「手先ばかり気にしてはいけません。姿勢が大事です。もっと肩の力を抜いて下さい。正しい書は正しく端座して書けるものです。もっと背筋を伸ばして下さい。
    手首から先ばかり気にしてはいけません。今言ったばかりですよ。腕法を気になさるなら肩や肘から意識するおつもりで。もっとゆっくり。集中してください。
    お疲れでしょうが顎を引いて。また手首です。ああ、そんなに墨を付けろとは教えていませんよ。宜しいですか。もっと基本的な所作を大事にして下さい。
    正しい筆法に則って初めて筆意は滞る事無く美しい筆勢となって顕れるのです」
     涼やかな声と共に冷たい指が俺の悪癖を即座に正していく。
     乱れそうになっていた俺の筆運びは再び正しい道筋へと戻された。おかげで書き損じる事は無かったが僅かな姿勢の修正でも疲労を感じる。
     この所阿求が俺に一対一で『お習字』の稽古をつけてくれる事になった。阿求の書斎で行われるこの個人授業は有難い事に半ば強制である。
     阿求が俺の不器用を矯正する際に触れる指は小さく幼いほんの二、三本に過ぎない。
    不思議な事にその細い指がひやりと触れた瞬間、阿求に比べれば圧倒的な質量を持つ俺の体が弾かれたようにあるべき場所に収まるのだ。
    事実、何らかのささやかな術を行使しているのかもしれない。阿求との生活の中で稗田家に伝わる術や呪いの力を垣間見る事は多々あった。
    もっとも大抵は生活に密着したもので害虫を遠ざけるとか作物を病気から守るとか夢見が良くなるといった微笑ましい程度の力であったが。
     不意に額から流れた汗が顎先を伝って半紙の上にぽたりと落ちた。すぐさま脇から阿求の手が伸びて真新しい半紙に取り換える。
    「書き直して下さい。もう一度初めからです」
     何でもない事のような冷い声に疲労感と同時に汗が背を伝った。
    幻想郷の夏は然程暑くない。森や川から冷気が流れ込み家屋は熱を溜めない造りになっている。日差しはさすがに肌を刺す程力強いが日陰に入って少し休めば汗も引く。
    外界の大気や汚染と切り離され空気が澄み渡っているせいか幻想郷全体に森や野山からの涼やかな風が常に流れているように感じられる。
    コンクリートとアスファルトの街で生きてきた外来人は空調設備が無くても心地良い夕風に驚くのものだ。
    即ちこの汗は盛夏の暑気によるものではない。
    学識において一種の極北に達した御阿礼の子が書に対峙する際放つ研ぎ澄まされた迫力を、そのままに転用した阿求の指導に俺の精神が気圧され臨界に達した事で流れる冷や汗である。
     徐々に強くなる疲労感を押さえ込み言われるままに再び紙面を墨に染めていく。
    阿求の視線は紙を焦がし穴を開けるかと見える程の凄味がある。実際に書いている俺より集中している事は明らかなのだが俺の消耗に対して阿求の気力は全く不変である。
    その姿勢も稽古を始める際、隣にちょこんと座した瞬間から石のように微動だにしていない。
     常人を超えた集中力の片鱗を感じるが俺の方はどうにも慣れていない。激しい運動をしている訳でもないのにやたらと疲れる。少しは休ませて欲しいが阿求が真剣なのは俺の為だ。
    少しばかり休むのが早い。疲労した頭で何故このような稽古を付けられる羽目になったのかに思いを馳せた。
    外界で人が筆を持つ機会は減った。書道を習う者でなければ義務教育の授業を除き墨を磨る事さえ稀ではないか。
    それどころか電子化が進む外界では手で字を書くという行為そのものが減ったのだ。一方で幻想郷の人妖は必ずしも読み書きが出来る訳では無いのだが文盲でなければほぼ確実に筆に慣れている。
    読み書きが出来る事はほぼ確実だが筆には慣れていない外来人と対称であった。
    それ故に毛筆による字の巧拙は書く事を必要とする全ての職に就いた外来人の最初の壁となった。


    外界の義務教育で習字が得意だったという程度では鼻で笑われるような格差である。
    外来人は文字が書ける、ただし里人には読めない文字だ。と言うのは一時期流行した痛烈な皮肉であった。
    里人の冗句には底意地の悪さが無い上紛れもない事実であるため怒る訳にもいかず大抵の外来人の筆記用具は万年筆や鉛筆、チョーク辺りに落ち着く。
    それでも大抵余り上手いとは言い難いのでタイプライターや骨董品を修理したようなやワープロを見つけてくる者もいた。
    俺も同様に幻想郷で主流の毛筆から何とか逃がれようと公私の別無く筆記の全てを万年筆で通してきた。
    言い訳をさせて貰えば俺の字はただでさえ悪筆である上に普段から阿求の極限まで研ぎ澄まされたような美しい筆跡を見ているのだ。妻に弱みを曝け出すようで毛筆の練習にはいよいよ気が乗らなかった。
    が、どうやらそれも年貢の納め時である。
    阿求は予てより俺に書の稽古をつける事を熱望しており機会がある度に何とか説得しようとし続けていた。
    ――あなた。良ければお教えしましょうか?
