舞った。
もう、全て亡くしたい。見たくない。眠りたい。
その念を切っ掛けに二百由旬を覆い尽くす程の、西行妖の力が爆発し、広がっていく中、彼女の意識が最後に見たのは自らの友達である紫が老婆や僧たちに襲い掛かる姿だった。
「思ったより早かったわね……もう少し、彼との逢瀬を楽しむと思っていたわ」
夜も明け、もう間もなく太陽が昇ってくる朝方の時間帯、紫はふわふわと浮かびながら白玉楼の階段を上ってきた幽々子にそう声をかけた。
穏やかな口調と、穏やかな眼で語り掛ける友達に、幽々子は何時も通り、つかみどころのない口調で返した。
「さすがの私も、彼の都合くらいは考えるわ~~。
それに、彼にはしっかりと生きて、徳を積んで、この冥界に特別に住まわせてもらえるぐらいにはなってもらわないといけないもの」
「あらあら、それはまた高いハードルね」
「障害があった方が、恋ってのは燃えるものなのよ~」
ふふふ、と二人で笑いあいながら、出迎えてくれた妖夢を傍に従えつつ、白玉楼の屋敷の中を目的もなく進んでいく。
そうしているといつの間にか、二人は西行妖の前にたっていた。本当に何故なのか、気の迷いとでも言ったところか。
大樹を見上げ、紫はふと、声を紡ぐ。
「そういえば……私はまだ●●の顔を見ていないわね」
返事もなく幽々子は一枚の古めかしい、おそらくは天狗がもっている機材で撮ったものと思われる写真を取り出し、紫に差し出した。
丁寧に写真を受け取り、顔の前まで持ってきた紫は……思わず写真を落としそうになってしまう。
咄嗟にもう片方の手で空中で写真を掴みとるが、それでも彼女は無意識に呟いてしまった。
───〇〇?
ん? と紫のつぶやきが聞こえなかったらしい幽々子は顔を傾げるが、紫は何でもないと返した。
取り出した扇子を大きく広げ、顔の半分以上を隠しながら彼女は持ち前の精神力で動揺と、感涙の気持ちを全力で押しつぶす。
「さぁ、屋敷に戻りましょう」
訳が分からないといった風貌の幽々子を眺め、紫は大きく息を吸い込み、幽々子を急かしつつ屋敷に押し戻した。
最後に一回、彼女は西行妖を振り返り、一礼した。そこにある、何かに敬意を表すように。
龍の神にさえ助力を乞い、何とか封じることに成功した彼女の無念に、紫は哀悼する。
全てを忘れ、何もかもから解放された彼女が今度こそ幸せになれるよう、紫は、ただ、祈った。
紫と幽々子が屋敷に戻り、誰もいなくなった西行妖のある庭……。
かつては億千万の死を振りまいた、現在の化石は何も言わず、ただそこにある大樹となっている。
その根本【何者か】が眠る場所。
その、奥底で、得体のしれないナニかが、蠢いた。
幕
最終更新:2014年07月21日 13:23