『花』は見ている




    「幻想郷で1番恐ろしい妖怪と言えば、太陽の畑の風見幽香だろうな」
    幻想郷に来て2週間程、○○は先輩の外来人達との雑談の中でその言葉を聞いた。
    どんな会話の流れだったかすら覚えていないのに、その情報だけははっきりと耳に残った。
    その言葉を聞いて、○○は幻想郷で最初の獲物を風見幽香と定めた。

    ―

    幼いころ、○○は最愛の両親を失った。
    彼の両親達は、夜中に都内の大通りのど真ん中で原型を留めない無残な姿で発見された。
    あまりの惨状に、現場に到着した警官は例外なく顔色を変え異臭に口元を押さえた。
    警察はその一件を事故として処理を進めた。大型トラックの暴走に巻き込まれた結果と判断したのだ。

    それは無理からぬ事だった。
    刃物で刺せば身体には刺し傷が残る。鈍器であれば殴打された痕が残る。
    銃なら銃痕が残るし薬物ならそもそも身体を破壊する意味が無い。
    だが、被害者の身体の”残骸”は、そう言ったレベルを超えていたのだから。

    怨恨の線も考えられたが、その場合は場所が問題となる。
    彼の両親の損壊の度合いは10分20分程度の短時間で出来るモノではなかった。
    こんな行為を人の手で行っていたら間違いなく絶叫が鳴り響く。
    人通りが少ない時間帯とは言え、いつ誰に目撃されるかもわからない場所でそんなことをする人間などいるだろうか。
    少し考えれば普通の人間ならば否と答える。恨みが募っての犯行ならば場所を変えて苦しめるだろう。

    そして何より、後日警察所に青白い顔をして現れた○○が、大きなトラックが両親を轢いたと証言した事が決定打だった。
    この証言から、警察はこの1件を事故として処理した。

    目の前で両親が肉塊になりパニックになって逃げ出したと、血の気の失せた表情で証言した○○に、
    見かねた婦警の1人が彼を抱きしめたが、○○は泣かなかった。


    同じ都内に伯父夫婦が住んでおり交流も盛んだった為、○○の身柄は彼ら引き取られる事となった。
    子供に恵まれなかった伯父夫婦が、○○を疎むことなく我が子のように大切に扱ってくれた事は、
    彼にとって不幸中の幸いだったと言えよう。

    両親の命を奪った車は必ず警察が発見してくれる。
    伯父夫婦の言葉に、○○は感情を込めずに返事をする。まるで機械のように。
    今は無理もないと考えた伯父夫婦は、そんな彼の様子を見守る事に決めたのだった。


    宛がわれた部屋の中、○○は1人考える。
    両親を轢いた車など見つかる訳がないと。探すだけ時間の無駄だと。
    だがそれを口にする事は無かった。どうせ誰も信じないからだ。
    仮に○○が当事者以外の立場で話を聞いたとしても信じなかっただろう。

    両親の命を奪った犯人は普通の人の目には映らない化物だった、なんて事を。
    その化物もまた、○○が既に退治してもうこの世にいないのだ、なんて事を。
    ○○には普通の人には見えない存在が見えて、それに対抗する力がある、なんて事を。

    難しい話ではない。
    ○○は両親と外を歩いていた時、化物に襲われ命を落とした。。
    彼の両親がなす術もなく肉塊へと変わり、それを見た○○はパニックを起こして逃げ出した。
    近くの神社に逃げ込んだ辺りで追い付かれ、今にも襲いかからんとした化物に手を翳した時、
    その手から発した不思議な力が化物を撃退したのだ。

    何故彼らが狙われたのか。襲ってきた当の化物がもういない為、真相はもうわからなかった。




    『花』は見ているー2



    両親の一件が起きてから十数年の月日が経った。
    ○○は伯父夫婦と共に、本物の家族の様に平和に暮らしていた。

    中高大と彼の志望と努力に見合った場所に通わせて貰い、何不自由なく暮らす○○は、
    いわゆる好青年と言われる体であり、文句なしの優等生と評価されていた。
    事情を知らない人間から見て、彼に悲惨な過去があると思わせる姿をしてはいなかった。

    ただし、彼は中学高校、そして今いる大学を含め、サークルや部活といった類には、一切参加していなかった。
    割と社交的で顔も悪くなかった為、何度か人から誘われた事もあったが、彼は例外なく固辞した。

    その割に、○○の帰宅時間は部活に参加していない人間のそれと比べれば遅いモノだった。
    中学の時で5時から6時の間。
    高校の時で7時前後。
    大学に入ってからは夜中12時過ぎるまで帰って来ないこともざらになった。
    大学に入ってからは1人暮らしだった為、どんなに帰りが遅くてもそれを咎める人はいなかった


    なら○○は外で一体何をしていたのか。
    彼は人気の無い廃墟や悪い噂のある場所、俗に言う”出る”と言われる場所を徘徊していたのだ。
    目的は、常人には見えない存在を探す為。

    では彼は何の目的でそういった存在を探していたのか。
    こちらも簡単な話で、一言で表せば○○は”狩り”をしていたのだ。


    ○○は実の両親を愛していた。それ故に両親を奪った存在を憎んだ。
    次第にその憎しみは直接害した化物のみならず、人外の存在全てが対象になっていた。
    失った哀しみを克服する為に、憎しみで心を染めなければ、幼かった彼の心は耐えられなかったのかもしれない。
    故に彼は狩りをする。彼が憎しみを抱く全てに復讐するために。
    一見するといかにもな好青年である○○の、裏でのこう言った行動に、気付き咎める人はいなかった。


    ○○という人間は孤独だった。そういった感情も含め何もかもを、彼は憎しみで上から塗り固めていた。
    そしてその憎しみをぶつける対象を発見すると、およそ人とは思えないような醜悪な笑みを浮かべて、
    容赦なく対象を潰すのだった。

    彼はその力を使い、捕えた獲物に可能な限り苦しみを与えた上で滅ぼす事が習慣となっていた。
    同世代の人間がスポーツで汗を流し、異性への恋心を抱き、友人と共に笑い合い、人間らしい生き方を堪能している間、
    ○○はゲームで主人公が遭遇したモンスターを倒す様に、黙々と、ただ黙々と狩りを続けていった。

    ―

    そんな○○の生活に、唐突に転機が訪れる。

    都内から少し外れた山道にある廃トンネル。
    そこには中に入った人間を襲う悪霊がいると聞き、今回の狩りの獲物と決めて出発した時の事だった。

    件のトンネルの中に入り探索するが何も出ず、今回はハズレかと判断し、
    引き返そうと踵を返したその時、トンネルの先にうっすらと光が見えたのだ。

    今は使われていない廃トンネルである。そして現在は深夜を過ぎた所。
    ○○の持つライト以外に光源があるわけない。
    怪訝な表情をしながらも、光の方に向かっていく。

    進むにつれ光が大きくなり、次第にそれは人口の物ではなく自然の物だとわかってくる。
    日の光と緑の木々、風で揺れる花が見える。
    目に映るありえない光景に眉をひそめたが、○○は足を止めなかった。


    そこはトンネルの反対側の出口のようだった。しかし深夜なのにこの明るさは一体なんだ。
    慎重に出口から一歩足を踏み出した瞬間、背後の空間にひび割れが生じ、
    トンネルがその裂け目に吸い込まれて消えてしまった。

    目に映った光景に頭が着いていかない。
    だがぼんやりと、別の方法を探さなければ元の場所には戻れないと言う事だけは理解できた。

    仕方なく○○は辺りを見回す。
    するとさほど遠くない位置に白い煙が立ち昇っているのを発見した。
    ここで立ち止まっていても状況が好転することはなさそうだ、
    そう考えた○○は一先ずその煙の所へ行ってみようと一歩前へ踏み出した。


    『花』は見ているー3



    進んだ先は畑だった。
    農作業に適した格好をした人々が畑の近くに設置された鍋に集まり何か煮ている。
    立ち昇っていたのは煙の発生元はあれの様だ。

    遠目に見る限り集まっている人々に変な様子は無い。
    ○○は、不意に何が起こっても対処できるよう警戒しながら、彼らに近づいていった。

    人々もまた近づいてくる○○の姿に気付き始める。
    彼らの中の1人がおーいと声を上げつつ手を振ってくるのが見えた。
    周りの人達も来い来いと手招きしてくる。

    彼らの表情から害意はなさそうだと判断した○○は思い切って声をかけた。
    狩りの話をするわけにはいかなかったので、単に道に迷ってしまった事にして、一体ここはどこなのか尋ねる。

    地名を挙げてどの辺りか尋ねても、一様に首を傾げる彼らを不思議に思う○○であったが、
    不意に彼らの中の年配の人が「あぁ、おまえさん外来人か」と合点がいった風な様子で声を上げるのを耳にする。
    その単語に周りの人も納得が行ったようで、○○だけが置いてけぼりになってしまった。

    すると、最初に外来人かと言った年配の男性が、
    となりにいた○○と同年代の若者に「この人を慧音さんの所へ連れてってやれ」と指示を出す。
    言われた若者は頷き、着いて来いとばかりに歩き出した。
    ○○は、彼らに礼を言いつつ若者の後を追っていった。

    ―

    若者の後を静かに追っていた○○は、最終的に木造の建物の前に案内された。
    古く、大きな建物だ。しかし何故だろう、人が住んでいる風な印象を受けない。
    随分と横幅のある割に、外から見える中の部屋には、妙に生活感が無い。
    だだっ広い1部屋に数多くの机が山積みになってる箇所も見える。
    しかし、定期的に使用されている様子も見て取れる。

    それ以前に今どき完全木造の建築物なんてモノが使われている事に驚いた。
    一体築何年の建物なんだろう、そう○○が疑問を抱いた所で、建物の中から複数の人間の声が聞こえてくる。
    随分と幼い声質だ。

    すぐに声の主達が現れた。
    印象の通り声の主は子供だった。それも数人ではない、2、30人程の子供がぞろぞろと外に出てきたのだ。
    皆一様に笑顔で、思い思いの相手と話しながら○○と若者の傍を通って去っていった。
    なんだろう、似たような光景に覚えがある、しかしそれを表す単語が出てこない。
    そして奇妙な違和感が1つ。こちらもその正体がわからない。


    首を傾げ考え込む○○だったが、すぐにまた人影が2人分見えたので思考を中断する。
    片方は先ほどの子供達と同じくらいの子供だった。
    そしてもう片方は、長い銀髪に全身を青で統一した服装の女性だった。

    子供の方は女性に対し「せんせー、またね」というと、手を振りながら先ほどの子供達と同じ方向へ走っていく。
    女性の方も笑顔で手を振り見送った。

    先生という言葉を聞いて、○○は”学校”という単語を思い出す。
    常に暮らす様な生活感が無く、けれども定期的に使われる広い空間。
    規模が違えど、この建物は○○が昔通った学校と共通点があった。