    ――いいじゃないですか。ちょっとだけですから。ね? 思ったように書けるようになると楽しいですよ。
    ――大丈夫ですよ。しっかり教えますから。書は人生を豊かにしますよ。
    ――幻想郷にいる以上は出来た方が絶対良いですから。きっとあなたのお役に立ちます。
    ――御阿礼の子の個人授業なんて例の無い事で文字通りの空前絶後なのですよ。あなただけが受けられる大変お得な御稽古です。
    ――どうしてそんなにしつこいのか、って。
    ――良いじゃないですか別に……。私はいつもあなたに大事な事を教わってばかりですもの。一度ぐらい私の御役目が直接あなたのお役に立つ事があっても。
    ――あなたに私の得意な事をお教えして褒めてあげたり、お礼を言われたり。それから、あなたに……そ、尊敬して頂けたり……。したいですし。
    ――…………………………もしかして…………。
    ――私と一緒では嫌なのですか。
     どれ程の長期間逃げ回ったか記憶が定かではないとにかく提案が勧誘に、勧誘が懇願に、懇願が哀しみを帯び始めた辺りで断る気も失せた。
    ――本当ですかっ。やったぁっ……必ず上達させてみせますからっ。
    ――いっぱい厳しくして差し上げますっ。
    このような次第であったから最初は気が重かったが思い直してみれば何かを学ぶ際、身近にその道の大家がいるというのは得難く幸運な事であろう。
    そして一度教えるとなれば阿求の指導は厳格なものであった。決して声を荒げるような事はしないが一切気の緩みが無い。
    夫婦なのだから遊びの延長になるのではないかという楽観は余りに甘過ぎた。
    機械のように正確な指導の下、阿求の傀儡になったように一分の失敗も許されず不具合は即座に修正される。気の遠くなる程幾度も書き損じを正されながらようやく書き上げると、もう一度初めからと全く無感動に命じられる。
    それが何度目か分からなくなった辺りで、どうせ今度も駄目なのだろうと諦念が頭をもたげて来た。
    だから阿求が再び書き上げたばかりの俺の書を手に取ってじっと眺めている時もすぐに次の一枚を書けるように支度をしていたのだ。
    文鎮の下に半紙を敷いた所で阿求の顔に実に嬉しそうな笑みが溢れている事に気が付いた。
    「ふふ。大分良くなりましたね」
    阿求の笑みと共に張り詰めた稽古の空気が緩んだ。この稽古中に阿求に褒められたのは初めてである。暫し信じ難い気持ちになった後、阿求の言葉を反芻してようやく感慨が湧き上がった。
    「おお上達したか」
     その満足気な様子に苦労の甲斐があったかと少々鼻が高くなる。
    「いいえっ。すごく下手ですっ。この程度で上達などとは百年早いですっ」
    阿求は輝くような満面の笑みで本当に嬉しくて堪らないという風に俺の甘さを即斬した。頬に赤みさえ差している。誰にでも思った事を言う阿求では無い。
    思慮深い阿求が俺の前ではぽろりと本音を漏らす事を喜ぶべきなのかどうか。そこは悩ましいがさすがにがくりと力が抜けた。
    それでは一体何が良くなったというのか。
    「あなたらしさが表れたとっても素敵な字です。見惚れてしまいます」
    上達するよりも字に俺らしさが表れる方が嬉しいらしい。良くなったとはどう考えても阿求の贔屓目である。


    「世辞はいいから褒美の一つでもくれ」
    「……ご、ご褒美ですか」
     脱力感を感じているとやおら阿求が立ち上がった。
    「え、えーと。それでは……こほん。良く出来ました。頑張りましたね。え……偉いですよ、あなた、えへへ」
     すりすりと頭に柔らかな感触があった。頭上で溶けた甘やかな蜜が、幾筋も肌を擽りながら頭から流れていくようだった。
    撫でられているのだ、と理解するのに数瞬を要した。
    「さ、流石は私の旦那様ですっ」
     どうやらこれを俺にやりたかったらしい。どうも阿求は普段から俺を甘やかす癖がある。
