地霊殿に住む妖怪、古明地さとりは、人の考えを見抜くことに長けていた。
はじめ相手構わず心中を物色していた頃から、彼女は人々の考えがいかにもありきたりなのに気が滅入った。
ある場面に立ち会ったら想定されうる反応はこれしかないとでもいうかのように、彼らの内面はよく統御されていた。
さとりは常日頃から、内心そういう臆病を憎んでいた。
また彼女はたまに自分の恋について考えた。
(きっとそれは、世間で数限りなく繰り返されたああいう陳腐な代物ではないんだろう。)
(まだ体験していないし、はっきりと実体を想像できたわけでもないけど、そうして想像の範疇の外にあることが未知の至福を約束しているんだ。)
こんなことを表立って言うことは決してなかったが、さとりの信念は堅固だった。
古明地さとりと○○がどこで接点を持ったのか。確かなことはわからない。
古明地さとりの妹、こいしも知らないのだ。
それどころか、二人がかつてよく森の奥にある湖に通っていたことも、ごく僅かの知人しか知らなかった。
意図的にさとりが他人の目を避けていたことは間違いない。
ところで○○という外来の人間は、市中で顔を覚えられてから三年目くらいの男だった。
この男は几帳面なほうで、村落に身を寄せてしばらくは畑仕事を覚え、慣れてきたら町に顔を出し物売りなんかも少しした。
○○は畑の作物で生計が成り立つことがわかると、ようやく一息ついて、このまま留まるべきかどうか迷った。
身近な人間にこの件を相談していた○○だったが、住みついて三年目の秋ごろから、さっぱり言わなくなった。
最初に古明地こいしが姉の様子に変化を見て取ったのも、およそこの時期と一致する。
とはいえ○○の周囲は、彼が博麗神社の巫女に提案して製造された炭酸飲料「博麗ジンジャー」の一定の商業的成功のせいだと思ったが。
森の木々に重くのしかかる雪がもう少しで融けてゆきそうな日に、魔理沙がさとりを地霊殿まで送ってきた。
お燐とお空の二人が館の玄関で応対した。
さとりは見るからに呆然自失といった様子だった。
「道のわきに妙な膨らみができててさ、まずは倒れた地蔵かなって思ったんだ。
それで被ってた雪を除けて抱き起したらさ。こいつがうずくまってたんだな。」
魔理沙の声にいつになく神妙さがこもっている。
「ほんとにありがとうございます」
「面目ない! 一体何があったんでしょう」
「見つけた時のさとりの顔ったら蒼白で、地蔵みたいに微動だにしないから死んでるかと思ったほどだ。
でも息はしてたし意識もあるみたいだったんで、とりあえずウチに運んで体を温めさせたよ。
その間、何があったか訊いてみたが、何も物言わねえでじっとしてんだ。」
「さとり様? どうして倒れていたのか私に教えてくれませんか?」
お空の問いかけに、さとりは微かにお空の顔を覗いただけで、やはり答えなかった。
「イケてねえぜ、まったく。」
「魔理沙さん、今日はどうもありがとうございました。
でもこのことはまだ他言しないでもらえますか。何があったのかは、必ず私たちで聞き出しますから。」
二人の従僕が主人の身体を引き受けながら懇願する。
「わかったよ。ちゃんと元に戻してくれよな。さとりが変わったら困るやつがたくさんいるんだからさ。」
魔理沙はそう言ってさとりの胸に掛かった目玉を見た。
彼女の他の目と同様、極端に動きがないが薄く見開いている。
魔理沙はお空とお燐がそれぞれさとりの片手を握りゆっくりと館に入ってゆくのを、扉が巨大な怪物の歯ぎしりを思わせる音を鳴らして閉まるまで見送った。
その日の夜更け、寝室でこいしと二人きりになってから、やっとさとりは小さな声で妹に呼びかけた。
「こいし……今日のこと、あなたに話すわ。」
二人はベッドに並んでいた。こいしは左肩に触れる姉の手を感じながら天井を真っ直ぐ見据えたままでいた。
「うん。」
「最近、私が○○と一緒にいたことは知っているよね。ちゃんと話してなかったけど、あの人は恋人だったの。」
「知ってたよ。」
「彼と外を歩くようになってから、私一人でもよく外出するようになったのよ。
それでね、今日の朝も一人で町まで行った。
まだあまり人通りの少ない街道を歩いていたとき、○○が向かいから歩いてくるのに偶然出くわしたの。
彼はなんだかそわそわしてて落ち着かない感じだった。
私は咄嗟に彼の頭の中を察知してしまった。」
その朝、○○は博麗神社からの家路についていた。
神社の巫女、博麗霊夢には、当然、この世界に迷い込んだときから世話になっている。
○○は巫女の意志に満ちた気丈さが好きだった。
特に冬、柱や梁が冷気をまとった中に座っていると、霊夢の風格は暗鬱な寂しい深みを帯びた。
霊夢は友達に譲ってもらった上等の茶を○○に勧めながら、こう切り出した。
「実は、町にお店を出したいと思ってるんだけど、私はここを離れるわけにはいかないのよね。
あなた、前から言ってたでしょう……よかったら、やってみない?」
突然の申し出に、○○はまず鳩が豆鉄砲を喰らった顔をしてから、やがて外に踊り出たいくらいの幸福に囚われた。
欣喜雀躍といった調子で礼を述べ立てる○○を、霊夢は微笑みを浮かべて見つめていた。
それから二人は、夜更けまで食事をしながら将来の展望を語り合った。
○○は夢の中にいる気分を味わった。