    ○○を連れてきた若者が先生と呼ばれた女性に話しかける。
    若者が○○の方を見て、「どうも外来人らしい」と言い、彼女の様子を窺っている。
    その一言で得心がいったのか、女性も○○の方を向いて上から下まで観察してくる。
    この女性が慧音さんなのだろう。

    女性は若者に、「わかった、彼の事は私の方で対応しよう」と言うと、若者は頭を下げて去っていった。
    去っていく若者に○○も頭を下げ礼を言う。そして改めて彼女の方へ向き直る。

    「ついておいで、色々と案内しながら話そう」
    女性は若者が去った方角とはまた少し違う方向へ歩き出した。○○もその後を追う。

    「私は上白沢慧音。この里の守護者をしている。歓迎しよう。外からの来訪者」
    彼女の話す内容は、今後の○○に大きく影響を与えるものだった。



    『花』見ている-4



    幻想郷。外の世界とは隔離された別世界。
    自然に彩られたこの世界は、○○の知る世界とは違うモノらしい。
    そして、時たま○○のようにどこかしらから迷い込んでくる人間がいて、
    彼らの事を幻想郷では外来人と呼ぶのだそうだ。

    そこまで聞いて○○は歩いてきた道を見返す。
    比較的人の多い通りにはいくつもの店が並び活気づいている。
    自分のいた世界とは別世界、それを意識しながら人々の様子を観察すると確かに違和感がする。
    先ほど子供達を見た時と同じ違和感だ。

    しばらく考えた○○はふと違和感の正体に気が付く。
    服装が妙なのだ。古臭いというかレトロというか、和風に凝り固まっているというか、
    彼が暮らしてきた環境と比べあまりにも服装のセンスが違いすぎる。
    今どき外での普段着で袴や下駄なんて履いていたら変な目で見られるが、ここでは皆そういった和服ばかりだった。

    上を見上げて周囲を見回しても、電信柱や電線の類が一切見当たらない。
    アンテナもないので携帯電話を取り出しても当然の様に圏外だった。


    冗談にしては出来過ぎている、そう思う○○だったが、唐突に隣で慧音さんがくすっと笑ったのに気が付いて目を向けた。
    ○○と目があった彼女は笑いながら謝罪してくる。

    「あぁすまない、君のことがおかしくて笑った訳ではないんだ。
    最近読んだ幻想郷縁起という書物に、最近の外来人は携帯というモノを必ず持ち歩いていて、
    幻想郷の話を聞くと決まってそれを取り出すと書いてあったんだ。
    知り合いもその編纂に携わっているんだが、その携帯というモノは非常に便利そうなのに、
    幻想郷では再現できそうにないと、悔しそうに愚痴を零す彼女の姿を思い出してしまったんだよ」

    彼女の話は確かに何となくわかる気がした。
    携帯電話が普及した今の時代、何かあれば外来人は携帯を確認しようとするだろう。


    慧音さんの話は更に続く。
    幻想郷には妖怪と呼ばれる存在が数多く暮らしていること。
    この里の中は不可侵になっているから安全だが、一歩外に出ると場合によっては妖怪に襲われてしまうらしい。
    一部人に友好的な妖怪も存在するが、大半は人に危害を加えるので無闇に里の外には出ない様に忠告された。

    案内の途中、彼女は通りの店でいくつかの食べ物を購入すると、○○に手渡してきた。
    「外来人は保護した際に住んでもらう場所が決まっている。これから案内するから着いてきてくれ」
    そういってまた歩きだす。どうやら今渡された食糧は○○のモノのようだ。

    案内の途中、猫の尻尾と耳を付けた10歳程の少女と、何本もの尻尾を生やした女性が向かい側から歩いてくるのが見えた。
    慧音さんは会釈するが○○は目を合わせない様に足元を見てやり過ごした。


    その後、里での注意事項等の説明が終わった所で慧音さんが立ち止まり、長屋の一か所を指差した。
    「ここが君の部屋だ。中は自由にしてくれて構わない。
    明日、ここで暮らす上で君に出来そうな仕事をいくつか紹介しに来るから、昼頃ここで待っていてくれ」
    そう言って彼女は去ろうとする。思わず○○は呼びとめた。

    立ち止まって振り返る彼女に、○○は1つ頼み事をする。
    身を守る意味で出来ればもう少し詳しく妖怪に関して知っておきたいから、
    そういった存在の特徴を記した書物か何か無いだろうかと。

    その言葉を聞いた慧音さんは、明日仕事と一緒に、そういった物も持ってくると約束してくれた。
    去っていく彼女を見送り、○○は指定された部屋に入っていった。


    部屋の中は8畳ほど、最低限の家具もあり人間1人が暮らすには十分なスペースがあった。
    真ん中の丸机に渡された食べ物を広げる。大きめな饅頭が4つ入っていた。
    外の空が徐々に赤くなってきた所なのでこれは2食分なのだろう。
    晩朝と2つずつ。大きさも十分なので足りないという事もなさそうだった。

    外の井戸で水を汲み、部屋の中のヤカンで温め一息つく。そして慧音さんの話の内容を思い返す。



    『花』は見ているー5



    慧音さんの話を聞いた○○の心情を一言で表すとしたら、それは苛立ちだった。
    妖怪の存在を聞いた辺りから気にいらなかったのだ。
    ここは人を害する存在が跋扈している世界。
    一瞬両親が肉塊にされた時の光景がフラッシュバックする。
    両親の命を奪った存在が憎い。、人間を害する存在が憎い。妖怪が憎い。
    そういった感情に囚われた○○には、幻想郷という世界の在り方が認められなかった。

    ならばどうするか。
    壊そう。その世界の在り方を。自分にはそれが出来る力がある。
    人を襲う妖怪を1匹残らず狩ってしまおう。
    伯父夫婦に引き取られてから十数年。外で遭遇した人外を例外なく退治してきた○○という人間は、
    人知れずそう決意するのだった。

    ○○は気が付かない。
    狩り尽くすと決めた時のその表情が、両親を襲った化物を超える醜さを見せている事を。
    幻想郷にいる妖怪の実力を知る者なら、彼の考えを即座に切り捨てていただろう。
    その傲慢さと無知さを、その慢心を、○○に指摘する者は、残念ながらそこにはいなかった。

    ○○がその代償を払うまでにかかった時間は、そう長いモノではなかった。

    ―

    「幻想郷で1番恐ろしい妖怪と言えば、太陽の畑の風見幽香だろうな」
    幻想郷に来て2週間程、○○は先輩にあたる外来人達との雑談の中でその言葉を聞いた。
    どんな会話の流れだったかすら覚えていないのに、その情報だけははっきりと耳に残った。

    「曰く、幻想郷最強の一角、かつ人間への友好度は最悪。故にその危険度は他に類を見ない程の極高」
    「人間はおろか他の妖怪ですら容赦なく滅ぼすらしく、人間の里の外で出会ったら諦めるしかない」
    「遭遇したら逃げることすら出来ず間違いなく命を落とす」

    「花さえあれば他はどうでもいいらしい」
    「1番有効な対処法は太陽の畑に近寄らない事」

    「以前人間の里の中で悪さをしようとした妖怪が、慧音さんに追われた時に太陽の畑の方角に逃げてったんだが、
    風見幽香に見つかって一瞬で消炭にされたらしい」
    「その際七色の閃光が爆音とともに空に撃ち上がったのを多くの人間が目撃しているが、
    曰く風見幽香の得意とする魔術の1つなんだとか」
    「それなりに好戦的であるらしく、慧音さんも危うく攻撃されるところだったらしい」

    「里の花屋の常連らしく、外から珍しい花の種が流れてきた際にはその日のうちに全部買い占められたとか何とか」
    「花屋から帰る時に上機嫌で鼻唄を歌っていたらしい」
    「人間の里ですれ違った時会釈したら笑顔で返された。里の中では紳士的らしい」
    「あの御み足に踏まれたい、罵られたい」
    「ゆうかりんかわいいよゆうかりん」
    いくつか妙な発言もあったが。○○は風見幽香という妖怪に関して調べてみようと考えた。

    ―

    外の世界で優等生として振舞っていた○○は、幻想郷の環境でも割かし早い段階で順応した。
    むろん裏の顔は隠し続けながら。

    日中は上白沢慧音に紹介された呉服屋で働き、それと同時に、○○は色々な方面から妖怪に関する情報を仕入れる。
    風見幽香の情報もそんな中で手に入れたものだった。

    数ある妖怪の中でも最も凶悪で残忍な妖怪。
    多くの人々の話で名が挙がる彼女風見幽香の在り方は、○○にとって狩る理由をを十分満たすものだった。
    まずはこの妖怪から血祭りにしてやろう。○○はそう決意する。

    風見幽香が自分より実力があるという可能性を、○○は微塵も考慮に入れなかった。
    外の世界で続けていた狩り結果、彼は少々自信過剰になっていたのだ。

    幻想郷にやってきて1カ月、こちらの生活に多少慣れてきた所で、○○は狩りを実行に移す。
    呉服屋から貰った休みの日の朝、彼は風見幽香が住む太陽の畑へと向かった。


    『花』は見ているー6



    人間の里から南東の方角、鈴蘭の群生するという無名の丘の付近に、
    目が眩む程の黄色で彩られた草原があった。
    人の身長を楽に超える見事な向日葵が形作る黄色い絨毯。これが太陽の畑と言われる所以なのだろう。
    それは、一瞬ここに来た目的を忘れてしまう程に美しい風景だった。

    しばらく何もせずその景色を眺めていた○○だったが、数回頭を振り、頬を張って意識を持ち直す。
    そして慎重に中へと足を踏み入れた。


    太陽の畑は大量の向日葵が生い茂っているモノの、
    無造作に群生しているわけではなく、花の植えてある箇所と道とで綺麗に分けられていた。
    明らかに何者かの手が加えられている。それが誰なのかは容易に想像がついた。

    道を外れた向日葵の群れの中から、時折無邪気な子供の笑い声が聞こえてくる。
    無論こんな所に子供がいるわけがない。妖精でもいるのだろうと判断した○○は、無視する事に決める。
    妖精は積極的に人を襲う妖怪ではない為、今すぐにどうこうする必要がなかったからだ。

    それにここまで大量に並んだ向日葵の奥を、道を無視して進むには向日葵を根元辺りからへし折って新たに道を作るしかない。
    そんなことをしている内に妖精は逃げてしまうだろうし、
    ここまで見事な向日葵に傷をつけるのは、○○も少し気が退けたのだ。