     頭よりも胸の奥がこそばゆい気持ちになり見上げた俺の顔は憮然として見えたのかもしれない。
    目が合うと阿求は照れ臭そうに視線を彷徨わせると赤くなって俯きまた元のように座ってしまった。
    「恥ずかしいならやらなければ良かろう」
    「は、はい……。そうですよね。いえ、ね? あなたがいつも私にしてくださるので……」
    阿求は感情に緩急をつける事が余り得意ではない。
    静謐な外面と閑雅な雰囲気には似つかないが意外な事に良い事にも悪い事にも抜刀術のように一瞬で極端な感情を迸らせる一面もある。
    普通はその外面に内面の快、不快を表す事は少ないが。
    それ故にか厳しさからいきなり甘い顔をしろと言われても不器用なぎくしゃくした曖昧なものになる。つまり程々と言う程度の感情を表すのには準備が必要なのだ。
    普段、俺以外の誰かと話す時、阿求は如才無く抜け目無く捉え処無い慇懃な態度であるがほとんどの場合その内面はただの無感情である。
    これは幼くして稗田家の当主となった阿求が悪感情を瞬間的に発露させ得る自らの性分を制御し時と場を選ぶために身に染み付けた処世術なのであろう。
    簡単に言えば澄まし顔だが本質的に照れ屋で引っ込み思案である。
    阿求が俺に少し甘えるためだけに用意周到な計画を立てていたり僅かな事で恥らい人目が有ると徹底して節度ある態度を崩さなかったりする一方、
    俺と二人きりになって箍が外れると常軌を逸した重い情愛を覗かせるのは恐らくこういう性分に由来するのではないかと推察出来る。
     気を取り直すようにこほんと阿求の咳払いが響いた。
    「それではもう一度書いてみましょう」
    「……まだ書くのか? 」
    「当たり前です。同じ字をあと百回書いて頂きます」
     上達には稽古あるのみだという事は分かるのだが阿求が課題として選ぶのは如何にも画数の少ない常用漢字ばかりである。
    俺に合わせた稽古内容なのであろうが流石に俺も『上下』やら『左右』やら『日光』といった字は書かされ過ぎて意味的飽和を起こしそうである。
    「書くのは良いが何か違うものを書かせろ。子供向けの字ばかりで飽きたぞ」
    「むぐぐ……ほっぺ突っつかないで下さいよぅ。我儘なんですから。もう。仕方ないですね。ご褒美の代わりに少しだけですよ。本当はまだまだ基本に時間を掛けないといけないのですからね」
    「うむ。で基本を身に着けたと仮定しよう。それで? 」
    「基本が分かったならとにかく最初は心こそ肝要です。初心者が小手先の技術を高めるよりも想いを字にはっきりと表す方が良い書になると思います。矢張り好きな字や自分の心を表現したものが分かり易いですね」
    「心を込めるということ、か」
     何でも好きな字を書いて良いと言われると逆に迷いが生じるものではないか。
    「はい。ふふ。難しい顔をなさらないで下さい。そんなに大袈裟な事ではありませんよ。ただ素直な心象をそのまま紙に写せば良いのです。例えば今私があなたを見て感じる想いをそのまま表現してみましょう」
     宣言と共に淀み無く阿求は筆を操った。
    「如何でしょう」
     笑みと共に阿求の差し出した半紙には墨痕鮮やかに四字の熟語が記されている。
    『唯一無二』
     成程言われてみればその筆跡からは熟語の意味以上の想いが伝わってくるような気がする。
    「あなたへの気持ちと言っても本当は何億字書いても、いいえ。言葉では表せないのですが、今、お顔を見ながらあなたを想った時すぐに思いついたのがこれでした」
    阿求は少しばかり照れ臭そうに笑っているが俺の方が内心では大いに照れていた。張り詰めた空気の反動であろう。


    こそばゆかったが要領は分かった。
    「今の心象を、そのままに、というわけか」
    「はい。考えてみてください。私たちは今、夫婦二人きりでこうして書についてお話しています。心が限りなく満たされているような、それなのに切ないような気分になってきませんか? 