霊夢は○○の前に身を投げ出した。
眼前に広がる信じ難い光景に、○○はさほど疑問を持つことなく、ただ手を伸ばしていった。
夢が夢のままで覚めないことを期待して。
「全てを知った瞬間、私は一目散に駆けだした。
その瞬間に動き出さないとその場で永遠に立ちつくしてしまいそうに思ったから。
どのくらい駆けて、どこに辿り着いたのかはわからない。
人気がない森のはずれまで来たところで、しゃがみこんだ。」
さとりは妹の肩に軽く額をつけて涙を流していた。
こいしは身体を横にして姉に向き合い、さとりの背中に腕を回した。
自分を撫でるか細い手のひらが、このとき姉にはどんな大きさも持たない純粋に観念上のものに思われた。
包み込まれながら、上目づかいにこいしの顔を覗いたさとりは、その目からも涙が流れているのを見た。
事件の後、さとりと○○は顔を合わせることがなかった。
○○は町に自分の店を持ち、霊夢との関係はそれからも続いた。
さとりは昔の記憶を繰り返し思い出しては、自室で終日座って過ごしたり、たまに館の周辺を散歩した。
たぶん妖怪としてのさとりの力だろう、思い出は現実よりも遥かに色鮮やかに浮かび上がった。
彼女の一番のお気に入りのシーンは湖畔での会話だった。
――俺、こういう景色をじっくり見たことって、あんまりなかったな。
水面を鳥が渡ってて、種類の分からない木が空高く伸びて、みんな日を受けてる。
――きれいね。 でも、ちゃんと足元も見て歩かないと危ないよ。
――いいよなあ、さとりは。俺ももう一つ目があれば、空と地面の両方が見えるのに。
――そんなに都合よくはいかないわよ。意識を向けることが大切なんだから。
――そうなのか。ところでなんだろう、この草?
――生姜ね。根っこを調味料に使うでしょう。独特の辛味があって。
――葉っぱだけでよく分かるな。さとりは物知りだ。
こいしはというと、従僕たちと同様、姉の様子をじっと見守っていた。
追憶に浸っている間の姉は、まれに微かな笑みさえ浮かべる。
こいしは何よりもそういう姉の姿を見るのが苦痛だった。
事件から半年が過ぎた頃のこと。こいしはベッドに腰掛けていたさとりの隣に座り、声を掛けた。
「みんなと買い物に行こ?」
「私はいい。ごめんね。」
「何か欲しい物ない?」
「間に合ってるわ。」
「……間に合ってないよ。」
こいしは語気を強めて言った。
「間に合ってるわ。欲しいものなんてないの。」
「私に嘘つかないでよ!」
「ついてないってば。私には何もかもがあるのよ。心の中にね。」
「馬鹿なこと言わないで。ならここにいる妹の私は何なの?」
「聞いて。こいし。
あなたが何であれ、この目に見えるものだけが私にとって存在しているの。
結局、自分の心に映るものだけが、私に与えられた世界なのよ。」
真っ直ぐこいしを見るさとりの目は、しかしどこか不確かな印象を与えた。
「違うよ。絶対に違う。」
こいしは自分でも知らずに自分の手を姉の手に重ねていた。
「どう違うっていうのよ……」
「世界を変貌させるのは認識なんかじゃない。行為だよ。」
「こいし……なんで、どうして、そんなこと言うの? 私に?」
「今のお姉ちゃん、安心してる?」
「してるわ。もう何かを失ったりしないし……」
不意に姉はちょっと信じられないような強い力で抱き寄せられ、妹の胸に倒れ込んだ。
「私は、ずっとお姉ちゃんの傍についてるよ。信じてくれる?」
さとりは答えなかった。
長い時間、二人の妖怪はそのままの姿勢で止まっていた。
いつまでも部屋から出てこない主がもう買い物に出かけたものと思って、お燐がノックなしに扉を開けたときまで。
「あっ、失礼しました……」
返事はなかった。
お燐が近くに寄って確認してみると、二人とも互いに寄りかかって眠りに落ちていた。
「じゃ、もう遅いし気を付けて帰りなさいよー。」
博麗霊夢がこいしの背中に手を振っていた。
こいしの影が飛び跳ねるような動きで遠ざかり、じきに見えなくなると、霊夢も神社の中に戻ろうと体の向きを変えた。
そのとき巫女は背後に微弱な気配を察したが、この特殊な感覚はこいしのものに違いないと即座に判断した。
きっと言い忘れたことでも思い出したのだろう。
霊夢が首だけぐるりと後ろにひねると、視界が茶色に覆い隠され、頭頂部に衝撃を受けた。
倒れこみながら、割れたビンを手に持った人影を見、その胸のあたりの目玉を見た。
「こいし……?」
人影は割れたビンを振りかざした。
反射的に顔を庇おうとして霊夢の両腕の筋肉に力が入るが、何かに押さえられていて動かない。
非情な手が何度もビンを突き立てる。
霊夢は何度も悲鳴を上げたが、さとりとこいしにとっては別に構わなかった。
○○のほうはもう既に同じ方法で殺している。
霊夢の身体の震えが止んだのに気づいて、ようやくさとりは凶器を放った。
さとりは辺りに漂う生臭さと清涼な生姜の香りに陶然となった顔で、共犯者に対して頷いた。
二人の妖怪は揃って、黄昏の木々の影に消えていった。
その後、姉妹の人生は穏やかに流れた。
数年前に地霊殿を訪れた人物から話を聞いたことがある。
古明地さとりはどこかしら心ここにあらずといった風だったものの、不思議な凛々しさを備え、信頼感を呼び起こす人物だったらしい。
最終更新:2015年06月13日 23:13