    向日葵が形作る道を中心部に向けて進んでいた○○だったが、
    不意に前方に見慣れない姿が見えたので一旦その歩みを止めた。

    この太陽の畑の中では、空が彩る白と青、両端の向日葵が彩る黄色と緑、そして地面の土の色しか目に入らなかったのだが、
    それに加え淡いピンク色と赤が唐突に現れたのだ。目を凝らしてその色の正体を探る。

    それは人影だった。
    ピンクはその人影が持つ何かの色で、赤はその人影の服の色だと徐々に判明してくる。
    人影は一定の速度で自分の方へ進んできている。
    最初見つけた時の半分までその距離が詰まった時、その正体は女性だと気が付いた。


    鮮やかな萌葱の髪に彼岸花を思わせる紅の瞳を持つ整った顔立ち。
    襟元を黄色いリボンで飾り、白のカッターシャツとチェックが入った赤のロングスカートを着用し、
    その上から同じ色のチェックのベストを羽織っている。
    南国の花のように豊かな肢体をしているのが服装の上からでもわかる。
    あえかな美貌に浮かぶのは蒲公英の綿毛の様に“ふわふわ”とした、つかみどころのない微笑み。
    手にはピンクの生地で出来た日傘。無駄な装飾を施さぬ、それでいてしっかりとした仕立ては一目で一級品だとわかる。

    貴婦人といった表現がぴたりと当てはまる。
    10人が10人確実に振りかえるであろう完璧な美しさを持ち、しかし嫌味を感じさせない上品なその姿見は、
    さながら一輪の花のような風情を思わせた。


    儚く散りゆく木花の姫

    ○○は柄にもなくそんな詩的な言葉を思い浮かべた。


    『花』は見ているー7



    「太陽の畑にようこそ。人間である貴方が私の庭にどんな御用なのかしら」
    目の前まで来たその女性は軽く首を傾げながら○○に質問してきた。

    女性の姿に軽く呆けていた○○だったが、その言葉を聞いて一気に頭の中が警戒心で満たされる。
    この女は今、私の庭と言った。という事はこの女が…。

    「風見幽香で間違いないか」、睨みつけながら確認を取る○○とは対照的に
    目の前の妖怪はのほほんとした笑顔で、ええ、と肯定する。

    「恨みはないが、あんたはここで狩らせてもらう」、○○は淡々と答えつつ殺^気を彼女にぶつける。
    しかし当の本人はまったく意に介した様子もなく、全く変わらずのほほんとしていた。

    「それは弾幕勝負の申し出なのかしら」、右の人指し指を顎に添え少し考え込んだ彼女が確認を取ってくる。
    ○○はこれに否と言い、命の取り合いだと再度答えた。

    その答えを聞いた彼女は何を言っているのかわからないといった様子で○○の事を観察してくる。
    上から下までゆっくり視線を動かし、再度少し考え込んだ彼女は、口を開いた。


    「面倒臭いわねえ」幽香は眉をひそめて億劫そうに答えた。
    「お手玉とか“しりとり”とかの勝負じゃ駄目かしら。そっちのほうが面白いと思うの」


    あまりにも自分を舐め切ったその発言に、○○の頭に一気に血が上る。
    瞬間、一息で彼女との距離を詰め、自分の力を込めた右拳を彼女の顔面に叩きつけた。
    2度と日の目が当てられない顔にするつもりで、全力で拳を振り抜く。

    べきぃ、
    凄まじく鈍い音が周囲に響く。
    自分の拳の感覚に違和感を感じた○○は、殴りつけた風見幽香の顔を確認する。

    そこには殴りかかる前と全く変わらぬ様子でこちらに微笑む風見幽香の顔があった。
    自分の拳を見ると、彼女の顔のすぐ手前に張られた障壁に阻まれ、そこで止まっていた。
    鈍い痛みを感じる。よく見ると、自分の拳は障壁にぶつかった時砕けてしまった様だった。
    手の甲の部分から折れた骨が皮膚を突き破って飛び出しているのが見える。
    それを認識した途端に襲ってくる激痛。
    ○○はその痛みに呻き声をを上げようと息を吸い込んだ。

    「危ないわねぇ」
    その時、耳に風見幽香の呟きが届いた。それと同時に左肩辺りに鈍い衝撃が走る。
    次の瞬間、○○の目には凄まじい速度で滑る地面が映った。

    何が起こったか確認する暇もなく、再度襲ってくる衝撃。身体が跳ねるのがわかる。。
    3回程跳ねた所で勢いがなくなり、○○の身体は地面に突っ伏した。


    『花』は見ているー8



    朦朧とする意識の中、何が起こったのか考える。
    つい先ほどまで目の前にあった風見幽香の姿が今は随分と遠くにあった。

    殴られたのだと理解した○○ではあったが、彼はその事実が信じられなかった。
    自分の全力の拳は効果が無く、軽い感じで振るわれた彼女の拳で自分は甚大な被害を受ける。
    外の世界で狩りを続けてきた○○は、時たま反撃してくる化物にも遭遇していたが、
    ここまでぶっ飛んだ状況は想定外だった。

    地面に伏していた○○だったが、遠くにいる風見幽香がゆっくりと自分の方に歩いて来るのを見て、
    両足に力を込めて立ち上がろうとした。

    左腕を支えに上半身を起こそうとした時、左肩からも激痛が走る。
    思わず自分の肩に目を向けると肩の付け根が変な形に捻じれていた。
    先ほど殴られた時の衝撃で骨が折れたらしい。朦朧としていた意識は痛みのお陰で覚醒した。

    痛みに悶えながら風見幽香の方を確認すると、自分との距離はさっきの半分程になっていた。
    両手が使えない事を理解した○○は、痛みに四苦八苦しつつも何とか足だけを使って立ちあがる。
    彼女の方を見ると、既にすぐ近くに立っていた。


    肩で息をしながら○○は風見幽香を睨みつける。
    彼女の方は先ほどと変わらず笑顔を浮かべ、のほほんとしていた。

    2人の距離が先ほどと同じ程度になった時、
    ○○は無言で再度彼女に攻撃を仕掛ける。先ほどと同じく狙いは彼女の顔、右足に力を乗せて一気に振り抜く。

    ボギッ。
    先ほど同様自分の足から鈍い音が聞こえた。
    風見幽香が振るった日傘に迎撃され、右足は膝下の辺りがあらぬ方向に曲がっていた。
    バランスを崩した○○は背中から地面に倒れた。


    地面に崩れ落ちた○○の左足が踏み砕かれる。
    芋虫のようになった○○を、風見幽香は、丁寧に丁寧にいたぶった。
    辛うじて今自分に命があるのは、単に彼女の気紛れだろう。
    命の代わりに、身体の方はぼろぼろだったが。

    今の○○に出来る事と言えば、定期的に襲う痛みに耐え、口から漏れそうになる悲鳴を飲み込み、
    目の前の妖怪に憎しみの籠った眼差しを向ける事だけだった。


    「ふーん、まだそんな眼が出来るのね。
    ここまでされれば大抵泣いて命乞いする筈なんだけど。
    貴方より力があって、それに自惚れて私に襲いかかってきた妖怪も、
    四肢を千切った時点で無様に泣きわめいてきたって言うのに。
    貴方ってちょっと変わってるのねぇ」

    最初と全く変わらない調子で語りかけてくる彼女の姿が癇に障る。
    しかし、今の○○には既に声を出す余裕もなかった。彼は静かに睨みつける。

    「貴方はここの花に何かした訳じゃないし、
    わざわざ命を奪うのはちょっと可哀想な気もするわね。
    どうしましょう………」

    ○○の事などお構いなしに風見幽香はぶつぶつと呟きながら考え事を始める。
    しばらくして、彼女は何か思いついたのか、そうだ、と呟き、○○に眼を向けた。

    「紫の言っていた事もあるしちょっと試してみましょう」
    そう言って彼女は右手を○○に向けて翳す。
    ○○の身体に2回衝撃が走る。両肩に何かが撃ち込まれる感覚。

    その衝撃を受けて限界を超えたのか、○○の意識は徐々に薄れていった。
    瞼を閉じる最後の瞬間、○○の眼には風見幽香の口元の微笑みが映った。
    何故か同時に自分の両親を襲った化物の姿が浮かびあがり、彼女の微笑みと重なった。


    『花』は見ているー9


    全身の痛みを感じて○○が眼を覚ますと、目に入ったのは見知らぬ天井だった。

    上手く身動きが取れない○○は、何とか首だけ動かして周囲の様子を窺う。
    消毒液の臭いすることから、ここは病院の様な場所じゃないかと考えた。

    しばらくじっとしていると、不意に近くのドアが開き、1人の女性が現れた。
    腰までの長い銀髪を後ろで束ね、身体の中心から左右で赤青の2色に分かれる変わった配色の服を着ていた。
    その女性は、○○が目を覚ましたのに気が付くと、気分はどうかと尋ねてきた。
    最悪だと答えると、その女性は「あれだけの重症でそう言えるならもう大丈夫そうね」と口にした。


    八意永琳と名乗るその女性に、ここはどこで、何故自分はここにいるのか尋ねると、
    彼女は、ここは永遠亭という名のいわゆる病院で、貴方は人間の里の守護者が運んできたのだと答えた。

    彼女の話をまとめると、
    人間の里の入り口付近にぼろぼろな姿で倒れていた○○を見つけた上白沢慧音が、彼を担いでここに入院させたという事だった。

    上白沢慧音の名前を聞いた○○は一瞬嫌そうな顔をする。幻想郷に来た最初こそ彼女には感謝をしていたが、
    彼女もまた妖怪の類だと知った時から評価が変わっていたのだ。彼女もまた憎むべき妖怪の1人なのだと。

    そんな様子を知ってか知らずか、永琳さんは○○が目を覚ました事を上白沢慧音に伝えてくると言って部屋を出ていった。
    程なくして、物凄い形相をした上白沢慧音と、そんな彼女の様子に苦笑している永琳さんがやってきた。


    上白沢慧音は○○に身体の調子を確かめ、怪我を負った理由を聞いてきた。
    彼女の様子から嘘は通用しそうに無かった為、○○は已む無く怪我の経緯を正直に話した。
    外の世界で生まれつき持っていた力を使い人外相手に狩りをしていた事。
    幻想郷において最強の一角の風見幽香という存在を知り、挑戦してみようと思い立った事。
    自分の両親の事だけは伏せた。

    ○○の話を聞いた永琳さんは心底呆れたという顔をしてこちらを眺め、
    上白沢慧音の方は黙って○○の傍に近づくと、彼の頭目掛けて物凄い勢いで頭突きをかましてきた。

    あまりの衝撃に目を白黒させる○○を尻目に、彼女は○○がどれだけ無謀な事をしたか説教し始めた。
    当の本人はすぐに目を回して気絶してしまっていた為、全く耳に入って無かったのだが、
    頭に血が上った彼女がそれに気が付くのは幾分か後の事だった。