    たまらなく熱いような、底知れず安らぐような……その今の気持ちを表現すると何という字になるでしょうか? 」
    「……うむ。分かって来たぞ。書けそうな気がしてきた」
    「そう、あの字しかありませんね。その意気です。うふふ。それでは私も一筆書き上げますから一緒に書いてみましょう。綺麗に書けなくても気にしなくて良いですからね。
    ただ素直に私たちのこの胸の高鳴りを表せばそれで。では書き上がったら見せ合いっこしましょうね。うふふ。きっと同じ字になりますね」
     ただ今の心を表す。
     成程、それだけに集中すれば筆は軽やかに白紙を染めた。さすがに稗田阿求の御教授である。
    ――うふふふふ。書けたらちゃんと仲良く二枚とも額に入れて飾っておきましょうね。どこに飾りましょうか。例えただの書でもこういう密やかな気持ちを表した物は居間やお玄関みたいな人目がある所は嫌です。
    見せびらかすべきではありませんし夫婦だけの物だからこそ良いのです。矢張り私たちの寝室にしましょう。そうですそれがいいですね。
    毎朝毎晩、私たちはそれぞれが書いた同じ文字を見る事で心を一つにして……そして、そのまま…………くふっ。はっ、いえ何でもありませんよ。ああっ。でもでもこういう情熱的な想いを形に表した文字を、その、し、寝室に。というのも考えてみれば些か露骨過ぎます……。
    私たちが常に求め合っているという事実が常に二人きりの寝所で目に見えるなんて。私そんな刺激的過ぎて……ちゃんと眠れるでしょうか……。
     意識の端で阿求が何事か言っていたが集中して筆を操っている最中では断片的にしか耳に届かなかった。
    「良し。書けたぞ。阿求」
     これは我ながら傑作である。
    「早かったですね。まぁ迷う事もありませんものね」
    「うむ。今の心象と言えばこれだからな」
    「うふふ。そうですよね。それではせぇので見せ合いっこしましょうね。行きますよ。せーのっ」
    「うむっ」
    阿求が示した書は。
    『愛』
     それに対して俺は。
    『嵐の大海』
     お互いの書を相手に示し向け合ったまま暫しの間があった。
     やがて阿求が沈黙を破った。その視線が冷たく刺さる。
    「あなた。適当に書きましたね……」
    「いや、そんな事も無いのだが」
    新たな道を修める厳しさと充足を表現した積りだったのだが。ばつが悪い事になってしまった。
    「はぁ……。少し教え方が悪かったのかもしれません。あなたは書に対する心というものが未熟なようです。もっと書の情緒について理解していただく必要がありますね。
    その為にはやはり基本を疎かに出来ません。ふざける気も起きなくなるようにみっちり教えてさしあげます」
    再び阿求の指導が始まったが先程までの冷たい淡々とした声音が消え代わりに絡み付くような女の静かに濡れた怒りが声に現れた。
    「もうっ……。あなたったらしょうがないのですから。真面目にお稽古しないと上手になれませんよ」
     はっきりと何がどう変わったという訳ではないのだが何やら教え方に私情が多分に混じったような気がする。より私的に距離感が縮んだようだ。しかし厳しさは増している。
    例えるならば出来の悪い生徒を教える教師から子供を教える母親に切り替わったような。もっともその底に阿求が俺にしか向けない深く重い情愛が脈打っており実際にはどちらにも似ていないのだが。
    「まずはやはり姿勢ですね。全くなっていません」
     阿求はじぃっと俺の体を眺め回すと俺のすぐ傍まで来て座り直した。今までよりもずっと近い。ほとんど密着している。


    「端座が崩れて来ていますよ。これでは余計に足が痛みます」
    位置がずれていた俺の足先を阿求が適正な位置に押し戻した。
    「ッ……ぐ」
     長時間の正座で痺れきっていた足を真白い指に押された途端不覚にも僅かに声を出してしまった。
    阿求がもたらした感覚が今までに体験した事の無い甘さを含んだような痺れで忍耐成らなかった事にも驚いたが阿求の方では俺の反応に更に驚いたようでびくりと体を震わせた。
    「ど、どうしたのですか。そんなに痛みましたか? 」
    「いや、気にするな。少し痺れただけだ」
    「そ、そう。そうですか。痺れて……。あ、あのっ…………お辛くても姿勢は大事ですから辛抱なさらないといけませんよ」
     阿求は少し俯き加減になると驚きを取り繕うように言った。
    「ですから、容赦無く直しますので」
     呟くように小さな声だったがはっきりと阿求はそう付け加えた。
    「……また、ここもです」
     今度はさっきとは逆の足を再び阿求に矯正される。今度は宣言されたので流石に声は出さなかった。しかし妙な痺れは先程より更に強くなった。
     痛い、訳ではないのだが、苦痛と同じように疼きを伴っている。その疼きに耐える際僅かに顔を顰めた。
    「…………」