    ―

    全治4カ月、それが今回の一件の○○の負う代償となった。
    全身ぼろぼろだった割には随分短いな思ったが、
    永琳さん曰く、永遠亭で作られる薬は特別性で、治癒力を高めて傷の治りを早める作用があるらしい。
    ただし、両肩に出来た傷は消えないだろうと言っていた。
    その傷は○○が気絶する直前に風見幽香が撃ち込んで出来たものだった。

    命が助かったとは言っても当分まともに動けないので、代わりに頭で思考を巡らせる事にする。
    自分の実力と風見幽香の力の差についてだ。

    上白沢慧音曰く、幻想郷に住む妖怪と外の世界にいるそれとでは、
    圧倒的に実力に差があるらしい。まさに次元が違う程なのだとか。

    多少力はあれど、○○のそれは幻想郷の妖怪達からしたら一般人と大差ない、誤差の範囲程度でしかないらしい。
    その程度の力で、よりにもよって幻想郷最強の妖怪の一角である風見幽香に喧嘩を売る等、
    愚かとしか言い様がないと駄目出しを受けた。

    「あの女を相手にして命が残っているなんて奇跡としか言いようがない。身の程を知りなさい」
    そう言われた○○ではあったが、あそこまで一方的な展開を味わってしまっては反論出来なかった。

    少なくとも当面の間は大人しくするしかない。
    ベッドで横になる○○ではあったが、その内心は複雑だった。
    力の差がある事は身をもって痛感したが、妖怪を憎く思う気持ちは変わらない。
    幻想郷で自分の力が通用しないのならば、外の世界で今までの様に自分より弱い奴に限定して狙えばいいのだろうか。

    自分の思考に上手い答えが出ず、○○は悶々とする。
    その姿を、部屋の窓辺に飾られた1輪の花が眺めていた。


    『花』は見ているー10


    自分のすぐ近くに両親が歩いている。自分は母親と手を繋いで笑っている。
    父親はそんな2人の様子を確認した後、飲み物を買ってくると言って少し離れた場所の自販機に向かった。

    しばらくして飲み物を3本抱えた父親が帰ってくる。
    母親に飲み物を渡そうとした矢先、いきなり鈍い音がして父親の首から上が消失した。
    いきなりの事に頭が追い付かない。母親も同じだったようでポカンとしていた。

    自分と母親の目が合う。
    自分を見つめる母親のすぐ後ろで、身体が半透明でよく見えない化物が、
    その大口を開けて母親の頭を齧ろうとする所が目に映った。
    次の瞬間、母親の顔が無くなる。母親越しに見えた元凶の目が、ニタリと愉快そうに歪むのがわかった。

    その目を見た○○は即座にそこから逃げだした。
    あれがなにかは分からないが、次は自分が同じ目に合うと理解したから。

    どれぐらい走ったかわからないが、息を切らして立ち止まった○○は、自分がどこかの神社に辿り着いたのに気が付いた。
    化物が追ってきていないか確認しようと周囲を見回した時、
    すぐ近くで先ほどの奴が笑みを浮かべて自分を見つめている事に気が付いた。

    足がもつれて倒れる。後ずさりして離れようとする○○を見て、化物は笑みを深めて近づいてきた。
    化物が片手を振り上げる。あの手の鉤爪にやられたら○○の身体はひとたまりもない。

    思わず目を瞑り、身を守る為無意識に両手をそいつに向かって突き出した。汚らしい悲鳴が聞こえる。
    何時まで経っても予想していた衝撃が来ないので、○○は恐る恐る目を開く。

    そこには、上半身に大きな風穴を開け、その傷口から徐々に輪郭を失いつつある化物がいた。
    信じられないモノを見る目でそいつは○○を見つめてくる。

    化物が完全に消え去った後、○○はゆっくりと立ち上がった。
    呆然とする○○の肩を誰かが叩いてきた。○○は叩いた相手の方へと振り返った。

                  シニガミ
    そこには満面の笑みを浮かべた風見幽香が立っていた。
    彼女はゆっくりとした動作で片手に持つ日傘を頭上に掲げ、次の瞬間○○に向けて振り下ろした。
    目の前が真っ赤に。


    『花』は見ているー11


    悲鳴を上げて飛び起きる○○。
    全身から冷や汗が吹き出るのを感じつつ、両手で自分の身体を触って寝る前と変わりないか確かめる。
    何とも無い事を確認した○○はどっと自分のベットに倒れ込んだ。
    またかと思わず声が出る。

    入院してから早3カ月。
    最低でも3日に1回のペースで見る悪夢の内容だった。
    元々外の世界でも1週間に1度は見ていたのだが、風見幽香との一件の後頻度が上がったのだ。

    悲鳴を聞きつけたのだろう、今日の当直の妖怪兎が様子を見に来る。
    平気だと答えて礼を言うと、彼女は自分の仕事に戻っていった。

    妖怪相手に礼を言う様になった自分に思わず苦笑しつつ、入院前なら有り得ない話だと自虐的に呟いた。
    部屋が自分1人になった所で、○○はここでの入院生活での3カ月間を思い出す。


    治療の為仕方無い事だとはいえ、入院当初は心情的に辛いものがあった。
    永遠亭で働く人間は永琳さんのみ、他の者は全員妖怪だったからだ。

    治療をして貰っている立場なので文句を言う訳にもいかず、
    最初の1週間程は、彼女達が近づいてくると憎しみやら嫌悪感やらで、何度も身体が強張っていた。
    包帯を巻かれたりトイレに連れて行って貰う際も、可能な限り目を合わさない様にしていた。

    しかし2週間を過ぎた辺りで徐々に彼女達に慣れてきて身体の強張りが緩和され、
    1カ月が過ぎた辺りでは彼女達と言葉を2,3交わす様になった。

    そこから更に2週間が経ち、時間の空いた妖怪兎と雑談を交わせるようになった所で、
    ○○の考えに徐々に変化が起こる様になった。
    妖怪として一括りで表現しても、全ての存在が凶悪という訳ではないのだと、
    幻想郷に住む妖怪には、ここいる人達の様に、人間と共存している種類もいるのだと。


    ちょうどこの頃から、偶に見舞いに来る慧音さんとも普通に会話出来る様になっていた。
    里での様子を聞く限り、彼女は子供達にもかなり慕われていて、周りからの信頼も厚いらしい。
    問答無用で彼女に襲いかかっていた場合、
    人間の里の住人全てが敵になっていた可能性に気が付き、○○の背中に冷たい汗が流れる。

    彼女以外の妖怪でも、人間と親しい者を襲っていたら、誰かから恨みを買っていたかもしれない。
    そう考えていく内に、自分が今まで如何に偏った考えをしていたのか自覚するようになった。

    幸いなのは、外の世界で狩っていた化物は例外なく人間を襲っていた事と、風見幽香の以前に妖怪を襲わなかったことだ。
    自惚れが過ぎたのかと猛省し、これからの過ごし方を良く考えようと思う○○だった。

    部屋の窓のすぐ先の小高い丘に咲く名もない花々がそんな○○を眺めていた。


    『花』は見ているー12


    1カ月と3週間が過ぎ、永遠亭の周囲の狭い範囲程度ならば自分の足で歩ける様になった頃、
    ○○は中の変化のは更に大きくなっていた。

    一部とはいえ妖怪への敵視が薄れていたのは良い変化だろう。

    見舞いに来てくれた慧音さんから、里で教師をやってる際の愚痴を聞いたり、
    永遠亭の庭でふよふよ浮かんで日向ぼっこしていた妖精と遊んだり、
    個別の名前を持たない妖怪兎の何人かと冗談を言える様になったのだから、
    ここに来た最初に比べれば見違える程だと思う。
    もちろん人間を襲う妖怪もいる事まで忘れてはいないが。


    逆に、良いか悪いか判断に迷う変化も見つかった。

    花が少し苦手に感じる様になったのだ。
    特別この種類の花が駄目という訳ではなく、例外なく花が苦手になった。
    大人になっていくにつれて昆虫等をあまり触りたく無くなるのに似ている。

    別に花に触れた所で害があるわけでもない。
    積極的に花を踏みつぶしたりしたいと思うほど嫌いなわけでもない。
    幸い多少距離さえあれば気にならない程度のものではあったが、幻想郷は自然が多い。
    建物の中を除くとそこら中に草花が生えている為、不意にすぐ近くに花があるとドキリとしてしまう。
    実害がある訳ではないが、苦手に感じる理由がわからないのは少々気持ちが悪かった。


    そして、○○が戸惑いを覚えてるのが、最後の変化だった。

    最近はほとんど思い出さなくなった両親の最期の光景、その瞬間を夢でよく見る様になってしまった事だ。
    ただしこれは入院当初にはほぼ毎日見ていた事を考えると多少緩和されてきている。それでも十分多いのだが。

    そして、夢に必ず登場する様になった風見幽香の存在である。
    彼女の姿が現れるのは、別に悪夢に限った事ではなく普通の夢でも同様だった。

    悪夢の時は彼女が○○を害する瞬間に目が覚める。
    それ以外の夢の時は何をするでもなく○○の方を見てにっこりと微笑んでいるのだ。

    風見幽香とは、こちらが一方的に喧嘩を売ったのが原因とは言え、傷つけ傷つけられた関係だ。
    その時の事が原因で、悪夢に登場するだけならばまだ理解は出来る。
    しかし、普通の夢の方でも必ず彼女が登場する、その理由が○○にはさっぱりわからなかった。

    そもそも○○は、悪夢に出てくる両親の仇だった化物とは違い、
    今となっては風見幽香の事を憎んだり恨んだりはしていない。

    今、彼女と相対した時の様子を思い出し、客観的に判断すれば間違いなく自分が悪い。
    彼女は決して人間に対して友好的な妖怪では無いが、
    人間の里の中での態度は紳士的だと、彼女の事を調べた際の情報でも掴んでいる。
    だからこそ、この変化には戸惑いを隠せない○○であった。

    永遠亭の庭で首を傾げて考え事をする○○、庭に植えられた花々はその姿を静かに眺めていた。


    『花』-は見ている-13


    永遠亭に入院してから4カ月。

    ○○は、身体の方は特に後遺症を残すことなく完治という形で、無事退院する事が出来た。

    定期的に見る悪夢と毎回夢に登場する風見幽香の話は別だったが。

    入院前と比べても、運動不足で若干身体が細くなった事と、両肩に残った2つの傷以外は、
    以前と何も変わらない状態にまで戻る事が出来たのだから、永琳さんの腕の凄さがよくわかる。


    永遠亭で世話になった面子に深々と頭を下げて礼を言い、○○は人間の里に帰っていった。
    自分の部屋の近くまで来た所で、部屋の前の扉の傍に慧音さんが立っているのが見えた。

    近づいて挨拶すると、無事退院した事への祝いの言葉と、
    今後は里の外で妖怪に喧嘩を売る等といった無謀な事は控える様にという忠告の言葉を頂いた。
    破ったら頭突きだと言う彼女に、○○はちゃんと言葉にして約束した。
    あの強烈な頭突きは2度と御免だった。

    幸い仕事場は解雇ではなく休職扱いだった様で、すぐにでも復帰出来るとの事なので、
    明日からまた世話になる形になった。

    目減りした生活費やその他諸々をまた蓄えなければいけない。
    永遠亭の方針として、入院費用等はお金が出来るまで幾らでも待つとのことだったが、
    生活費に入院費、そして外の世界へ帰還の為の費用等、今○○が必要とする金額は多かった。

    ○○は明日からの仕事に備え軽く伸びをして部屋の中へ入っていった。
    近所の店先に飾られた花が、その様子を眺めていた。

    ―

    それから約1年半、幻想郷に来てからだと約2年経った頃。

    真面目に働き続けていた○○は、絶対に必要だった入院費と帰還費用の2つの金額分を貯める事が出来た。
    外にいた頃は狩りに没頭してた為か、趣味と言えるモノもなく、
    幻想郷に来てからも特に見つからなかったので、出費を抑えるのが容易であり、
    予想していたよりも早く貯める事が出来たのだった。

    その頃になると、○○の妖怪への感情は、幻想郷の基準でいってもまともな部類にまで改善されていた。
    仕事先の呉服屋は人妖区別なく様々な客が訪れるので、妖怪と交流する機会も多かった結果だろう。
    平和な人間の里の中のみで、仕事が完結していた事も理由に挙げられる。
    要は○○は運がよかったのだ。

    偏見の無くなった今の○○は、少なくとも人間の里に訪れる妖怪に対しては悪意を持つことがなくなっていた。
    それと同時に考える事が新たに1つ出来た。

    外の世界に帰るかどうかだ。
    2年間この世界で暮らしてきた結果、○○はすっかり今の生活に慣れてしまったのだ。
    妖怪への悪感情がなくなって、1人1人と会話してみると、意外と良い妖怪もいるのだと分かる。
    すると次第に、幻想郷としての在り方そのものに対しての悪感情も消え、
    逆に、多少なりとも愛着が生まれてきてしまったのだ。

    慧音さんは幻想郷に残るのならばそれはそれで歓迎すると言ってくれているし、
    呉服屋の人達も○○の事を惜しんでくれている。
    伯父夫婦への感謝は勿論あるのだが、逆に言うと外の世界への未練はそれだけだ。
    今の環境を捨ててまで、高い費用を払って外の世界に戻るべきなのかどうか、
    ○○は答えが出せず悩んでいた。


    『花』は見ている―14



    花への苦手意識に関して、○○は深く考えない事に決めた。
    コンクリートジャングルの都会ならばいざ知らず、
    木造建築が主な生活水準の幻想郷では、そこら中に花は咲いている。
    結局の所花は花でしかなく、大した問題ではないと開き直ったのだ。

    今では自室の扉のすぐ傍に咲いた蒲公英に、朝晩水をやる習慣まで出来ている。
    水をやる事ですくすくと育つ蒲公英の姿にも、何だかんだで愛着が湧いた○○だった。


    唯一悩みがあるとしたら、それは夢の事だった。
    永遠亭を退院してから1年半、両親と化物の夢の頻度は次第に少なくなっていった。
    今更ながらに、仇となる対象がとっくの昔にいなくなっている事に気付いたのがその理由だろう。

    それまではやり場のない怒りを、人外のモノ全てへの憎しみに変換する事で自分を保っていたが、
    妖怪達を含めたここでの生活の影響でそれも難しくなったのというのも理由として挙げられる。

    問答無用で憎む相手がいなくなった事で、色々な部分に折り合いが付き、
    その結果が悪夢の頻度の減少なんだと○○は認識していた。
    ここ数カ月を思い返しても全く悪夢は見ていない。


    ただし、変わりに風見幽香の事を夢でほぼ毎日の様に見るようになった。
    以前に比べその内容も悪化している。それこそが○○の悩みの種だった。

    風見幽香の容姿は毎日夢に出る為容易に思い浮かべられる。
    その美貌が素晴らしいものなのは間違いない。

    しかし自業自得とは言え、○○は彼女にあの時ぼろぼろにされている。
    今更あの時の事に恨みを抱いてなどいないが、
    だからと言って彼女とオチカヅキになりたいとは思ってはいない。いないはずである。

    にも関わらず、○○の見る夢に毎度必ず何かしらの形で風見幽香は登場する。
    以前ならば単に夢の中でこちらに向かって微笑んでいるだけだったのが、今では徐々に親しくなっていき、
    勉強を教える教師と教え子であったり、共に酒の席で語り合ったり、互いの手を恋人繋ぎにして歩いたりするのだ。
    挙句の果てにキスもする、それで止まらず1つベッドで一夜を共に過ごす。
    夢の中の事なのに妙にリアルで、彼女の喘ぎ声が耳に残る。
    実際に経験の無い○○にとってかなり過激な、そんな夢になってしまっていたのだ。

    悪夢を見なくなった辺りからは、彼女の夢3回の内2回がそういった淫夢になっていった。
    そしてここ最近の夢の最後では、決まって微笑みを浮かべた彼女が、
    鎖に繋がれて身動きが取れない状態の○○を、引き摺って何処かに連れて行ってしまうのだ。
    自分の姿が見えなくなった所で毎回目が覚める。
    内容が内容だけに、○○はその夢の事を誰かに相談する事は出来なかった。

    一人悶々としつつも納得のいく解答が見出せない○○だったが、
    いい答えが見つからないと諦めて、今日もまた夢の中で風見幽香と相対するのだった。
    寝る前に水をやった蒲公英は静かに風に揺られているのだった。

    その日の夢では、」外の世界で通っていた高校の制服に身を包んだ後輩役の風見幽香と、
    一緒に文化祭を回って楽しむ夢だった。その後の展開は割愛する。


    『花』は見ている-15


    それからまたしばらくの時が経った頃、○○は思い切ってもう一度風見幽香に会ってみようと決心する。

    流石に夢の中とはいえ、1年半以上もの間、毎回風見幽香の姿が登場する為、
    ○○は薄々ではあるが、この夢の原因は彼女なのではないかと思い始めていた。

    無意識に以前付けられた両肩の傷に触れる。永琳さんの診立ての通り、
    その傷は今でも少しも薄れる事なくそこにあった。

    よくよく思い返してみると、この傷を作った時だけは、それまでと少し様子が違っていた。
    あの時何かしたのではないだろうか、そう考えたのだ。
    しかし、そうだとしたらそれは何故なのだろうか。

    彼女の方がわざわざこんな事をする理由を、いくら考えても○○は思いつく事が出来ない。
    だが夢を見始めた時期からしても、きっかけは彼女以外に有り得そうにないのだった。
    それを確認したいという気持ちが日に日に強くなっていく。

    ○○は、未だに外の世界に帰るか、幻想郷に留まるか決めかねている。
    だがどちら選んだとしても、この夢の問題を解決しない事には後々困った事になりかねない。
    そこまで考え、彼は次の仕事の休みの日、太陽の畑に足を運ぶことに決めたのだった。


    風見幽香と会うのは危険が伴う、が現状を変えるにはその危険を覚悟してでも1度会う必要があるだろう。
    もしも彼女会った所で収穫が得られなかったとしたら、その時改めて恥を忍んで永遠亭か慧音さんに相談すればいい。
    ○○はそう結論付けた。無事帰ってこれない可能性は敢えて考えない様にした。


    それから数日が経ち、仕事休みの日の朝を迎えた○○は、
    既に習慣となった自室前の蒲公英への水遣りを行い、太陽の畑へと出発する。

    足を一歩踏み出した所で、背後から誰かの視線を感じて振り返る。
    しかしそこに人影は無く、足元に蒲公英が1輪あるだけ。
    その蒲公英をしばらく眺めた○○は、苦笑を浮かべつつ、花に対して「行ってくる」と告げ、
    目的の場所へ向かって行った。

    ○○の歩く姿が見えなくなった所で、蒲公英から「待ってるわ」という女性の声が発せられた。
    次に、のんびりした調子の、「うふふ」という笑い声が流れる。
    そして次の瞬間、蒲公英は物凄い速さで萎れていき、モノの数秒で風化して跡形もなく消えてしまった。
    が、その光景を目にした者は誰もいなかった。


    『花』は見ている-16


    約2年ぶりに訪れた太陽の畑は、相も変わらず美しいものだった。
    その景色に再び心を奪われた○○だったが、暫くして中心部に向かって歩きだした。
    前回の時に比べいささか慎重な足運びで。

    畑の中に入って少し経った後、○○は妙な違和感に気が付いた。
    前の時はそこかしこで妖精の声が聞こえていた記憶があったが、今回は全く聞こえてこないのだ。
    道の端まで身体を寄せて向日葵の奥へと耳を澄ますが、やはり何も聞こえない。
    だが偶々今いる所の近くに妖精がいないだけの可能性を考え、もう少し先で再度調べてみようと足を進めた。

    先ほどから更に奥に進んでいったが、やはり妖精の声は聞こえなかった。
    それだけではなく、よくよく周囲を観察してみると、鳥や昆虫の類すら一切見当たらないのだ。
    ○○も、流石にこれは妙だと思い始めた。

    もしかして根本的に場所を間違えたかのとも考え、後ろへ振り返ってみる。
    ○○はそこで、妖精の声とは違う問題に気が付く事になった。


    道がないのだ。
    正確には道がなくなっていた。

    目を向けた先、30メートル程離れた辺り。時間にして1分程前に自分が確かに歩いた場所。
    ついさっきまで間違いなく存在していた筈の道が、向日葵の絨毯で出来た壁に潰され消えてしまっていた。

    道が消えた辺りまで一端戻り、道だった部分に生えた新しい向日葵を観察してみる。
    その結果、明らかに自然に生えたモノではない事だけは分かった。

    通常向日葵は真っ直ぐ空へ伸びる。
    しかし道の上に出来た新しい向日葵は互いに絡み合い、綺麗なマス目模様を形作っていたのだ。
    自分の左右の向日葵に目を向けると、こちらも似たような状態になっていた。
    ふと上を見上げると、少し高い位置に何かの植物の弦が頭上を囲うようにアーチを作っている。

    軽く触って確かめてみても、向日葵はしっかりと締まっており、素手でどうこうするのは無理だった。
    これを力尽くでどうこうする為には最低でも大斧でも無いと駄目だろう。
    アーチを見る限り仮に空が飛べたとしても抜けだすのは無理そうだ。人間が空を飛べてたまるか。
    取りあえず、脱出が不可能という事だけは間違いない。