     不意に阿求がじっと俺の様子を観察している事に気が付いた。やや面を伏せると阿求の目は簾が月を覆う様に髪に隠れて見えなくなる。しかし瞳が見えなくともその見上げるような視線の角度がじっと俺の顔に注がれている事が分かった。
    何やら阿求の様子が更におかしくなる。あの遊び染みた書の見せ合いで阿求の奥底にある情念を揺り動かしてしまったのか。
    「腰の据わりが、良くありません……安定しないのはそのためです」
     今度は阿求の手が腰と腹の両面に添えられた。その手が僅かに俺の重心を傾けた途端痛みの無いままに肉を抉られる様な感覚が下半身全体に走った。これに声は出さなくとも喉の奥から唸りが漏れたのが自分で分かった。
    同時に阿求の指先がぴくりと震えた事も分かった。阿求は俺が奇妙な痺れに悶える様を観察しているのだ。
    「痛くは、ないでしょう。あなたは生来の姿勢が少しだけ書に不向きなのかもしれませんね。大丈夫です。正しい稽古を積めばそんな程度の不利など問題ではなくなります」
     講義を続けようとしている阿求だがその声の調子がおかしい事もすぐに分かる。高揚を押し殺しているような緊張を滲ませた声。
     それは俺が疼きや痺れに対して反応する度に強くなる。
     先程まできゅっと引き結ばれていた花弁のような唇が講義の続行と共に少しずつ少しずつ歪な微笑みの形になりつつあるように。
    「ですから、先ずは徹底的に姿勢を直しましょう。それだけで自分でも違いが分かるでしょう」
     そしてその言葉を終える際。揃った髪に隠された影の更に下。薄い唇の中から紅が滑り出しそこに僅かな湿り気を与えて消えた。
    それは控え目でほとんど見逃してしまいそうだったが確かに阿求の舌なめずりであった。恐らく本人も無意識である。
     阿求が放つ澄み渡った静寂の雰囲気は何一つ変わっていないのに、その舌を見た途端蛇に睨まれた蛙の気持ちが湧き上がった。
    口元以外が影に浸されていても阿求の顔が普段よりもずっと昏く紅潮しているが分かる。
    「上半身の軸がややずれています」
     音も無く阿求は立ち上がると俺の背後へと回った。
    阿求の着物の衣擦れが耳元で聞こえると背中を捕食者に晒しているかのように首筋がぞくりとした。
    「ご自分では分からない程僅かにですが。このせいで手を動かす度に筆がぶれるのです」
     両肩に阿求の手が置かれた。
     いつもさらりとした羽の様に感じるその幼い手が今は汗ばんでいて生暖かい。じっとりと隙間なく張り付く子供の手は海洋の軟体生物のように俺の両肩に吸着した。
    「このように……う、上から押さえつければ……正しい位置が分かります……ね……? 」
    「ぐ……あ」
     今度は声を上げずにはいられなかった。阿求が俺の両肩を真上から軽く押し込んだだけで痺れ切った足腰に名状し難い感覚が走り抜けた。痛みや苦しみではなくても忍耐を上回っていた。


    声を上げた途端に如何にもとうとう耐えきれなくなったというように阿求が俺の背中に倒れ込んで体を押し付けた。伝わる鼓動が早鐘のように強い。
    「……あっ……か……はぁ」
     阿求の肺の奥から吐き尽くすような熱い呼気が耳を撫でてゆっくりと俺の吸気に充満した。緊張で喉の乾き切った時に出る熱く濃い溜息だった。
     既に阿求は稽古の体裁を繕う事を止めていた。俺が悶える様を観察する事にその興味が移っている。
    余計に足腰への負担が強くなり俺は反射的に立ち上がろうとした。
    しかし信じ難い事に今にも折れそうに華奢な阿求の手から全く逃れる事が出来ない。ほんの二、三箇所を押さえられただけで身を捩る事さえ満足に出来なくなった。
    このような体術をなんと呼ぶのかすら分からない。体術なのか何らかの術なのかどうかすら定かではない。さすがに止めるように言おうとしたが最早意味のある言葉を話せず呻く事しか出来なかった。
    「動かないで。動いてはいけません。余計にお辛いですよ」
     阿求の声が隠し切れない嗜虐的な愉悦で震え始めている。その声が所々擦れているのは喉が渇いているせいで喉の渇きがは精神の昂ぶりが齎すものだ。
     その昂ぶりでじっとり汗を掻いたその掌はまるで俺の肩に沈み込んだように離れない。圧倒的な筈の筋力や体重の差を全く問題にしないその不可思議な重圧は時間と共にますます強まるばかりである。
    さらに阿求は荒くはぁはぁと息をしながらぐりぐりと両手を押し込んだ。下半身の痺れが一気に強まり意識が白熱した。
    「何ですかそんなに切ないお声を出して。止めてあげませんよ。ほら。しっかりして下さい。私が待ってといっても聞いてくれない事はあなたにもあるじゃないですか。お互い様ですよ。
    ふふ。ダメっ。駄目です逃げようとしないで下さい。絶対に逃がしませんよ。お辛いですか。でも駄目です。あなたが。あなたがいけないんですよ。悪いのはあなたです。
    いつも、いつも、いつもっ。いつも私の理性を簡単にっ……。おかしくなりそうなぐらい焦らしたり壊れそうなぐらい気持ち良くしたり……切なくしたり刺激したり幸せにしたり。あなたは一体私をどうしたいのですかっ。