    植物で出来た壁を見て考える。
    閉じ込められた、そういう事だろう。
    誰が、何のために。
    太陽の畑の主である風見幽香に決まっている。
    理由はの方はわからなかったが、ここまで厳重にする以上、
    あちらに○○を逃がすつもりが無く、中心部で自分を待っているという事は理解出来た。

    ○○はため息を1つ吐き、腹を括って進みだした。
    途中、何度か振り返ってみると、やはり進んできた道は壁で埋もれて無くなっていた。


    更に暫く進んだ所で、漸く前方に人影が見えてきた。
    実際に会うのはほぼ2年ぶり、しかし夢の中では毎日のように遭遇しているので見間違う訳が無かった。
    現実にこの目で見る風見幽香は、以前の時とも、夢の中の時とも、全く変わり無い姿でそこに立っていた。


    『花』は見ている-17



    「お久しぶりね、歓迎するわ○○。ずっと会いたかったのよ。今日は私の庭にどんな御用かしら」
    風見幽香は相変わらず“ふわふわ”とした笑みを浮かべている。

    彼女が発した言葉に違和感を感じる。
    あの時自分はこの女に対して名乗っていただろうか。
    少し考えるがその答えは否だった。

    「私は前回会った時、君に名乗った覚えはない。何故私の名前を知っているんだ」
    考えるより手っ取り早いので直接聞く事にした。

    「あらあら、そうだったかしら。○○はどうしてかわかる?
    私は貴方の事なら何でも知ってるし、何でもわかるわよ?」
    首を軽く傾げながらそう言う彼女は、○○に対してにっこりと微笑む。
    彼女の言葉が終わった辺りで、自分と風見幽香を取り巻く雰囲気が若干変化した気がした。
    しかし何故そう感じたのかわからない。

    「変な事を言う女だな。1度しか会ってない相手に何故そんなことが言えるんだ」
    思った事をそのまま口に出した。


    言葉を返す○○に、風見幽香は相変わらずのほほんとした笑みのまま返答する。
    「1度しか会ってないなんて、少しつれないんじゃないかしら。
    夢の中で何度も逢引したでしょうに。先生になった私が、貴方にイロイロな事を教えてあげたり、
    お酒の席で一緒に語りあったのを忘れたの?だったら少し寂しいわねぇ」

    彼女の言葉に○○はぎょっとする。自分も夢の中で全く同じモノを見た事があるからだ。
    そんな○○の様子を見て、風見幽香は笑みを深める。そして○○に1歩近づいた。


    「言ったでしょう?何でも知ってるって。貴方の御両親が下級の妖怪に襲われて命を落とした事も知ってる。
    それが切っ掛けで妖怪を嫌いになった事も、ここでの生活で徐々にその認識が変わっていった所も見ていたわ。
    私が貴方に微笑んでる夢を見た事も知ってるし、もちろん私と肌を重ねた時の夢の事だって知ってる。
    夢の中の私、気持ちよさそうな声を出してて羨ましかったわ。自分の事なのに軽く嫉妬しちゃった位だもの。
    そう言いながら、彼女は更に笑みを深めて、1歩○○に近づく。
    その顔に浮かぶ表情は、微笑みというモノを超え、満面の笑みになっている。


    彼女の言葉を聞いていた○○だったが、その笑みが深くなり、自分との距離が縮まった所で、
    周囲の雰囲気が更に変化したことに気が付く。

    先ほどから少し重々しいモノになっていたが、今のそれはむしろ”ドロドロ”としたモノであり、
    その上○○の身体に纏わりつき全身を舐めまわすかの様な感じになっていた。
    彼女の顔に浮かぶ満面の笑みも、敵意がない事が分かるモノなのに、その裏に暗く淀んだナニカを含んでいる様に思えた。

    彼女が更に一歩、歩みを進めた時。堪らず○○は後ろに下がって距離を開けようとした。
    が、指示を出したはずの右足が動かない。

    自分の足の異常を確認しようと足元に目を向けた○○は、
    いつのまにか右足首に、大人の足の親指程もある太い植物の弦が巻きついている事に気が付いた。
    左足を見るとこちらも同様で太ももの方に弦が巻きついている。

    いつのまに、そう驚く○○だったが、驚いた拍子にバランスを崩し後ろ側に倒れそうになった。
    無意識に前に投げ出した手が、すぐ近くまで来ていた風見幽香に掴まれたお陰で倒れずに済んだ。
    そのまま彼女は○○の手を引き、自分の方へ引き寄せる。


    ふよん、もしくはむにょん、音にするとそんな感触と共に、○○の顔は風見幽香の胸へと突っ込んだ。
    胸元から女性特有の甘い香りがするのを感じるが、
    目と鼻の先にある彼女の目が、ぐるぐると濁っているのが見えた為、とてもではないが疚しい事を考える余裕はなかった。
    ○○の頭の中で警鐘が物凄い勢いで鳴り響く。


    『花』は見ている-18



    「うふふ、つかまえた。」
    そう言うと彼女は、○○の身体に両腕を回す。
    痛みは全く感じないが、上半身が微動だに出来ない。

    「ねぇ○○、私は花の化身よ?花は私の分身の様なものなの。
    私がその気になれば、この幻想郷で花の咲いている場所の事は、どんな些細な事でも手に取るようにわかる。
    入院してた時の様子も、呉服屋で一生懸命仕事してる時も、自分の家の前の蒲公英に水をかけてくれた時もそう。
    私はずっとここから貴方を眺めてたのよ」
    だから貴方の事は何でも知ってる。そういうと彼女は○○の頭に自身の鼻を当て、髪の匂いを嗅ぐ。

    「最初は単に珍しい人間だと思ってただけなんだけどね。
    紫の言ってた事もあったから、暫く眺めてみようと思ったの。
    飽きたらやめるつもりだったんだけど、気が付けば貴方に夢中になってたわ。
    花に囲まれながら貴方を眺めてるだけでも幸せだったんだけど、だんだん貴方そのものが欲しくなっちゃったのよ。
    そんな時に貴方の方からまたこちらを訪ねてくれるんだもの、とても嬉しかったわ。
    私の方から迎えに行ったら、人間の里の守護者に何か言われてたかもしれないし」

    彼女の言葉が聞こえているしその内容も頭に入ってはいるのだが、○○は動けない。
    濁った眼、満面の、美しい、しかし淀んだ笑顔。彼女の全身から放たれる空気。それらに圧倒されて言葉が出ない。

    「貴方には申し訳ないけど、もう貴方は私のモノ。
    今日、太陽の畑に足を一歩踏み入れた時からそうなった。絶対離してあげないわ。
    さぁ、私の家に行きましょう。夢で肌を合わせたのを初めて見て時からずっと我慢してたの。
    もう待ちきれないわ。これからはずっと一緒だから焦る事無いのにおかしいわね」

    そう言うと彼女はゆっくりと○○の唇に自分の唇を近付けていった。音もなく触れ合う。
    彼女の唇のぷにぷにした感触を感じた○○は、次の瞬間彼女の舌が自分の口内に侵入してくるのがわかった。
    中を蹂躙された後、彼女の舌を伝って、唾液とは異なる液体が流れ込んで来るのに気付く。
    甘い。
    その液体を味わい、飲み込んだ瞬間、○○の意識は闇に沈んだ。


    特製の眠り薬で意識を失った○○の事を、風見幽香は割れものを扱うかのように丁寧に両手で抱き上げる。
    そして彼の寝顔を眺めると、最初の時の様に”ふわふわ”とした微笑みを浮かべて、
    ゆっくりと自分の住処に彼を運んで行くのだった。

    その歩みに合わせて、時折彼女のスカートの中から、粘度の高い蜜が滴り落ちていくのだが、
    すぐに地面に吸収され染みになり、直に乾いて消えていった。

    これ以降○○が単独で太陽の畑を出る事は一生叶わなかった。
    最初は妖怪を憎み、次第に親しみを覚えていった○○が、今後妖怪に対してどのような感情を持つのか、
    それは彼にしかわからない事だった。

    数日後、人間の里の守護者は、里に住む外来人の1人から○○が唐突に姿を消したと言う話を聞く事になる。
    彼女は1つ深いため息をつくとゆっくりと首を横に振り、やはりこうなったか、と呟き自分の仕事に戻っていった。

    その更に数か月後、人間友好度断トツの最下位にして、最強の一角である妖怪風見幽香が、
    突然に人間の味方を公言するようになり、幻想郷の住人は人妖問わず度肝を抜く事になる。

    それを聞き驚かなかったのはわずか2人。人間の里の守護者と妖怪の賢者だけだった。

    物凄い勢いで取材しに来た烏天狗の少女がその理由を尋ねると、
    彼女は花の様に”ふわふわ”とした笑みと奥を覗けない深い瞳を浮かべてこう答えた。

    「大事な存在が出来たから、そのお手伝いをしてくれた人への恩返しよ」

    風見幽香の事を記事にした回の新聞は、幻想郷内で異例ともいえる売り上げを伸ばし、
    その製作者である烏天狗は嬉しい悲鳴を上げるのだった。



    ―了―

    後日談へ続く


    『花』は見ている
    後日談


    幻想郷で発行されている地図。
    人間の里を中心に据えて作られたその地図で見ると、南東から南南東の方角に
    広大な草原に一面に広がる花畑が存在する。

    その大部分は人の身長よりも背の高い見事な向日葵が占め、
    中心部から外れたいくつかの場所には、季節ごとに区分けして四季折々の花が咲く花壇が作られている。

    空を見上げると花畑の外郭から中心に向けて、植物の弦同士が巻きついて作られた太いアーチが伸びている。
    所々で互いに結び着いて文様を作るアーチの形を、広い視野でもって遠くから眺めると、
    それは、花畑全体を大きく囲んだ、マス目の大きな鳥籠の様だった。

    その中は所々で鳥が寛ぎ、妖精達が笑い声をあげて戯れ、昆虫が自分好みの花から花粉や蜜を集めているのがわかる。
    しかし、その様子は花畑の中心に向かっていくと徐々に見れる頻度が減っていき、中心部では完全にその姿を消す。
    そこは神聖不可侵な区画であるとでも言うかのように。

    そこには、木と花で作られた見事な一軒家が建っていた。家のすぐ隣には桃の木が置かれ、
    その周囲を囲むように花畑の中でも一際見事な花壇が設置されている。
    ストック、アザレア、スターチス、チューリップ、ナズナ、バラ、ブーゲンビリア。
    その花壇は主に赤に近い配色の花が多かった。
    淡く優しい赤の色は、花畑全体でも1番見事な美しさを放っていた。


    そんな花壇の中に見える人影が2つ。
    1人は男性、1人は女性だ。
    恋人繋ぎで手を結び、穏やかな雰囲気でお互いに寄り添いながら歩いている。
    その様子は仲睦まじい夫婦のそれだった。
    男性の方は多少元気がないようではあったが。

    そんな2人の前方の空間が、いきなりひび割れた。
    裂け目ができて、ゆっくりと左右に分かれていく。
    女性の方はそれを確認すると、男性を守るかの様に一歩分前の位置にその身を置く。

    裂け目の中は真っ黒で、所々には巨大な瞳の模様が見える。
    その空間の中から、1人の女性がゆっくりと姿を現した。

    紫色を基本とした長めのワンピースに身を包み、
    腰まで伸ばした金色の髪を、毛先をいくつか束にして赤のリボンで結んでいる。
    白の帽子を頭に乗せ、均整のとれたその顔には、髪と同じく金色をした瞳をしていた。

    その女性は2人の姿を確認すると、裏の読めない少々胡散臭げな笑顔を浮かべ、口を開いた。
    「久しぶりね、幽香。調子はどうかしら」

    質問された女性、風見幽香もまた、相変わらずのほほんとした笑顔で返事をする。
    「お久しぶり、紫。私達はいつもと変わらず幸せよ。…いいえちょっと違うわね。
    ○○と暮らす様になってから毎日毎日が、その1日前よりも素晴らしいものに思えるの。
    このまま行ったらいつか幸せ過ぎて狂ってしまうかもって、時々恐くなるくらいだわ」

    彼女の瞳が喋っている途中で一瞬ドロリと濁った色を見せる。が、それはすぐに収まり普段と変わらないモノになる。
    その言葉を聞いた彼女の背後の男性が困った様にポリポリと頭を掻いた。

    幽香の言葉を聞いた女性、八雲紫は満足そうに頷き、
    「それは良かった。御二人の時間を奪って申し訳ないのだけれど、少しお話しないかしら」と提案してくる。

    その言葉を聞いた幽香は、片手の人差し指を顎に添えて少し考え、すぐに了承した。
    男性の方にはすぐ戻るから先に家に戻っていてと伝える。
    その言葉を聞いた男性はゆっくりと頷き、幽香の頬に軽く口づけをして家に戻っていった。

    それを確認した2人はその場でお茶の準備を始める。
    幽香は足元から植物の弦をスルスルと伸ばし、2つの椅子と1つのテーブルを形作る。
    紫の方は手元に先ほどよりも少し小さい裂け目を作り、その中からティーセットを取りだした。


    『花』は見ている
    後日談-2


    紅茶の良い匂いが鼻を刺激する。
    大きめの角砂糖を2つ入れ、ティースプーンでゆっくり掻き混ぜ口に含む。
    一口飲んだ所で軽く息を吐き出し、紫は幽香の方に目を向ける。

    「術式の調子も悪く無いようね。安心したわ。
    これなら他の妖怪達の方まで確認する必要はなさそうね。
    紅魔館の吸血鬼に人間の里の守護者と妖怪の山の天魔も、術をかけられた事に気付いていないみたいだし。
    最近あの3人も気になって頭から離れない外来人が出来たみたいだから、この先が楽しみだわ。
    貴方に引き続き紅魔館や妖怪の山も人間の味方を宣言すれば幻想郷の体制は盤石になりそうね。
    どれも最初に実験台を引き受けてくれた貴方のお陰よ。
    そのお礼に、言ってくれれば可能な限り協力するわ」

    紫の言葉を聞いた幽香は、困った風な表情を浮かべ、覗きは悪趣味よと彼女を窘める。
    そして、今の生活の切っ掛けとなった5年程前の事を思い浮かべた。

    ―

    私が外の世界から幻想郷にやってきて、一体どのくらいの月日が経っただろうか。

    随分と昔に住処にしようと定めたこの周辺を、自分が1番好きな向日葵で一杯に埋めた。
    少し経って北にある人間の里で自分の住む辺りが太陽の畑と呼ばれるようになり、
    その韻が気にいり正式名称にしたのも、もう大分前の事だ。

    向日葵の花を珍しく思ったのか、無断で拝借しようとする不届きな輩を排除していたら、
    いつの間にか人間達に凶悪な妖怪扱いされていた。
    心外だとも思ったが、所詮人間の評価でしかなく興味もなかったので捨て置いた事もあった筈だ。

    吸血鬼を筆頭に置いた集団が起こした騒動の混乱に乗じて、
    私の庭で悪さしようとした愚かな妖怪を返り討ちにしたこともあった。

    自分が育てた花々に囲まれ寛ぐ風見幽香は、空に煌めく満月を眺めながらぼんやりと過ごしている。
    自分が体験した出来事を思い出しては、その度に笑顔を浮かべたり眉をひそめたりする彼女の姿は、
    とても人間にも妖怪にも恐れられる凶悪な存在とは思えない。


    そもそもにおいて、風見幽香という妖怪の本来の在り方は、
    幻想郷でも一二を争う危険生物として知られているそれとはかなり差がある。
    せいぜいそういった1側面も持ちえると言った程度のことだ。

    年がら年中日がな一日、それぞれの季節の花に囲まれて暮らし、
    新しい季節の訪れとともに、花の咲く場所に偶に訪れてみる時以外、滅多な事では太陽の畑から出る事もない。
    本来の彼女は、毎日を悠悠自適に日々を過ごすマイペースでのんびり屋なのだ。
    これといって目的意識も無く、花を楽しみつつ寝たり起きたりを繰り返す。
    ただそれだけで彼女は満ち足りていられたのだ。
    それ以外の生き方なぞとんと興味がわかず、思いつきさえしなかった。

    勿論自分や、自分の育てた花に危害を加える存在に容赦はしなかったが、
    それもあくまで自衛の範囲であり、自分から手を出した事もほとんど無かった。
    綺麗な花の上に影を作る邪魔な建物を、物理的にずらしたことがある程度だ。
    外の世界で見つけたあの花は、今はどうしているのだろう。またぼんやりと考える。


    不意に、先ほどと変わらず月を眺める幽香の近くの空間がひび割れ、
    出来た裂け目から紫色の服を着た女性が姿を現した。妖怪の賢者、八雲紫である。

    現れた彼女を確認した幽香は、ゆっくりと立ち上がり彼女の方へ身体を向けた。
    「こんばんは、妖怪の賢者さん。こんな夜中にどんな御用かしら」
    そう問いかける。

    「ええ、こんばんは、木花の姫君さん。夜遅くにごめんなさい。面と向かって話すのは初めてね。
    今日は貴方に1つお願い事があってきたのだけれど、少し時間頂けるかしら」
    言って八雲紫は裂け目からティーセットを取りだした。


    『花』は見ている
    後日談-3


    暇してた所だった幽香はその誘いを受け、植物の弦で腰掛ける椅子を2つ作る。
    共に座って紅茶を一服。1杯目の中身が半分程減った所で、紫が話をし始める。


    妖怪の為に存在するこの幻想郷という世界を、永遠に維持する為の方法を模索している。
    その為には、常にある一定数の人間達の存在が不可欠で、
    それを維持する為に、妖怪側から人間に友好的な存在の数を増やしたいと考えている。
    それは強い妖怪程望ましく、そういった妖怪が自主的に味方をしてくれるように、
    軽く意識を誘導する暗示の類の術を組み立てている所である。
    大まかな骨格は完成したが、その後の細かな調整は、誰かにその術式をかけて反応を見ないと出来ない。

    風見幽香は幻想郷でも有数の実力者であり、かつこういったお願いを、
    聞かずに跳ね付ける様な事をしない数少ない妖怪だ。
    八雲紫は風見幽香を観察し、幽香に協力を求めるのが1番自分の理想を実現する上で確実だと判断したらしい。
    そして今、こうしてお願いをしに現れた。彼女の話は簡単に言うとこういう内容だった。


    風見幽香は八雲紫の話を聞き、首を少し傾け考える。
    彼女の言い分はつまるところ、自分の理想の為の操り人形を作りたいから実験台としてその身体を使わせろ、という事になる。

    幽香はまず、確かに普通いきなりこんな事を言われたら拒否されて当然だろうなぁ、という感想を抱く。
    そして自分自身の事を考える。

    風見幽香、花の化身、花が好きで他のモノへの興味が希薄。
    人間への興味も例にもれずあまり無い。嫌いなモノは花を害する存在。
    正直な所、彼女にとって人間とは、いてもいなくても大して変わらない存在なのだ。
    ならば自分の側に、わざわざそんな術の為に協力する利点が見出せない。
    断るべきなのだろうかと考える。

    しかしそこで、最近の自分の様子をもう一度思い浮かべてみた。
    妖怪は、長く生きれば生きる程、その力が強くなる。
    風見幽香もまた、もう長い事生き続けてきた。
    風見幽香とは強い妖怪である。それ以外のなにものでも、ない
    そして強い妖怪とは本当に強いのだ。どこからどこまでも、なにからなにまでも。
    そして自分は花と共に生きられるなら、それだけで満足な出来る妖怪である。
    しかし、花との生活に害が無いのならば、わざわざ拒否する程のことなのだろうか。

    長く生き過ぎた存在は日常に変化を求める
    八雲紫の言う術式は、人間に対しての意識を誘導するだけのもの。
    人間への興味が無い自分が術をかけられた所で、いきなり何かが変わる訳でもない。
    どうせ元々が、いてもいなくても大して変わらない存在の事である。
    今の自分にとって大切なものが蔑ろにされないのであれば、
    ならばこそ、協力してあげてもいいのかもしれない。


    単に気まぐれが働いた。それだけの事だ。
    紫の話をしっかり吟味した幽香は、結局の所どちらでも構わないと考え、自分の日傘に任せる事にした。
    座っている傍らに置いてあった自分の愛用の日傘を持ち、自分と紫の間に真っ直ぐ立たせて、手を離す。
    当然、ほどなくして日傘はゆっくりと倒れる。
    日傘の先端は、八雲紫の方を向いていた。

    それを確認した幽香は、静かに紫に顔を向けた。
    そして相も変わらず微笑みを浮かべ、彼女に協力を申し出た。
    その後暫く経って、八雲紫は新たな術の組み立てに成功した。


    『花』は見ている
    後日談-4


    八雲紫に協力し、その身に暗示の術をかけられてからおよそ1年。

    風見幽香はそれまでと変わらず、太陽の畑で自由気ままに暮らしていた。
    術をかけられた前後で何も変化を感じない。そもそも人間がここにやって来ないのだから当然だ。
    もしも術をかけられた後に、花への意識まで変化があるようだったら、
    思いつくありとあらゆる方法を使って紫に報復するつもりだったが、その心配もなさそうだった。