    さっきもそうです。私の愛情表現が稚拙ですか。おかしいですかっ。ねぇそうなんでしょう。だからあんな風にお戯れに私の狂おしい気持ちを弄ぶのですね。ちゃんと分かっているのですからっ。
    確かに私の全てはあなただけのものですがっ。私の全てをあなたに無理矢理受け取らせる事ぐらいは出来るのですからね。で、す、か、らっ。あんな焦らし方をした後にっ。あんなお声出されたら私だってっ……たまらなくなるのにっどういうお積りですかっ。
    今だってそうでしょうっ。そんな、そんな愛しいお顔で、愛しい声でぇっ。私を……さ、誘ってっ。誘惑しているんでしょうっ。お、お望み通りにして差し上げますっ! 」
     ばきん、と高い音が鳴った。自分でも全く気付かなかった強く握りしめ過ぎた為に俺の握っていた筆が折れていた。
     その音ではっとしたように阿求が我に返った。同時に肩から重みが無くなる。途端に痺れを通り越して熱の塊の様になっていた下半身が楽になった。
    「あ、あの、これは、あの……いや、その……」
     全身の支配が戻って振り返ると阿求はしどろもどろに何かを言おうとした。まだ肩で息をしているその顔は昏い紅潮からいつもの照れている時と同じ薄紅色の赤面に戻った。
    「……こほん。い、一度、長めの休憩にします。……立てますね? 」
     言われてみればあれ程の重圧を感じたにも関わらず両足には何の違和感も無かった。普通に正座を続けた時の様な痺れが少しある程度である。異様な興奮の中でも阿求なりに気を使っていたのだろう。
     何か声を掛けようと思ったが阿求は何やら悄然として赤面したままである。俺の方も妙な声をあげてしまった事で気恥ずかしい。取り敢えず痺れの残った足で立ち上がった。
     解放されてすぐ厠に行った。
    立ち上がってみると体中の筋肉が凝り固まっている。そして頭の中で毛筆で書いた文字がぐるぐると回っている。しばらく休まねば筆を握る気に慣れそうもない。また矢張り先程の阿求の昂ぶりも自分が上げた情けない声も気まずい事この上ない。
     休憩の間少し散歩して戻るとしよう。
     少し出掛けてくる、と阿求の書斎に戻り声を掛けると阿求がさっきまで俺が座っていた座布団に顔を埋めていた。連続して気まずい事になってしまった。
    「……。ちゃんと綿が詰まっていないといけないと思いまして。貴方が次の講義の時に痛い思いを――」
     少し散歩して昼食でも済ませてから戻るとしよう。



    俺の座布団に突っ伏した阿求の鼻息が余りに荒かった為に若干引いた顔をしてしまったと思う。その為余計に顔を合わせ辛い。俺の書斎から予備の書具は一式持って来てある。
    阿求には悪いが今日の稽古の残りは勝手に自習と言う事にしてしまおうか。
    悩みつつ慣れぬ書道で疲れた体を解しながら暫く人里を散歩した。
    「あっ。稗田んとこのだんなだ。おーい。だんなぁ。こっちこっち。こっちだってば」
     寺子屋の前を通り掛かった時に幼い声に呼び止められた。振り返ると冷風が微かに頬を撫でた。青空を写し取ったような真っ青な服。キラキラと夏の日差しを透過する氷の妖精羽。
     氷精のチルノである。人気の無い寺子屋の中からこっちに向けてぶんぶん手を振っている。道理で妙に涼しいと思った。
     寺子屋を覗き込んで見ると。他には誰もいない。蝉の音が響くばかりの寺子屋はがらんとした寂しさがある。
    「お前一人で何をしているのだ。休みではないのか」
    「うん。アタイはね。慧音が休みだけどアタイは特別だからって。だからお休みだけど来てあげてる」
     慧音も苦労する。休暇の間にチルノを呼び出しての補習というわけだ。
    「それで当の慧音はどこにいる」
    「慧音はアタイのと慧音のお昼ご飯を買いに行ったよ。じしゅうしてろって」
    「それは大変だな」
     それほどでもないけどねアタイはすごいし。と胸を張っているチルノが一向に机に向かわないところを見るとやる気が無いのか自習の意味が伝わらなかったかのどちらかであろう。
    「だからねだんな。アタイ遊んであげてもいいよ。もしも、どうしてもだったらだけど」
     普段なら面倒と思ったかもしれないが、今は脳裏に焼き付いた阿求との昏い興奮の残滓をチルノの健やかな冷気が冷ましていくようで有難かった。
    「よし。遊んでやろう。慧音に言われた勉強を見せてみろ」
     学用品を見せろと言われているのに遊んでやるという答えがとにかく嬉しかったらしい。チルノはわぁわぁ叫びながら俺を長机の前まで連れて行った。
     ただの散歩である。少し寄り道するぐらい構わない。ここで涼みながら体を休めついでにチルノの自習を監督するとしよう。
    慧音の負担も減るだろうし所詮はチルノに向けられた課題である。気楽なものだ。
    「えーと。これをあと十枚? 書けって」
     その言葉に不穏な連想をして机の上を見ると筆と硯。そして真白い半紙に文鎮が乗っている。
     頭を抱えた。俺が一体何をしたのだ。今日は厄日である。
     書に圧迫され一休みしている最中にまた書とは。
    「んでこっちが今まで書いたぶん。もうアタイこれって十枚ぐらいあると思うのよ」
     床の上に二、三枚だけ課題らしい『まつ たけ うめ』と拙い平仮名が書かれた半紙が落ちている。他の二、三枚は前衛的な水墨画である。慧音がこれで許すとは思えなかったが俺もやる気が失せた。
    「よし。それでは慧音が返って来る前に十枚の紙にまつ、たけ、うめと書く遊びをするぞ」
    「それは遊びじゃなくて勉強よ。アタイ他の字がいい。もっとかっこいいの」
     流石にばれたか。
    「ねぇだんな。かっこいい字教えてよ。慧音を驚かせたい。どうやって書くの」
     真面目に答える気にはなれなかったが嘘を教えるのも良くあるまい。
    「その時心に思っている事を素直に書けば良いそうだぞ」
    「へえー」
     心底感心したという声と共にチルノ画伯は筆を執った。熱心に何かを書こうとしては納得がいかないようで何枚も書き直している。
     取り敢えず俺もその隣で自分の書具を広げて練習し始めた。阿求の教えを反芻しつつ何枚かを書き上げる。
    「できたっ! 」
    やがてチルノの納得のいく書が完成したらしい。隣から雄たけびが上がった。
    「やっぱりアタイったら天才ね! 」
    「ほぅ。どれどれ」
     ふんぞり返ったチルノの脇から覗き込んで見ると成程、この氷精には天稟がある。
    見事にのびのびとした『へのへのもへじ』である。遊びたいという思いが良く表れているだろう。
     余りにでかでかと紙いっぱいに描かれている落書きには見ているこちらもニヤリと笑ってしまう陽気さがある。あちこちに墨が飛び散っているのは御愛嬌だ。
    「なかなかやるなチルノ。ああ、馬鹿め。顔にも墨が付いているぞ。じっとしていろ」



    真夏の太陽のようににっかりと笑っているチルノの頬も黒い墨に塗れていた。おそらく墨の付いた手で擦ったのであろう。
     何か拭く物を探すと流石は慧音の支度。チルノの机の脇に水気を絞った布巾が目に付くように置かれていた。
    「ほれ、こっちを向け」
     ぐいぐいと頬を拭うとチルノはうーうーと唸る。しかしきつく目を閉じて大人しくしていた。恐らくは慧音が日頃似たような事をやっているのだろう。
    「よし綺麗になった――」
     ぞ。と言い終える前に背後からごしゃりと重い破砕音がした。
    「あら、大変。私ったら顔に墨が付いてしまいました」
     冷たい声。そして閑寂を香りとしたような上質の墨の匂い。
    「阿求っ……。おい。大丈夫か」
     いつの間にか阿求が俺のすぐ背後の長机に自分の書具一式を広げていた事も驚いたが更に驚いたのはその額から血の様に墨が流れ落ちている事である。
    「顔に墨が付いてしまいました」
     見ると傍らで阿求の硯が割れていた。これに慧音ばりの頭突きを見舞ったらしい。
    「何をしている」
     駆け寄ると額が腫れているが血は出ていない。
     打ち付けた所を良く見ようと顔を近付けると阿求は顔を上げて目を閉じた。
    「私も拭いて下さい。あっ。他の誰かと同じ布巾は嫌です。私の筆記用具の中に濡れ手拭いが入っているのでそれでお願いします」
     言う通りにしてやると阿求は澄ました顔のままで腫れた額を差し出して心地良さそうに俺に身を任せた。
    「全くどういう積りだ」
     墨が拭き取られ気持ちよさそうに閉じていた目を開くと阿求は鋭い目で俺を睨んだ。痛みのためか他の理由か僅かに睫毛が濡れている。
    それなのに腫れた額も割れた硯も気に掛ける素振りも無い。あの硯は確か四、五代前の先祖から伝わる逸品であったはずだが。
    「あなたこそどういうお積りですか……。さっきの事を謝りたくてずっと待っているのに……中々帰って来ないし。調べさせたら何故か休校中の寺子屋にいるというし。
    …………それで来てみたら氷精と二人っきりで楽しそうにしているし」
    「何というか、まぁ、あれだな。新たな書の着想を得るべく――」
     阿求は心底呆れたかのような溜息を吐いた。
    「新たな書の着想ですか。面白いですね。あなたの書は全部私が教えて面倒を見ます。これからは逃げられない様な御稽古の仕方をお望みですか」
    「嘘ではない。その証拠にここでも書の稽古に励んでいたぞ」
    「この、『へのへのもへじ』の事ですか」
     場を切り抜けようとしたが一瞬で論破されてしまった。
    「だんなは嘘ついてないよ。アタイたち一生懸命書いてたもん。今もほら」
     チルノが助け船を出してくれるという稀有な状況に巡り合えたが恐らくは泥船であろう。
    「あのですね。チルノさん。こんな落書きをしていても――」
     救助を諦めていた俺だが信じ難い光景を目にした。