    その日も、日がな一日花に囲まれのんびりと過ごしたのだった。


    ある日、その生活に変化が起こる。
    太陽の畑に1人の人間がやってきたのだ。
    その人間はしっかりとした足取りで畑の中心に向かってきている。
    珍しい事もあるものだと、幽香はその人間の方向へ足を運んだ。

    その人間は、他の人間に比べれば、ほんの少しばかり強い力を持っているようだった。
    彼女の姿を確認した人間は、宣戦布告をしてくる。

    幽香は困った。確かに多少は強い様だが自分に通用する程ではない。
    諦めてくれるよう別の提案をしてみたが、返答は無くいきなり攻撃してきた。
    仕方がないので迎撃する。

    撫でる程度のつもりで反撃したが、すぐに人間はまともに動けなくなってしまった。
    ここまでされたら次は泣きながら命乞いしてくるだろうと彼女は予想していた。
    この人間は別に花に何かした訳でもないから、里に放り込んでそれでおしまい、
    命を奪う必要はないし見逃してあげよう、そう考えて。

    しかし、いつまで経ってもその人間は命乞いをしてこなかった。
    それどころかぼろぼろの状態でもこちらを睨む目つきはしっかりしている。

    そこで初めて幽香は、目の前の人間に興味を持った。今まで見てきた人間と大分違っていたから。
    そして八雲紫の言葉と、自分に掛けられた術の事を思い出し、
    自分にどういう変化が起こるのか、この人間を観察しながら確かめてみようと考えた。

    そこで幽香は右手を掲げ2つの術を組み立てて、人間に打ち込んだ。
    術の効果は2つ。
    この人間がどこにいるかすぐ把握する為の目印としての効果が1つ。
    そして、お互いがお互いの事を考えた際に、何らかの形で相手に伝わる様にというのが2つ目だ。

    2つ目の効果に関しては悪戯半分のつもりだった。
    紫の掛けた術で、この人間を見ていて何かしらの変化が自分に起こるのなら、
    あちらも何かしら影響が無いと不公平に感じたからだ。
    一先ず、観察に飽きるまではこの状態を保ってみよう、そう考えるたのだった。

    術をかけた所で、幽香は紫を呼び出して、気絶した彼を人目の着く場所に移動させてくれるように頼んだ。
    協力したのだからこのくらいは許されるだろう。

    結果彼は永遠亭で入院する事になった。
    彼の名前が○○という事はこの時に知った。


    『花』は見ている
    後日談-5


    永遠亭で○○の意識が戻った事を、花を経由して知った幽香は、早速観察を開始した。
    病室に人間の里の守護者と永遠亭の主人が入ってきた。
    里の守護者が酷い眼つきで○○に怪我の理由を尋ねている。
    ○○は、それまでは生まれ持った力を使って外で狩りをしていて、幻想郷でも通用すると考えて自分を襲ったと白状していた。

    その言葉を聞いた幽香は少し呆れてしまった。
    あの程度の力でよくそんなことを考えたものだと。外で対峙していた獲物は余程弱かったのだろう。
    それで天狗になってたのかと、この前の○○の態度を思い浮かべて1人納得した。
    直に話を聞いていた2人も同意見だったようで、○○は里の守護者に凄い勢いで頭突きされていた。
    結構な音が響き、目を回して倒れたその格好は、中々愛嬌があって笑ってしまった。


    それから暫く経った頃、幽香は自分が○○の夢に登場している事に気付く。
    掛けた術の効果がそういった形で現れたのだろう。
    術を経由して○○の見る夢を覗きこむ。
    幽香はそこで、○○が妖怪を憎む理由を知った。
    幽香は自然から生まれた類の妖怪なので親という存在を知らないが、
    自分にとっての花が奪われた感じだろうかと想像したら、ほんの少しばかり○○が不憫に思えた。


    ○○の観察が思った以上に興味深く、娯楽小説でも読むかのような気持ちで毎日眺めていた幽香であったが、
    入院から1月経った辺りで、○○の妖怪への態度が徐々に軟化していくのに気が付いた。
    ぎこちなく会話をする○○の姿が見てて少し微笑ましかった。

    入院から3カ月が経った辺りでは、幽香は○○の様子を見るのがとても楽しみになっていた。
    永遠亭で妖怪兎や妖精達、永遠亭の主人や里の守護者と過ごす様子を見ていて、
    次にどうなるか目が離せなくなっていく。この頃から、○○の姿を見ると胸の辺りが少し熱を持つ様になった。

    同時期、○○の見舞いに来た里の守護者が、時折○○の事を見て、何やら難しい顔をしている事に気が付いた。
    その目つきからすると彼について何か考え事をしているようだ。
    少し気になったので、少し紫に協力してもらう事にした。

    調べてくれた紫が言うには、里の守護者もまた、○○が妖怪を憎んでいる気持ちを察した様だ。
    ハクタクとしての能力を使って○○の歴史を覗き見たらしい。
    その話を聞いて一瞬腹が立った。○○の過去の事を自分以外の者が知ったのが原因だろう。
    更に聞いていると、○○の負った心の傷を能力で修正しようかどうか悩んでいるらしいかった。
    私のお気に入りの人間に、余計な手を加えられては我慢ならないので、即座に釘を刺しに行く事にした。
    里の人間が人質と仄めかしながらこちらの要求を伝える。
    里の守護者は話を聞くと少し考え込んだ後、こちらの要求を飲んだ。里の人間の方を取った様だった。
    その答えに満足して○○の観察へと戻った。


    『花』は見ている
    後日談-6


    ○○が永遠亭を退院し呉服屋で働きだしてからも、幽香は観察を止める事なく嬉々として続けていた。
    彼の事を眺めているだけで時間があっさり過ぎていく。
    彼女は自分が、花以外の存在で初めて欲しいと思えるモノが出来つつある事を、自覚し始める。
    その頃から○○の様子を見ていると、胸の熱に加え、下腹部も熱を持つようになった。
    幽香が徐々に○○に魅かれていくにつれて、○○の見る夢の中での2人の関係も変化していった。
    最初に掛けた術の影響の様だろう。これは正直予想していなかったが、嬉しい誤算だった。

    ○○が自室の前に咲く花に朝晩と水を遣る様になってからは、
    その瞬間だけはその花と視覚以外の感覚も共有するようになった。
    ○○が自分の為に何かしてくれる。そう思うとそれだけで全身が熱くなる。
    そしてその気持ちが術を経由して○○の夢に影響を与え、その夢の光景を見て更に夢中になる。
    ○○が夢から覚めた所で、また自室前の花に水を遣ってくれる。

    いつのまにか自分が抜け出せなくなってきている事に、幽香は気が付いていた。
    しかし気が付いていても止められなかった。そもそも止める気も起きなかった。


    ある日の夢で、ついに○○と自分が肌を重ねる光景を目にする。
    夢の中で自分が喘ぐ姿、肉と肉のぶつかる音、自分に覆いかぶさる○○。
    それを見た時に感じたのは羨望と嫉妬。自分自身の事なのに、夢の自分は現実の自分とは違う。
    下腹部の熱は火傷しそうな程だ。
    その日、幽香は、何が何でも○○をモノにしようと決意する。
    どうすれば良いか色々考える幽香の姿を第三者が見たら、身に纏う雰囲気に腰を抜かしていたかもしれない。

    偶に八雲紫が彼女の様子を見にやってきたが、彼女は幽香の微笑みの裏に、
    以前には無かったドロドロとしたナニカが含まれているのを見てとると、期待通りだと言うように嬉しそうに笑っていた。
    幽香もその事に気がついてはいたが、
    ○○に夢中になる切っ掛けを与えてくれた事に感謝していた為、気付かぬ振りをした。


    いっその事○○の家に行って攫ってしまおうか。
    幽香が本気でそう考え始めた頃のある日、○○がもう一度ここに来ると決めた事を知る。
    考え事のさなかの独り言ではあったが間違いないだろう。もし違ったとしても構わない。
    どの道そろそろ限界なので、近いうちに攫おうと決心する。

    ○○は、仕事休み日の朝、あの時の言葉の通りこちらに向かう為の準備を始めた。
    彼の様子に目が離せない。
    全ての準備が整った所で、○○は蒲公英に水を遣り、一言添えると私の庭へと出発した。


    『花』は見ている
    後日談-7


    幽香がそこまで思い返した所で、目の前に座る紫が退屈そうにぼーっとしているのに気が付いた。
    存外かなり長い間ほったらかしにしていたようだ。
    一言咳をして、先ほどの質問に応える。
    「私の方は今の所欲しいものは無いわね。なにか思いついたらその時お願いするわ。
    そうだ、リグルが○○と私の事を見て羨ましそうにしていたし、
    相性の良さそうな子がいたら紹介してくれると嬉しいわ。私は博霊神社の方で探してみるから」

    それを聞いた紫は1度頷き、残りの紅茶を飲んで立ち上がる。
    「しかし、最初は力尽くだったのに、随分仲睦まじくなったのね」

    その言葉に幽香は答える。
    「最初は少し大変だったけどね、夢で繋がってた事もあってか割とすぐ受け入れてくれたわ。
    一度逃げようとした時のお仕置きが効果的だったのかも。あの日は激しかったから。
    もうそろそろ私の妖気も○○に定着してくれそうだし。今日も頑張らなきゃ」

    嬉しそうな幽香の言葉に紫は肩を軽く竦め、しかし満足そうに笑みを浮かべると、
    背後に裂け目に消えていった。

    それを見届けた彼女は、最愛の者のいる我が家へと帰っていった。


    余談だが、
    そこから5年の月日が経ち、○○が寿命を幽香と共有する様になった頃。
    紅魔館特製の新酒、蒸留酒が人間の里で売りだされるようになる。
    幽香自身は酒にはほとんど興味が無かったのだが、
    試しに土産として○○に持って帰った所、彼は非常に喜んでくれた。

    ○○の笑顔を見た幽香は、定期的に紅魔館と懇意の造り酒屋から大量の蒸留酒を購入する様になる。
    里の人達はその様子を見て、あの風見幽香が認める酒だと噂し、元々好評だった蒸留酒の売り上げが更に伸びる事となった。

    紅魔館の主はその話を聞き、感謝の意を込めて風見夫婦を紅魔館に招待する。
    幽香が屋敷にいる女性達とそれぞれの夫や従者との生活について談笑している中、
    ○○は紅魔館に住む数少ない男性2人と邂逅した。

    花の妖気を纏う男は、燕尾服の吸血鬼と、鬼と吸血鬼の妖気の2つを纏う男と無言で見つめ合う。
    暫くの後、3人は同じタイミングでその顔に苦笑を浮かべた。
    お互い大変だなとでもいう様に。全員が、それでもそれなりに満更でもない様子なのが救いだろう。

    女性達はその様子を見て、ただただ幸せそうに笑顔を浮かべていた。


    ―後日談―了―

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最終更新:2015年02月03日 11:33