     阿求が今しがた書き上がったばかりのチルノの落書きを前に驚愕の表情を浮かべて固まったのだ。
    そこには『へのへのもへじ』と並んで良く描かれる子供の落書きが描かれていた。
    簡略化された傘の意匠。そしてその下に書かれた『だんな』と『あ⑨』。
    即ち相合傘である。傘の下の二つの単語は俺と阿求の事である。
    「チルノちゃん。良い子ですね。今度水飴買ってあげます。確かに天才なのかもしれません。物事の本質を見抜く目を持っていますね。子供は正直なものですね」
     異常な程一気に阿求の態度が軟化したのでチルノはむしろ少々怯えた顔になった。
    阿求の機嫌も直ったしこれにて一件落着。
    うむ、と頷いた辺りで背後から慧音の声がした。
    「私の生徒の補習の邪魔をしておいて何が一件落着なのか説明して貰おうか」
     矢張り今日は厄日である。


    久々に慧音に説教され阿求にも帰りが遅くて心配したと怒られた。
     主人が御迷惑をお掛けしまして、と阿求が頭を下げ、生徒が御迷惑をお掛けしまして、と慧音が頭を下げた事でお開きとなった。チルノはしきりに残念がったが。
     普通なら笑い話であるが阿求は何だか落ち込んでいるように見える。
     家に帰ってからも溜息を吐いていた。お互い会話の奇妙な間ばかり気になって上の空である。
     恐らく俺のせいだと思い探りを入れる事にする。
    「そう言えばどうしてお前も書道具を持って来ていたのだ」
    「あれは。あなたさえ良ければ落ち着けるお店でそのまま課外授業でもいいな、と思って。気分を変えればあなたも楽になるのではと思いまして。……お辛そうでしたから」
     成程あの書道具持参にはそういう気遣いあっての事だったのだ。おかげで先祖伝来の品が一つ砕け散ったが。それはともかくとして阿求がどれほど俺の事を考えてくれているのか良く分かる。
     がお互いに話しづらい話題はこれではない。暫し無言が訪れた。
     聞きにくい事に口火を切るのは大抵男の役目である。
    「……それで阿求。あの時の事だが。俺を教えても余りに不毛で怒らせたか」
    「いいえっ違います! 」
     即座に否定した阿求の声は普段滅多に聞かない程強いものだった。
    「……私はあなたがちゃんと書けていると素敵過ぎて見惚れてしまいますし、全然出来ていないと狂おしい程切なくなってとても放っておけなくなります。
    懸命に努力なさっているお姿を見ると憧れが燃え上がってお話しする事すら満足に出来なくなりますし、投げやりになった駄目なところなんて見てしまうとむしゃぶりついて食べてしまいたくなります。
    あの時もあなたが愛おしくて意地悪をしたくなっただけで……決して不出来だから怒っていたわけでは……」
     濃密な想いを語りながらも阿求は萎れるように力をなくしていった。
    「私は、あなたを私の自由に出来るという事に溺れて、酔っていたのだと思います。ごめんなさい。心が未熟なのは私の方でした」
     そう言って阿求はこちらが気の毒になる程深々と詫びた。
    「……やっぱり私があなたを教えるなんて……。あなたを苦しめるだけだったのかもしれません……元々は単なる私の我儘ですし……」
    どうやら阿求の目から見ると今日一日の出来事が自分の我儘で俺に大変な苦渋を強いたように思えるらしい。
    「意識して淡々と厳しくしていないとまたあんな風にならないとも限りませんし……あなたがお嫌なら」
     探ってみれば想像以上の落ち込みようである。
    「誰が止めろと言った。あれぐらいの事もうとっくに慣れている。好きなように教えろ。厳しくて構わん。俺はもっとお前に教えて欲しい」
    「あなた、そんな。気を使っていただかなくても……」
    「本心だ。……ええい。これを見ろ」
    これは思ったより気恥ずかしいものだ。こういう書を渡すのはまるで恋文を渡しているかのようである。
     寺子屋で書いておいた。俺なりに心を込めて書いたつもりの『愛』である。
    「今度はどうだ。上達したか」
    「……いいえっ。すごく下手です。上達なんて百年早いです。でも見惚れてしまう程素敵な字です……! 」
     そのただの下手な字を阿求はまるで温もりを求めるかのように胸に抱きしめた。
    「そうか。それでは少しはマシになるようにまた教えてくれるか。次はもっと上手く書きたいからな」
    「……はい。あなた」
     まぁ稗田家の婿が悪筆では少々格好が付かない。この機会に達筆を目指すのも悪くはあるまい。新たな道を修める厳しさと充足を感じて心地良い。
    道のりは嵐の大海を思わせる程に過酷だが。
    「あの、きょ、今日のお稽古は良く頑張りました。この書も大変良く書けているので……今日はご、ご褒美に……わ、私が……ごにょごにょ」
     阿求が口籠りながら囁いた。
    「……いっぱい甘やかして差し上げます」
     こんな褒美が待っているなら悪くはない。


     
最終更新:2015年02月03日 12:05